Friday, November 20, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>㉑

 今回は初めて新幹線で京都へ行った。本当は前回もそうすべきだった。何故なら島津と山田に会うことで殆ど吟行そのものに神経が集中することなどなかったからだ。その証拠に今ではその吟行でどの寺や神社に訪れたか全く思い出せないのだ。しかしその前は最初に訪れた時に三泊二日の学生旅行的気分だったからこそ、須賀が紹介してくれた面々と久し振りに生きた心地の旅行を味わえたのだ。だから二度目も京都に到着する前日の夕方以降に成田に到着する便でシンガポールから旅立ったのだ。しかしその時は流石に私は学生旅行の気分を思い出す心の余裕などなかった。それもその筈である。私の策略が配下の人間であるマイクにだけはとっくに見抜かれていたからである。その時現在で私から山田へのチェンジを知っていたのはマイク・ストーンランドと島津、そして薄々勘付いていたのがサリーだった。勿論そのことを山田は気づいてもいないだろう。つまりそういう山田の鈍感さを私は最初に見抜けなかったということがある意味では私の最大のミステイクだったのかも知れない。

 京都駅に新幹線で到着して広隆寺へタクシーを飛ばして門の前で降り本堂へ向かった時には大分蒸し蒸ししてきていた。私はメールの文面に∧この前みたいにサングラスをかけて来い∨と命じた。すると既に私よりも先に彼は弥勒菩薩の前に佇んでいて、私の方にちらりと目をやると少し微笑んだ。こういう風にいつも先に来ているところがなかなか礼儀のある奴だと私は思った。
 山田は
「どうもお久し振りです。あれから丁度一ヶ月ですね。」
と言って私に握手を求めた。
「今回は川上支社長のところにも行ってこられたんですか?」
と私が聞くと山田は
「いいえ、今回は沢柳さんにお会いするためだけです。」
と山田は言った。私は彼を本堂から出てあまりひとけのない一角へと誘い出しながら
「単刀直入に申し上げたいのだが、あまりあなたの決裁の態度とかでの評判がよくないんですよ。」
と言うと山田はやっぱりそうだったのかというような表情を浮かべ
「やはりそうでしたか。」
と項垂れるようにして溜め息をついた。
「そこでどうだろう、今後もずっと引き続き替え玉を演じていく積もりですか?」
と聞くと山田は私があるいはと想像したのとは逆に
「いいえ、私にはもう殆ど耐えられないんですよ。こんな仕事。どんなに高額の報酬を頂いたって生きた心地がしないんですから。」
と私に泣きつくような態度を示した。この時私は決心したのだ。もう一度私が沢柳に成りすまそうと。
 山田が縋りつくような表情でこう言った。
「今後の身の振り方を真剣にここニ、三ヶ月考えていたんです。」
私は山田のその言葉を受けて 
「じゃあ、これからはあなたに代わって貰って一旦秘密のリタイアをした後の私の替え玉となって生きていって貰うかな。」
と言った。
「沢柳社長は今どういう名前で生活されているんですか?」
と山田が質問してきたので、もうここまできたら、彼に私、つまり翻訳家、郷田守として入れ替わって貰うより他ないと悟ったので
「郷田守と名乗っているんですよ。」
と教えた。
 彼がどんな字ですかと尋ねるので私は水郷の郷に田んぼの田で守りに入るの守るだと教えた。それから私はシンガポールの住所と私のマンションに置かれてあるパソコンの操作方法、翻訳業務のいろはとこれまでの仕事上の経緯、郷田守としての俳句仲間や翻訳業務でのクライアントの情報を事細かに教えた。しかし俳句の句会の誘いにはどんなに仕事が暇でも決して参加せず、仕事が忙しいので欠席するように命じた。俳句だけはそう簡単に私の作風まで真似て他者を誤魔化すことなど出来はしない。ヴェロニカを引き継がせるよりもそれは大変なことなのだ。
 私は山田に更にこれまでの山田による決裁の色々を教えて貰った。と言うのも私自身その頃では殆ど翻訳業の方に忙しくスカイスレッダーの私が降りた後の成り行きに疎くなっていたからである。 
