私はシンガポールでの生活に慣れてきた私がダミーから退いてそれなりに悠々自適な生活をし始めてから半年くらいたった秋のある日、日本からメールが届いた。私は私の居所を誰にも告げていなかったが、私が持ち歩くパソコン上でのメールには何人かのメル友たちと繋がりがあったのだ。一つは私が俳句を作るのが昔から趣味で、その俳句を投稿する会の仲間と俳句を通してメールの遣り取りをするというのがアメリカCEО時代から日課になっていたのだ。不思議とそういう遣り取りは、現役中は頭休めという意味合いしかなかったものの、辞めた後にはどこか生き甲斐のようになっていたのだ。それ以外に私自身が私のアイデンティティー(そんなものはとっくに失っていたにもかかわらず)を示し得る部分は皆無であったために、俳句仲間との繋がりがその唯一の接点だったのだ。
そのメールはこんな文面だった。
俳句の広場でいつもお世話になっている元会社員の須賀です。あなたの俳句にはいつも驚かされます。俳句が巧妙な五七五の言葉のトリックであるということのいい意味での素晴らしさに覚醒させられました。私が勤めていた会社も大勢の従業員をリストラすることを決行したようです。これから先一体世界はどうなっていくのでしょうか?
ところで今度一度京都で吟行を致しませんか?
私が組んだスケジュールを申し上げます。
集合場所以下徒歩 集合場所・南禅寺→永観堂→(哲学の道)法然院→銀閣寺
そこからバスに乗り、御苑内レストランで食事、食後数箇所の美術ギャラリーを巡り、こちらで手配した会館で句会。
夕食は各自自由、宿泊先は京都国際ホテル、
翌日は徒歩で東寺→西本願寺→東本願寺→三十三間堂付近のうどん屋で昼食後、バスで京都駅に戻り、地下鉄と市電で広隆寺、そこから今度はタクシーで龍安寺、そして再びタクシーで妙心寺、そこからは山陰本線で京都駅へ戻り、京都内の料亭で句会、閉会後各自解散。
とあった。その男は人生の遍路において妙味のある句を捻り出し味わい深い雰囲気を句からは漂わすガイだった。しかしその俳句の広場というブログは既に出版界、句界では著名な五十代の中堅の俳人が主催していたのだが、その中でも特に才能をその俳人に認められていた数人だけがSNSの句会に主催者の俳人から個人的に誘われ参加していたのだ。そして私もその男も主催者に誘われてそのSNSにも参加していたのである。だから句会では投稿しかそれまでしていなかったものの、始めて直に会うということはそれなりに興味が惹かれることである。それまで句作しか知らないその男、須賀紫卿と一度会うという試み自体はそう悪いことではないと私は思ったのだ。またそれだけの句をその男は快適ではあるシンガポールのマンション暮らしもそろそろ日本の風土に対する懐かしさに侵食され始めてもいたこともあった。
私にとってシンガポールがどのような歴史で、どういう精神風土であるかということは殆ど関心さえなかった。要するにマンションの高層階で他人から干渉されることなく快適に暮らすのに、英語が通じるのと経済的な意味でも最も相応しいという以外の一切の理由など私にはなかった。私にとってどこへ行くのにも便利で安定した経済状態と治安であるということ以外の思い入れはなかった。
麻薬関係の犯罪で刑罰が重く死刑も多いと聞いたが、私はスカイスレッダー時代から犯罪に巻き込まれることだけは殆どなかった(誰にとっても自分がしていることは犯罪ではないのだ)し、第一それほどたやすく他人を信用するタイプでもなかったために、変なかかわりに巻き込まれずに済んできたのだ。
しかしその句会の話をメールで読んで知った時、私は自分が日本人であるということを再び強烈に思い出した。しかも京都で吟行ということが、極めてここ二年くらいの精神的には頽落した生活から好奇心を取り戻すに絶好の機会であると私は直観し、メールに返信し、参加する旨を伝えた。
