Monday, November 30, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>㉓最終回

 翌年になって、私は山田を呼び寄せることにして、彼にメールを送信したら、彼は翻訳の仕事は今のところ暇だというので、最初京都に来て貰おうかと考えたのが、京都も飯島が島田と親しい以上いつ何時彼と遭遇するとも限らないので、静岡駅まで来て貰うことにした。まず彼に会って、彼の要望を聞いて、今後の身の振り方を相談に乗ってやらなくてはならない。私が沢柳から引き継いだ時点で私の人生は変わったが、私の場合率先して自分で変えていったという要素が強いが、彼の場合は全て私の指示に従っていた。しかし勿論彼の報酬は一年三ヶ月ほど支払われ、私の口座以外の沢柳の名義で彼だけが引き出せるように手配はしてあった。
 私は殆どの邸宅の資産を売却して帰国したので身軽だった。
 指定した日に静岡駅の私が指定した改札口に彼は東海道線のホームから降りてやってきた。私が改札の外から彼が来るのを確認すると山田は
「お待たせしましたでしょうか?」
と言って少し頭を下げた。しかし
「私も今来たところです。」
と言った。事実だった。私は彼に
「近くの喫茶店に入りましょう。」
と言って近くの喫茶店に入り、一番人があまり座っていない一角に二人で腰掛けた。相変わらず山田はサングラスを外さないでいる。
 私が翻訳の仕事についてどうかと尋ねると山田は
「大分慣れてきましたが、いつまで続けられるんでしょう?」
と私に尋ねたので私は
「このままずっと続けたいですか?」
と逆に聞き返した。すると彼は
「別に構いませんけれど、沢柳さんはこれからどうなさるんですか?もうストーンランド社長が就任されましたよね。」
 と私に質問した。私は
「これからは私が趣味にしてきた俳句を作りながら晩年まで過ごしたいですね。」
と言った。すると山田は
「でもリタイアの年齢がああいう企業は早いですね。」
と言いながら溜め息を洩らした。私はそろそろ本題に入ろうとして
「まあそうですね、ところで私がある仕事でお世話になってきた人がいるんですが、その方に贈り物をして頂きたいんです。翻訳家としての私として。」
と言った。すると山田は
「いいですよ。」
と返答した。私は飯島がどんな酒が好きか東京八重洲口で会う人物が飯島であると知る前に一度島田に別の用件(次回の句会の日程とか最近あったことを報告する内容の)でメールをした時島田から仕事を世話して貰った(島田は郷田守と私のことを思っているので、島津が死去した例の墜落事故の乗客名簿が報道されても私が死んだとは思わない。思うとすれば飯島と伊豆倉だけである)手前、お礼をしたいと言って聞き出していたのだ。島田からの返信によると飯島はウィスキーが好きだと言うのだ。
 しかしその時まで一切私はすっかり勘違いしているということに気づかなかったのである。そうである。読者は既にお気づきだろうが私は飯島にとっては死んでいなければならず、しかも飯島が島田に郷田守は金城悟という本名だと告げたら、島田にとっても郷田守は生きていてはならず、また飯島は島田と親しい以上島田に金城が不慮の事故で死去し、依頼した仕事が頓挫したと告げたに違いない。私はついサハシーの最後を演じ、サハシー本人のリタイア後を演じ続けることにばかり神経が行ってしまいすっかりそのことを忘れていたのである。そうなると島田もまた飯島と共に極めて私の今後にとって危険人物ということになってしまう。
 私がすっかり顔色を悪くしていたので山田が
「社長さん、どうなさいましたか?」
と心配そうに聞いた。私は必死に内心を悟られまいと
「いいえ、何でもありません。つい先日帰国したばかりなので未だちょっと時差ボケが直らないだけですよ。」
と言って誤魔化した。すっかり思案に暮れていってしまうかに見えた私は名案をその時思いついたのだ。それは島田が飯島とどんな会話をしたかによるが、飯島が島田に金城が死んでしまったと告げる公算は一番強い。ならば島田は折角自分が飯島に紹介した仕事が不慮の事故で頓挫したことで迷惑をかけたなら、そのことを詫びるという気持ちになっていておかしくはない。だったら島田が飯島に詫びの積もりで何かを送ってもおかしくはない。
 ただ問題は島田がもし私がサハシーとして記者会見をした模様をニュース映像で見ていたなら、郷田守=サハシーということを知っていよう。そして結局どちらにせよ、俳句仲間たちに対して死んだ郷田守が生きたサハシーと同一人物であることは通用しなくなるのである。またしもしただ単にサハシーと郷田守が瓜二つであるということであるなら、私は俳句仲間たちの前に以前の郷田守ということで現われることは出来なくなるのである。
 しかしあの時八重洲口で待ち合わせ時現われたのは飯島だけである。だから島田は郷田守の筈の男が金城悟であったと飯島が告げてもそれはその男がニセモノなのではないかと疑う可能性に賭けさえすれば、あるいは私が島田の前に出現しても私が「あの時少し後れて行ったら、先方(私は島田から飯島と名前を聞いていなかったので)が既にいなかった」と言い訳をし、しかもそれ以後多忙でそのことを報告することが出来なかったと言って白を切ることも出来よう。しかしその言い訳が通用するか否かは一重に飯島に対する島田の信頼の度合いと、親近度に依存する。島田が飯島と然程親しくはない場合のみニセモノが飯島と会った仕事の依頼を受けたという私の話しを島田が信じる可能性があるというに過ぎない。
 やはりその賭けをすることが危険だと私は思った。再び私は晴れて郷田守がサハシーであったと俳句仲間の前に現われる機会を逸してしまったのである。こうなると最早俳句仲間の前には一切出現することが私は自己を安泰にし続けるにはしないに限ると結論した。
 私はあの記者会見で俳句を作って生きていきたいと述べたので、もし彼らともう一度会いたいと思うならいっそ郷田守と瓜二つの沢柳静雄ですと述べて初めて会う人同士のように振舞って俳句仲間たちの前に出現することしかない。その際には死んだ郷田守は赤ん坊の頃から生き別れていた二卵性双生児であると偽るという方法もあると私は思った。それなら同じDNAを持った人間であり、同じ趣味があってもおかしくはない。しかしそれはまたあの時沢柳になりすまして飯島と出くわした時のように知人を前に替え玉を演じるようなものでありかなりストレスフルである。
 しかしそこまで考えてきて私は急に疲れが出てしまった。そして山田に
「このまま翻訳の仕事をされたいですか?」
 と聞いたら山田は
「ええ。」
と返答した。しかし今後いつかは郷田守が死んだ筈なのに、いつまでも以前島田の伝で得たクライアントたちや口コミで郷田守の翻訳が定評だからと言って続けていたら、いつかは島田にもその噂が広まって死んだ筈の人間がいつまでも翻訳をし続けているという風に理解され、そこに犯罪の匂いを嗅ぎつける人間が出現するであろう。
 そう思って山田に対して作り笑いをしながら今後その件に関して、そして山田の将来に関する処遇をどうすべきか思案し始めていた矢先、私の携帯の受信音が響き、私は山田に 
「失礼。」
と言って電話に出た。すると声の主は聞き覚えのある中年女性であった。
「お久し振りです。お元気ですか?」
という英語の響きが私の耳に入ってきた。私はすぐにサリー・フィッシャーの声だと分かった。私は電話のサリーに
「今、ちょっと来客中なので、後でこちらからお電話差し上げます。」
と言って、電話の向こうのサリーが
「分かりました。」
と言ったのを確認して電話を切った。そして再び山田の方を振り返りながら
「ところで今もずっと翻訳の仕事は詰まっているんですか?」
と聞くと山田は
「実はそれが去年の十一月くらい、だから丁度一ヶ月と少し前からぱたりと仕事が来なくなったんです。」
と言った。丁度島津が死んだ頃である。するとやはり郷田守=金城悟は死んだという風に飯島から島田や他の知人に知らされたということになる。しかし一人くらい郷田守の死去を知らずに依頼してくる人もいるだろうにどうしてだろうかと私は思った。
 しかしそう思った時もう一つ問題が噴出してきた。それは吹上と近田が島田から郷田守の死去を知らされていはしないかということである。しかしその憂慮はすぐに打ち消された。何故ならセレモニーの直後に私は吹上からのメールを受け取ったからである。勿論島田から郷田守の死去を知らされていてどうもこれはおかしいと私に対してどういう出方をするかを吹上が自主的に探りを入れる積もりで私にメールを打ってきた(私の記者会見の姿をニュース映像で見ていればそういう気持ちになることはあり得るだろう)という可能性もゼロではない。しかしよく思い出せば、島田と吹上は最初の京都吟行の際には多少会話があったが、それ以後あまり親しく話してはいなかった。だからそれほど親しくはない吹上に対し態々島田が郷田守の死去の話しをするだろうかと思った。第一あの句会の催し一切が須賀からの誘いであった筈だ。だが須賀にしてもいつかは島田から郷田守の死去の知らせが入るだろう。そうなると当然その知らせは吹上の耳にも入るだろう。そうなるといずれにせよ私は二度と俳句仲間の前に現われることが出来なくなってしまったのである。 
 そこで私は山田に 
「そうですか。それじゃあ、また別の仕事をそちらに廻すようにしますんで、暫くはシンガポールのマンションで待機していて下さい。」
と山田に言って百万円を包んだ包みを渡し
「これを当座の生活資金にして下さい。」
 山田が
「贈り物の件はどうしますか?」
と先ほどの私の飯島にタミフル入りのウィスキーを贈呈する話しを思い出し山田が聞いてきたので、私は
「いえ、その話しはまたにしましょう。」
と誤魔化したら、山田は
「そうですか。分かりました。」
とそれ以上追及しなかった。
 私はシンガポールでの紙幣のシンガポール・ドルとの換金方法を教えてから私は山田と別れた。山田が静岡駅から帰りは新幹線にすると別れしな言っていたが、それに乗るために去っていく後姿を見て、私はこの男は私に他意はないと思った。

