Tuesday, November 3, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑮

 連日ニュースでは世界同時不況の煽りを食らった日経平均株価の暴落を告げていた。私はしかし京都旅行から四日くらいたった日の午後、シンガポールの自宅の書斎に置かれてあるパソコンに島田から送信されてきた島田の知人が依頼してきた翻訳原稿を見て、即座に翻訳をし始めていた。島田がスキャンでコピーしたものを私に送ってきたのだ。
 それは一冊分の本くらいに相当する長さの取材物だった。それは長く古物商を営んできた米国人の男性による古物そのものとの出会いと、ニセモノを掴まされた経験などを語った自伝的要素と、苦境に陥った時に巧く難を逃れるハウツーものの要素が絡まりあった内容のものだった。
 その翻訳をし始めてから、私は依然埼玉県に住んでいた頃よく立ち寄ったギャラリーのオーナーでアートディーラーの伊豆倉のことが懐かしく思い出された。私は独身だったし、両親も既に数年前に母親が死去してから、それより十数年前に死去していた父と共に私は天涯孤独だったので、もう金城悟の名を知る知人は伊豆倉と、飯島だけだったのだ。
 しかしその時期私は久し振りに纏まった本業に身を入れていて、替え玉、ダミーとしての生活で味わったストレスから開放された気分でいた。基本的に翻訳上で必要なデータとか業界の知識とかはインターネットで検索したり、そこで登場した本をネットショッピングで仕入れて読んで調べたりした。図書館にはなるべく行かないようにしたが、時折古書とか廃刊となった本を調べる必要のある時だけ出掛けた。シンガポールでは私は一切寺院を訪れることはなかった。日本人だけの寺社の方が私には落ち着いたのだ。そういう風に頑なにしていったのには、私の京都行きが手伝っていたかも知れない。
 しかし私が手掛けた翻訳の原書本は実にいいことも沢山書いてあった。例えば次のようなものがそうである。

<人間は若い頃には正義を信じ、行動の原理をそれなり形作っていく。しかし往々にして若さとは正しいことというのが一つであるように全てにおいて一つの正解を求める。勿論概ねその都度正しいことというのは一つである場合も多い。しかしその一つに辿り着くための経路は様々である。だから正しいことをするのには一種類だけの仕方しかあるわけではない。
 対抗意識とか敵対意識とは、ある意味ではかなりの部分で自己内にあるその者との近親性に根差している。つまり相手に対する近親憎悪こそが敵対意識とか対抗意識を育んでいる。と言うことは相手を批判するということを通して私たちは批判する相手と最も近接した立場であり、性格である自分を見出さずにはいないということだ。
 その意味でも批判する前にまず相手の立場を自分の立場と比較して検討してみる必要がある。相手を批判する前にまず自分の批判的な眼差しで見つめる必要がある。
 だからこそ商売の基本とは出来得る限り対立とか抗争を避けるということに尽きる。そうするには危険な橋は渡らないということである。そのためにはいい意味で責任転嫁と、責任回避をすることである。
 つまり権威ある別の人に対して敵対することを避けるには権威ある人の商売上での戦略に乗せられないように、「知らないこと」、「出来ること」、「責任を持てること」を限定し、そのことを顧客に明示することである。価値あるかどうか分からないものを高くは売らないということ、あるいはニセモノである(贋作)とかそういう危険のあるものを扱わないことである。それは権威ある人から薦められた商品に関しても該当し、しかしその権威ある人の信用を傷つけないような仕方で丁重に勧誘を退けることである。要するに今現在そのような経済的余裕がないことを明示すればよいのである。>
 
 翻訳をし始めてから二十日くらいたった頃島田から私が南禅寺で彼に渡した名刺を見て彼が私にかけてきた電話があった。
「翻訳の調子はどうですか?」
 と電話の向こうで彼はそういきなり私に尋ねてきた。
 私は半分くらいの量をざっと翻訳したことを告げた。しかしこれから丁寧に本などの資料を調べてチェックして兎に角半分だけでも仕上げなければならないと彼に語った。