一ヶ月後私は世界的規模の金融危機であると世界中のマスコミが騒ぐ中、一旦成田に行き、そこから京成ライナーで東京に出て、午後すぐくらいの時間帯だったので、一度金城悟として生活していたマンションへと赴き、埃だらけの部屋を夕方まで掃除して、再び東京へ電車で戻り、駅に近いところにある大型書店で京都のガイドブックを買った。そして敢えて新幹線で京都へ赴くことをやめて、学生時代の安い旅行のイメージを懐かしく思い、夜行の高速バスに乗って早朝京都駅に到着するというプランを実行した。シンガポールの高層マンションで57階の自室に戻るのには急行エレベーターに乗るが、その乗り心地に私はアメリカ時代から自分の中に身につけた便利さを享受するという感覚を自覚していたが、それを敢えて久しぶりに祖国帰還において全て捨て去るという気持ちになっていたのだ。
バス内は一人だけ年配の男性がいた他は殆どが学生くらいの年齢の若者たちが乗客だった。大阪へ直接飛行機で飛ぶことをよしたのは、一重に学生気分で旅行をしたいということだったのだ。夜行バスは五千円だった。
十一月下旬は最も京都で紅葉が綺麗な時期である。
私は東京駅から京都駅まで直通のバスに揺られながら、予め持参していた毛布を椅子の背を倒し、自分の身体にかけた。バスの揺れはしかし時折強烈に身体にまで響き、学生時代に戻ったような旅に、ある瞬間老いということを感じた。周囲で寝息を立てる学生たちの若さを私は今更ながらに羨ましく感じた。
京都駅には早朝に到着し、バスから降りると、京都駅の駅員に聞いてその通りに降りた地下鉄の最寄り駅の蹴上から少し歩いた先にある明治時代風のトンネルを右折して歩いていくと、次第に東山の風景一色になっていった。私は腕時計にちらりと目をやり南禅寺に急いだ。定刻通りに南禅寺正門前の駐車場の入り口辺りに着くと、そこには数人の中高年の男性たちがいたので、声をかけたら、その中の一人が句投稿をアメリカで始めた頃より使っていた俳号である「散見さんですか?」と私に今回の吟行のメールを送ってきてくれた須賀という男が名刺を私に渡しながら、「須賀です。今日これからよろしくお願い致します。」と私に挨拶した。須加は句のイメージからするともっと若い人かと思ったが、実際は私より更に二十歳くらいは年配者だった。
南禅寺はかつてフランシス・コッポラの娘である映画監督ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」でも撮影された。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンセンが放浪するシーンに使われている。映画ではビル・マーレーが渋い中年米国俳優を演じ、日本国内でCM撮影が行なわれるシーンではCFディレクターをダイヤモンド・ユカイが演じ、マシュー南という名でヴァラエティー番組に出演していたそのままの出で立ちで藤井隆も出演していたのが印象的だった。
しかしその日は幾分霧雨が降り、淡い霧も発生しているそんな天候だったために、南禅寺境内にある水道橋も荘厳な雰囲気に包まれ、歩く足取りも湿った匂いを煽り立てるような空気を醸し出していた。
須加が私の横に歩き話しかけてきた。
「私も句作をはじめてから既に三十年くらい経つんですが、散見さんは未だお若い方の俳人さんでいらっしゃいますね。」
と親しげにそう語る口調に嘘はないようだった。
私は本名は今は郷田守にしているが、社長時代にも、スカイスレッダーのCEОという風には勿論名乗っていなかった。適当に翻訳業務紹介業者だと名乗り、本名を尋ねてくる句作仲間なんて殆どいなかったものの、時折あまり趣味のいいことではないが人のプライヴァシーに興味を持つ奴には適当に「意外と平凡な名前なので」と適当にごまかしてきたのだ。また句作にしてもそう多く作ることも出来なかったし、ゆっくりと他人の句を鑑賞するには忙し過ぎた。だから寧ろこうして偽のリタイアをした後に退屈しないで済む方法の模索の一環として趣味に俳句作りがもってこいのことだったに過ぎない。しかしそほんの思いつきが私の人生を更に別な方向へと差し向けていっていたのである。
私は樹木医をしているという須加の温厚な眼差しに対してそれなりの礼儀を尽くそうという気持ちから
「そうですね、意外と翻訳業って年をとっても大変さがなかなかなくならない、つまり慣れで適当に出来ない勉強の連続なんですけれど、いつも頭を使っているということは、それだけで僕くらいの中年でも年をとっている暇がないことだけれど、須加さんのような方からご覧になれば私なども若輩者ですからね。」