 山田と話しながら腕時計を見ると既に四時近くなっていた。私は山田にシンガポールでの生活上で注意すべきことを何回も念を押して、予めメールで指示しておいた通りに彼が持ってきたパスポートと自分が持っている郷田守としてのパスポートを交換した。山田とはそのまま広隆寺を出たところで別れ、山田はタクシーでそのまま大阪国際空港に直行しシンガポールに向かい、私はタクシーで京都駅まで行き、そこから新幹線で東京まで再び戻り、久し振りに川上節夫(尤もそれは金城悟による替え玉としてであって、向こうにとってではないが)に日程上の調整のための会議に出席するために所沢まで西武新宿線の特急「小江戸」の乗り二駅目の所沢で下車した。

 それにしてもここ数ヶ月須賀から来たメールで秋の京都を歩いた時から暫く吹上他の俳句仲間、あるいは句会の後島田を通して得た翻訳の仕事での兼杉や飯島といった人たちとの間で取り交わされた交流や人的ネットワークや本当のところ今は亡き沢柳の怨念や島津の忠誠心に心を多少掻き乱されながらの日常から今度はいきなりそれより一年前まで遡る全く異なった人的ネットワークへとひょいと乗り移ることは、それをするまではどこか心の中に不安を感じざるを得なかったものの、案ずるより生むがやすしで、私はすっかり所沢駅を出て日本支社にタクシーで向かった時には沢柳の気持ちにシフトしていたことは不思議だった。
 とは言うものの、私自身は「大丈夫だ、俺は山田とは違ってオリジナルなコピーである」と言い聞かせていたが、本当は山田からまた替え玉の面子が替わることで周囲に不協和音を立てるのではないかと懸念したが、その心配をよそに川上も、相川も、友部も、島村も寧ろ以前よりも私に対する接し方はよかった。その証拠に私が例の古めかしいマンションで夕食を友部の作った料理を食べた後、相川と共にマンションのテレビで十時頃ニュースショーを見ていたが
「以前の溌剌とされた社長の意気が戻ってきたようだって、川上支社長が仰っていましたよ。私もそう思います。」
と私に囁いたのだ。
 いよいよ明日は予め山田が用意させていた自家用ジェット(アメリカ国内ではそれを利用すると国民に非難されるから避けていたが、今回のような臨時の帰国(山田にとって)の場合には帰路は調布の飛行場から飛び立つことが多かったのだ)でアメリカのサンタフェまで行くのだ。一年数ヶ月前までのあの目まぐるしいビジーネスがまた私に戻ってきた。
 私を最も感動させたことというのはサリーがとても喜んでくれたことである。とは言え他の社員にとってはいつもと変わりないことなので、彼女は瞳だけでそれを私に示した。その時ふと私は島津が一切を沈黙したままでいたと言っていたが、本当は全てをサリーは理解し私から山田に交代したことも気づいていたのではないかとその笑みを見て思ったのだ。しかしその時はまだ私には想像の域を超えていなかった。
 しかし沢柳がこの事業を立ち上げた時と大分事情が変わってきていたというのが私の実感だった。ポータルサイトビジネスも、検索ソフトの開発にしても、最も需要の大きなコンテンツとは地方向けの利便性だったのだ。確かにITビジネスが最初に世界を席捲した頃というのは、世界中を一挙に駆け巡る情報という観点だった。そしてそれは今でも変わりなく需要があり続けている。しかしそれ以上に重要なことは自分が住むエリアでの細かい情報である。例えば態々遠くまで出掛けなくても近場で済む用事を多く作ることで時間を節約するということが現代人にとって必須の生きる知恵だからだ。その分空いた時間と金銭的余裕が逆にオフの時間のより充実したリッチな生活を保証するということこそスカイスレッダー社の今後のスタンスの取り方だったのである。その観点は幾分山田にもあったものの、私が再開した替え玉CEО職においてはより充実させていった。
