Sunday, November 8, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑰

 その日の吟行は前回の時よりは言葉が少なめだった。もう大体の相互の性格とか考え方が分かったからなのか、風景とか、名所旧跡に立てかけられた説明書きとかに熱心に見入るということも多かった。また私自身が吟行をしながら振り切れないくらいの強烈な思いが去来していたからかも知れない。私と風体はそっくりなある同世代の私の人生を全く思いも寄らない方向へと誘った男の突然の死に対して私は京都という地がかつて多くの武将や僧侶や詩人たちの命を彼らの血と共に吸収していったことを想起しつつ、人間の死ということを想念せずに歩くことは出来なかった。しかも沢柳に影法師のように付き纏っていた壮年男性が私に態々彼の死を知らせるために会いに来たのだ。それらの思いがメモ帳を開きながら時折句が浮かぶと書き留めるということの内に無意識に私自身の死生観が滲み出るということを抑えることが出来なかった。
 だから必然的にその日仁和寺や幾つかの禅寺を回って夕方に持つことになった京都国際ホテルでの句会での私の句は他の五名から「一体誰の句なんだろう」と思われ、無記名で投句した後で皆に選ばれた句に対して作者が名乗りを上げる時、私が須賀と吹上と共にその日は最も多く句が選ばれたのだが、「半年前の時とは作風が変わってきた」というのが皆の共通した印象であった。その句会が終ってから例の如く近田が先輩として敬う吹上に対してこんな質問をした。
「吹上さん、文学と哲学の違いって何だと思いますか?」
 すると暫く思案しているような表情を見せた後、吹上が
「こういう句会でもいいですが、趣味の集いのような場で人生の一切の精力を注ぎ込むことは俳句だけを取ればいいことですよね。でもプロの俳人でない限りこういう席で誰より抜きん出ようとする意味は、社会的地位が安定した人にとっては大したことないかも知れないですよね。誰か別の人に勝ちを譲ることが社会的地位に相応しい態度です。だから社会的地位が不安定でこういう趣味の集いでしか自らの手腕を発揮出来ない人がいたとして社会的地位の安定した人に花を持たせられて喜んでいるとしたらそういうのって何か哀れな感じがしますね。そういう人間の機微を描出するのは文学では面白いかも知れないけれど、哲学ではどうですかね。哲学ではそういう社会的人間関係そのものの機微がどうのこうのにはあまり関心を持たず、寧ろそういう時に何故人間は他者を哀れに思うのかとか、何故そういう風に趣味の集いに全精力を傾ける人に対して社会的地位の安定した人が憐憫の情を持つのかということ自体を分析しようとするでしょうね。要するに哀れさの描出を文学が得意とすれば、哲学は哀れさの根拠を説明し得るものとして、そういうような違いと理解していてここは間違いではないのではないでしょうか?」
 と言った。この時私は以前もそうだったように、吹上は簡潔明瞭に説明する才に長けていると思った。しかし吹上がそう言った瞬間間髪を入れず桑原が
「でも哲学者は社会的な意味での人間間での哲学には関心がなさそうだな。例えば科学者の哲学がどういうものかには多少興味があるかも知れないけれど、デリヴァリーヘルス穣の哲学っていうようなことに関心があるように思えないな。」
と言った。それに対して吹上が
「要するにデリヴァリーヘルス穣の考えている生き方がどういう風に説得力があるかという風には考えるでしょうけれどね。」
と言った、すると桑原が
「要するに哲学者は言葉によって全てを考えるっていうわけですね。」 
と確認すると吹上が
「まあ、そういうところはありますね。」
と頷いた。すると桑原は
「そういうところが文学者とは違う気が僕はするね。つまり文学者は対人感情的に他人をデリヴァリーヘルス穣がどう考えるかとかに関心があるような気がするから、それは言葉で考えると言うより、身体で考えている気が僕はするな。」
と言った。すると近田が
「それは考えることにおけるタイプの違いということですね。」