その時しかしこのような会話内容をすることなどここ二年は一切なかったことを今更ながらにと思っていた。
「いやいや俳句に年は関係ありませんよ。」
と言って須加は快活に笑った。こういう会話をここ二年くらい一切してこなかったということは、私はそれだけ精神的余裕がなかったということである。しかし須加に咄嗟についた嘘も百パーセント嘘とも言えないことだったのだ。というのもCEО職とは言ってみれば、業務と業務の間の連関に対する対外的には投資家や株主たちに対する説明であり、対内的には従業員たちに対する説明である。それは要するに替え玉であっても、翻訳業務をプロに委託すること、つまりそのプロの力量を見抜き、クライアントの要望を満たすという意味では、従業員たちがプロの翻訳家、クライアントたちは投資家や株主と言ってもよかったからだ。しかしそれにしてもこの須加という男はまんざら信用出来ないでもないとその時私は直観した。そしてそれは決して間違いではなかった。
須加という男はよく快活に笑い、積極的に私に色々話しかけてきた。その時に私と須加以外にも四人の男性がいた。南禅寺の正門前の駐車場で皆は一応自己紹介し合っていたのだ。たまたまその日は女性の参加者がいなかったが、年齢的には古物商を京都で営んでいる島田という六十代の男性と、サラリーマンをしている東京から来た青森出身の近田という三十代の男性、そして桑原という写真家(女性のヌードを得意とするらしい六十代)、そして吹上という名の化粧品会社の社長である私より七八歳若い四十代前半といった面子だった。近田は桑原と妙に気が合いそうで、島田と吹上は商売のことについてしきりと話題にしていたようだった。私の横には主催者の須賀が、そしてその後ろに桑原と近田が、その後ろに島田と吹上が歩いていた。
私が京都駅に到着したのは七時前だった。そして乗り継いで降りた蹴上駅から南禅寺に到着したのは須賀のメールによる提案で八時だったので永観堂を拝観するのには未だ少し時間があったので、そこは諦め哲学の道を通って禅林寺へ立ち寄り法然院で少し長めに見学した。(安楽寺に立ち寄り銀閣寺に着いた時には十時過ぎになっていた。)
しかし私にとって不思議だったのは、かなり日本人にとっての自然とか、日本人の心といった生活から遠ざかっていたのに、京都の道を歩いていた時には、何故かサンタフェや、モンサンミシェルやシンガポールを歩いた時にはなかった大地との密着間が感じられたのだ。そうだ、私もまた日本人なのだとその時思った。それは私がずっと長いこと感じ続けてきた世界が虚構めいて見えるということに久しぶりにあのサンタフェから見た夕焼けの色が鮮明に生命的躍動を私の肉体に呼びさましてくれたように感じさせた。しかしただサンタフェで生活する日常ではずっと歩いている時もレッドカーペットの上を歩いている感じは拭えなかったのだが、それに引き換えずっと自分との間に密着感があったその時感じた哲学の道の傍らにある小川のせせらぎを眺めいりながら歩く京都の地面での感触がカーペットではなく大地であるということそのものもまた一つの私の脳が勝手に描く幻想かも知れないと思うことも私は忘れなかった。
しかしすぐ後ろに歩く不良壮年といった感じの桑原に対して青年的雰囲気をまだ多分に残す近田が共感を示し友好的に語りかける内容は自然と耳に入る範囲内でもさほど違和感はなかったものの、その後ろに続く島田と吹上の会話内容を聞き取る私の耳は、伊豆倉の持つあの独特の商売人特有の慇懃無礼さと、俳句に関心があるのだぞと無趣味のビジネスマンたちを蔑む態度が見え見えで嫌な過去の出来事の想起を一瞬で招いてくれるのではないかという懸念を私の心に生じさせた。
近田は結婚を意識した女性との付き合いがあることを桑原に告白し、時々彼女の自分に対する態度から女性というものがよくわからなくなるというようなことを告白すると桑原は
「女という生き物は僕たちとはまるで違うからね。これは運命的な役割かも知れないね。人類のね。だから僕は女性を相手に撮る時には、向こうをよく知っているという態度を一切示さずに、僕は何にもあなた方のことを知りません、だからどうかそっちのことを教えて下さいという態度と表情でシャッターを切るんだけれどね。つまりそういう風に彼女に接すれば向こうは君を信用してくれると思うよ。」
