私は山田のことをすっかり沢柳に後釜のことを聞かれるまで忘れていた。しかし山田に全てを託し、もうあの翻訳業務をしていた頃のように二度と今度はどんな仕事が来るのかと半分不安、半分期待が入り混じった感情でその都度迎えるというようなことなどないだろう。何故なら私は既にもう一生働かなくてもいいくらいの財産があった。しかしそれは決して真っ当な仕事によって得たものではないし、また世間に公表し得るものでもない。つまり私は生涯、楽な生活をすることが出来るが、同時に生涯、翻訳をしていた頃のようには、世間に胸を張って生きていくことは出来ない。勿論私は翻訳をしていた頃からとりたてて、人生の充実感とか、生き甲斐といったものを信じる方ではなかった。しかしあの得体の知れない沢柳による試用期間において、不安を入り混じらせながらも、必死で採用されることを考えていた頃には、それなりに精神的な充実感はあった。つまり何らかの生き甲斐とはこんなものではなかろうかというような感じは確かにあったのだ。つまりそういうことというのは後になってから、そうだ、あれが幸福という感情だったに違いないと分かるものなのかも知れない。
しかし実際にCEОとしての仕事をこなし、それを替え玉としてではなく本当に自分の意志でし始めた頃まではある意味では最初の緊張感からの延長だった。しかしある時点から、つまり自分自身で替え玉としてではなく、いつしか最初から自分がCEОだったのではないかと錯覚するくらいに慣れていった頃から私は確かに完全に後戻りすることすら出来ず、またそれを一方では確かに決して望んではいなかったものの、未だ試用期間中なら、全く異なった場所で仮に誰かと居酒屋辺りで会話するにしても、どこか胸を張って会話することが出来たろう。しかし私自身が最初からCEОだったのではないかと錯覚するくらいに沢柳が死んだという事実自体に慣れていった頃、私は既に引き返すことの不能な地点に来ていたのだ。そしてその時点から私は居酒屋などで見知らぬ人たちと会話することなど最早する余地さえない地点に来ていたのだ。またそういう気持ちにすらならないようになっていた。そのことはその日、生きていた沢柳の笑顔を見てそう思った。つまりサハシーも今の私同様の気持ちを、私に全ての業務を明け渡した時点で味わっていたのに違いないのである。
だから私は本来だったならもっと沢柳の生存に対して驚くべきところが、意外にも、私に任せて辞めていったサハシーの気持ちがよく理解出来るという感じだったことの方に私は驚いていた。それは私もまた今のサハシーと同じ身分になっているということからくる感じだったのだろう。
私はモンサンミッシェルの風情もそこそこに、脳裏には殆ど沢柳が私に明け渡し、私が山田に明け渡した業務と、その業務に向かう人々といった関係についてどこか哲学的に思惟を働かせていた。社会そのものの運営ということが、自分の思惑とは全く違う部分で展開しているという感じは誰でも抱く感慨だろうが、それがこういう世界遺産のような観光地に訪れている時にも、いやそういう場所だからこそ脳裏を掠めるということは、私たちがいかに人間関係の渦に常に飲み込まれているかということを表している。が、私はそういうことを思い巡らしながらも、この先どのように生活していくべきか、おぼろげながら辞める前に考えていたが、既に私が抜ける前に購入していたシンガポールの高層マンションに移り住むことを実行に移そうと考えていた。既にフランスからシンガポールにまで行く飛行機の手筈は整えていた。そして再びパリへ列車で戻り、夕方には到着するから、それから予約しておいたホテルにチェックインし、翌日オルセー、オランジェリー、ルーブルといった美術館を見てから、夕方発の飛行機に乗る予定だった。ピカソ美術館も時間があれば見ようと思っていたが、翌日最初の二つの美術館をざっと見て回っただけで殆ど時間的にも体力的にもそれ以上一日で見て回ることが出来ないということを察知し、ルーブルとピカソは諦めて、私は空港へ搭乗時刻からすれば少し早いが、出向き、そこで新聞を買って椅子に腰掛けリタイア後に時々吸うようになっていた煙草を取り出し吸い出した。サンジェルマンをタクシーで通りかかった時、タクシーを停めて最寄りの店で購入したル・ジタンだった。
その時フランス国営テレビのニュースが世界的規模での株の大暴落について告げた。私が職に就いている間はこんなことは一度もなかった。アメリカ国内でのサブプライムローンが契機となった今回の世界的金融危機は百年に一度であると報じられた。その時久しぶりに私は咄嗟に日本のことを考えた。日本での生活はどうなっていくのかということを、最早日本に戻り生活することを断念していたのにもかかわらず考えたのだ。そしてその時山田はこれからどう采配を振るっていくのだろうとも考えたが、それ以上に彼の心配をすることはなかった。
Tuesday, October 27, 2009
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