 瞬く間に私が密かに返り咲いてから二ヶ月が経ちそろそろサンタフェも秋の装いが匂い立ってきていた。私はそろそろ五十の坂を上る年頃になっていた。私が替え玉CEОに着任した時には48歳だったが、50になるその年の秋私は「本当の」沢柳静雄のリタイアというものを考え始めた。あのエディー・レンディーさえ五十少しでリタイアした。この業界で40歳でも最早老人であると言われるビジネスで私は予想以上も長く続けてこられた。この年齢のことを考えた時沢柳が私に後を継がせる気になった気持ちも理解出来た。勿論彼は私と同年齢くらいだったが、私の場合彼の敷いたレールに乗っかっていればそれでよかった。創業者には創業者にしか分からない労苦というものがあるのだ。しかもサハシーが立ち上げた当時のビジネスの常識と、その頃の常識は先にも述べたが全く違ってきている。しかしだからこそサハシーは自分の名前を後世に残したくて私をダミーにして密かにリタイアしたのだ。だから私はその意志を継いで、山田があまり芳しくない評判のまま終らせるのではなく、一定の評価を得ていた私による采配によってサハシーに名誉あるリタイアをさせてあげなくてはならない。それが私にとっての影武者なりの誇りである。
 事実社内では既に私よりも九、十歳若いマイク・ストーンランドを後継に推す声が大部以前から上がっていた。私より五、六歳若いジム・クラークはかなり以前からマイクが社長に就任するのを機に独立することを考えていたようだった。結果的には全くその通りにほどなく落着することとなったのだが、それより前に私にとって第三の人生に邁進するだけではなく、決定的に第二にも第一にも一切回帰することが不可能になる事件に遭遇したのである。
 私がジムに自分の後を継いでくれないかと相談した時、彼の出した案は副社長に川上節夫、スコット・ヒーリー、日本支社長には相川というものだった。私は快諾した。全員私のよく知るメンバーであったからである。ヒーリーの後釜には顧問弁護士のレオナルド・岸田を私が推挙したら、マイクも賛同してくれた。そのことを会議で承認を得るために私たちは全ての経営陣の関係者を集めて臨時会議を開いた。そしてマイクが私の後を引き継ぐということは満場一致で承認された。そしてその際にジムは独立することを会議の際に宣言したのだ。
 全て後継のプランが会議で承認され決定された翌日午前中、来賓室にその日は一切来客がなかったので、借り切って、二人で来賓用のコニャックを飲みながらサリーの運んできてくれたオードブルをつまみながら、来賓室の大型画面の薄型液晶壁型テレビで大リーグ野球の試合を見ていたが、ニュースの時間になったのでチャンネルを換えて暫く二人は話しを中断させた。
 ニュースでアフリカ某国の自家用ジェット機が墜落したニュースをサンタフェの地方テレビネットワークのニュースで女性アナウンサーが読み上げた。その時ほどそれまでの私の人生で大きな衝撃を受けたことはなかったと言ってよい。何故なら私の本名である金城悟、つまりサトシ・キンジョウがその乗客にいたということだったからである。
 私はそれよりも数日前島津から、いよいよ教会落成記念式典のセレモニーミュージックをダニエル・クラークが作曲担当して指揮し、VIPが沢山招待されたそのパーティーの模様を取材することを私に代行するための最後の打ち合わせのメールを送信されていて、私はそれに対し、こと細かに指示し、色々なノウハウを伝授する内容を返信していたので、その日が記念式典の日であることを知っていた。私が飯島から承った内容によるとその教会はとても車で行くには時間がかかり過ぎる奥地なので、その国の中央空港から自家用ジェットで記念式典に参加する客を何回かに分けて運ぶというものだった。島津は山田が招待されるのではないかと言っていたが、幸い私にも実は招待状は来たし、作曲家の兄のジム・クラークにもマイクにも当然招待状は来たのだが、その日午後から重要な会議があったので全員参加できない旨を主催者のレンディーに伝えていたのだ。
 しかしレンディーは幸い別の便に搭乗していたし、ダニエルもそちらの方だったので、大丈夫だったが、気の毒なことに島津ら取材関連の人間は皆墜落した飛行機に乗っていた。