しかし島田は吹上に対して
「化粧品というのは女性に対しては女性が使い勝手のいい雰囲気を持っている商品を自分のペットみたいに思えることが商品戦略としては最も有効なんですかね?」
と聞くと、島田に対して吹上は
「いやあ、それは島田さんに寧ろ私がお伺いしたいことですよ。」
と返す要するにそんな遣り取りに終始していたのである。
私はこの種の社交辞令に対して翻訳家としての生活においても、その後急転した沢柳=佐橋のダミーとしての生活上でも一切なかった。アメリカ人は本質的に全く異なった社交辞令の仕方をしていたからだ。だからと言ってちっとも私はこの二人の遣り取りを懐かしいなんて思いもしなかった。それどころか二度と聞きたくはないタイプの会話内容だったのだ。
その点桑原の謂いというのは年配者から青年層へ向けた回答としてはよく理解出来る、そうその時私は思った。ある意味では桑原と沢柳=佐橋=サハシーは似たタイプだった。そんなに年老いてはいないのに、私と年恰好が似ているというだけで自分の職務を放り出し死んだことにして、ひょっこり私の前に現れ、再び去って行った。
近田は銀閣寺に到着して庭園を散策していた時、私の後ろで桑原に再びこんなことを聞いたのが私の耳にみ入ってきた。
「桑原さんは世界中の女性のヌードをお撮りになっていらっしゃるけれど、どこの国の女性が一番情感的ですかね?」
すると桑原は
「君はどこの国の女性が一番そうだとお思いですか?」
近田は自己紹介の時に南禅寺の正門前で自分は大手家電メーカーの社員であると言っていたが、更に自己紹介をも兼ねて
「私は商品開発部に属していて、一年間ロス支店にもいたことがあって、まあそこでマーケットリサーチもしていたんですね。週末には滞在先の地域コミュニティーの色々なパーティーに誘われて大勢アメリカ人女性も見てきたけれど、確かにextrovert(社交的)な女性が多いけれど、では彼女らが本当に自分の本音を曝け出しているかと言えば、決してそうではなかったというのが僕の印象です。」
と言った。すると桑原が
「僕も米国人女性は大勢フィルムに収めてきたんだけれど、君の持つ感想と共通しているとも言えますね。だけど日本人の女性も少しずつ変わってきたからね。」
と呟くようにそう言った。そして続けて
「でもね、僕の撮るヌード写真のモデルになるような女性はアメリカ人でもフランス人でもフィンランド人でも日本人でも要するに何かある程度共通性があって限定されてくるんですよ。だから逆に僕はあなたが付き合っていたり、ビジネスで知り合う女性の方がずと僕が見てきた女性よりもワイドなヴューで見ている気もするけれどね。」
と付け加えた。それを聞いて
「そういうもんなんですかね。」
と半分怪訝そうにしかし半分感心した表情で半納得の意志を近田は桑原に示した。
吟行をしているので、皆小さなメモ帳にボールペンや鉛筆を片手に気がついたら俳句を書き留めていたが、そうしながらも和やかな会話も挟んで移動していたのだ。
私は近田のアメリカ滞在の話を聞いた時心の底ではいつ頃アメリカにいたのか聞きたいと思ったが、勿論聞いたりなんかしなかった。そして一瞬ヴェロニカのことを追想した。今頃山田が巧く彼女をリードしているのだろうか?彼がヴェロニカも引き継いだのだ。そして彼は私のことを沢柳であると信じている(筈だ)。
私が予め旅行の前に着替えその他を放り込んでいたショルダーバッグの中から取り出したデジカメで法然院にある砂のような小石で作られた山型のある庭をそこへ降りるようになっている上から俯瞰で写真に撮るために須賀より少し早く前方へと歩いていって須賀がカメラの視界に入らないようにして構えていると、後ろから須賀が
「散見さんの今回の句を楽しみにしておりますよ。」
と言った。私は
「そう仰る紫卿さんこそいつものような歯切れのいい爽快な句をこちらこそ楽しみにしておりますよ。」
と言うと、須賀は打ち解けた雰囲気で更に話しかけてきた。
「幼い頃というのは人間って奴は何を見ても新鮮な感じを受けて吸収しようとしますわね、しかし大人になっちまうと、いつの間にやらこう何ていうか、何を見ても感動しないように、前に見た何かに必ず新しいものさえ結び付けて見てしまう癖がついてきますわね。」
そこで私が