と言うと、頷いて吹上は桑原にも近田にも反論はしなかった。
 しかし私の脳裏にはどこかそういった観念的な論議にもかかわらず気もそぞろで、翌日会う約束をしている山田のことがなかなか消し去れなかった。そういう表情は皆に伝わっていたのだろうか?幸いその日島津に会いに行ったことを問い質すような者は一人もいなかった(須賀にだけ二日ともメールで昼食時だけ中座したい旨を伝えてあった)。
 結局初日は私と近田と吹上が三人部屋で同室に、桑原と須賀が二人部屋で同室だったが、これと言って宿泊した部屋の配分で翌日の対話する相手が決定されることもなかった。以前の時と違って句会の後これと言って何もしないままで各自自由時間を過ごしていたからである。句会そのものを共にするという段階から、句会の内容そのものを充実させていこうという段階に移行したということである。
 
 私たちは二日目には京都駅前のバス発着所の立て札が立ち並ぶ一角に集合し、そこからバスに乗って寺巡りをする予定であった。島田は例によって電車に乗って自宅から現われた。しかし私の心は殆どその日の正午に広隆寺で落ち合う約束をしている山田の現在の様子とかこれまで替え玉CEОを二重の意味でこなしてきているものの本人は本物の沢柳の替え玉であると固く信じている山田の私に向けられた態度がどういうものであるだろうという未来の想像へと振り向けられていた。だから島田が私にある一言を言ったことを殆ど上の空で聞いていたのだ。しかし確かに後で思い出せばバス停で目的地の二条城へ行くバスを皆で待っていた時、島田は次のように言っていた。
「散見さん、いや郷田さん、素晴らしい翻訳の仕事をして下さって兼杉さんは本当に喜んでらっしゃいましたよ。」
私はその一言に対して
「そうですか。」
とだけ応えていた。そして更に島田は
「兼杉さんのお知り合いがあなたの翻訳なさった仕事を拝見して、何か仕事をあなたに依頼したいようだと兼杉さんが仰っていましたよ。」
と言ったようだったが、私はその時もただ
「そうですか。」
とだけ素っ気無く返答していたのだった。
 バスが到着して二条城へ向けて出発し、私たちは二条城に到着したが、前回と違って殆ど私的会話は皆交わさず、只管句作りに熱中していた。その時は一切記念撮影もせずに、風景を眺めては頭を捻るように思案している姿が殆どだった。私は自分で作る句が山田と再会することで得る何らかの不吉な情報に対する不安が読み取れるニュアンスの句が生み出されていた。
 二条城に到着してから城内を見学して一時間半くらいしてから須賀が
「そろそろ広隆寺の方へと参りましょう。」
と言った。須賀が三月中に送信したこの句会の誘いのメールの後で四月に追伸を須賀は皆に送信したことがあって、そのメールは皆が以前来た時に訪れた場所でもう一度訪れたい場所があれば明記して欲しいという内容だったが、返信した五人の要望で一番多く一人を除いて四人とも選んだのが広隆寺だったのだ。そこで再度そこに行くことになった。広隆寺まではタクシーで行くことにした。タクシーがいいと発案したのは桑原だった。
 桑原と私と須賀が、そして近田と島田と吹上がそれぞれ乗って広隆寺に到着した時は正午近かったので、予定通り私は皆が寺に入る前にまず食事するという既に須賀が予約しておいてくれた大正時代風の建物の中にあるレストランに入る前に一同から中座して、広隆寺に急いだ。私はレストランには戻らないで広隆寺境内で待っていると須賀に告げた。
 流石に一同から中座するのが二日目なので桑原と島田が
「散見さんは色々とお忙しい方でらっしゃいますね。」
と皮肉交じりに、しかし一体どんな人間とこう続けて約束があるのだろうというような表情を浮かべてそういうようなことを言った。しかし近田と吹上は一切無関心というような風情だったこともまた印象的だった。
 しかし私は島津の言葉が妙に気にかかっていた。
「でも今の替え玉さんは現況の世界経済情勢も手伝っていますが、なかなか苦闘なさってらっしゃいますね。」
 あれはただ単なる皮肉だったのだろうか?