 そのニュースが報じられた時マイクはエディーやダニエルが大丈夫だったことをしきりに喜んでいたが、私だけは違った。勿論その時オードブルの追加を運んできていたサリーもマイクと同じ反応だったが、私も外見上ではそう装っていたが、島津が身代わりになって本来だったなら私が飛んでいたかも知れないジェット機に乗って遭難したのだ。そして私はその時名実共に金城悟としての人生に永遠に別れを告げなければならなくなったのだった。
 アナウンサーはすぐに次のニュース原稿を読み上げていた。
 そしてマイクが
「いやあ、よかったですね。レンディーさんたちが助かって。レンディーさんのような世界的な財産である天才実業家やダニエルのような世界的作曲家がそう簡単に死なれては世界の損失になりますからね。」
 確かに理性的に捉えればそうである。一度は敵対もしたが、ミューズソケット社の創業者であるエディー・レンディーがいなければ今頃世界はもっと不便だっただろう。そしてこの生き馬の目を抜く業界という奴は常に敵と味方がまるで戦国時代のように入れ替わることが茶飯な日常の連続であり、その連続に耐えられない奴は脱落していくだけであり、一度脱落したら誰も顧みない。忘れられた方が楽だと一年前は私もそう思っていた。しかし再度返り咲くと再び未練が擡げて来る。
 しかし私が山田を今後も利用出来るのではないかとあの時広隆寺で密かに内心愉悦に浸っていた時、山田には悟られないように悪の華を私は咲かせつつあったのだが、その悪を引っ込めるには不可能な地点に私は来ていた。私はそのニュースが報じられるのを見た瞬間、名実共に沢柳静雄になった。いやなるしか道は残されていなかった。金城悟は最早誰も知らない。確かに飯島だけが例外である。伊豆倉もそうだ。しかし伊豆倉はこちらから彼のギャラリーに訪れなければ向こうからやって来ることはない。そういう男であることを一番私が知っていた。実はその先私はこの二人の存在に対してどうしてもひっかかる思いを払拭することが出来なかったためにある暴挙に出るのだが、その時点ではマイクにもサリーにも悟られないように金城悟に対して別れの言葉を心の中で吐きつつ、最早確定申告をさも日本に滞在しているかのようにしてアイデンティティーを誤魔化しつつ生活する必要性がなくなったことを密かに祝っていた。
 マイクは他のニュースに移るとそのニュースのことを話題に上機嫌でコニャックを飲み干していた。そしてエコカー開発のニュースに移るとそのことを話題にして
「いやあ、しかし日本の電気自動車の開発は進んでいるけれど、世界中のガソリン車を退却させて、エコカーにするっていう時世界ではどのような騒乱になることでしょうね。アラブの石油王とかね。」
と言っていたが、私の頭の中では全て死んだ島津のこと、そして今後の自分の身の振り方についてだけ考えていた。私は栄誉ある撤退として未来永劫沢柳静雄の晩年を演じ続けなくてはならないのだ。

 私はその日会議に出席してからトムの運転する車でサンタフェの邸宅に戻ってから一人書斎に閉じ篭り一人予めネットで購入していたワインを飲みながら暫くじっとテレビもつけずに考え込んでいた。僅か二ヶ月前までは私はシンガポールの町並みを眺望出来るマンションで一人静かに島田からひょんなことから依頼されて再開して一定の成功を収めつつあった翻訳業に執心していた。しかし今や一転して全く異なった業務に就いている。しかしあの秋の京都旅行まではリタイアした人間の思考のモードだった。それは今再び始めた仕事の延長線にあった。しかし二度と同じような替え玉CEOに返り咲くことをしない積もりだったので、予想外にそうなってしまった。しかしそれもよく考えれば私は実は無意識の内に気弱そうで真面目そうな山田があまり芳しくない経営をしていくに違いないと思い、いつか自分で返り咲き、その時に山田を見下し、利用価値のある者として温存させるためにあの時彼を選んだのかも知れないと私は思った。それを言うならひょっとしたら島津に対して私は最初に話した時から好感を抱いていたのだが、その時無意識の内に彼が私、つまり金城悟として死んでくれればこれ以上のことはないとまで願っていたのかも知れず、その願いが案外彼の死を招き寄せたということもあり得るとまで考えを発展させた。すると途端に私は深い自己嫌悪に到達するのだった。