 私は駅から歩いて十分くらいのところにある自宅のマンションに帰宅すると、早速サリーに返信をした。先ほど山田と一緒にいた時にかかってきた番号にそのまま連絡した。私の心は飯島を殺害しようかとさえ考えていたのに、山田が自分の影法師であることが、彼を郷田として飯島を殺させるということが事実的に不可能であるばかりか、万一それが山田の協力で実現したとしても、犯人にされる山田が実は自分と瓜二つであることから私に累が及ぶということも意味し結局飯島を殺害することは出来ないという無念が、しかしそれでよかったのだ、少なくとも自分が「正真正銘の」犯罪者にならずに済んだということだと無理矢理自分を納得させようとしているとサリーの済んだ声が聞こえてきた。私が
「先ほどは失礼、お元気ですか?」
と言うと
「ええ、元気です。ご勇退後初めてお声が聞けました。どうですかそちらは?」
と返答してから私に聞いてきたので私が
「それでご用件は何ですか?」 
と無愛想にそう聞いた。と言うのも内心私は自分の身元に関してこれからどのように他者に辻褄を合わせて生活していくべきか悩んでいたので、いくら少し前まで仕事仲間であった彼女から連絡があったからと言って、その親近的なモードに切り替える心の余裕をすっかり失っていたからである。
 サリーは
「それはたいそうご挨拶ですね。でも近くに来ているんでお会いしませんか?」
と言ったのでいきなり目が覚めた感じになって
「近くって、どちらからかけていらっしゃるんですか?」
と聞くと
「親しかった元執事のモリソンさんに私一度連絡したことがあって、静岡市のマンションにお住まいだとお聞きしていたので、静岡駅まで今来ているんです。」
と言った。私は驚愕してしまい
「また態々こんなところまでいらっしゃって、どういうことですか?」
と聞くとサリーは
「どうしてもお話したいことが御座いまして。」
と神妙な声で言った。私は元秘書で今は現社長の秘書でもあるサリー・フィッシャーが態々私を日本の自宅のある静岡駅に追いかけて来てまで話す必要のあることなど一体何だろうと思っていた。私は
「じゃあ、こちらからすぐですから、改札口のところでじっと移動しないで待っていて下さい。」
と言うと彼女は
「分かりました。」
と言って、私たちは電話を切った。私はすぐ自宅を出て駅まで足早に歩いて行った。すると私が指定した場所にサリーが微笑んで立っていた。私が彼女に近づき
「いつアメリカをお発ちになったんですか?」
と言うと
「昨日の夜です。」
と返答した。私が近くにある喫茶店(先ほど山田と入ったところとは別の)に彼女を誘って入ると、私たちは比較的空いているところへ向けて歩いて行き座ると彼女は
「私マイクの秘書を辞めてここに来たんです。」
と言った。私は俄かにはその意味を推し量りかねて
「えっ、辞められたって、一体何故?」
と尋ねた。これは何か尋常ではない。
「私たちは実は母子家庭なんです。娘と私っていうことです。六年前に離婚した夫は一ヶ月に一度私たちと会いその時だけ一緒に食事するだけです。」
と続けてサリーは言った。私が
「そんなプライヴェートなことを仰るためにここへ態々いらしたんですか?」
と怪訝な表情で問い質すと彼女は
「プライヴェートっていう意味では元社長だって同じじゃございませんの?」
と突っ張った態度でそう言った。私は彼女の真意を推し量りかねた。しかしその妙に納得出来ない私に構わずサリーは
「何か人には分からないことっていうのは誰にでもありますけれど、ある人にとってそうであることっていうのも別のある人からすればそうじゃないっていうこともありますわよね。」
 私は益々分からなくなった。しかし不吉な予感もしたのだった。
「あなたはある時からいなくなって、別の誰かを遣して、今度はその人を辞めさせて、また戻られましたよね。」
と彼女が言った時私は私が郵便局で郵送手続きをしている時にマイク・ストーンランドが私の携帯に突如連絡してきたことを思い出した。サリーは確かに私が山田を身代わりにしたてたことを直感的に見抜いていたのだろうとその時私はそう思った。
「あの方はあなたとは少し違うタイプでしたからね。恐らく現社長もジムもヒーリー現副社長も気づいてらっしゃったんじゃないかしら。」
とサリーが言った時それはある程度私が予想してことでもあったから私はそれほど驚愕せずに済んだ。と言うのももし私があのマイクからの連絡を受け取らなかったなら、あるいはそういうことを私が二年前に辞めて山田に交代した直後に言われていたならもっと驚愕していたことだろう。しかし私は山田を辞めさせてそれからもう一度職場に復帰していたから、復帰後の功績を彼女が讃えていてくれると思えばそれがいけないことであると知っていても尚私は「君も気づいていたか」などと笑って済ますことも出来たかも知れない。
 しかし彼女の目論見はそういうことではなかったのだ。そしてそのことが明確に私に理解出来たのは彼女の次の質問によってだった。
「あなたの本名がイサムだって知っているのは意外と少ないんですよ。どうしてだとお思いですか?」
 私はぎょっとした。遂に来たかと思った。と言うのも私はあの山梨県の山荘で殆ど沢柳自身の名前のことについては教えて貰えなかったからである。勿論勇というのが本名であることは彼から聞いて知っていた。しかしでは何故静雄と呼ばれているかということの方の理由を一切聞かされていなかったからである。確かに彼はイサムとは誰からも呼ばれていなかった。それなのにでは何故静雄と呼ばれていたかということについての知識を一切私は持ち合わせていなかったのである。だから私は必死に誤魔化そうとして
「でも、一体君はどうしてまた今更そんなことを言い出すんですか?」
それに対してすかさずサリーは
「今更って、いかにも全てお見通しみたいな仰り方ですね。」
 その一言で私は全てを悟った。この女は私が沢柳の替え玉であるということを知っているのだ。その瞬間まで私にとって最大の脅威は飯島であった。彼以外に私がその時沢柳ではないということを知る者は一人もいなかった。だからこそ私は沢柳然としてこうして静かな晩年を過ごせるとてっきり思っていたのである。
 しかしその一言が全てをご破算にした。
「私が静雄って名づけてあげたのよ。」
 私はその時既に一切の弁解をする余地をなくしただ呆然と彼女の言うことに意識を集めていた。そして彼女は静かに語り出した。
「私と静雄さんは深い仲だったんです。あの人がねサンタフェに事務所を立ち上げた時色々世話をしてくれた恩人は今あなたが付き添わせているライオネル・モリソンの父親のジュリアス・モリソンだったんですよ。そしてそのジュリアスが大事にしている姪がいるんですけれど、その姪がヴェロニカなんです。ヴェロニカはアイルランド系の父親とウェットバックのチカーノとの混血なんです。」
 私は狼狽していて喉がからからになっていたので
「一杯水を飲ませて頂けないかな。」
とグラスに注がれた水を一気に飲み干した。
 それを見ると再びサリーは話し始めた。 
「サハシーはずっとその恩人からの様々な義理的なプレッシャーに打ちひしがれていたんです。そしてイサムという名がどうしても厭になっていたんです。どうしてかって言うとジュリアスが彼の名前の名づけ親だったからです。本当はユキオ、日本語では幸せな男(幸雄)というのが本名だったんですけれど、渡米して会社を立ち上げる時多大なお世話になったジュリアスが自分の息子を何らかの形で採用して貰うことと、つまり彼の一番愛した若くして癌で亡くなった兄の娘を今際の際で兄から託された、つまりヴェロニカをユキオの妻にすることを条件で彼はユキオに融資したんです。その時ジュリアスが愛しているイサム・ノグチの名前を彼に改名させたんです。そしてそのジュリアスからの色々な懇意が段々イサムの重圧になっていったんです。そしてその頃から私は夫の浮気に悩んでいて、結局お互いの悩み事を打ち明ける内に私とイサムは自然と結ばれて、しかも彼がこのイサムって名前が嫌いだということで、私が静かな男だったから日本語の意味を調べて静雄という名前で二人でいる時だけ呼んでいたんです。そしてジュリアスは私とシズオが結ばれた直後くらいに脳梗塞で急死したんです。だからシズオはヴェロニカとはあまり愛し合っていないことを相互に了解し合っていたから、ジュリアスの死後結婚はしなかったんです。しかしやはり恩人の手前、彼はヴェロニカを捨てることも出来ず、私との仲を知っていたのは比較的モリソン家の中ではシズオの気持ちを汲んであげられたライノネルだけだったみたいです。尤もジムはどうか知らないけれど、マイク・ストーンランドは薄々気づいてらっしゃったみたいですけれどね。」
 彼女は全てを告白しながら少し深呼吸をして
「でもあなたはよくやったわね。」
と私の方に笑みを浮かべた。私はその言葉がある種の脅迫のように感じられた。しかし私の心の中にあるそんな動揺に構いもせずにサリーは再び静かに語り出した。
「あなたにもそのことは一切シズオは言わなかったでしょうね。いえ言えなかったんです。だから本当はシズオの理解者ではあれ、モリソンはジュリアスの息子ですからね、シズオは彼と共に同じ邸宅に住み続けることも厭になっていたんですよ。そんな時にシマヅさんをボディーガードとして雇って唯一心を許してきたんです。」
 私は最早言い逃れの出来ない状態でいた。しかし一つだけサリーさえ知らないことがあるのではないかと思った。それが沢柳と島津の死である。そこでそれとなくそのことについて聞き出そうと私は
「ところで私がいつ替え玉だってことに気づいたんですか?」
それに対してサリーは再び笑みを浮かべて
「あなたが私のバースデイにメールを入れてくれた時ですよ。」
と言った。私は思わず「えっ。」と叫びそうなのを必死で堪えていた。するとサリーは
「あなたがくれたメールメッセージが一度は深く愛し合った人同士にしては他人行儀な形式的というか社交辞令的な言葉の羅列だったからですよ。」
 私はプロの翻訳家であるからこそアメリカで何とかやり切れたのだが、寧ろここでそのことが仇となったのである。私は何故ヴェロニカを彼が私に宛がったかの理由もはっきりと悟った。そしてヴェロニカとてサハシーから私、私から山田に交代したことくらいとっくに見抜いていたろうが、それを敢えて問題化することなくうっちゃっていたことの理由もはっきりした。彼にとって疎ましい相手であるヴェロニカに対して、それでも彼の周囲の眼から追放することだけは出来ない孤独が彼を追い込んだ。そしてヴェロニカの正体を私は見抜けなかったが山田は見抜いていた。私以外の若い男性がずっと彼女の恋人だったのだ。私はその時改めて山田のある種の直観力に敬意を抱いた。そして利用価値と考えた自分を恥じた。
 私たちは粗方用件を済ませた男女、と言うよりどこか以前は親しかったのに(実際私はサリーと親しかったし信頼していた)今はすっかりさめてしまった男女のように喫茶店で私がレシートを持って行き代金を支払うと
「暫く一緒に歩きますか?」
と私はサリーにこれまでの友情が変わらずにあることを強調するかのように優しい口調でそう言った。
「ええ。」
と彼女は返答した。二人は店を出て繁華街を歩き出した。
 しかし私は一切肝心なこと、沢柳と島津の行方に関して彼女が認知しているかどうか確かめなかった。しかし一つくらい私は知っているのに彼女だって知らないことがあった方がいいと私は判断して敢えて聞き出さないようにしたままでいた。それに話しの文脈上私の代わりに島津が死んだこと、彼女の愛した男性が最も信頼していた男性を私が死に追い遣ったと思われることは私にとって得策ではない。だから私とサリーとの間にこれから何が起ころうとも、このことだけは一切彼女の前では黙っていようと思った。このことは一切私以外の者が知っていてはいけないのだ。しかし私は男として聞いておかなくてはならないことがあったので聞いてみた。
「私はあなたに一回も手を出さなかったですけど、失礼な質問になるかも知れませんが、サハシー本人はあなたをずっと愛し続けられたんですか?」
 すると彼女は
「いい質問をなさるわね。私たちはジュリアスが亡くなった頃からやはりこういう関係がよくないと彼が言って終っていたんですよ。」
 彼女はしかし次のように続けたのだ。
「でもあなたの演技は完璧だったわよ、と言うよりあなたは誰よりも世界中で一番サハシーに似ていた。あなたの次の人も私は嫌いじゃなかったけれど、サハシーとは似ても似つかなかった。」
と言った。すると
「あなたが完璧だったのはあなたが友人の少ない方だからじゃないかって私は思ったんですけれど、そうじゃ御座いません?」
と突拍子もないことを言った。私は彼女の顔の方を向いて頷いた。彼女は更に続けて
「あなたの後の人はあなたにはきっと似ていらっしゃるんでしょうね。」
と言った。二人は自然と繁華街から離れて、あまり人通りの少ない通りの一角に佇んでいた。私はその時この女がまるでサハシーが死んでいることを前提にしているような話し振りに気がついていた。
そうだ、この女は沢柳が私に送信したあのメールを読んでいたのかも知れない。沢柳が生前彼女にスペアキーを渡していたらそれも可能だ。あるいはサハシーはずっと彼女を愛していて、彼が死んだ時に彼女にそれを知らせるメールが届くように取り計らっていたのかも知れない。しかし今目の前にいる女は知らないようにも見える。
もし沢柳の死を知らないままでいて、しかも私に近づいているのであれば、彼女にとっての沢柳という元恋人の存在は今はそれほどでもないのだろうが、それにしても私に接近してきたということの真意は私の財産目当てなのだろうか?私よりも長い勤続期間であった沢柳の元に走った方が得だと思わないのであるなら、私に対してそれほど魅力を感じていたのだろうか?そんな筈はない。私は全くそういう魅力で彼女に接していたことは一度もなかったのだから。ならやはり彼女は沢柳の死を島津から伝えられるとかで何らかの形で知っていたことになる。
 私は徐々に近づいてくる彼女の熱い息を顔に感じながら何度もそういう風に考えを巡らせた。

 彼女の息遣いが決して義務的な接近であるようには思えないくらいに自然に私の頬を伝った時、私は永遠に金城悟を葬り、私が替え玉であることを確実に知る唯一の女(ヴェロニカには私はアメリカを去る時多大な慰謝料を支払っていたし確実にそのことを知れるわけではない)と生活をこれから共にしていかなければならないのかと思った。そして彼女の内面にだけ知られているが、対外的には私は沢柳静雄として永遠に生きていかなくてはならない。それも運命なら受け容れるしかない。それがサリーには黙ったままでいる私の身代わりに犠牲になった死者である島津と沢柳への生者からの敬意であるとも一瞬私は思った。
 
 そう思った瞬間サリーは溜め息のようなものを私に吹きかけてきた。今隣りには潤んだ瞳で私の腰に手を廻してきたサリーがいる。
(了)


 付記 これで「共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性」を終了します。この後暫く休暇を置いた後「退屈な村」を掲載更新していきます。(河口ミカル)

Thursday, November 26, 2009

<共犯者たちのクロスロード・偶然の虚構性>㉒


 
 しかし私が一切を捨てて、つまり金城悟としてのこれまでの一切を捨てて元スカイスレッダーのCEОを十余年勤続してリタイアした名誉ある称号を手にすることが最も合理的な判断であることを私にまざまざと自覚させてくれる一通のメールが私に届いたのである。しかもそれは飯島さえ殺せば、恐らく例の俳句仲間たちにも先にも述べたようにあまりにも重大な社会的地位であったが故にこれまで郷田守として振舞って皆と接してきたという言い訳を自然なものにするに足る内容だったのだ。
 そのメールの文面は次のようなものだった。

 前略 沢柳静雄様
 
 私は沢柳静雄です。このメールは遺書でもあるのですが、この遺書を開くこと自体があなたにしか出来ないように私は計らったのです。
 しかしこの手紙が届く頃には私はこの世にはいません。しかも恐らく島津もこの世にはいないでしょう。何故なら私が死んだ場合独身であった私の遺産は全て島津に行くように私はしていたからです。
 私が莫大な財産を築き上げあなたがCEОとして私の後を引き継いだ時点であの山梨の山荘であなたに話した通り、私はそれまでの十余年勤続してきたことの報酬としての財産を別口座に移しました。そして私が死んで、しかも島津が死んだ時このメールは自動的にあなたの下へ送られることになっているのです。つまり島津のたった一人の私以外の話し相手であった彼のフランスにある邸宅の執事がこのメールを添付送信してくれるでしょう。つまり彼島津は一週間自分の邸宅に帰宅しない場合のみこのメールを送信するように執事に言いつけてあったのです。
 しかし私はあなたにこのメールを読んだら、即座に消去して欲しいと思います。何故ならこのメールを盗み見る者がいるかも知れないからです。このメールを読んだ者のみが沢柳静雄です。
 しかし私は最初に私を引き継いでくれた人を信頼したいと思います。ですから逆にこのメールを見た人が三人目の沢柳静雄であるなら、最初に私を引き継いだ人はあなたによって殺されているのでしょう。しかしそれはそれで仕方ないでしょう。私は最初に私を引き継いでくれた人が一番好きですが、それより後に引き継いだ人がこのメールを見るのであれば、その人は最初に引き継いだ人よりも頭がいいということになります。私はこのメールが誰であれ一番頭のいい私の引き継ぎ者にのみ読んで頂きたいからです。そうすることによって私の命は少なくともあなたが生きている間は命脈を保ち、私が私を離れて長い寿命を維持する業績になります。あなたの業績は私の業績であり、私の業績はあなたの業績ですし、またあなたの失敗は私の失敗であり、私の失敗はあなたの失敗です。もしあなたがあなたの失敗のない業績をあなたの死後も永続させていきたいのなら、あなたも私が取ったのと同じ方法を用いることです。
 私にとって最大の友は島津でした。しかし島津は私と背格好は似てはいるものの、顔が似ていません。このメールを見ているあなたは恐らく似ているでしょう。似ていなければ似ている人に送られる筈だったこのメールが最初の人かその次の人であれ、私に似たある人よりも更に頭のいい人なのでしょう。
 私の、そして私が死んだ時点で島津の財産となった莫大な遺産の全てはこのメールがあなたに送信された時点であなたの口座に振り込まれるようにしてあるのです。ですからこのメールを読んだら即座にこのメールを消去して頂ければ幸いなのです。