「ええ、そういうものですね、よく分かります。何でもかんでも感動していたら身が持たなくなりますからね、社会生活って奴は。」
と賛同の意を示すと、須賀は更ににこやかに
「ええ、ですからこういう吟行って奴は気が利いた計画ですよ。」
と快活にそう言った。
私はもし以前の、つまり私が郷田守として生活し始めてから知り合った他人と共にいる時に、日本で金城悟時代の知人と鉢合わせしたら、その時はその者にだけ「金城の本名は仕事では使っていないんだよ」と説明する積もりだった。私が過ごしてきた翻訳家の業界ではそういうタイプの人間も大勢いたから、そこら辺は一向に不自然ではない。私はもうかなり資産があったので、細々と金城悟として生活している辻褄合わせとして以前の住所を引き払ってもシンガポールに滞在している時にも一応確定申告の際にはきちんとした書類を作成していた。事実私は郷田守になってからも院生に金城悟としての翻訳業務の代行をさせていたのだ。だから郷田守としてのアイデンティティーとは要するに佐橋=沢柳として生活していた頃の知人と鉢合わせした時に取り繕うための新たなアイデンティティーだったのだ。しかし不思議とこういう二重性に私は既にすっかり慣れきってしまっていたのだ。
銀閣寺の庭で須賀の発案で最初は個々に次に皆で須賀の提案で記念写真を撮って、昼食をとるために京都御苑内のレストランに行くために乗るバス停まで出たらバスは出たてで、次のバスが到着するまでに二十五分くらいあったので、皆でバス停からほど近い茶屋に入って時間を潰すことにした。その時店内で三味線と琴によるまるでとってつけたような邦楽が流れていたので、咄嗟に黙っていれば
「いかにもさもありなんっていう感じのBGMですね。」
と私や桑原の顔を見て苦笑した。
その時島田が近田に
「ところで近田君は音楽も好きそうだけれど、どんな音楽を聴いているんですか?」
と質問した。すると近田は
「ええ、好きですよ。桑原さんのお撮りになっていらっしゃる写真とか見ながらロックとか聴くのも好きですね。」
と言った。するとロックと言えばエルヴィスという世代らしい島田が更に
「どんなロックですか?」
と聞いたので、近田は
「ニルヴァーナですかね。」
と言った。すると島田は
「僕はその名前知らないですね。」
と言った。近田は
「僕たち三十台中盤の世代にとっては多感な青年期に結構エキスを貰った人は多いですよ。だからヴォーカルのカート・コバーンが自殺した時はショックだったですね。」
と言った。するとその時吹上だけが頷いていた。ニルヴァーナはロメオスも好きで彼の邸宅に招待されて映画を見た時も、映画が終了した後互いにワインを飲んだ時にBGMに彼が選んでいたのがその時懐かしく思い出された。
私たちの世代にとってジョン・レノンが殺された出来事は極めて印象的であった。しかし私たちとて現役時代のビートルズをリアルタイムで聴いていたわけではない。島田と桑原と須賀はそれよりももっと上の世代だし、吹上も少しだけ近田よりは長く生きているものの大体似た音楽を聴いていたようなのだ。近田は同世代の吹上に
「吹上さんはどんなタイプの音楽をお聴きになられますか?」
と聞いたので、吹上は
「私は趣味ではあまり音楽を聴かないんですけれど、ビジネスタイムでは私の社ではアンビエント・ミュージックを聴いて皆仕事をしているんです。」
と言った。
注文して出されたコーヒーをそそくさと飲み干すと周囲の皆は殆ど温くなってしまうまで口さえつけていなかった。私は何故か喉が渇いていたのだ。
バスが到着する五分くらい前になって皆目配せして示し合わせたように会計を済ますと、歩いて三十秒くらいのところにあるバス停に並んで待っているとバスがやってきた。
その後私たちはバスを乗り継いで京都御苑内にある予約していたレストランの奥の和室で食事をして、ビールで取り敢えずの乾杯をしながら、各自既にしたためていたメモからある程度自信のある句だけ一句言い合うことにした。本格的に今回の吟行で作った句を発表し合うのは明日である。