 すると島田は慇懃無礼な口調で
「散見先生はスピーディーに仕事をされる方ですか?大体どれくらいで出来そうですか?」
 と質問してきたので、私は
「そうですね。ものにも拠りますけれど、今回のようなものは、技術翻訳的なものとも少し違うからマニュアルが予めあるようなのと違うので、自分で調べなければいけないこともあるので、そうですね、急ぐのでないのなら、二ヶ月くらいは頂きたいですね。」
と告げると島田は
「分かりました。では先方の兼杉にもそう伝えておきましょう。」
と言った。

 島田に対して私は郷田守として接している。それは京都で出会った俳句仲間全員に対してもそうである。しかし私はそこでしている仕事を全て金城悟として税務署に申告するためにしている。では何故私が日本のマンションに帰宅することをしないのかと言えば、私の金城悟として生活してきていたマンションが所沢にも近く、あるいはフリスコで飯島とばったり出くわしたような形でいつ何時スカイスレッダーの日本支社長である川上やマンションでの雑事をしてくれていた相川や料理人の友部、あるいはホテルとかに行く際の手配の付き人である島村らと出くわさないとも限らない。そこで私は日本に来た時のみ埼玉県のマンションに赴くことにしていたのだ。だから京都旅行の直前にも私はかつての住処に赴いていたのだ。
 島田は俳句の吟行において最も俗物であり、作る句にも魅力に欠けたが、私が経済的には悠々自適であるにもかかわらず、空虚感を持っていたおり、ひょんなことから私に再び翻訳業務に赴かせてくれた貴重な出会いであったとも今なら言える。
 私が世界が虚構めいて見えるという世界観を拭い去れないこと自体を否定的に捉えれば、ある意味では何故翻訳家として生活してきたかということの理由も説明出来る。翻訳の彼方にあるものとは端的に他者の考えであり、その他者の考えをその他者以外の全ての他者に伝えるための橋渡しとするのが私の役割であり、それは原テクストの著述者にとっての「私」の解放を、一人では出来ないから、手助けすることでもある。それは私自身にとって世界が虚構めいて見えることの脅迫観念から一時開放してくれる、著述者によって作られた虚構の「現実性」を私が彼らに代わって成し遂げることが出来るか否かが私の翻訳家としての技量次第だからだ。
 しかしスカイスレッダー時代には生活自体が虚構だった。虚構を通して現実を仄見えるものとして認識する猶予さえない毎日では、私はただ自分の行動を世界に対峙し得る唯一の道具として、行動をこそ虚構とすることで、内心だけは自分であり現実であるという生活を生きた。しかし山田は一体巧くこの経済不況に難関を突破し得るのだろうか?考えてみれば彼こそ最も不運な男であるとも言えた。
 私に仕事を依頼した兼杉という男は後で私に謝意を伝えるために電話で連絡してきた。島田からの電話のあった四日後くらいである。その男は島田の若い頃からの友人で、島田が事業をすることとなった時資金も工面するのを手伝ったらしい。今では彼も島田に一足遅れて古物商もしているということだった。私はそれ以上その男に関心も持たなければ興味も沸かなかった。しかし彼は私にこう言った。
「こういう不確実な時代に相応しい内容じゃないかと思ったんですけれど、先生は今お訳しになっておられて、そうお思いではないでしょうか?」
 もう内容を全部読んで把握しているかのような口ぶりだ。尤も英文を読むことが出来ても、翻訳してそれを日本語で読ませるということはまた別のことなので、もし彼が既に内容を把握していても全く不思議ではない。しかしそれにしてもまるで自分の能力を試しているかのようなその口ぶりに私は一瞬沢柳からCEО職を引き継いだばかりの頃の私の周囲のスタッフの視線を意識して常に構えていた頃のことを思い出した。
 ただ翻訳をすることとなって、久し振りにCEО替え玉時代に金城悟として申告する分だけはこなしてきた雑翻訳と違って、島田の友人によるそのテクストはかなりためになる内容でもあった。