草々 沢柳静雄

 このメールを読んで、そこにはただの一言も私の本名も書いていないということはある意味で私が犯罪に加担したということを隠蔽する意味での思い遣りではあるものの、そうではないとも受け取れた。もし私自身がダミーであるということを懐疑的に嗅ぎ取ったストーンランドかクラーク(彼らとヒーリーがスペアキーを持っている)が私になりすましてこのメールを開いた場合、彼が理性的に「いけないことにした。見なかったことにしよう。」と思って、一切私の財産に手をつけないでいる場合のみ彼らは私をどうやって告発しようかと思案することだろう。何故なら彼らがこのメールを盗み見る段階で既に彼らは私を懐疑的な目で見ているからである。
 しかし人のパソコンが受信したメールを盗み見ることはそれ自体犯罪である。従って替え玉CEО自体が犯罪であると知っていても、盗み見という犯罪をしたことで彼は長年のキャリアを棒に振ることを選択することはないだろう。もしそれでも私を告発しようとすることはあっても、自分の私腹を肥やすことなどないだろう。それは恐らく中間的な意味で理性的な人間である場合である。もっと極悪で非理性的な人間であるなら、その者は私を消そうとするかも知れない。しかしそれほどまでに非理性的な人間がこれほどの会社におけるCEОの書斎に入ることが可能な状態へと自らを誘導出来るだろうか?
 勿論最初に盗み見をした時点で彼は完璧な理性者ではない。だから彼らがまさに真に理性的であるなら、一切このパソコンを盗み見ることはしないし、仮にその時だけ魔が差してこのメールを盗み見た場合(真に理性的な人間に次いで理性的である場合)でも、文面から私が沢柳から信頼されていたということを知り、その友情に水を差すということを、少なくとも沢柳自身に対する敬意がある限りする筈はない(尤もそれは後で述べるが、この文面がジョークではないと確信し得る限りではある)。しかし同時にこのメールを盗み見た者が私以外の先に挙げたクラークかストーンランドだったにしても、他の何者であったとしても、その時この文面から私自身が最初の沢柳からの引き継ぎ者であるとその者は如何にして確信し得ようか?私が三人目の沢柳ではないという確証が、あるいはもっと四人目の沢柳ではないという確証があると言えるだろうか?
 要するにそれは沢柳に対するこのメールを盗み見る者の忠誠心と、信頼心と、私に対する信頼に依存する。つまり私が本当の沢柳であるか、あるいはこのメールの文面の意味するところが、自分が自分に当てて書いたメールではないという通り一遍の解釈ではなく、まさに自分が自分に当ててジョークでこのメールを送信し、受信したと受け取る(そのケースは大いにあり得る)場合のみその者の私に対する信頼心は私が本当の沢柳であるという確信へと直結するが、逆にこのメールの文面がジョークではなく真理命題的に真であるとその盗み見者が信じた場合、私が最初の沢柳からの引き継ぎ者であると確信する場合のみ私自身に対する信頼心と忠誠心は私が本当の沢柳であると確信する場合(つまりこのメールをジョークであると受け取る場合)に次いで大きいと言える。つまりその者は私に対して私が本当の沢柳であるということに次いで信頼度の大きい最初の引き継ぎ者であるという確信へと直結する。しかしこのメールを受信しているこの私が実は最初の引き継ぎ者ではない可能性への考慮をこのメールの盗み見者が抱いた場合、その盗み見者は私を告発しようとするかも知れない。そしてその者の抱く私への信頼心と忠誠心は希薄であると言えよう。またこのメールが自分で自分に当てて本当の沢柳へと送信して受信したと受け取った場合、その者は恐らくこれから私が実行しようとしているように、私の口座を確認することなどないだろう。
 しかしもし仮にこの文面を読む者が、私が本当は最初の沢柳からの引き継ぎ者か、それ以降の三番目以降の引き継ぎ者であると確信した場合(その場合私自身に対する忠誠心と依頼心は著しく低いということになる)、私の口座を確認しようという欲望を抱くことになり、それを何とか抑制するか否かはその者の理性の度合い拠る。
 しかしその盗み見者が、ダミーがダミーに、つまり自分が自分に対して送信して受信したジョークであると受け取る場合、私の口座を確認することなどないに違いない。しかし私を告発する気にはなるかも知れない。そのケースもないとは言えない。
 しかしである。クラークかストーンランドが盗み見という魔が差したとしても、彼らは既に私ほどではないににせよ、莫大な財産を築き上げている。そんな私の口座を確認するなどという暴挙に出るだろうか?蓋然性は低い。しかし一旦魔が差した人間というのは、留まることを知らないで暴走するという場合も皆無ではないだろう。私はこのように次々と沢柳の真意に対する憶測と、あり得る可能性を考え尽くしたのだった。
 何故そうしたかと言うと、そう考える内だけはあの忌まわしい飯島の処理のことについて思い巡らす必要がなかったからである。
 私があれこれそのように考えていたことの理由には、ストーンランドとクラークが自分にとってどれほど信頼のおける人間かという問いがあったからである。そもそも私が亡き沢柳からあのようなメールを貰ったということは、今現在このサンタフェの邸宅の書斎にいるからである。それはとりもなおさずマイク・ストーンランドが私を引き戻してくれたからである。それは私に対する信頼心が強いということの証である。しかし同時に私がいつまでもCEО職に留まっているということがただ単に気に入らず、私を本心では早くリタイアさせたいと願っていたからこそ、私から好印象を得たいがためにあの時私に携帯で連絡してきただけなのかも知れない。そう考えると、山田よりも私の方がより自分に対して寛容ではないのかと推測する辺り意外と策士だったのかも知れない、と私は思い始めもした。あるいは私に対しては普段無愛想な方であるジム・クラークだが、私からの引き継ぎに対する執心もなくあっさりと自分の財産で別の会社を立ち上げるという意味では、ずっと下心はなかったのかも知れない。しかしメールが届くのが絶好のタイミングだった。
 しかしそうこうする内に私とストーランドと、クラークに対するそれぞれの門出を祝うセレモニーが近づいてき、その日になった。
 サンタフェで一番大きな教会を借り切ってセレモニーが行なわれた。
 私は数日前、亡き沢柳から振り込まれた私の口座(ケーマンとスイスの)を密かにレオナルド・岸田に命令して調べさせたら、私は大金過ぎて資産査定をして貰わないことには一切どれくらいのお金が入金されたかさえ分からなかった。岸田によるとどうもアラブの石油王沢柳静雄からの贈答という形で振り込まれていたと言うから、あのメールは嘘ではなかったことになる。どちらにしても、あのメールは私にとっては嘘ではなかったのだ。しかし岸田はそれを私のジョークと受け取っていた。
 そしてそのセレモニーは危うく一命をとりとめたジムの弟のダニエル・クラークも出席したし、各界の実力者、文化人、芸能人、アーティストらが招待された。勿論エディー・レンディーも来た。
 私はエディーと立食パーティー形式の前夜祭(セレモニーは一昼夜行なわれた)でレンディーと顔が会った時、この前開かれて、島津が亡くなる不運に見舞われたアフリカ某国の教会設立落成記念のセレモニーに参加出来なかった非礼を詫びた。エディーは
「まあ、お互い忙しい身ですから、仕方ないでしょう。」
と言ってから私に
「ところでこれからはどうなさるお積もりですか?」
と尋ねてきた。私は
「今日の夕方隣の会館で行なわれる記者会見で発表致します。」
 と返答した。その後でレンディーは飛行機事故のことを沈痛な面持ちで遺憾の意を表明した。自分にも幾分責任があるかのような口調で
「折角の記念式典でああいう悲劇が起きてしまって、何ともやりきれない思いを私は禁じ得ません。」
 と言った。結局あの日、殆ど陽気な記念式典ではなく、半分亡くなった方々に対する鎮魂のセレモニーとなってしまったのだった。しかしその記念式典以降、あの国では確かに食料需給もレンディーの力添えで徐々に達成されていって、そのことは大きく連日取材されていた。
 私は早くから記者会見で何を言うか既に決めていた。
 つまり私は沢柳の私に対する信頼心が本物であることが了解出来たことにより、記者会見では沢柳が生きていればこう言うだろうということに忠実に沢柳になりきって、あるいは沢柳の魂に代弁して喋ろうと思っていたのだ。私は沢柳の代弁者であるという意識が私の中にある不浄な犯罪的心理を一時和らげた。
 あんなメールを送信してきて、しかもそれと同時に莫大な財産を私に振り込んだサハシーはある意味ではあのメールを誰かに読み取られてもそれがジョークであると思わせる仕掛けを思いつくほど頭がよかったと同時に私に対する信頼が厚かったということである。私は一時でも沢柳に対して疑念を抱いていたことを恥じた。
 そして山田に飯島の処遇をどうさせるかという思案が私の心の中で中断された時私は記者会見場にいた。多くのテレビネットワークのマイクが目の前に林立する記者会見場でのデスクに腰掛けて、私は司会を務めることになったサリーの挨拶の言葉を待った。
暫く待っているとサリー・フィッシャーが演壇に立ち
「これから我が社の社長で、ミスター・シズオ・サワヤナギ、サハシーとして親しまれた氏が今回勇退が決定して、今後の抱負と、今までに行なってこられた事業に関する見解をお聞かせ願えることとあいなりました。」
 と賑々しく挨拶をしたので、私は最初にスピーチを行った。
「私がこの社の前進であるスカイカヴァー社を創業したのが今から十八年前で、その社を現在の業務内容である、ポータルサイトビジネスと検索ソフト開発、そしてウェブデザインコンサルタントビジネスに転換して以来十六年間私はこの社に貢献して参りました。しかしこの業界では私のような五十代男性というのは老人に近く、かのミューズソケット社のエディー・レンディー会長もまた、今氏は私どものセレモニーにご出席されていますが、現在は慈善事業家としてご活躍なさっています。私はこういう風に世代交代が激しいということ自体を憂慮する気もなければ、今後私どものCEОに就任されるマイケル・ストーンランド氏に何か提言のようなことも一切致しません。そもそもこういう風に一人の経営者が去って、別の人が経営を担当するということ自体はいいことなのです。」
 私は暫く社を立ち上げてからあった色々なことを、前日にネットや書斎に置かれてある資料を手掛かりに内容を考えていた通りに話した。そして当然私自身が担当したズームアップ社やシューズデザイナー社との提携や、K社との提携に関しても、さりげなく(あまりそればかりを強調することなく)述べた。そして続いて
「しかし私は勇退後、レンディー氏のように慈善事業をしていく積もりはありません。私は物資提供とか教会設立も素晴らしいことだと思いますが、私に向いた日本の俳句を作って参りたいと存じます。」
 と自分自身の願望をそのまま告げた。つまりこれからは私が沢柳静雄を演じるのではなく生きるのである。
 そして記者たちが色々な質問をしたが、幸いあまり私が引き継ぐ以前の質問はあまり出なかった。出てもあまり詳細に聞き出すようなものではなかった。勿論そういうことがあったとしても動じないように常に私はこのビジネスに関しては準備万端で臨んでいたのだ。
 この記者会見が仮に日本で放映されたとしても私は俳句仲間たちには既に述べたように郷田守の方が偽名であったと告げることにしていた。伊豆倉がその映像を見たって、それがどうしたというのだ。事実私が沢柳と瓜二つであり、更に山田もそうであるという偶然が世の中にはあるではないか。
 しかし飯島だけは私をフリスコで目撃しているのだ。
 しかし私はその日は私に花を持たせるために私の後にマイクがスピーチすることは計画の中になく(後日設定されていた)、飯島に関する苦悩を忘れて、パーティー会場に記者会見を終えてから戻り楽しむことにした。それが沢柳に対する私からの供養だと思ったからだ。そこには内外の政財界の大物、大リーグの選手やCFに起用された日本の各界のスポーツ選手、あるいはアメリカの上院、下院議員たち、あるいは日本の政治家も大勢招待され出席しいていた。
 夜中の二時頃までパーティーは続き、その後自然に散会となった。私は邸宅に待機していてくれたトムの運転で戻り、少し酔ってふらふらする目を擦りながら、個人用のパソコンを開いてメールチェックをした。すると吹上からメールが届いていた。内容は、彼が発起人として須賀、桑原、島田を除いて今度近田と私と三人で一回京都を吟行してから独自の句会をしていかないかという誘いであった。
 私はいずれにしても日本に帰国する積もりだった(山田にも替え玉郷田守の今後のこともあるので会わなくてはならない)ので、快諾する旨を返信した。
 私は急に京都で共に歩いた彼らが懐かしくなった。ほどなく又会えるだろうと思った。
 私はその一ヶ月後、つまり再び秋も暮となった十一月初旬、つまり最初に須賀から来たメールでの誘いに応じてから一年が経っていたが、その頃まで残務整理と、邸宅に置かれてある資産の整理に費やされた。例の私が精魂を込めて作っていた盆栽は、私の指示によって山田時代にも引き継がれて作り変えられていたが、私の代に戻って再び修正したものであり、それを庭師のロジャースに別れの記念に差し上げた。
 そして翌日に帰国という段になって、トムとビルとサリーとヒーリーだけで一度送別会を植物園の一角にあるコーナーを借りて、植物園の園長や、私がよく行った教会の牧師たちを招待して行なうことになった。あの時は山田に引き継がせたので一切別れを告げないで海外旅行に行き、その後シンガポールに移り住んだが、本当に今度は日本に帰国することになったのだ。しかも沢柳静雄としてである。
 結局再び山田からバトンタッチして四ヶ月と少しサンタフェの邸宅と本社で過ごしたことになり、私にとっては一年三ヶ月とそれを足すと約一年七ヶ月のアメリカ滞在だったことになる。
 最後の送別会では普段私は書斎に閉じ篭ることが多く、それ以外の時間はオフの時は植物園か教会に出掛けていたので、顔は見かけたことがあったのだが、殆ど交流がなく時折地元の自治会等の書類にサインすることを求められて話す程度だった執事であるアイルランド系のライオネル・モリソンと一番長く談話し、彼が日本贔屓であることを知り、何ならここを辞めた後の仕事の世話をしてあげようと言ったら、是非日本に、しかも京都へ行きたいと言い出した。そこで私は彼を連れて帰国することにした。当分の生活の面倒くらいなら見られるし、何なら秘書として雇ってずっと日本に置いておいてもいいとさえ思った。サンタフェの邸宅は不動産が売り出し、スコット・ヒーリーが副社長に就任するに伴って彼が買い取り住むことになった。マイクはサクラメントに妻子と大邸宅を持っていて、いつも私用ジェットで個人のパイロットを雇いサンタフェまで来ていた。サンタフェ近くのホテルを利用して徹夜続きの時などは帰宅していなかったために、今まで以上に忙しくなるのでサンタフェの郊外に私邸をもう一つ購入することにした。やはりサンタフェ郊外にアパートを借りていたジムはニューヨークに移り住み、市内に会社を立ち上げることになった。岸田もトムもビルもサリーもそのままマイクお抱えとなった。マイクたち新経営陣の記者会見は私の帰国後行なわれた。
 私は送別会の翌日にロスまで最後にトムに送って貰ってトムに別れを告げそこから飛行機に乗って日本に帰国した。私は暫く新宿や池袋のホテルを泊まり歩き、連れてきたモリソンに不動産に行って貰って(彼は日本語が堪能だった)、一ヶ月以内に部屋を売り出し中のマンションを購入して貰い、しかし金城悟としての私の身元を知る人の殆どいない静岡市に居を構えることにした。

Friday, November 20, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>㉑

 今回は初めて新幹線で京都へ行った。本当は前回もそうすべきだった。何故なら島津と山田に会うことで殆ど吟行そのものに神経が集中することなどなかったからだ。その証拠に今ではその吟行でどの寺や神社に訪れたか全く思い出せないのだ。しかしその前は最初に訪れた時に三泊二日の学生旅行的気分だったからこそ、須賀が紹介してくれた面々と久し振りに生きた心地の旅行を味わえたのだ。だから二度目も京都に到着する前日の夕方以降に成田に到着する便でシンガポールから旅立ったのだ。しかしその時は流石に私は学生旅行の気分を思い出す心の余裕などなかった。それもその筈である。私の策略が配下の人間であるマイクにだけはとっくに見抜かれていたからである。その時現在で私から山田へのチェンジを知っていたのはマイク・ストーンランドと島津、そして薄々勘付いていたのがサリーだった。勿論そのことを山田は気づいてもいないだろう。つまりそういう山田の鈍感さを私は最初に見抜けなかったということがある意味では私の最大のミステイクだったのかも知れない。