その時には既に近田と桑原、島田と吹上、私と須賀がペアを組んでいたようなことと関係なく全員が懇意な雰囲気で句を巡る様々な意見や感想が飛び交った。その時私たちは通常のレストランのテーブル席が、和室の上がり間から充分見渡せる間合いになっていたので、テーブル席の客たちが寛ぐために少し高く全体からも見られるようにして置いてあったテレビのニュースの内容が、私たちにも聞き取れたのだ。ニュースは20世紀から今日までの一世紀の間でも類例を見ない大不況の嵐がアメリカ証券業界から世界へと飛び火しているということを伝えた後、よりにもよってスカイスレッダーとミューゾソケット社との提携が暗礁に乗り上げているということが報じられたのだ。私が替え玉CEО時代にはズームアップ社とシューズデザイナー社との提携に漕ぎ着けたが、山田はどうも敵対していたミューズソケット社との提携を勘案していたようだったが、それが暗礁に乗り上げたというのである。私は当時既にスカイスレッダー社の行く末にあまり関心を示さなくなっていたのだ。だからそのニュースも私にとっては突拍子もないものだった。
私が替え玉CEO時代以前に一度は懇意だったミューズソケット社は何度か独占禁止法違反ではないかと囁かれたり、槍玉に挙げられたりしていたこともあったが、その都度巧妙に新奇のアイデアによって乗り切ってきていた。しかしアメリカの実業界でよく見られるパターンとしてエディー・レンディーは既に経営の第一線からは退き、しかし通常の年齢からすればまだ一花咲かせることが可能だったので、慈善事業をすることに精魂を傾けていたものの、いざ提携という話になると彼だって山田=現在の沢柳との話には現在のCEОからも打診されていたに違いない。スカイスレッダーからしてみれば私の時代でのミューズソケット社に対する仕打ちは裏切り以外のものではないのだ。ロメオスがそれだけ私にとって魅力的な男だったということも実は手伝っている。
しかし私はあの山梨の山荘で沢柳本人から
「マイケル・ストーンランドとジム・クラークは二人とも信頼出来る男であり、いざ決裁を仰ぐことを下の者から迫られたら、この二人に相談し、両方が同一意見ならそれを採用し、そうでなければいずれかあなたが自分で正しいと直観し得ることだけで流れを決定していけばよいんですよ。」
と言われたし、事実私はCEОになってからも、何度かサハシーが私にだけ密かに教えてくれていた携帯番号へかけて彼からアドヴァイスを聞きだしていたのだが、シンガポール在住になってから一度私は実は私をサハシー本人であると信じて疑わない(そうだろうと思う)山田から電話してこられたことがある。私がいざ困ったことでもあったら、自分に電話をよこすように私がサハシーから教授された山荘で、同じように彼にそう告げて、携帯番号を知らせていたからである。
その時彼は私にこう言ったのをその時私は思い出した。
「サリーが運んでくれる私の日程表に従って私は行動すればよいのですが、では日程があまり過密ではない時はどうしたらよいのでしょうか?」
その時私は確か次のように返答したと思う。
「CEОは意外と過密スケジュールではない時は暇なんですよ。普段は会計士も弁護士も色々スタッフが勘案してくれたことをこなせばよいから、それは丁度何かの流れに身を委ねてればよいけれど、いざ空白の時間が与えられると逆にぎょっとしてしまうものなのですが、そういう時に閃くアイデアが実はビジネスには重大な岐路の際に手助けになってくれることが多いんですよ。だからそういう時は好きな小説を読んだり、映画を見に行ったり、コンサートに行ったりして、気分転換することが意外と後でいい案が浮かんだり、困窮した時に打開してくれる道を指し示してくれるものなんですよ。」
山田はその時以外は一回も携帯では連絡してはこなかった。そんな時間的、精神的余裕がなかったということもあるが、殆どの情報は私がその都度彼へメールで送信していたのである。
しかし気分転換をせよとそう山田に告げた私であったが、私自身は細々したこと、例えば豪邸の庭師ロジャースらについての知識とか、豪邸の地元の人間関係についてなどは逐一メールで教えて貰ったりしたものの、精神的レスキューを私はサハシーに求めることは殆どなかった。当然ズームアップ社らとの提携の時も完全に私の一存で決めたことだったのだ。