 テクストの著者はニュージャージー州のトレントン出身の人間で、父親の家業が家具屋だったということも手伝って、商売の基本は父親の生き方から学んだが、美術や陶芸が好きで、結局ニューヨークのアートスクールに学び、卒業後古物商の見習いをして、世界中を回り、ヨーロッパからアメリカ、日本、韓国、中国の陶芸家の作品も見て研究し、例えば日本のものでは北大路魯山人、荒川豊蔵、石田破山、加藤唐九郎といった巨匠のものも取り扱い、且つバーナード・リーチやガンサー・ステント、ルース・ベネディクトといった文献も広く読み漁っている様子が明確に文体、内容、引用文献などから推し量られた。そればかりは古い文献ではバウムガルテン、クローチェ、ジョルジェ・ルカーチ、あるいは哲学者からはディルタイ、ジンメル、文学ではゲーテやアーサー・シモンズはもとより、日本からは青山二郎、白州正子といった文献も読みこなしてきている節があった。私もそれら全てを読みこなしているわけではないが、それだけのものを通過してきている者のみが持ち得るような自信がそのテクストの文体には表されていたのだ。
 私はスカイスレッダーにおいて職務を代行していた時にも、空いた時間にはギャラリーやミューゼアムを見ていたが、こんな凄い古物商がいたということは勿論知らなかった。いたとしても会う機会などなかっただろう。
 しかし私が翻訳業務をしていた頃注文を受ける文章とは殆どがアメリカにおける組合の仕組みに関する解説とか、大企業のイントラネットに関する技術書とかそういう類の技術翻訳だった。そしてそれらは世界が虚構めいて見える自分の資質から必然的に文学への関心が芽生えていった思春期から学生時代までと基本的に異なっていることとは、そもそも文章とは文学であれ、とどのつまり仕組み以外のものではなく、詩であれ、小説であれそれらは虚構的技術によって顕現されているということだった。だから素晴らしい内容であったなら自伝で指南書でもある兼杉の依頼してきたテクストは彼の資金によって知人筋にだけ配布するために自費出版することになる筈だったが、私は兼杉が読んだなら必ずそう決意するだろうと翻訳しながらそう思ったのだ。

 私は島田から兼杉に依頼されたこととして引き受けた翻訳を約三ヶ月かけて完成させ、島田からの電話の際にも言われていたことだが、兼杉に直接メールで添付送信した。数十万円の報酬は私がメールで指定した口座に一週間後くらいに振り込まれた。兼杉は日本語の本を読むのは早いようだ。その後彼から丁寧な謝意を告げた手紙も届いた。勿論シンガポールのマンション宛ではない。私が確定申告に日本に戻った時に寄ったかつての住処の方にである。島田も私が日本にいると思っている。私は全部日本のマンションにある電話からシンガポールの自宅に転送されることになっている。尤も島田も後で請求される電話料金の明細を見れば私が日本にいないことを察するかも知れないが、そうなってもそれがどうしたの言うのか。
 山田からは彼が就任して一瞬間くらいの時期に私の携帯にあった電話以来一切梨の礫であった。しかしそれはそれでよいことである。しかし問題なのは私が彼に委託した期間は沢柳が私に委託した期間と同じ一年であり、そろそろ今後も契約を更新すべきか否かを向こうから尋ねてくることだろうし、それに対して私もそれなりの回答を彼に出さねばならないということである。
 しかし基本的に私は一切彼山田が契約の一年過ぎて以後もう一度返り咲くというようなことは考えていなかったし、事実山田が私からの要請という意識を捨てて一切の決裁を自分で執り行い縦横無尽に職務に邁進してくれることこそが私が彼に望むことだった。
 しかし始末の悪いことに私はCEОの替え玉時代そのものは懐かしくもなっていたのだ。それはビルやトムや総務のヒーリーや庭師のロジャース、秘書のサリーたちが仲間であるという意識では他の全ての面子とも違う生活を常に共にするという経験自体が私にとってはそれまでと違った体験だったことにも根差す。