 京都駅に新幹線で到着して広隆寺へタクシーを飛ばして門の前で降り本堂へ向かった時には大分蒸し蒸ししてきていた。私はメールの文面に∧この前みたいにサングラスをかけて来い∨と命じた。すると既に私よりも先に彼は弥勒菩薩の前に佇んでいて、私の方にちらりと目をやると少し微笑んだ。こういう風にいつも先に来ているところがなかなか礼儀のある奴だと私は思った。
 山田は
「どうもお久し振りです。あれから丁度一ヶ月ですね。」
と言って私に握手を求めた。
「今回は川上支社長のところにも行ってこられたんですか?」
と私が聞くと山田は
「いいえ、今回は沢柳さんにお会いするためだけです。」
と山田は言った。私は彼を本堂から出てあまりひとけのない一角へと誘い出しながら
「単刀直入に申し上げたいのだが、あまりあなたの決裁の態度とかでの評判がよくないんですよ。」
と言うと山田はやっぱりそうだったのかというような表情を浮かべ
「やはりそうでしたか。」
と項垂れるようにして溜め息をついた。
「そこでどうだろう、今後もずっと引き続き替え玉を演じていく積もりですか?」
と聞くと山田は私があるいはと想像したのとは逆に
「いいえ、私にはもう殆ど耐えられないんですよ。こんな仕事。どんなに高額の報酬を頂いたって生きた心地がしないんですから。」
と私に泣きつくような態度を示した。この時私は決心したのだ。もう一度私が沢柳に成りすまそうと。
 山田が縋りつくような表情でこう言った。
「今後の身の振り方を真剣にここニ、三ヶ月考えていたんです。」
私は山田のその言葉を受けて 
「じゃあ、これからはあなたに代わって貰って一旦秘密のリタイアをした後の私の替え玉となって生きていって貰うかな。」
と言った。
「沢柳社長は今どういう名前で生活されているんですか?」
と山田が質問してきたので、もうここまできたら、彼に私、つまり翻訳家、郷田守として入れ替わって貰うより他ないと悟ったので
「郷田守と名乗っているんですよ。」
と教えた。
 彼がどんな字ですかと尋ねるので私は水郷の郷に田んぼの田で守りに入るの守るだと教えた。それから私はシンガポールの住所と私のマンションに置かれてあるパソコンの操作方法、翻訳業務のいろはとこれまでの仕事上の経緯、郷田守としての俳句仲間や翻訳業務でのクライアントの情報を事細かに教えた。しかし俳句の句会の誘いにはどんなに仕事が暇でも決して参加せず、仕事が忙しいので欠席するように命じた。俳句だけはそう簡単に私の作風まで真似て他者を誤魔化すことなど出来はしない。ヴェロニカを引き継がせるよりもそれは大変なことなのだ。
 私は山田に更にこれまでの山田による決裁の色々を教えて貰った。と言うのも私自身その頃では殆ど翻訳業の方に忙しくスカイスレッダーの私が降りた後の成り行きに疎くなっていたからである。 
 山田と話しながら腕時計を見ると既に四時近くなっていた。私は山田にシンガポールでの生活上で注意すべきことを何回も念を押して、予めメールで指示しておいた通りに彼が持ってきたパスポートと自分が持っている郷田守としてのパスポートを交換した。山田とはそのまま広隆寺を出たところで別れ、山田はタクシーでそのまま大阪国際空港に直行しシンガポールに向かい、私はタクシーで京都駅まで行き、そこから新幹線で東京まで再び戻り、久し振りに川上節夫(尤もそれは金城悟による替え玉としてであって、向こうにとってではないが)に日程上の調整のための会議に出席するために所沢まで西武新宿線の特急「小江戸」の乗り二駅目の所沢で下車した。

 それにしてもここ数ヶ月須賀から来たメールで秋の京都を歩いた時から暫く吹上他の俳句仲間、あるいは句会の後島田を通して得た翻訳の仕事での兼杉や飯島といった人たちとの間で取り交わされた交流や人的ネットワークや本当のところ今は亡き沢柳の怨念や島津の忠誠心に心を多少掻き乱されながらの日常から今度はいきなりそれより一年前まで遡る全く異なった人的ネットワークへとひょいと乗り移ることは、それをするまではどこか心の中に不安を感じざるを得なかったものの、案ずるより生むがやすしで、私はすっかり所沢駅を出て日本支社にタクシーで向かった時には沢柳の気持ちにシフトしていたことは不思議だった。
 とは言うものの、私自身は「大丈夫だ、俺は山田とは違ってオリジナルなコピーである」と言い聞かせていたが、本当は山田からまた替え玉の面子が替わることで周囲に不協和音を立てるのではないかと懸念したが、その心配をよそに川上も、相川も、友部も、島村も寧ろ以前よりも私に対する接し方はよかった。その証拠に私が例の古めかしいマンションで夕食を友部の作った料理を食べた後、相川と共にマンションのテレビで十時頃ニュースショーを見ていたが
「以前の溌剌とされた社長の意気が戻ってきたようだって、川上支社長が仰っていましたよ。私もそう思います。」
と私に囁いたのだ。
 いよいよ明日は予め山田が用意させていた自家用ジェット(アメリカ国内ではそれを利用すると国民に非難されるから避けていたが、今回のような臨時の帰国(山田にとって)の場合には帰路は調布の飛行場から飛び立つことが多かったのだ)でアメリカのサンタフェまで行くのだ。一年数ヶ月前までのあの目まぐるしいビジーネスがまた私に戻ってきた。
 私を最も感動させたことというのはサリーがとても喜んでくれたことである。とは言え他の社員にとってはいつもと変わりないことなので、彼女は瞳だけでそれを私に示した。その時ふと私は島津が一切を沈黙したままでいたと言っていたが、本当は全てをサリーは理解し私から山田に交代したことも気づいていたのではないかとその笑みを見て思ったのだ。しかしその時はまだ私には想像の域を超えていなかった。
 しかし沢柳がこの事業を立ち上げた時と大分事情が変わってきていたというのが私の実感だった。ポータルサイトビジネスも、検索ソフトの開発にしても、最も需要の大きなコンテンツとは地方向けの利便性だったのだ。確かにITビジネスが最初に世界を席捲した頃というのは、世界中を一挙に駆け巡る情報という観点だった。そしてそれは今でも変わりなく需要があり続けている。しかしそれ以上に重要なことは自分が住むエリアでの細かい情報である。例えば態々遠くまで出掛けなくても近場で済む用事を多く作ることで時間を節約するということが現代人にとって必須の生きる知恵だからだ。その分空いた時間と金銭的余裕が逆にオフの時間のより充実したリッチな生活を保証するということこそスカイスレッダー社の今後のスタンスの取り方だったのである。その観点は幾分山田にもあったものの、私が再開した替え玉CEО職においてはより充実させていった。
 瞬く間に私が密かに返り咲いてから二ヶ月が経ちそろそろサンタフェも秋の装いが匂い立ってきていた。私はそろそろ五十の坂を上る年頃になっていた。私が替え玉CEОに着任した時には48歳だったが、50になるその年の秋私は「本当の」沢柳静雄のリタイアというものを考え始めた。あのエディー・レンディーさえ五十少しでリタイアした。この業界で40歳でも最早老人であると言われるビジネスで私は予想以上も長く続けてこられた。この年齢のことを考えた時沢柳が私に後を継がせる気になった気持ちも理解出来た。勿論彼は私と同年齢くらいだったが、私の場合彼の敷いたレールに乗っかっていればそれでよかった。創業者には創業者にしか分からない労苦というものがあるのだ。しかもサハシーが立ち上げた当時のビジネスの常識と、その頃の常識は先にも述べたが全く違ってきている。しかしだからこそサハシーは自分の名前を後世に残したくて私をダミーにして密かにリタイアしたのだ。だから私はその意志を継いで、山田があまり芳しくない評判のまま終らせるのではなく、一定の評価を得ていた私による采配によってサハシーに名誉あるリタイアをさせてあげなくてはならない。それが私にとっての影武者なりの誇りである。
 事実社内では既に私よりも九、十歳若いマイク・ストーンランドを後継に推す声が大部以前から上がっていた。私より五、六歳若いジム・クラークはかなり以前からマイクが社長に就任するのを機に独立することを考えていたようだった。結果的には全くその通りにほどなく落着することとなったのだが、それより前に私にとって第三の人生に邁進するだけではなく、決定的に第二にも第一にも一切回帰することが不可能になる事件に遭遇したのである。
 私がジムに自分の後を継いでくれないかと相談した時、彼の出した案は副社長に川上節夫、スコット・ヒーリー、日本支社長には相川というものだった。私は快諾した。全員私のよく知るメンバーであったからである。ヒーリーの後釜には顧問弁護士のレオナルド・岸田を私が推挙したら、マイクも賛同してくれた。そのことを会議で承認を得るために私たちは全ての経営陣の関係者を集めて臨時会議を開いた。そしてマイクが私の後を引き継ぐということは満場一致で承認された。そしてその際にジムは独立することを会議の際に宣言したのだ。
 全て後継のプランが会議で承認され決定された翌日午前中、来賓室にその日は一切来客がなかったので、借り切って、二人で来賓用のコニャックを飲みながらサリーの運んできてくれたオードブルをつまみながら、来賓室の大型画面の薄型液晶壁型テレビで大リーグ野球の試合を見ていたが、ニュースの時間になったのでチャンネルを換えて暫く二人は話しを中断させた。
 ニュースでアフリカ某国の自家用ジェット機が墜落したニュースをサンタフェの地方テレビネットワークのニュースで女性アナウンサーが読み上げた。その時ほどそれまでの私の人生で大きな衝撃を受けたことはなかったと言ってよい。何故なら私の本名である金城悟、つまりサトシ・キンジョウがその乗客にいたということだったからである。
 私はそれよりも数日前島津から、いよいよ教会落成記念式典のセレモニーミュージックをダニエル・クラークが作曲担当して指揮し、VIPが沢山招待されたそのパーティーの模様を取材することを私に代行するための最後の打ち合わせのメールを送信されていて、私はそれに対し、こと細かに指示し、色々なノウハウを伝授する内容を返信していたので、その日が記念式典の日であることを知っていた。私が飯島から承った内容によるとその教会はとても車で行くには時間がかかり過ぎる奥地なので、その国の中央空港から自家用ジェットで記念式典に参加する客を何回かに分けて運ぶというものだった。島津は山田が招待されるのではないかと言っていたが、幸い私にも実は招待状は来たし、作曲家の兄のジム・クラークにもマイクにも当然招待状は来たのだが、その日午後から重要な会議があったので全員参加できない旨を主催者のレンディーに伝えていたのだ。
 しかしレンディーは幸い別の便に搭乗していたし、ダニエルもそちらの方だったので、大丈夫だったが、気の毒なことに島津ら取材関連の人間は皆墜落した飛行機に乗っていた。
 そのニュースが報じられた時マイクはエディーやダニエルが大丈夫だったことをしきりに喜んでいたが、私だけは違った。勿論その時オードブルの追加を運んできていたサリーもマイクと同じ反応だったが、私も外見上ではそう装っていたが、島津が身代わりになって本来だったなら私が飛んでいたかも知れないジェット機に乗って遭難したのだ。そして私はその時名実共に金城悟としての人生に永遠に別れを告げなければならなくなったのだった。
 アナウンサーはすぐに次のニュース原稿を読み上げていた。
 そしてマイクが
「いやあ、よかったですね。レンディーさんたちが助かって。レンディーさんのような世界的な財産である天才実業家やダニエルのような世界的作曲家がそう簡単に死なれては世界の損失になりますからね。」
 確かに理性的に捉えればそうである。一度は敵対もしたが、ミューズソケット社の創業者であるエディー・レンディーがいなければ今頃世界はもっと不便だっただろう。そしてこの生き馬の目を抜く業界という奴は常に敵と味方がまるで戦国時代のように入れ替わることが茶飯な日常の連続であり、その連続に耐えられない奴は脱落していくだけであり、一度脱落したら誰も顧みない。忘れられた方が楽だと一年前は私もそう思っていた。しかし再度返り咲くと再び未練が擡げて来る。
 しかし私が山田を今後も利用出来るのではないかとあの時広隆寺で密かに内心愉悦に浸っていた時、山田には悟られないように悪の華を私は咲かせつつあったのだが、その悪を引っ込めるには不可能な地点に私は来ていた。私はそのニュースが報じられるのを見た瞬間、名実共に沢柳静雄になった。いやなるしか道は残されていなかった。金城悟は最早誰も知らない。確かに飯島だけが例外である。伊豆倉もそうだ。しかし伊豆倉はこちらから彼のギャラリーに訪れなければ向こうからやって来ることはない。そういう男であることを一番私が知っていた。実はその先私はこの二人の存在に対してどうしてもひっかかる思いを払拭することが出来なかったためにある暴挙に出るのだが、その時点ではマイクにもサリーにも悟られないように金城悟に対して別れの言葉を心の中で吐きつつ、最早確定申告をさも日本に滞在しているかのようにしてアイデンティティーを誤魔化しつつ生活する必要性がなくなったことを密かに祝っていた。
 マイクは他のニュースに移るとそのニュースのことを話題に上機嫌でコニャックを飲み干していた。そしてエコカー開発のニュースに移るとそのことを話題にして
「いやあ、しかし日本の電気自動車の開発は進んでいるけれど、世界中のガソリン車を退却させて、エコカーにするっていう時世界ではどのような騒乱になることでしょうね。アラブの石油王とかね。」
と言っていたが、私の頭の中では全て死んだ島津のこと、そして今後の自分の身の振り方についてだけ考えていた。私は栄誉ある撤退として未来永劫沢柳静雄の晩年を演じ続けなくてはならないのだ。