 しかし私は同時にあの今では既に懐かしい京都旅行での須賀による誘いに乗ったことで、思いも拠らず吹上や桑原、近田らと楽しい時間を過ごしたことで、郷田守としての生活もまた決して捨て難いなどとは言えないということの決してない無性に懐かしくもある日々となっていたのだ。私は既に島津の死によって沢柳静雄として生きることも、郷田守として生きることも両方とも捨てることが困難な地点に来ていることをはっきりと自覚していた。
 そしてその思いが強ければ強いほどある不安が私の脳裏を占領し始めた。
 それは飯島の存在である。
 もう一人伊豆倉もそうであるが、前にも述べたように伊豆倉は私、つまり金城悟が生きていても、それがそのニュースで報道された「私」であると確証出来ないだろう。また私が島津の死をもって日本にそのニュースがあった時私は日本にいなかったので、日本ではどのように報道されたかを知ることが出来ない(山田にも教えて貰うわけにはいかない)のだが、仮に金城悟として私が死んだということを伊豆倉が知ったとしても、私自身があのギャラリーに行くことさえしなければどうということはない。そもそも伊豆倉は国際的マーケットを相手にするディーラーではなく、国内の作家や国内で出回っている海外作家の作品を売買することで生計を立てている男である。世界的規模で歩き回ってきた私のアイデンティティーと金城悟としてのアイデンティティーを突き合わせるなどということは彼にあっては不可能である。私からあのギャラリーに出向かない限り彼の存在が私にとって脅威となることはまずないと言ってよい。
 またフランス在住の島津がフランスから自分のパスポートを使って、まず日本に来て、そこからアフリカまで飛んだとしても、私のパスポートを持っているのは山田である。しかしそのパスポートは郷田守として私が闇のルートを利用して四回目の山田との広隆寺で会う約束の時のためにその直前に仕入れていた偽造パスポートである。だから金城悟は法律上死んでしまった(仮に島津の死∧恐らく私しか知らない∨があの埼玉県の以前私が住んでいてマンションの住人としての金城悟であるということが発覚し得ないとしても、私が七年あのマンションに戻らず、しかも確定申告もしないで済ませば自動的に私は失踪宣告をされ、戸籍から抹消される)としても偽造人格ではあるとは言え、郷田守は死んでいない。尤も私、つまり郷田守としてのアイデンティティーが葬られるとすれば報道等によって私の死、つまり金城悟の死が世間一般に認知されることによってである。つまりもし私がこうしてその時サンタフェで悠々と生きているということが日本の報道によって発覚して伝えられたなら、その齟齬は一体どういうことかと世間の目はそこに犯罪の匂いを感じ取るのは必至である。またそれは郷田守として私と瓜二つの山田の存在が世間一般に認知されることによっても同じである。しかし前者の世間的認知の場合尤もそれを可能にするのは伊豆倉と飯島の証言のみであるが。
 ここで再び先ほどの問題に戻った。つまり伊豆倉は態々そんな証言をするほど社会正義とか、他人の人生そのものに関心すらないタイプの、それでいて律儀な商売人である。彼にとって脅威であるのは自分にとって脅威のある人間だけである。だからどんなに私が極悪な犯罪者であっても、彼は恐らくそのことで彼に対して私が脅威でない限り私を告発するようなことはまずない。しかし飯島は違う。彼は典型的に俗物なのだ。彼なら私の私生活に関心すら抱き、終いには私の生活の中に犯罪の匂いを未だ匂わない内から想定して嗅ぎつけるに違いない。