 この京都旅行を終えてシンガポールの自宅に戻ってから真意を問い質してみようかとさえその時思ったが、すぐ私はただ今自分は山田にどう対応されるか、そのことが気掛かりなだけであると思い直した。
 私が指定した広隆寺本堂の弥勒菩薩の前にサングラスをかけた私と同じ中肉中背の中年男性が立っていた。すぐに私は山田三好だと分かった。
 私より先に向こうから声をかけてきた。
「沢柳社長、もうこっちは大変ですよ。」
と小声で山田は私に泣きつくような仕草を見せた。私は出来る限り平静さを装って 
「どういうことですか?世界同時不況という意味でですか?」
と問い質すと
「それもありますよ。資産査定とか色々しなければならないこともありますけれど、スカイスレッダーの税理士と話し合ったこともあったんですけれど、あまりリストラはしなくて済みそうです。今日はさっきまで所沢の支社で川上さんと日程の打ち合わせをしてきたところです。」
と山田は返答し今日の経緯を報告した。
 決算報告が近づいてきていたのだ。株主会議もある。私は
「ここを出て外で話しましょう。」
と提案すると山田はサングラスをかけたまま私と共に本堂を出た。
 歩きながら私は山田にこう言った。
「あなたには申し訳ないという気持ちもあるんです。こんな酷い不況に見舞われるなんて思いもよらなかったものですから。ところでミューズソケット社との件はどうなりましたか?」
と弁解口調で私は山田に告げてから質問をした。
「まあ今後の交渉次第っていうところで保留になっていますね。」 
と渋い表情で返答した。
 しかしポータルサイトビジネスはそれでもまだ景気がいい方である。ただ製薬会社Kや、その他の提携先がリストラを断行しなくてはならないとかの色々な憂き目に合っていたので、テレビのニュースでも何度か私はスカイスレッダーの行く末を外側から観察することくらいなら出来たのだ。特に翻訳の疲れを癒すために時々つけたニュースでは英語に翻訳したものを聞いて何とか世界情勢を知ることも出来たし、ネットでもよくニュースは見ていた。しかし必ずしもスカイスレッダーだけが時の人というわけではなかったのだ。
 私は提携先の株式相場の下落とかの要因による経済的打撃に対して山田に対してあまり慰めにもならないような一言を告げていた。
「産地偽装とか汚染米のような問題はIT関連事業では起こらないし、こんな時代でも未だましな方ですからね。そもそも情報に本物もニセモノもないですからね。それは嘘の情報ではない限り受信するパソコンがどんなに旧式のものであれ、解像度の高い高性能のパソコンであれ情報が情報である価値という意味では等価ですからね。」
 と言った。ニセモノがニセモノに共感したような台詞だったので自分で苦笑することを私は必死で堪えていた。しかし山田は意外と従順そうな性格だったのだろう、そういうことを見抜くほどメタ認知能力が優れた人物でもなさそうだった。そして再び島津の言った一言を山田の顔を見る時重ね合わせて考えていた。そして急にヴェロニカのことが気掛かりになって私は山田に質問した。
「ヴェロニカとは巧くやってくれていますか?」
 すると山田は急に真面目腐った態度となり
「社長が山梨県の山荘で指南して下さったように何とか彼女の趣味とかを考慮して付き合っていますが、最近他に私たちよりも若い男性に惹かれているみたいなことを匂わせていましたね。」
と言った。そしてすぐ続けて 
「申し訳ありません。社長の大切な人をお預かりしているのに。」
と詫びた。
 私は内心では必死に笑いを堪えて、しかももう今度こそ私以外に沢柳本人はいないのだと妙に開き直りもしながら(しかし本当は今回も沢柳本人は生きているのに島津を送り込んで本当に自分が死んだということを偽装している可能性もゼロではない。それくらいやる人だからこそ私をサハシーは替え玉として送り込んだとも言えた。しかしその頃私は既に替え玉をリタイアしていたので、意外と素直に島津の言うことを信じていたのだ。しかも彼のあの目つきが本当らしいと私には思えたのである)
「それは仕方ありませんね、彼女は若いけれど、私たちはそう若くなどないですからね。」(「ヴェロニカの奴!」とでも言うべきだったか?)