 私はその日会議に出席してからトムの運転する車でサンタフェの邸宅に戻ってから一人書斎に閉じ篭り一人予めネットで購入していたワインを飲みながら暫くじっとテレビもつけずに考え込んでいた。僅か二ヶ月前までは私はシンガポールの町並みを眺望出来るマンションで一人静かに島田からひょんなことから依頼されて再開して一定の成功を収めつつあった翻訳業に執心していた。しかし今や一転して全く異なった業務に就いている。しかしあの秋の京都旅行まではリタイアした人間の思考のモードだった。それは今再び始めた仕事の延長線にあった。しかし二度と同じような替え玉CEOに返り咲くことをしない積もりだったので、予想外にそうなってしまった。しかしそれもよく考えれば私は実は無意識の内に気弱そうで真面目そうな山田があまり芳しくない経営をしていくに違いないと思い、いつか自分で返り咲き、その時に山田を見下し、利用価値のある者として温存させるためにあの時彼を選んだのかも知れないと私は思った。それを言うならひょっとしたら島津に対して私は最初に話した時から好感を抱いていたのだが、その時無意識の内に彼が私、つまり金城悟として死んでくれればこれ以上のことはないとまで願っていたのかも知れず、その願いが案外彼の死を招き寄せたということもあり得るとまで考えを発展させた。すると途端に私は深い自己嫌悪に到達するのだった。
 しかし私は同時にあの今では既に懐かしい京都旅行での須賀による誘いに乗ったことで、思いも拠らず吹上や桑原、近田らと楽しい時間を過ごしたことで、郷田守としての生活もまた決して捨て難いなどとは言えないということの決してない無性に懐かしくもある日々となっていたのだ。私は既に島津の死によって沢柳静雄として生きることも、郷田守として生きることも両方とも捨てることが困難な地点に来ていることをはっきりと自覚していた。
 そしてその思いが強ければ強いほどある不安が私の脳裏を占領し始めた。
 それは飯島の存在である。
 もう一人伊豆倉もそうであるが、前にも述べたように伊豆倉は私、つまり金城悟が生きていても、それがそのニュースで報道された「私」であると確証出来ないだろう。また私が島津の死をもって日本にそのニュースがあった時私は日本にいなかったので、日本ではどのように報道されたかを知ることが出来ない(山田にも教えて貰うわけにはいかない)のだが、仮に金城悟として私が死んだということを伊豆倉が知ったとしても、私自身があのギャラリーに行くことさえしなければどうということはない。そもそも伊豆倉は国際的マーケットを相手にするディーラーではなく、国内の作家や国内で出回っている海外作家の作品を売買することで生計を立てている男である。世界的規模で歩き回ってきた私のアイデンティティーと金城悟としてのアイデンティティーを突き合わせるなどということは彼にあっては不可能である。私からあのギャラリーに出向かない限り彼の存在が私にとって脅威となることはまずないと言ってよい。
 またフランス在住の島津がフランスから自分のパスポートを使って、まず日本に来て、そこからアフリカまで飛んだとしても、私のパスポートを持っているのは山田である。しかしそのパスポートは郷田守として私が闇のルートを利用して四回目の山田との広隆寺で会う約束の時のためにその直前に仕入れていた偽造パスポートである。だから金城悟は法律上死んでしまった(仮に島津の死∧恐らく私しか知らない∨があの埼玉県の以前私が住んでいてマンションの住人としての金城悟であるということが発覚し得ないとしても、私が七年あのマンションに戻らず、しかも確定申告もしないで済ませば自動的に私は失踪宣告をされ、戸籍から抹消される)としても偽造人格ではあるとは言え、郷田守は死んでいない。尤も私、つまり郷田守としてのアイデンティティーが葬られるとすれば報道等によって私の死、つまり金城悟の死が世間一般に認知されることによってである。つまりもし私がこうしてその時サンタフェで悠々と生きているということが日本の報道によって発覚して伝えられたなら、その齟齬は一体どういうことかと世間の目はそこに犯罪の匂いを感じ取るのは必至である。またそれは郷田守として私と瓜二つの山田の存在が世間一般に認知されることによっても同じである。しかし前者の世間的認知の場合尤もそれを可能にするのは伊豆倉と飯島の証言のみであるが。
 ここで再び先ほどの問題に戻った。つまり伊豆倉は態々そんな証言をするほど社会正義とか、他人の人生そのものに関心すらないタイプの、それでいて律儀な商売人である。彼にとって脅威であるのは自分にとって脅威のある人間だけである。だからどんなに私が極悪な犯罪者であっても、彼は恐らくそのことで彼に対して私が脅威でない限り私を告発するようなことはまずない。しかし飯島は違う。彼は典型的に俗物なのだ。彼なら私の私生活に関心すら抱き、終いには私の生活の中に犯罪の匂いを未だ匂わない内から想定して嗅ぎつけるに違いない。
 だから逆に私は金城悟として死ぬ以上世間的な体裁の上では郷田守としても死ぬ必要があるのである。郷田守が死んでこそ初めて私は晴れて元スカイスレッダーのCEОとしての老後を保証されるのである。そうなると問題なのは、山田の存在である。しかし山田が今後私の申し出をどのような態度で応答するかという一点に彼の利用価値も、彼の脅威も存在し得るとだけは言えた。
 しかし困ったことに私は体裁上では島田と飯島が親しい以上沢柳を演じ続けるのにも無理がある。もし百歩譲って私が実は沢柳自身であり、オフの時間にお忍びで私的な行動をする時だけ郷田守と名乗っていると島田たち(あるいは吹上、須賀、桑原、近田のことである)に説得することが出来たとしても、私が金城悟であることを伊豆倉のギャラリーで紹介された飯島にはその言い訳は一切通じないのである。
 何度思い直してみても飯島の存在だけがネックとなって私に迫った。しかも困ったことには私にとって京都吟行の仲間たちは私の替え玉CEOをして心がずたずたになっているところに得たオアシスだったのである。それだから私は何としても、この絆だけは失いたくはなかった。しかし飯島はその人的ネットワークの枠から外れる。私の思考はそこで再び飯島だけが邪魔者であるという結論に達した。
 私はその厳然たる事実に覚醒した時真に悪に目覚めたと言える。何故なら飯島の殺害を企て始めたからである。
 しかし一旦殺害を実行するとなると、一番重要なこととは、私にとって安全な殺害方法と、自らは手を染めないということである。誰かに私がそれとなく何かをしかけさせ、しかも自分がしたことによって飯島が事故的に死ぬということを知らずにことが運ぶというシチュエーションしか私に火の粉が飛び散らない形での選択肢は残されていない。そこで私は即座に山田の存在を思い描いたのだ。まさにこういう時にこそ山田が利用出来ると私は思ったのだ。だからこそ人間は邪魔であると安易に判断してそれを捨てることをしてはいけないこともあるのだ。
 
 私はよく自分の気持ちを落ち着けさせるためにその時持っていたワイングラスの中のワインを一気に飲み干し、この三年半にあったことの全てをもう一度じっくりと想起し始めた。
 私の人生は世界が虚構めいて見えることが自然となるよりは虚構だけが世界であると益々自覚するものだった。それはこの三年半の急転直下において完成した。
 そのために私はパソコンを開きワードで次のように箇条書きにして文字を入力し、プリントした。(勿論これも日本語である)

① 伊豆倉のギャラリーに入り浸ることとなり、そこで飯島を紹介されたこと(尤もその時点で私の方から飯島の存在は大したものではなかったのだが、相手にとって私は印象的なものだったようだ。それにしてもああいうタイプの人間だけは始末に終えない。こともあろうにフリスコで私に声をかけてきやがった)
② 奇妙な募集に応じたこと、募集業務の適任者に選ばれたこと
③ 暫くして沢柳に出会ったこと、替え玉CEОになったこと
④ 沢柳が死んだと信じて自分で全て決裁して業務をこなしたこと、山田に引き継がせようと決心したこと
⑤ 沢柳が生きていてばったり出くわしたこと
⑥ 須賀からメールが届いたこと
⑦ その集いで島田に出会い、飯島と島田とが繋がりがあることが発覚したこと
⑧ 島津と出会い、沢柳の今度は本当の死を知ったこと
⑨ 経営に苦闘する山田と向こうから会おうと言われ再び会い最近の様子を聞いたこと
⑩ ストーンランドによって私が山田を替え玉にしてことを見抜かれたことを本人から伝えられ、携帯で米国に戻るように要請されたこと
⑪ ストーンランドの要請に従い山田を替え玉CEОから外すために彼の真意を確認してから彼を説得するために再度山田に会い、再び替え玉CEОに返り咲いたこと
⑫ 島津の死により金城悟の替え玉の死によって私は今後リタイアした沢柳として生きていかざるを得ないこと
⑬ にもかかわらず私が替え玉CEОとしての生活から足を洗った以降の人的ネットワークも捨て去ることが出来ないでいること
⑭ ⑫、⑬の要件を満たすためにはやはり飯島だけが余分な存在であることを確信したこと
 
 上記の箇条書を綜合して私は考えたのだ。
 しかしその時の私は未だそれが序曲であることに気づいていなかった。しかし飯島の殺害方法は気弱な山田でも実行し得ることでなければならない。そこで私はタミフルを何とか調達出来ないものかそのルートをネットで検索し始めた。闇のルートでよい。それは山田に殺せと命じるのではなく、タミフルを仕込んだ何らかの飯島の好きな飲み物を山田から飲ませるように仕向けることが最良の方法であることを思いついた。

 私はいざリタイアすることを決めたらいつまでもスカイスレッダーに留まっている積もりなどなかった。だから本当は山田が今いるポジションに戻りたいと思った。しかし山田こそ実は最も今後の私の人生での疫病神であるとも言えた。何故なら山田だけが私が選び、自分が私から選ばれた経緯を知っているからである。
 しかしその考えはサリーが薄々山田の存在をダミーであると気づき、ダミーを選んだことをしっかりと事実認知しているのはマイクだけである。ジムは気づいていたとしても事実認知しているのとはわけが違う。そこで再び私は山田が利用価値ある今後の道具として残しておくということの選択肢に有効性を認めた。
 そしていよいよ私が正式に引退を取材陣の前で記者会見をする日が近づいた。そして私は皆からこの十余年の間創業してから一途に業務に励んできた人間として本当なら殆どの期間を生きていたなら沢柳本人が祝福されるところを私が代わりに受けることになるのだ。
 それも一重に私のダミーとしての優秀さに拠るものである。そしてその私が沢柳のダミーであることを知る者はこの世には一人もいない、一人を除いて。それこそ飯島である。
 私は連日サリーやヒーリー、あるいは記者会見と、それに引き続き行なわれる予定だった私の引退セレモニーとジムの独立記念パーティーと、マイクの社長就任記念パーティーを兼ねた内外の著名人を集めたパーティーの準備に追われていた。
 しかしサンタフェの邸宅に戻ると私は密かに山田に私がシンガポールのマンションの自室で使用していたパソコンのメールに送信しては彼に翻訳その他の郷田守としての仕事のあれこれを指示し、時には携帯で連絡もした。
 私と沢柳との関係と、山田と私との関係において最大の相違は、私に対して沢柳は殆ど一切何も指示しないでいてくれたということである。ほんの最初の二、三ヶ月だけが私の試用期間であり、それ以降は全く私の裁量によって全てが進行したのだ。しかし山田は違う。勿論私が三度目以降の彼と会う約束を果たした後は明らかに彼はただ単なる私のダミーだった。私は全てを入念に指示してきたからである。
 しかしそれはIT企業のCEОと翻訳業ということの業務の違いにも由来した。何故なら大企業のCEОはこと細かに指示したからと言ってダミーが巧く行動することなど出来るものでもない。だからこそ寧ろ替え玉を用意したのなら、いっそ全てをその者に委ねるしかないのだ。それに引き換え、翻訳業で私がそれまでに培ってきた業績は、トップ企業のCEОと違って些細なミスが重大な結果を招いてしまう。スカイスレッダーは私が失敗すれば私一人が責任を取ればよい(勿論私の失敗によって多くの人が損害を被ることはあるにせよ)から、私の人生そのものはその後も落伍者としてかも知れないが、続行し得る。しかし翻訳の業務を失敗したなら、その時私はどうにかこうにか生活していくことすら覚束なくなるのだ。このことの意味するところは少なくとも私にとっては大きい。何せ私は沢柳から依頼された共犯者なのだから。
 つまり犯罪とはそれをする者にとって大きな意味があるというのではなく、それを辞めた後にどう生活していくかというレヴェルでは、たとえ大勢の人に損害を与えてしまうことがCEO職による失敗があったとしても、それは私にとってはどんなに大きな勇気のいる仕事であっても、ただ単に犯罪の失敗に過ぎないのであり、犯罪者が通常の生活に戻れるために死守せねばならぬこととして翻訳業しか私には残されていないということが重大なのだ。だからこそ私の脳裏には飯島の殺害方法に関する思念が渦巻き、次第にマイクたちとの最後の私にとっての連携プレーは気分的にはどうでもよいものとなっていった。しかしにもかかわらず既に私は全ての行動を粗相のないように運ぶことが出来る堂に入った犯罪者になっていたのである。犯罪だって完成された形態を示せば善行にも匹敵する。
 ニセモノの所業に栄光あれと私は言いたかった。
 私は残された業務をこなすために最後のサンタフェでの滞在をしている時オフの時間に書斎でメールを通じて、あるいは例のSNSを通じて須賀紫卿らと未だに俳句を投句していた。そして相互に講評し合ってきていたのだ。この日本語と英語の世界の往来こそが私の第三の人生におけるその時期の精神的活力を構築していた。
 私は昔から俳句を作るのに、殆どの場合その場ではなくその場から離れた後でその場にいたことを想起して作るというのが遣り方だった。そして京都の吟行から帰った後でもシンガポール滞在期にも、サンタフェ滞在期にも次のような句を作っていたのだ。
 