しかし俳句の話に花が咲いている時に、そのニュースを注目したのは私だけだと思ったら、流石化粧品会社の社長なことはある、一瞬そのニュースが流れた時そのアナウンサーの言う一言に注目した表情を私だけが恐らく見抜いていた。その鋭い視線と深く思念したような一瞬の冷徹な表情が、私自身のビル・サーストンやサリーやトムとの仄かなたった一年ちょっとではあったが、虚としての私の内心では実のある思い出に耽ろうとしていた気持ちに水を差した。たった一瞬ではあったが、俳句の季語と切字の話をしていた最中に見せた彼の経営者としての表情が一気に私の気持ちを元CEОへと立ち戻らせた。しかしそれを一切他者たちには悟られまいとして、今度は私の方から敢えて吹上に対して俳句に関しての質問をしたのだった。
「では吹上さんは一体用言止めと体言止めに関してはどのような見解をお持ちになられるんでしょうか?」
と私が言うと吹上は
「私は須賀さんや散見さんほど長く俳句作りに携わっているわけではありませんけれども、体言止めというのは何か固定させてしまうように思える一方、本家取り的な妙味にある時には活きることもありますが、一般に何と申しますかね、イメージを、つまり俳句を詠む者の表象的心理をですね、限定してしまう、つまり通り一遍の名辞というか、通念に縛り付けてしまう気さえするんですね、ですから、私は映像的に表象が明確化される用言止めの方に痛烈に惹かれるんです。それはフッサールとかサルトルといった哲学者の思念を彷彿されるんですね。」
吹上は確か文学部出身であったが、まさか俳句の席でフッサールやサルトルの名が出てくるとは思いも拠らなかった。私自身哲学書を貪り読んだ記憶もあるが、大分昔の話である。一気に私は世界が虚構めいて見える私のヒューム的懐疑主義的青春にその一言が立ち戻らせた。私はその一言を聞いた後で、この吹上とは私を色々な時期に立ち戻らせてくれる若いがあまり軽く扱っては後で痛烈な竹箆返しを食らうことになるかも知れない、まさに見過ごせない奴だとその時確信した。それはニュースの内容に一瞬凍てついた表情を見せた男に相応しい私の下した結論だった。
私は吹上の意見に対して
「それは私も吹上さんに完全に賛成ですね、余り巧くない詠み手が下手糞な本家取りにもならない名辞で締めくくると、句が死んでしまいますからね。」
と述べると桑原も近田も島田も須賀も納得した表情を示した。しかし暫く皆この遣り取りに納得したような表情をしていたが、思い立ったように近田が疑問を吹上にぶつけた。
「では自由律俳句の名作と言われる尾崎放哉の∧咳をしても一人∨は形式的には体言止めですが、どう考えたらよいのでしょうか?」
それに対して吹上はすかさず
「それはこう解釈すればよいでしょうね。つまり∧咳をしても一人でいる∨ということですね。これは∧一人で咳をする∨ということを言いたいのですが、そうただ言ってしまえば、面白くも何もないですね、しかし咳をしても周りには誰もいず、その咳をしたことを心配してくれる人も誰もいないということですからね。だから体言止めと言ってもね、これは限りなく用言止めに近い感覚の、つまり用言が省略された体言ですから、要するに知識とか解釈的な常套性に依拠したような体言止めのような本家取り的趣味性はないと見ていいですね。」
吹上は吟行している時にはあまり同伴していた島田とも積極的に会話を弾ませることなく、一人メモを取っていたから、当然社交家ではないらしいということは逆に創作家としては優れていると私は思っていたが、事実彼は後で皆で一句ずつ披露した句そのものも優れていたし、解釈家としても、批評家としても優れていたことは確かだった。そしてこういう出会いとはどんなに生き馬の目を抜くようなビジネスワールドにいても、味わえない妙味であることを私はつくづく感じたが、それは世界そのものが私を存在させる前に既にかなり虚構めいて見えることそのものを、句と作る、それを集団で篩にかけるという行為によって虚構を虚構(句)によって表現することで自然に世界を非虚構にすることが出来るということを私は替え玉としての生活から足を洗った後の人生で初めて知った気がした。
しかしやはりそれにもかかわらず、あの時のニュースでのスカイスレッダーでの苦難とか、山田は巧くやっているのだろうかと、一度だけ私にアドヴァイスを求めてきたあの時以来一度も私の携帯にはかけてこないままでいる彼の現在の行状に関していささか憂慮めいた気持ちになっていたということ自体が、私は未だ完全には気分的にリタイアしているのではないということに気づき、私はこの句会において、誰にも気づかれないように一人で苦笑をしていたのだ。