とぞんざいに山田に告げた時、あるいは沢柳が私にヴェロニカの相手まで宛がったのは、彼女の情熱に沢柳が辟易していたからだったのかも知れないと思った。そう言えばセックスの主導権も殆ど常にヴェロニカが握っていた。しかし不思議と替え玉の方にしてみればその方がずっと楽だった。それに比べ私にとってサリーの方がずっと御し難い相手だった。私はついでにサリーのことも聞いた。
「サリー・フィッシャーさんの方はお元気ですか?」
 すると山田は
「社長の仰るように誕生日にはバースデーメールを送ろうと思ったんですが、一緒にフランスのリヨンでの経済会議に出席していたので、彼の地の店でその晩プレゼントを渡しました。」
と言った。私は何を渡したか急に気になり聞いた。
「何をプレゼントなさったんですか?」
すると山田は
「何ていう名前だったかな、社長に教えて頂いた彼女の娘さんが贔屓のロックバンドのギタリストがオークションをかけてこれまで使っていたギターをヒーリーに落札させました。」
と言った。私は意外と粋な計らいをする男だと感心しながら
「それは巧くしてくれましたね。そんなオークションをあのロックバンドのギタリストがしたんですか?」
 すると山田が
「ええ、ジム・クラークの弟さんが有名な作曲家だそうで、その人がジムに教えてくれたそうです。」
と言った。私も副社長のジム・クラークの弟が世界的作曲家であり現代クラシックオーケストラ用の交響曲から、映画音楽まで担当する人であることは知っていたが、私が在任(?)中には一度も会うこともなかった。沢柳の山荘での話しでは彼も一度も会ったことがなかった筈だ。私は急にそのことも気になって
「あなたはその作曲家とはお会いになったんですか?」
と聞くと山田は
「いいえ、ジムから話を聞いただけです。」
と答えた。
 しかし山田が急に襟元を正すような態度になったので私は来るべきものが来たと思った。
「ところで私の任務期間もそろそろ終了ですけれど、そこら辺はどうして頂けるんですか?」
と彼が聞いてきたのである。私は咄嗟に
「退職金のことですか?」
と尋ねると
「ええ、それもありますけれど、今後の身の振り方とかね、そういうことを指南して頂きたくて。」
と殊勝な態度でそう言った。私は山田のその言葉を聞いた時自らの中に沸々と悪の心が芽生えるのを感じ取っていた。最早仮に沢柳が生きていても、それは恐らくないのだろうが、それはそれでよい、自分が山田を操ってやろうと思い始めたのだ。山田が悪辣な奴だったなら、私を逆に脅すことも出来た筈だ。しかし私は沢柳に対してそうするほど悪辣でも間抜けでもなかった。そういう意味では山田もまた私と似て私に対して忠誠を尽くしている。しかしある意味では沢柳さえ最初は私を操れると思っていたに違いない。しかし徐々に本当のリタイアリーになっていったのだ。そこで私は試しに山田に聞いてみた。
「もしこのままあなたの好きなようにスカイスレッダーを経営し続けることがあなたの裁量で出来ることなら、やってみますか?」
 すると山田は 
「えっ、本当ですか?そんなこと許されるんですか?」
そう言った。私は山田に対して推し量ってきたイメージをやや裏切るようなその乗り気な態度に少々狼狽しながらも、それを一瞬押し留めて
「やる気がおありなようですね。」
と言った。
「いえ、そうご命令なら、社長がですよ。」
と言ったその口調と表情から私は山田が意外と素直な性格で悪辣さとは今のところそう関わりないと踏んで
「ではお願いいたしますよ。もし何か不都合なことがあればいつ何なりとお尋ね下さい。そうか、それはよかった。だってあなたはずっとオーストラリアで外資系の商社にお勤めになっていらしたんですから、私よりもずっと経済には明るい筈でしょう。」
 と言った。沢柳自身も彼の山荘での語りによると経済学部でも、経済関係の仕事をしてきたでもなかったということを私は知っていたので、別に本当に矛盾している話でもなかったのだ。
 私は腕時計を見た。するとあと五分くらいで私以外の俳句仲間たちの昼食会がレストランで終わる時刻だったので、私は山田を出来る限り見られないように、早々と帰すように嗾けながら
「暫く遣ってみて下さい。私が何とかするような立場では既にありませんし、そうですね、報酬の方もヒーリーとクラークとストーンランドに相談して決めて下さい。」
と急いだ口調でそう言うと
「分かりました。やってみます。また色々ご指南下さい。」
と言った。彼は
「またメール致します。」