 西日差す影武者の背に我を見ゆ

 役降りて我の役追う嵐山

 山紅葉見ゆる眼(まなこ)の仕掛け知る

Wednesday, November 18, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑳

              ★

 私にとって第二の人生は確かに伊豆倉に教えて貰ったあの奇妙なクイズ紛いの募集サイトによってであったが、第三の人生はリタイア後から始まったが、その方向を決定付けたのは明らかに須賀から来たメールだった。その第三の人生の初頭で最も大きなことは島津との出会いだったと今では言えるが、中盤で最も衝撃的なことはマイク・ストーンランドから来た携帯電話の受信である。
 私はジム・クラークとも、マイク・ストーンランドとも替え玉CEО時代には巧くやってきたが、この共にワスプである二人には基本的な性格の違いがあった。それはクラークの方はあまり多く語らず、私の指令に従い、私から積極的に何か尋ねない限りあまり本音を語ることがなかった。しかしストーンランドはそうではなく、寧ろ向こうから私に対して多く進言したし、クラークの真意も私に伝えようとした。クラークは私が何か聞けば最も親身になって返答してくれたが、私に率先して色々忠告したりするのは一切がストーンランドだったのである。そのストーンランドが私の携帯番号を知っていたということが私には驚きだった。何故なら私の携帯番号を知っていたのはその時点で島津だけだったからである。(それ以前は沢柳だけだったと私は思っていたが、沢柳の死後彼が私の番号を知ったのか、死の前から彼も知っていたかどうかを私は島津に確かめ損ねた)マイクは私にこう続けた。
「驚かれたでしょうけれど、私は大分以前から今の沢柳社長が替え玉ではないかと疑っていたんですよ。私以外では恐らく秘書のサリー・フィッシャーさんが気づいてらっしゃったんじゃないかと思います。」
と言った。それに対して私は既に正体がばれてしまったことに観念してマイクに
「じゃあ、ジム・クラークは?」
と聞いた。するとマイクは
「さあ、分かりませんね。もし彼なら気づいていたとしても私にそのことを告げることは決してしませんでしょうからね。」
と言った。
「でもどうしてこの番号が分かったんだい?」
と私がニセモノ現役時代の口調で話しかけると、マイクは
「それは、ある日製薬会社Kのリッチモンドさんとフランスのウウェッブデザイン会社の社長さんとポータルサイトのデザインの更新とKの広告に関して打ち合わせでパリに行かれた時に、私だけが持っている社長の書斎のスペアキーで書斎に入って、置かれてある社長個人所有のパソコンのデータからそれらしき連絡先を全部バックアップを取って一々全部当たってみただけですよ。もし本当に替え玉ならそれらしき本人への連絡先のデータを不明確な形でデータ保存している筈だと思ったんです。簡単ですよ。」
 私はマイクに
「今社長はどうしているんだい?」
と聞くとマイクは
「今庭師のロジャースと庭の手入れのことについて打ち合わせをしているところです。」
と言った。懐かしい名前だった。私は時々植物園にロジャースと休日には出掛けた。大邸宅だったが、私は沢柳の指南で一切の執事その他の人々への命令はヒーリーに委任してきていた。これらのことはサハシーが私に告げたのと同じように山梨県の山荘で勿論山田に告げていた。
「それで私にどうしろって言うんだい?」
とマイクに私は尋ねた。
「社長がどういうご意向でこんな手を込んだことをなさったかは私は存じませんけれど、戻って来て頂けないでしょうか?」
と私にマイクはそう言ったので、私は更に
「私でなければ駄目かい?今の社長ではどういうところが駄目なんだい?」
と尋ねるとマイクは
「社長とジムと私の関係が、社長本人だと連携プレーが出来るのに、今の社長じゃあ、ぎくしゃくしてしまうんですよ。」
と言ったのだった。そこで私は
「では他の連中はどうなのかな?例えばヒーリー、レオナルド・岸田、トム、ビルとかは?」
と聞くと
「少し最近社長の様子がおかしいと思っているかも知れませんが、実際に替え玉だと気づいているとしたら、可能性としては私以外ではサリーさんとジムだけでしょうね。」
と言った。私はマイクに
「じゃあ、どんなところが今の社長では不足なのかな?」
と聞くと私にマイクは
「意志決定の態度が決然としていないということですよ。いやあ、でもあなたに連絡が取れて本当によかった。よくご検討下さい。」
と言った。私は
「用件は分かった。考えておく。では、今ちょっと手が離せないので。」
と言って電話を切った。

 私は再び突如第三の人生からそれ以前のものである「第二の人生の頃の自分」に引き戻された。そして悠々自適な翻訳業生活から、あの目まぐるしく変転を重ねまるで生きた心地のしない替え玉CEО生活に気持ちは戻ってしまった。そしてマイクの電話口での口調からはっきりと私自身が既に沢柳自身の替え玉であるということだけは誰からも気づかれていないということだけははっきりとした。それはある意味で私に変な自信を再びつけてしまったのだ。そして山田が利用出来るのではないかという悪意を更に発酵させていってしまう結果にもなるのだった。

 私は数日今後どうしようかと考えあぐねた。朝目が覚めると、パソコンの画面を開き、メールチェックとネットでニュースを見たが、翻訳の仕事にも今一つ身が入らなかった。
 しかし実はある結論だけは既に出されていたのだ。それはもう一度山田を呼び出し聞き質してみるということと、彼に対する私からの今後の利用価値を査定してみようということだった。
 私は再び今度は一切句会の機会とは関係なく一人で京都、広隆寺の弥勒菩薩半伽思惟像の前正午に待ち合わせする旨を山田の個人用パソコンのアドレスへと送信して返事を待った。山田は私が指定した七月の上旬のある日なら大丈夫であるとメールで返信してきた。きっと川上との会議を急遽決定させて帰国する積もりなのだろうと思った。
 ところで私がその時も広隆寺を選んだのはわけがある。それは広隆寺の人の出入りが他の名所旧跡よりは平日は疎らだということからである。尤もそればかりではない。私にとって最も心の落ち着く寺であったということ、そして私が島津に会い、山田に再会した時明らかに徐々に今の状態へと兆す私の人生の分岐点を形作るように予感し得たからだった。

 山田と広隆寺本堂で会う約束の日がきた。替え玉CEОを彼に引き継がせてから初めて会ったあの京都吟行の二日目の日から丁度二ヶ月くらい経っていた。京都はすっかり夏になっていた。
 その日は成田に着いた時には比較的涼しかった。これで山田と会うのは四度目になる。山田は意外と悪辣さの希薄な男であることを私は前回の再会で感じ取っていた。だからその日私は山田の真意を尋ねてみる必要があると感じていた。マイク・ストーンランドは確かに彼のマイクやジムやサリーに対する応対が決然としていないと言っていた。なら今後このまま替え玉CEOを継続してやっていく積もりなのかだけは確認を取っておく必要がある。と言うのも意外と最後の最後になってCEOに成りすますことに未練が出てきて私が「そろそろ俺とバトンタッチしようか」と提案したならごね出す可能性も決してゼロではない。そして今度こそ私を脅してくるかも知れない。だから私はシンガポールから成田へ向けて飛ぶ飛行機の中で何故な少し心がざわつき始めた。しかし富士山が窓から見えてきた時少し心が落ち着いた。「しっかりしろ、お前はこれまでだって何とか切り抜けてきたじゃないか」と私は自分に向かって叫んでいた。

Sunday, November 15, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑲

 それから私はすぐさまシンガポールのマンションに引き返すために成田に直行した。島田に誘いがなければ来ることのなかった東京への臨時の旅だった。しかし私は徐々にそのようにまた替え玉CEО時代のビジーネスに郷愁を覚えるように、その頃の身体のリズムに縒り戻そうとする気持ちにもなっていたのだ。それを促進してくれたのが俳句の吟行だったというわけだ。
 そして何日か経ってからメールチェックをすると飯島によるメールが送信されてきていた。その文面には何とエディー・レンディーが主催するアフリカ某国奥地の教会の設立セレモニーにはジム・クラークの弟の有名作曲家であるダニエル・クラークが記念のテーマミュージックを作曲し、現地で調達したオーケストラの指揮もするということで、しかも兄のジムも出席するということだった。そうなると益々私はそこに取材で行くわけにはいかない。
 しかし私は折角依頼された仕事を無碍に断ることは、今後の俳句趣味の集いとして吟行仲間である島田の手前あまり得策ではないとも思っていたのだ。その日は予め依頼されて着工していた翻訳の仕事が大分捗って、少し小休止してもよいと私は判断して、今後の仕事の対策を練ることにした。
 そしてテレビをつけ、ニュースを見ながら、アメリカの株価が大分上昇したといったことを耳で入れながら、コーヒーを入れてテレビの見えない場所にも置かれてあるソファ(たまにはテレビの見えない場所に向けて座りたい時もあるので私はそうしていた)に腰掛け、MDに録音していたジャズを聴きだした。
 その時私はコーヒーを口にしながらふと島津のことを思い出した。
島津のことを私はもし沢柳からの申し出を「そんなの犯罪だから断る」と言ったならあるいは島津を使って沢柳が私を消していたかも知れないと二度目の京都旅行における二日目の句会の時にぼんやりした表情で考えていたことを思い出した。が、よく考えてみると、島津がそれほどまでに沢柳に傾斜して遥か自分より若い実業家に残りの人生を賭けたのは、私が仮に断っても潔くそれを受け容れるという態度を採って、また私がそんな理不尽な申し出を受けたことを別の誰かに言いふらしたとしても一切私に危害を加える積もりなどないということを察知していたからこそではないかと論理的にそう思い始めた。すると途端に島津という人間にも、沢柳同様の興味を私は覚え始めたのだ。それは男が男に惚れるということかも知れないと思った。しかしにもかかわらず沢柳の方はそれほど島津に対して信頼していたとは限らない。だからこそ島津を自分がリタイアした時継続して私のボディーガードに留まることを薦めなかったとも言える。
 つまりただ単に脇に若くして成功した実業家を尊崇の目つきで控える自分よりも年配の者を置いておきたいからこそ彼がフランスの片田舎にまでついてくる元配下の人間の自分に対する尊敬心を払い除けることをしなかったとも言える。そう考えると沢柳本人は意外と姑息なタイプの人間にも見えてきたし、逆に妙に私は島津を憐憫の情で見始めたと同時に何かを頼みやすいタイプではないかと踏みだしもしたのだった。
 そしてあの時地下鉄の駅で別れしな私にひょいと彼がポケットから取り出して私に渡してくれた名刺を名刺入れから私は取り出し彼に電話を入れてみようと思い立ったのだ。彼はフランスの私に聞いたことのなかった地名の片田舎で、沢柳の最後を知っている唯一の人間である。
 すると電話の向こうで一ヶ月と少し前に会ったばかりの島津の声が明瞭に聞き取れた。彼は
「アロー。」
と言って電話に出た。私が一言
「金城です。」
と言うと島津は
「ああ、あなたでしたか。」
と安心したように日本語で話しだした。
「ちょっと、あなたの声が急に聞きたくなったんですよ。」
と私が言うと
「それは嬉しいですね。でも今仕事中だったんですか?」
と島津が聞いてきたので私は
「ええ、翻訳の仕事が結構常に押していましてね。でもまあ一息ついていたところです。」
と言ってから私はちょっと例の島津の一言、つまり「悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってある」というのが気にかかってそのことを問い質した。
「あなたがこの前仰っていたこの言葉の真意をお聞きしたくてね。」
と言うと彼は笑い出しながら
「いえ、そんな深い意味は御座いませんよ。でも実はまあ、もう言ってもいいかな、あなたから山田さんへと新しい替え玉CEОがチェンジしたことを薄々気づいていた人が一人いたんですよ。」
と言い出したのだ。私は急に胸がざわざわし始めて
「えっ、それは誰ですか?」
と島津に問い質すと
「ええ、実はサリー・フィッシャーさんが一度だけ私の下に電話して来られたことがあったんです。私の連絡先は実はトムにだけは教えていたものでして、そのトムから偶然サリーさんがお聞きになられたんだそうです。」
 私は急いて先を早く知りたくて
「それで?」
と聞いた。すると島津は
「何か、あなたと違ってジム・クラークやマイク・ストーンランドに対する接し方が卑屈だって、そう仰ってました。」
「それで?」
と更に私が聞き出そうとすると島津は
「ええ、そう仰るものですから、私は勿論一切白を切り通しましたよ。」
私は核心的なこととして
「その電話があったのは、私と沢柳さんとがモンサンミッシェルでばったり出くわした後のことですか?それとも前の?」
と聞くと
「確か少し前のことでしたね。」
と島津は返答した。その時私は即座に
「ではあなたはサリーさんが仰ることが本当の沢柳さんと私が入れ替わったことをサリーさんがお聞きしたという風に受け取られたんですね?」
と聞くと、島津は強く否定して
「いいえ、違います。あなたから誰か他の人に入れ替わったと思われていたってことで、彼女だけでなくそのことを既にサハシーも気づいていて、そのことを私に密かに告げていました。」
と言った。私は沢柳の眼力の鋭さに打ちのめされながら
「でも一体どうしてそれが分かったんですか?」
と聞くと
「テレビでリヨンとかの会議とかで映る山田さんの出で立ちとか立ち居振る舞いをご覧になって社長は即座に見抜かれていましたよ。」 
と島津は言った。私は
「それじゃ、私があの時モンサンミッシェルで沢柳さんとお会いした時には既にあの人は私が山田と入れ替わりリタイアしていたことをご存知でらっしゃったんですね。」
と島津に言った。島津は
「そのようですね。」
と応えた。私は暫く「うーん」と唸りながら、暫く深呼吸をしてから
「ところで、島津さん、実は一つ困ったことがあるんですよ。」
と言った。兎に角私はまず用件を告げることにしたのだ。それは私の中で先刻、妙に私は島津を憐憫の情で見始めたと同時に何かを頼みやすいタイプではないかと踏みだしもしたという気持ちを行動に移すことを意味した。つまり私は折角依頼された仕事を無碍に断ることは、今後の俳句趣味の集いとして吟行仲間である島田の手前あまり得策ではないとも思っていたから、その飯島から依頼された仕事を島津に代行して貰おうかと不遜にも考えていたのだ。そして私は電話でその旨を伝えたのだ。すると意外にも島津は
「そういうことでしたか。それは困りますよね。取材相手が何度もお会いしたエディー・レンディーさんで出席者の一人があなたが普段行動を共にしているジム・クラークさんですし、またひょっとしたら山田さんも(沢柳社長として)ご招待されるかも知れないですからね。」
と言って、一息ついて
「よござんすよ。お引き受けいたしましょう。要するに教会の設立記念式典の様子と主催者たちに意見を伺って文章に纏めてその飯島さんって方にメールか郵送でお送りすればよろしいのですね。」
と私に確認を取った。私はそれに対し
「一度私に記念のセレモニーで会ったこと、誰かが喋ったことをメモして下さってメールで添付発送して下されば、後は私が全て纏め、それを飯島さんにお送り致しますから。」
と言うと
「分かりました。私も丁度フランスの片田舎で退屈していたところですので。」
と言って笑った。
 結局島津は私からの願いをあっさり承諾してくれた。私は島津に私、つまり金城悟としてのパスポートを郵送する旨を最後に電話で伝え、後日郵送した。しかし写真だけは偽造して島津のものが貼られていなければならないので、私はかつて「太陽がいっぱい」という映画があったが、あの映画の主人公のように島津がプロレスラーの頃の写真をネット検索で探し画像操作して老けさせ、それを金城悟のパスポートの私の写真を剥がし、その上に見つけた島津の写真をプリントしてスタンプの形を写真につけ加え貼ったのである。私はそういう細かい作業が若い頃から得意だったのである。私は自分の悪知恵と自分の都合のよさに少々辟易していたが、これで島田とのパイプも傷つくことなく、それでいて私はレンディーやクラークと会うことなく済むと思うと何故か他の翻訳の仕事にも身が入った。
 
 しかしそうしながらも私は更に思いも寄らぬ電話を受け取ることになったのだ。
 私がやっと一つの翻訳を仕上げて、島田からの間接的依頼ではなかったが、やはり私が手掛けた島田→兼杉のための仕事を見て依頼してきたあるスポーツメーカーの重役であるクライアントのための仕事を提出するために郵便局に行った時突如私の携帯に着信音が鳴ったのだ。
 そして電話に出てみるとたまたまその時私が「はい」と言う前に向こうが懐かしい英語の響きで何か言っていた。その声の主は何とマイケル・ストーンランドだったのだ。私は一瞬で相手の声が彼であると分かったのだが、即座に返答せずに黙っていると、更に彼はこう言った。
「サハシーでらっしゃいますね?」