「いやあ、今日は先生抜きで素晴らしい会合となりました。また私のところに連絡して下されば、私が句会をする場所を確保致しますので、いつでも何なりとお申し付け下さい。」
と閉めの言葉を須賀が句の批評が終ってから言った。それに対して島田が
「私たち一般庶民にとって社会で生活していくということは、個人的な創作への思いとか沈思黙考すること自体を諦めて、要するに自分というものや自分を見つめるということ自体を捨てて社会に奉仕するということです。ですから先生のような天才の方以外の私たち、と申しましても、私以外にここにいらっしゃる方は含まれませんけれども、要するにこういういい機会でもない限り、一切自分を創作を通して見つめる機会などなくただ死んでいくだけです。」
と言って、須賀に感謝の視線を注いだ。すると桑原が
「私は写真家ですから、よくあなたは自分の表現をなさる機会に恵まれていらっしゃるでしょうとか言われるんですが、写真家というのは、確かに通常の会社員の業務よりは、自分を見つめる機会に恵まれていますけれども、どうなんでしょうかね、却って近田さんのような若い会社員の方にとっての余暇の過ごし方の方が有効に自分を見つめる余裕が持てるんじゃないですかね。つまり私たちは半分は自分の写真家としてのテーマとか考えることが出来るけれど、それはあくまで社会全体が私に求めるものに対する受け答えとして設定された「私の世界」なのであって、私が社会に対して求めたり、私が社会から認定したりして貰いたいものとも微妙にずれ込んでいるのですね。」
すると、もうお開きかと思われた場が再び話に盛り上がって、それに対して近田が
「桑原先生のような方でもそうお思いになれるんだったら、要するにプロの世界ではあまり自由はないということになりますね。」
と述べた。すると桑原は
「そういうことですよ、世の中に一切認められないようなしかし本当の天才がいたとしたら、そういう人間はどこかで社会通念と対立して生きていかざるを得ないけれども、いざ自分にとっての安全地帯を見出したのなら、却って売れっ子よりももっと自由かもしれませんよ。」
と言った。するとその意見に吹上も島田も賛同するように大きく首を縦に振った。その場で全部お開きになり後はホテルで過ごすなり、土産物屋に行くなり自由時間という予定だったが、いきなりお開き前に話しが盛り上がったので須賀の咄嗟の発案で有志者のみで二次会を設け、酒を飲みながら俳句や俳句を取り巻く状況とか、それぞれにとっての俳句の出会いを語り合うということをすることになり、結局一人も参加しない者は出ず皆で祇園の居酒屋(須賀が一見ではない店があったので)に繰り出した。会費は若い近田だけ桑原の奢りということになって皆が出席した。既に御苑を出た時には夕方近くになっていたので、二次会がお開きということになり三々五々後は完全な自由時間ということで、土産物屋に寄ろうとする者もいれば、そのまま宿泊先の京都国際ホテルに向かう者もいて、ホテルのチェックインへと向かった時にはすっかり夜もふけていた。腕時計を見るとちょうど八時になっていた。近く(大津)に住む島田だけが明日また東寺で落ち合う約束を皆として、一旦自宅に戻って行った。
御苑から祇園に行く途中でバスの中で幾つかのギャラリーを車窓から目撃したのだが、その時私は伊豆倉のことを一瞬思い出した。思えば彼によって自分の人生がある部分では急転したのだ。しかし彼のよく言っていたこと
「金城さん、画商って奴はとてもじゃないが、まともではない悪どい奴っているんですよ。贋作と知っていて平気で高額で売りつけてどろんするような奴とかね。」
を思い出したが、自分もそれと似たようなものかも知れないと思ったのだ。しかし極めて紳士的でこの替え玉詐欺が知られさえしなければ誰も傷つかないのではないかと大胆にもその時私はそう思ったのだ。
Friday, October 30, 2009
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