 例えばスカイスレッダー社の日系人レオナルド・岸田、製薬会社Kのネルソンやリッチモンド、あるいはズームアップ社のサム・ジャクソン、シューズデザイナー社の腹心たちであるスーザン・リンドバーグ、弁護士であるレオン・ソダーバーグ、シューズデザイナー社のエンジニアであるマーヴィン・ブラックモアといった人たちは全てまず名前を覚えることが第一であり、その人格的な背景をなす育ちといったことをあれこれ想像することに意味がないくらいのエリートたちである。しかしやはりエリートという機能によって命脈を保つ偉大なる部品でしかない。その意味では同じ日本人でも川上、相川、友部、島村は皆そのタイプに属す。
 それに対して島田のようなタイプの男は絶対アメリカにはいないタイプである。確かに島田は飯島同様俗物である。別に古物商という人たちが俗物だというのではない。たまたま私が出会った古物商たちに俗物が多かったというだけのことである。それは私が翻訳業務をしていた頃にもクライアントとしてもあまり見ないタイプだった。私に翻訳を依頼してくる人たちは全て忙しくてしかも英語があまり得意ではないタイプの人たちなのである。だからそれはアメリカのビジネスマンタイプでもなければ島田タイプでもなかったのだ。 
 伊豆倉はアメリカのビジネスマンたちとも島田とも異なったタイプだったが、もし敢えてどちらかに属すると定義するとすればそれは完全にアメリカのビジネスマンたちの部類である。つまり私は伊豆倉のようなタイプの人間の存在によって逆にアメリカでも、島田的な存在であるサンタフェの地元のアメリカ人に対しても、あるいは日本でも日本にはあまりいないアメリカのビジネスマンタイプの人に対しても、アメリカにはいないタイプの島田のようなタイプの商売人に対してもさほど一々その差異に驚愕する必要がなく接することが出来たのだ。そういう意味では伊豆倉もまた懐かしき知人のデータベース上での存在となっていた。あるいは京都で出会った須賀もまた伊豆倉以降知り合った者の中では最も伊豆倉に近い中間タイプだったが、一度も会ったことのないタイプであった桑原に対しても既に私は心の動揺をあの風呂での一言を除いてあまり感じることないままにやり過ごせたのだ。因みに近田と吹上に対しても敢えて定義すればアメリカのビジネスマンなのだなと勝手に同類という風にカテゴライズして出会い自体にたじろぐ必要がなかったのだ。
 そのように他人をカテゴライズすることはあまり倫理的にはいいことではないだろう。しかし仕事をして生活するということとなるとそのようにカテゴライズすることを全く怠ると精神的にはとてもやりきれなさが残るものだ。それは喩えれば大病院の医師が一々死んでいく患者に感情移入し過ぎていては職務が務まらないというのと同じである。医師にとって必要なのは技術であり、患者は壊れた機械である。私はある意味では翻訳業にしても、急激な変化をきたした替え玉CEОにしても、そのように接する時に他人毎に即座にカテゴライズすることが巧みだったからこそ全てを切り抜けてこられたのだ。つまり仕事上では他人は全て何らかの機能を持った役割を与えられた存在でしかない。だからある機能に支障をきたせば、それを補修する係りが代えをすぐさま用意するだけのことだ。代えられた部品に一々未練を持ってなどいられない。
 とその頃はそう思っていた。しかしその後の私の人生を考えると若い日々に憧れた文学の香りをも感じることの出来た米国人古物商の自伝兼指南書の翻訳をしたことの意味は後から考えると大きなものだったのだが、それと同じくらいにその後の私の人生にとって大きな意味を持つ、まさに私にとってもう一人の私であるが故に一切のカテゴライズを拒み続ける、その典型の一人である沢柳とはまた別の意味で、つまり私と風貌は一切似ていないものの、私と立場上では最も隣接したある影法師のような男との出会いがその直後くらいに私を待ち構えていたのである。
 私は社会ゲームにおいてある役割を与えられ、それから自ら降りた。降りることは自由だが、降りた者を一々気にして生活する者などいない。すぐ忘れられる。しかし降りた者は降りたゲームをいつまでも覚えている。与えられるのではなく自らに与えるゲームを作っていくという気持ちに目覚めたのがこの頃の私だったのかも知れない。

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