Thursday, November 12, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑱

 京都の吟行を終えて、山田からは一切の連絡はなかった。しかし翻訳に関する注文は幾つかあった。私のした島田を通した兼杉の依頼の件での翻訳の実績が口込みで広がったからである。
 しかしそういう風に幾つかの仕事が舞い込んできた時私はふと島田の二日目の京都駅前でのバス発着所での私に対して言った言葉を思い出した。京都旅行から帰宅してから一ヶ月たった梅雨の時期のある日(シンガポールには滅多に梅雨がないらしいが、私が過ごした六月にはじめじめして雨も多かった)私は翻訳ソフトを使用して新たな依頼の仕事の最中だったのだが、一時仕事を休止して、メールチェックをすると、新しいメールが送信されていた。それはまたも島田からのものだった。
 その文面は要するに知人があなたの翻訳の仕事っぷりを見てどうしても依頼したい仕事があるという内容だった。しかし島田という男はまるで紹介屋というか、ブローカー的性格の人間だと私は思った。しかしまんざら悪い話でもなさそうだとその時思ったのも実は兼杉からの依頼で米国人古物商の自伝を翻訳した時の経験が私に予想以上の満足感を齎してくれたからだった。
 その文面には島田が直接その人間を私に紹介するから彼にとって都合のよい日時まで指定していて、こちらの都合を聞いている内容だったので、私は日程表を一応つけているのだが、それを照会すると別に何の用もないので、島田による指定は∧東京駅の八重洲口の正面辺りにあるある著名な画廊の前辺りに立っていてくれ∨ということだったのでその通りにすると即座にメールを返信した。すると向こうからまた即座に「では会いましょう。」ということになった。
 
 その日がやってきた。その日は珍しく晴天だった。私は島田の指定通り初夏の東京駅八重洲口に翻訳家の郷田守としてシンガポールから成田、成田から成田エクスプレスで東京までやって来た。夕方の五時に待ち合わせたので、もう日も長くなっていたので、充分人通りで人の顔を見分けることは出来た。しかし約束の時間に島田は来なかった。しかし誰か人を探している風の男がいたのでちょっとその男の顔を見たら私は驚愕した。伊豆倉の知人でギャラリーで一度会い、その後替え玉CEОになってフリスコにサリーの娘のためにコンサートのチケットと日本に帰国する飛行機のチケットを買いに出掛けた時にばったり出くわした飯島ではないか。
 だから私は即座に顔を背けたのだが、その仕草が彼には却って目立ってしまったのだ。飯島は
「おや、金城さん。」
 私は矢庭に返答渋って
「ああ、お久し振りですね。」
と言うと向こうは
「アメリカのサンフランシスコでもお会いしましたよね。」
と言った。私はその質問に対し
「それは私じゃありませんね。私は一度もサンフランシスコには行ったことがないんですから。」
と白を切った。しかしどうしても信じられないという風な様子で
「そうですかね、私にはあの時の人がどうしてもあなたとしか思えないんですがね。」
と飯島が言うものだから私は話題を逸らすように
「ところでこんなところで飯島さんこそ何をなさっているんですか?」
と聞くと飯島はけろっとした顔で
「いやあ、私実はここである知り合いに頼んで人を紹介して貰おうと思って来たんですけれど、その紹介してくれた人が急にインフルエンザに罹ってしまって酷い腹痛で来られなくなって、その人が既に私を引き合わせる手筈を整えているって言うもんですから、急に来られなくなったことを携帯で私に知らせてきてくれたんで、私だけでも約束の場所に来ようと思ったんですよ。そしてその人にお詫び方々仕事をお頼みしようと思いましてね。」
 と言ったのだ。私は相手が飯島で私のことを金城として知っているので、咄嗟に白を切ろうかと思ったが、思い直して思い切って聞いた。
「その方のお名前は何とおっしゃいますか?」
 すると飯島は
「島田さんと仰いまして古物商の方なんです。」
と言った。やはりである。私は最早観念して
「いや、私が島田さんに紹介して貰う筈だったんですよ。」 
と言ったら飯島が怪訝な顔で 
「でも、飯島さんは確か郷田さんとか仰っていましたけれど。」
と言うと、私は咄嗟に作り笑顔で
「実は私は翻訳業をしている時にはペンネームで通しているんです。そしてそれが本名だと思われているんですよ。いやあそのことを私特に誰にも告げていませんでして、ですからそれを私の本名だって思ってらっしゃるんですよ。でも我々の業界ではそういう風にペンネームで通している人間もかなり大勢いるんですよ。」
と言った。すると飯島は妙に納得した表情の笑顔を浮かべて
「そうだったんですか。金城さんでしたなら話が早い。ではお話をさせて頂きます。」
と言って、飯島は私をすぐ目の前にある喫茶店に誘った。
 飯島は最初伊豆倉のギャラリーに一つ大きな翻訳の仕事をし終えた後訪れた時、私より先にギャラリーで伊豆倉と談話しており、その時伊豆倉が私に紹介してくれた。伊豆倉は私のことを飯島に文筆業とだけ言って翻訳家とは言わなかった。伊豆倉は飯島を骨董店を経営しているとだけ言っていた。最初彼を見た時粘着質な人に対する接し方だと直観的に思ったが、それはアメリカでこともあろうに私がCEOとしてスカイスレッダーを切り盛りしている時に声をかけてきたし、今またこうして私の人生の岐路に立ち塞がっているのだ。そしてなかなかこちらの相手に対してあまり好意を持っていないという真意を汲み取ってくれないそういうタイプである。
 飯島はウエイトレスが水を運んできた時
「ブレンドコーヒー。」
と素っ気ない態度で言った。私もそれにつられて
「私も。」
と言った。すると飯島は
「実は私の経営する骨董店のある重要なご贔屓さんがね、製粉会社の社長さんでいらっしゃるんですが、彼がもうすぐ年齢的なことがあってリタイアされることになって、息子さんに継がせられるんですが、実は息子さんはそれ以前に既に自分でウェブデザインの制作会社を立ち上げて成功していたので、この二つの会社を合併して一つの事業をすることにしたんです。その際に新企業立ち上げということのアピールのために何かしようということになって、そこで息子さんの大学時代の学友が出版事業を行なっていて、その人の協力の下でインタビューと取材雑誌を発行しようということになったんです。そしてその息子さんが憧れていらっしゃるエディー・レンディー、あのIT業界の立役者にして、五十少しの年齢でリタイアされて、今は悠々自適かと思いきや、慈善事業をされていますよね。」
 私は
「そうですね。」
と頷いた。飯島は続けた。
「息子さんはそのレンディーが今度アフリカの殆ど文明的に未開な地に教会を設立することになって、その記念式典をすることになったんです。そして息子さんはその取材を他に先駆けてしようということを決定されたわけです。私はお父さんの社長さんが息子のために誰かいい取材能力のある人材はいないかと探しているのだがと声をかけられたってわけですよ。その息子さんの知人で私の知人でもある古物商の方が息子さんの願いを代行して伝えたいということなんです。息子さんはお忙しいのでね。」
と一気に話した。私が
「で、それを私にしろというわけですね。」
と私は確認を取った。
「ええ。」
と飯島は返答した。
 しかしエディー・レンディーの名前がここで出てくるとは思いも寄らなかった。しかしもしレンディーがその記念式典に出席するのだろうか?もしそうだとしたら、私は何度か経済会議でレンディーと会ったことがあり、私がのこのこ式典に出席するわけにもいかないと思った。そこで
「レンディーもその式典に出席するんですか?」
と聞くと
「そうです。」
と答えた。私はどういう風に断ろうかそればかりを考えていた。しかし飯島はそんなことはお構いなく勝手に言い続けた。
「どうですか?金城さんなら打ってつけだと思うんですけれど。」
と言った。私は何も今更アフリカくんだりまで出掛けて行って自分の語学力と取材力を試したいとも思わなかったし、ただどうやって断ろうかとそればかり考えていて、お座なりな返答をした。
「まあ、スケジュールとか調整して検討させて頂きますよ。」
 通常日本社会では前向きに検討するということは婉曲な断りの文句である。しかし前向きをつけ加えなかったから、まああまり乗り気ではないが、無碍に断れないということにもなる。
 飯島は
「今日店に戻ったら、詳細に記述した文面をメールでお送りしますよ。」
と言った。そしてそそくさと
「まあ、用件はそれだけなんです。お忙しいところをご足労下さり有難う御座います。」
と言って、私がレシートを取り上げようとすると私を制して
「私が出します。」
と言って立ち上がった。
 私たちはそのまま店を出て別れた。飯島は別れしなにもしつこく
「でも確かにあの時にシスコで見かけた人は金城さんだったんだけれどなあ。」
と独り言を繰り返し、首を傾げながら去って行った。

Sunday, November 8, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑰

 その日の吟行は前回の時よりは言葉が少なめだった。もう大体の相互の性格とか考え方が分かったからなのか、風景とか、名所旧跡に立てかけられた説明書きとかに熱心に見入るということも多かった。また私自身が吟行をしながら振り切れないくらいの強烈な思いが去来していたからかも知れない。私と風体はそっくりなある同世代の私の人生を全く思いも寄らない方向へと誘った男の突然の死に対して私は京都という地がかつて多くの武将や僧侶や詩人たちの命を彼らの血と共に吸収していったことを想起しつつ、人間の死ということを想念せずに歩くことは出来なかった。しかも沢柳に影法師のように付き纏っていた壮年男性が私に態々彼の死を知らせるために会いに来たのだ。それらの思いがメモ帳を開きながら時折句が浮かぶと書き留めるということの内に無意識に私自身の死生観が滲み出るということを抑えることが出来なかった。
 だから必然的にその日仁和寺や幾つかの禅寺を回って夕方に持つことになった京都国際ホテルでの句会での私の句は他の五名から「一体誰の句なんだろう」と思われ、無記名で投句した後で皆に選ばれた句に対して作者が名乗りを上げる時、私が須賀と吹上と共にその日は最も多く句が選ばれたのだが、「半年前の時とは作風が変わってきた」というのが皆の共通した印象であった。その句会が終ってから例の如く近田が先輩として敬う吹上に対してこんな質問をした。
「吹上さん、文学と哲学の違いって何だと思いますか?」
 すると暫く思案しているような表情を見せた後、吹上が
「こういう句会でもいいですが、趣味の集いのような場で人生の一切の精力を注ぎ込むことは俳句だけを取ればいいことですよね。でもプロの俳人でない限りこういう席で誰より抜きん出ようとする意味は、社会的地位が安定した人にとっては大したことないかも知れないですよね。誰か別の人に勝ちを譲ることが社会的地位に相応しい態度です。だから社会的地位が不安定でこういう趣味の集いでしか自らの手腕を発揮出来ない人がいたとして社会的地位の安定した人に花を持たせられて喜んでいるとしたらそういうのって何か哀れな感じがしますね。そういう人間の機微を描出するのは文学では面白いかも知れないけれど、哲学ではどうですかね。哲学ではそういう社会的人間関係そのものの機微がどうのこうのにはあまり関心を持たず、寧ろそういう時に何故人間は他者を哀れに思うのかとか、何故そういう風に趣味の集いに全精力を傾ける人に対して社会的地位の安定した人が憐憫の情を持つのかということ自体を分析しようとするでしょうね。要するに哀れさの描出を文学が得意とすれば、哲学は哀れさの根拠を説明し得るものとして、そういうような違いと理解していてここは間違いではないのではないでしょうか?」
 と言った。この時私は以前もそうだったように、吹上は簡潔明瞭に説明する才に長けていると思った。しかし吹上がそう言った瞬間間髪を入れず桑原が
「でも哲学者は社会的な意味での人間間での哲学には関心がなさそうだな。例えば科学者の哲学がどういうものかには多少興味があるかも知れないけれど、デリヴァリーヘルス穣の哲学っていうようなことに関心があるように思えないな。」
と言った。それに対して吹上が
「要するにデリヴァリーヘルス穣の考えている生き方がどういう風に説得力があるかという風には考えるでしょうけれどね。」
と言った、すると桑原が
「要するに哲学者は言葉によって全てを考えるっていうわけですね。」 
と確認すると吹上が
「まあ、そういうところはありますね。」
と頷いた。すると桑原は
「そういうところが文学者とは違う気が僕はするね。つまり文学者は対人感情的に他人をデリヴァリーヘルス穣がどう考えるかとかに関心があるような気がするから、それは言葉で考えると言うより、身体で考えている気が僕はするな。」
と言った。すると近田が
「それは考えることにおけるタイプの違いということですね。」
と言うと、頷いて吹上は桑原にも近田にも反論はしなかった。
 しかし私の脳裏にはどこかそういった観念的な論議にもかかわらず気もそぞろで、翌日会う約束をしている山田のことがなかなか消し去れなかった。そういう表情は皆に伝わっていたのだろうか?幸いその日島津に会いに行ったことを問い質すような者は一人もいなかった(須賀にだけ二日ともメールで昼食時だけ中座したい旨を伝えてあった)。
 結局初日は私と近田と吹上が三人部屋で同室に、桑原と須賀が二人部屋で同室だったが、これと言って宿泊した部屋の配分で翌日の対話する相手が決定されることもなかった。以前の時と違って句会の後これと言って何もしないままで各自自由時間を過ごしていたからである。句会そのものを共にするという段階から、句会の内容そのものを充実させていこうという段階に移行したということである。
 