 と言って足早に私の元から去って行った。その後姿を見てヴェロニカも引き継がせると彼に述べた時彼はあまり私が沢柳から告げられた時のように狼狽しなかったことを私は思い出した。それから三分くらいして私が本堂から出て待っていると向こうから俳句仲間の五人がやってきた。そちらを見ると既に山田は門を潜って出ていてこちらからは見えなかった。一度も彼はサングラスを外さなかったので、誰も私と瓜二つの男がいたとは気づいていないようだった。
 皆私に対して笑顔で
「お知り合いとは会われましたか?」
と須賀が代表して聞いてきた時、私は作り笑顔で
「ええ。久振りに会った昔の友人でして。」
と嘘をついた。
 皆で暫く広隆寺境内をうろうろ本堂を出たり入ったりして楽しむと、嵐山へ向けて以前の吟行の時には降りた駅から京福嵐山線で更に西に移動した。
 私はその日どこを訪れたかさえよく覚えていないのだ。それくらい二人、つまり島津と山田との会見が頭にずっとこびりついていた。他の皆が必死に俳句を作りながら歩いている姿がぼやけて見えた。
 私たちはその日も全ての行程を経て再び京都駅に戻り、今度は祇園の料亭で句会をした。少し高い料金だったが、今回は流石の若手近田も自費で参加した。
 その日の句会で私は次の句を投句した。

菩薩見て悪の華咲かす月下香

 そろそろ初夏も近づいている。そこでこういう句を作ったのだ。月下香とは夜間に咲いて強烈な香りを放つ中央アメリカ産の中ペチュローズの和名で、ヒガンバナ科の多年草である。晩夏から秋にかけて咲く。花言葉は危険な快楽である。勿論菩薩の清らかさを見て広隆寺で山田を利用出来るかも知れないと初めて思った気持ちを詠んだのだ。清らかさとは一歩間違えるとその清らかさに比して自らの悪辣を知り、その清らかさを陵辱したいという欲望を生む。山田は清らかな性格なようだった。だから私は山田が私よりももっと悪辣であってくれれば逆に私の中の清らかさを知ったかも知れない。しかし彼はあるいはそういうことあるかも知れないと思ったように私を脅迫してくることもなかった。だから私が沢柳を脅迫することが出来なかったのは私の清らかさからではない。沢柳の悪辣さに対する真実の恐怖からかも知れないと初めて山田の無垢な態度に接して私は気づいたのだ。私はあの時イタリアンレストランであの突拍子もない申し入れを断ったならあるいは島津に消されていたかも知れないと島津と会ってから山田と会った後の翌日の句会で私は想像したのだ。
 と言うのも島津は私に含み笑いをしたような表情でこう言ったと私は句会の時、その日は何かいいことでもあったのか、妙に快活に一人で上機嫌に笑い声を上げる島田の声も殆ど耳に入らずに思い出していたのだ。確かに島津はこう言った。
「悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってある」
 これは私が彼にとっていい集団ということであるなら、恐らく私がサハシーの突拍子もない申し出というか依頼を私が承諾することを意味し、悪い集団というのは私があるいはサハシーの申し出を挿げにしていたなら私は俄かに沢柳社長の目論みを知る者となり危険人物となるということを意味し、彼にとってあの時私は態々フランスから会いに来ることになった人物ではなかった、つまり私は殺されていたということを意味するものだったのだろうか?
 暫く皆が自分で選んだ句を読み上げている時に私はそれなりにその時に思念していたことの結論を出した。
 私はただ単に私の中のサハシーに対する畏怖の念を尊敬心に変えていたのだ。自分の意気地なさを認めたくなかったからである。よく考えればプロレスラーとしての生活から引退を余儀なくされた島津のような豪腕な男さえ操った男が沢柳だったのだ。彼が生きていたとしてもその悪辣さは変わらない。寧ろいつまで経っても私は彼のニセモノ、替え玉、ダミーいずれも本物ではいられない、と。
 そしてそれを彼(島津もそうだし、沢柳もそうである)は知っている。つまり一番その時の私にとって重要なことは、私が替え玉CCEОであったことを知っているのはサハシーが生きていれば彼と島津だけであり、サハシーが島津が言うように本当に死んでいれば島津一人だけである。つまり私は島津の人格を彼の私を見る瞳の輝きを真実のものであるかどうかを見極めることが出来るか否かで私の秘密を知る者が世界で一人か二人かを知り得るのである。
 その日私が投句したものの中で月光香の句が最も評判が悪かった。
 私はその日の句会での皆の会話の内容を殆ど今では覚えていない。それは最初の句会での会話が印象的であったことと対称的である。

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