 だから逆に私は金城悟として死ぬ以上世間的な体裁の上では郷田守としても死ぬ必要があるのである。郷田守が死んでこそ初めて私は晴れて元スカイスレッダーのCEОとしての老後を保証されるのである。そうなると問題なのは、山田の存在である。しかし山田が今後私の申し出をどのような態度で応答するかという一点に彼の利用価値も、彼の脅威も存在し得るとだけは言えた。
 しかし困ったことに私は体裁上では島田と飯島が親しい以上沢柳を演じ続けるのにも無理がある。もし百歩譲って私が実は沢柳自身であり、オフの時間にお忍びで私的な行動をする時だけ郷田守と名乗っていると島田たち(あるいは吹上、須賀、桑原、近田のことである)に説得することが出来たとしても、私が金城悟であることを伊豆倉のギャラリーで紹介された飯島にはその言い訳は一切通じないのである。
 何度思い直してみても飯島の存在だけがネックとなって私に迫った。しかも困ったことには私にとって京都吟行の仲間たちは私の替え玉CEOをして心がずたずたになっているところに得たオアシスだったのである。それだから私は何としても、この絆だけは失いたくはなかった。しかし飯島はその人的ネットワークの枠から外れる。私の思考はそこで再び飯島だけが邪魔者であるという結論に達した。
 私はその厳然たる事実に覚醒した時真に悪に目覚めたと言える。何故なら飯島の殺害を企て始めたからである。
 しかし一旦殺害を実行するとなると、一番重要なこととは、私にとって安全な殺害方法と、自らは手を染めないということである。誰かに私がそれとなく何かをしかけさせ、しかも自分がしたことによって飯島が事故的に死ぬということを知らずにことが運ぶというシチュエーションしか私に火の粉が飛び散らない形での選択肢は残されていない。そこで私は即座に山田の存在を思い描いたのだ。まさにこういう時にこそ山田が利用出来ると私は思ったのだ。だからこそ人間は邪魔であると安易に判断してそれを捨てることをしてはいけないこともあるのだ。
 
 私はよく自分の気持ちを落ち着けさせるためにその時持っていたワイングラスの中のワインを一気に飲み干し、この三年半にあったことの全てをもう一度じっくりと想起し始めた。
 私の人生は世界が虚構めいて見えることが自然となるよりは虚構だけが世界であると益々自覚するものだった。それはこの三年半の急転直下において完成した。
 そのために私はパソコンを開きワードで次のように箇条書きにして文字を入力し、プリントした。(勿論これも日本語である)

① 伊豆倉のギャラリーに入り浸ることとなり、そこで飯島を紹介されたこと(尤もその時点で私の方から飯島の存在は大したものではなかったのだが、相手にとって私は印象的なものだったようだ。それにしてもああいうタイプの人間だけは始末に終えない。こともあろうにフリスコで私に声をかけてきやがった)
② 奇妙な募集に応じたこと、募集業務の適任者に選ばれたこと
③ 暫くして沢柳に出会ったこと、替え玉CEОになったこと
④ 沢柳が死んだと信じて自分で全て決裁して業務をこなしたこと、山田に引き継がせようと決心したこと
⑤ 沢柳が生きていてばったり出くわしたこと
⑥ 須賀からメールが届いたこと
⑦ その集いで島田に出会い、飯島と島田とが繋がりがあることが発覚したこと
⑧ 島津と出会い、沢柳の今度は本当の死を知ったこと
⑨ 経営に苦闘する山田と向こうから会おうと言われ再び会い最近の様子を聞いたこと
⑩ ストーンランドによって私が山田を替え玉にしてことを見抜かれたことを本人から伝えられ、携帯で米国に戻るように要請されたこと
⑪ ストーンランドの要請に従い山田を替え玉CEОから外すために彼の真意を確認してから彼を説得するために再度山田に会い、再び替え玉CEОに返り咲いたこと
⑫ 島津の死により金城悟の替え玉の死によって私は今後リタイアした沢柳として生きていかざるを得ないこと
⑬ にもかかわらず私が替え玉CEОとしての生活から足を洗った以降の人的ネットワークも捨て去ることが出来ないでいること
⑭ ⑫、⑬の要件を満たすためにはやはり飯島だけが余分な存在であることを確信したこと
 