 私たちは二日目には京都駅前のバス発着所の立て札が立ち並ぶ一角に集合し、そこからバスに乗って寺巡りをする予定であった。島田は例によって電車に乗って自宅から現われた。しかし私の心は殆どその日の正午に広隆寺で落ち合う約束をしている山田の現在の様子とかこれまで替え玉CEОを二重の意味でこなしてきているものの本人は本物の沢柳の替え玉であると固く信じている山田の私に向けられた態度がどういうものであるだろうという未来の想像へと振り向けられていた。だから島田が私にある一言を言ったことを殆ど上の空で聞いていたのだ。しかし確かに後で思い出せばバス停で目的地の二条城へ行くバスを皆で待っていた時、島田は次のように言っていた。
「散見さん、いや郷田さん、素晴らしい翻訳の仕事をして下さって兼杉さんは本当に喜んでらっしゃいましたよ。」
私はその一言に対して
「そうですか。」
とだけ応えていた。そして更に島田は
「兼杉さんのお知り合いがあなたの翻訳なさった仕事を拝見して、何か仕事をあなたに依頼したいようだと兼杉さんが仰っていましたよ。」
と言ったようだったが、私はその時もただ
「そうですか。」
とだけ素っ気無く返答していたのだった。
 バスが到着して二条城へ向けて出発し、私たちは二条城に到着したが、前回と違って殆ど私的会話は皆交わさず、只管句作りに熱中していた。その時は一切記念撮影もせずに、風景を眺めては頭を捻るように思案している姿が殆どだった。私は自分で作る句が山田と再会することで得る何らかの不吉な情報に対する不安が読み取れるニュアンスの句が生み出されていた。
 二条城に到着してから城内を見学して一時間半くらいしてから須賀が
「そろそろ広隆寺の方へと参りましょう。」
と言った。須賀が三月中に送信したこの句会の誘いのメールの後で四月に追伸を須賀は皆に送信したことがあって、そのメールは皆が以前来た時に訪れた場所でもう一度訪れたい場所があれば明記して欲しいという内容だったが、返信した五人の要望で一番多く一人を除いて四人とも選んだのが広隆寺だったのだ。そこで再度そこに行くことになった。広隆寺まではタクシーで行くことにした。タクシーがいいと発案したのは桑原だった。
 桑原と私と須賀が、そして近田と島田と吹上がそれぞれ乗って広隆寺に到着した時は正午近かったので、予定通り私は皆が寺に入る前にまず食事するという既に須賀が予約しておいてくれた大正時代風の建物の中にあるレストランに入る前に一同から中座して、広隆寺に急いだ。私はレストランには戻らないで広隆寺境内で待っていると須賀に告げた。
 流石に一同から中座するのが二日目なので桑原と島田が
「散見さんは色々とお忙しい方でらっしゃいますね。」
と皮肉交じりに、しかし一体どんな人間とこう続けて約束があるのだろうというような表情を浮かべてそういうようなことを言った。しかし近田と吹上は一切無関心というような風情だったこともまた印象的だった。
 しかし私は島津の言葉が妙に気にかかっていた。
「でも今の替え玉さんは現況の世界経済情勢も手伝っていますが、なかなか苦闘なさってらっしゃいますね。」
 あれはただ単なる皮肉だったのだろうか?
 この京都旅行を終えてシンガポールの自宅に戻ってから真意を問い質してみようかとさえその時思ったが、すぐ私はただ今自分は山田にどう対応されるか、そのことが気掛かりなだけであると思い直した。
 私が指定した広隆寺本堂の弥勒菩薩の前にサングラスをかけた私と同じ中肉中背の中年男性が立っていた。すぐに私は山田三好だと分かった。
 私より先に向こうから声をかけてきた。
「沢柳社長、もうこっちは大変ですよ。」
と小声で山田は私に泣きつくような仕草を見せた。私は出来る限り平静さを装って 
「どういうことですか?世界同時不況という意味でですか?」
と問い質すと
「それもありますよ。資産査定とか色々しなければならないこともありますけれど、スカイスレッダーの税理士と話し合ったこともあったんですけれど、あまりリストラはしなくて済みそうです。今日はさっきまで所沢の支社で川上さんと日程の打ち合わせをしてきたところです。」
と山田は返答し今日の経緯を報告した。
 決算報告が近づいてきていたのだ。株主会議もある。私は
「ここを出て外で話しましょう。」
と提案すると山田はサングラスをかけたまま私と共に本堂を出た。
 歩きながら私は山田にこう言った。
「あなたには申し訳ないという気持ちもあるんです。こんな酷い不況に見舞われるなんて思いもよらなかったものですから。ところでミューズソケット社との件はどうなりましたか?」
と弁解口調で私は山田に告げてから質問をした。
「まあ今後の交渉次第っていうところで保留になっていますね。」 
と渋い表情で返答した。
 しかしポータルサイトビジネスはそれでもまだ景気がいい方である。ただ製薬会社Kや、その他の提携先がリストラを断行しなくてはならないとかの色々な憂き目に合っていたので、テレビのニュースでも何度か私はスカイスレッダーの行く末を外側から観察することくらいなら出来たのだ。特に翻訳の疲れを癒すために時々つけたニュースでは英語に翻訳したものを聞いて何とか世界情勢を知ることも出来たし、ネットでもよくニュースは見ていた。しかし必ずしもスカイスレッダーだけが時の人というわけではなかったのだ。
 私は提携先の株式相場の下落とかの要因による経済的打撃に対して山田に対してあまり慰めにもならないような一言を告げていた。
「産地偽装とか汚染米のような問題はIT関連事業では起こらないし、こんな時代でも未だましな方ですからね。そもそも情報に本物もニセモノもないですからね。それは嘘の情報ではない限り受信するパソコンがどんなに旧式のものであれ、解像度の高い高性能のパソコンであれ情報が情報である価値という意味では等価ですからね。」
 と言った。ニセモノがニセモノに共感したような台詞だったので自分で苦笑することを私は必死で堪えていた。しかし山田は意外と従順そうな性格だったのだろう、そういうことを見抜くほどメタ認知能力が優れた人物でもなさそうだった。そして再び島津の言った一言を山田の顔を見る時重ね合わせて考えていた。そして急にヴェロニカのことが気掛かりになって私は山田に質問した。
「ヴェロニカとは巧くやってくれていますか?」
 すると山田は急に真面目腐った態度となり
「社長が山梨県の山荘で指南して下さったように何とか彼女の趣味とかを考慮して付き合っていますが、最近他に私たちよりも若い男性に惹かれているみたいなことを匂わせていましたね。」
と言った。そしてすぐ続けて 
「申し訳ありません。社長の大切な人をお預かりしているのに。」
と詫びた。
 私は内心では必死に笑いを堪えて、しかももう今度こそ私以外に沢柳本人はいないのだと妙に開き直りもしながら(しかし本当は今回も沢柳本人は生きているのに島津を送り込んで本当に自分が死んだということを偽装している可能性もゼロではない。それくらいやる人だからこそ私をサハシーは替え玉として送り込んだとも言えた。しかしその頃私は既に替え玉をリタイアしていたので、意外と素直に島津の言うことを信じていたのだ。しかも彼のあの目つきが本当らしいと私には思えたのである)
「それは仕方ありませんね、彼女は若いけれど、私たちはそう若くなどないですからね。」(「ヴェロニカの奴!」とでも言うべきだったか?)
とぞんざいに山田に告げた時、あるいは沢柳が私にヴェロニカの相手まで宛がったのは、彼女の情熱に沢柳が辟易していたからだったのかも知れないと思った。そう言えばセックスの主導権も殆ど常にヴェロニカが握っていた。しかし不思議と替え玉の方にしてみればその方がずっと楽だった。それに比べ私にとってサリーの方がずっと御し難い相手だった。私はついでにサリーのことも聞いた。
「サリー・フィッシャーさんの方はお元気ですか?」
 すると山田は
「社長の仰るように誕生日にはバースデーメールを送ろうと思ったんですが、一緒にフランスのリヨンでの経済会議に出席していたので、彼の地の店でその晩プレゼントを渡しました。」
と言った。私は何を渡したか急に気になり聞いた。
「何をプレゼントなさったんですか?」
すると山田は
「何ていう名前だったかな、社長に教えて頂いた彼女の娘さんが贔屓のロックバンドのギタリストがオークションをかけてこれまで使っていたギターをヒーリーに落札させました。」
と言った。私は意外と粋な計らいをする男だと感心しながら
「それは巧くしてくれましたね。そんなオークションをあのロックバンドのギタリストがしたんですか?」
 すると山田が
「ええ、ジム・クラークの弟さんが有名な作曲家だそうで、その人がジムに教えてくれたそうです。」
と言った。私も副社長のジム・クラークの弟が世界的作曲家であり現代クラシックオーケストラ用の交響曲から、映画音楽まで担当する人であることは知っていたが、私が在任(?)中には一度も会うこともなかった。沢柳の山荘での話しでは彼も一度も会ったことがなかった筈だ。私は急にそのことも気になって
「あなたはその作曲家とはお会いになったんですか?」
と聞くと山田は
「いいえ、ジムから話を聞いただけです。」
と答えた。
 しかし山田が急に襟元を正すような態度になったので私は来るべきものが来たと思った。
「ところで私の任務期間もそろそろ終了ですけれど、そこら辺はどうして頂けるんですか?」
と彼が聞いてきたのである。私は咄嗟に
「退職金のことですか?」
と尋ねると
「ええ、それもありますけれど、今後の身の振り方とかね、そういうことを指南して頂きたくて。」
と殊勝な態度でそう言った。私は山田のその言葉を聞いた時自らの中に沸々と悪の心が芽生えるのを感じ取っていた。最早仮に沢柳が生きていても、それは恐らくないのだろうが、それはそれでよい、自分が山田を操ってやろうと思い始めたのだ。山田が悪辣な奴だったなら、私を逆に脅すことも出来た筈だ。しかし私は沢柳に対してそうするほど悪辣でも間抜けでもなかった。そういう意味では山田もまた私と似て私に対して忠誠を尽くしている。しかしある意味では沢柳さえ最初は私を操れると思っていたに違いない。しかし徐々に本当のリタイアリーになっていったのだ。そこで私は試しに山田に聞いてみた。
「もしこのままあなたの好きなようにスカイスレッダーを経営し続けることがあなたの裁量で出来ることなら、やってみますか?」
 すると山田は 
「えっ、本当ですか?そんなこと許されるんですか?」
そう言った。私は山田に対して推し量ってきたイメージをやや裏切るようなその乗り気な態度に少々狼狽しながらも、それを一瞬押し留めて
「やる気がおありなようですね。」
と言った。
「いえ、そうご命令なら、社長がですよ。」
と言ったその口調と表情から私は山田が意外と素直な性格で悪辣さとは今のところそう関わりないと踏んで
「ではお願いいたしますよ。もし何か不都合なことがあればいつ何なりとお尋ね下さい。そうか、それはよかった。だってあなたはずっとオーストラリアで外資系の商社にお勤めになっていらしたんですから、私よりもずっと経済には明るい筈でしょう。」
 と言った。沢柳自身も彼の山荘での語りによると経済学部でも、経済関係の仕事をしてきたでもなかったということを私は知っていたので、別に本当に矛盾している話でもなかったのだ。
 私は腕時計を見た。するとあと五分くらいで私以外の俳句仲間たちの昼食会がレストランで終わる時刻だったので、私は山田を出来る限り見られないように、早々と帰すように嗾けながら
「暫く遣ってみて下さい。私が何とかするような立場では既にありませんし、そうですね、報酬の方もヒーリーとクラークとストーンランドに相談して決めて下さい。」
と急いだ口調でそう言うと
「分かりました。やってみます。また色々ご指南下さい。」
と言った。彼は
「またメール致します。」
 と言って足早に私の元から去って行った。その後姿を見てヴェロニカも引き継がせると彼に述べた時彼はあまり私が沢柳から告げられた時のように狼狽しなかったことを私は思い出した。それから三分くらいして私が本堂から出て待っていると向こうから俳句仲間の五人がやってきた。そちらを見ると既に山田は門を潜って出ていてこちらからは見えなかった。一度も彼はサングラスを外さなかったので、誰も私と瓜二つの男がいたとは気づいていないようだった。
 皆私に対して笑顔で
「お知り合いとは会われましたか?」
と須賀が代表して聞いてきた時、私は作り笑顔で
「ええ。久振りに会った昔の友人でして。」
と嘘をついた。
 皆で暫く広隆寺境内をうろうろ本堂を出たり入ったりして楽しむと、嵐山へ向けて以前の吟行の時には降りた駅から京福嵐山線で更に西に移動した。
 私はその日どこを訪れたかさえよく覚えていないのだ。それくらい二人、つまり島津と山田との会見が頭にずっとこびりついていた。他の皆が必死に俳句を作りながら歩いている姿がぼやけて見えた。
 私たちはその日も全ての行程を経て再び京都駅に戻り、今度は祇園の料亭で句会をした。少し高い料金だったが、今回は流石の若手近田も自費で参加した。
 その日の句会で私は次の句を投句した。

菩薩見て悪の華咲かす月下香

 そろそろ初夏も近づいている。そこでこういう句を作ったのだ。月下香とは夜間に咲いて強烈な香りを放つ中央アメリカ産の中ペチュローズの和名で、ヒガンバナ科の多年草である。晩夏から秋にかけて咲く。花言葉は危険な快楽である。勿論菩薩の清らかさを見て広隆寺で山田を利用出来るかも知れないと初めて思った気持ちを詠んだのだ。清らかさとは一歩間違えるとその清らかさに比して自らの悪辣を知り、その清らかさを陵辱したいという欲望を生む。山田は清らかな性格なようだった。だから私は山田が私よりももっと悪辣であってくれれば逆に私の中の清らかさを知ったかも知れない。しかし彼はあるいはそういうことあるかも知れないと思ったように私を脅迫してくることもなかった。だから私が沢柳を脅迫することが出来なかったのは私の清らかさからではない。沢柳の悪辣さに対する真実の恐怖からかも知れないと初めて山田の無垢な態度に接して私は気づいたのだ。私はあの時イタリアンレストランであの突拍子もない申し入れを断ったならあるいは島津に消されていたかも知れないと島津と会ってから山田と会った後の翌日の句会で私は想像したのだ。
 と言うのも島津は私に含み笑いをしたような表情でこう言ったと私は句会の時、その日は何かいいことでもあったのか、妙に快活に一人で上機嫌に笑い声を上げる島田の声も殆ど耳に入らずに思い出していたのだ。確かに島津はこう言った。
「悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってある」
 これは私が彼にとっていい集団ということであるなら、恐らく私がサハシーの突拍子もない申し出というか依頼を私が承諾することを意味し、悪い集団というのは私があるいはサハシーの申し出を挿げにしていたなら私は俄かに沢柳社長の目論みを知る者となり危険人物となるということを意味し、彼にとってあの時私は態々フランスから会いに来ることになった人物ではなかった、つまり私は殺されていたということを意味するものだったのだろうか?
 暫く皆が自分で選んだ句を読み上げている時に私はそれなりにその時に思念していたことの結論を出した。
 私はただ単に私の中のサハシーに対する畏怖の念を尊敬心に変えていたのだ。自分の意気地なさを認めたくなかったからである。よく考えればプロレスラーとしての生活から引退を余儀なくされた島津のような豪腕な男さえ操った男が沢柳だったのだ。彼が生きていたとしてもその悪辣さは変わらない。寧ろいつまで経っても私は彼のニセモノ、替え玉、ダミーいずれも本物ではいられない、と。
 そしてそれを彼(島津もそうだし、沢柳もそうである)は知っている。つまり一番その時の私にとって重要なことは、私が替え玉CCEОであったことを知っているのはサハシーが生きていれば彼と島津だけであり、サハシーが島津が言うように本当に死んでいれば島津一人だけである。つまり私は島津の人格を彼の私を見る瞳の輝きを真実のものであるかどうかを見極めることが出来るか否かで私の秘密を知る者が世界で一人か二人かを知り得るのである。
 その日私が投句したものの中で月光香の句が最も評判が悪かった。
 私はその日の句会での皆の会話の内容を殆ど今では覚えていない。それは最初の句会での会話が印象的であったことと対称的である。