 上記の箇条書を綜合して私は考えたのだ。
 しかしその時の私は未だそれが序曲であることに気づいていなかった。しかし飯島の殺害方法は気弱な山田でも実行し得ることでなければならない。そこで私はタミフルを何とか調達出来ないものかそのルートをネットで検索し始めた。闇のルートでよい。それは山田に殺せと命じるのではなく、タミフルを仕込んだ何らかの飯島の好きな飲み物を山田から飲ませるように仕向けることが最良の方法であることを思いついた。

 私はいざリタイアすることを決めたらいつまでもスカイスレッダーに留まっている積もりなどなかった。だから本当は山田が今いるポジションに戻りたいと思った。しかし山田こそ実は最も今後の私の人生での疫病神であるとも言えた。何故なら山田だけが私が選び、自分が私から選ばれた経緯を知っているからである。
 しかしその考えはサリーが薄々山田の存在をダミーであると気づき、ダミーを選んだことをしっかりと事実認知しているのはマイクだけである。ジムは気づいていたとしても事実認知しているのとはわけが違う。そこで再び私は山田が利用価値ある今後の道具として残しておくということの選択肢に有効性を認めた。
 そしていよいよ私が正式に引退を取材陣の前で記者会見をする日が近づいた。そして私は皆からこの十余年の間創業してから一途に業務に励んできた人間として本当なら殆どの期間を生きていたなら沢柳本人が祝福されるところを私が代わりに受けることになるのだ。
 それも一重に私のダミーとしての優秀さに拠るものである。そしてその私が沢柳のダミーであることを知る者はこの世には一人もいない、一人を除いて。それこそ飯島である。
 私は連日サリーやヒーリー、あるいは記者会見と、それに引き続き行なわれる予定だった私の引退セレモニーとジムの独立記念パーティーと、マイクの社長就任記念パーティーを兼ねた内外の著名人を集めたパーティーの準備に追われていた。
 しかしサンタフェの邸宅に戻ると私は密かに山田に私がシンガポールのマンションの自室で使用していたパソコンのメールに送信しては彼に翻訳その他の郷田守としての仕事のあれこれを指示し、時には携帯で連絡もした。
 私と沢柳との関係と、山田と私との関係において最大の相違は、私に対して沢柳は殆ど一切何も指示しないでいてくれたということである。ほんの最初の二、三ヶ月だけが私の試用期間であり、それ以降は全く私の裁量によって全てが進行したのだ。しかし山田は違う。勿論私が三度目以降の彼と会う約束を果たした後は明らかに彼はただ単なる私のダミーだった。私は全てを入念に指示してきたからである。
 しかしそれはIT企業のCEОと翻訳業ということの業務の違いにも由来した。何故なら大企業のCEОはこと細かに指示したからと言ってダミーが巧く行動することなど出来るものでもない。だからこそ寧ろ替え玉を用意したのなら、いっそ全てをその者に委ねるしかないのだ。それに引き換え、翻訳業で私がそれまでに培ってきた業績は、トップ企業のCEОと違って些細なミスが重大な結果を招いてしまう。スカイスレッダーは私が失敗すれば私一人が責任を取ればよい(勿論私の失敗によって多くの人が損害を被ることはあるにせよ)から、私の人生そのものはその後も落伍者としてかも知れないが、続行し得る。しかし翻訳の業務を失敗したなら、その時私はどうにかこうにか生活していくことすら覚束なくなるのだ。このことの意味するところは少なくとも私にとっては大きい。何せ私は沢柳から依頼された共犯者なのだから。
 つまり犯罪とはそれをする者にとって大きな意味があるというのではなく、それを辞めた後にどう生活していくかというレヴェルでは、たとえ大勢の人に損害を与えてしまうことがCEO職による失敗があったとしても、それは私にとってはどんなに大きな勇気のいる仕事であっても、ただ単に犯罪の失敗に過ぎないのであり、犯罪者が通常の生活に戻れるために死守せねばならぬこととして翻訳業しか私には残されていないということが重大なのだ。だからこそ私の脳裏には飯島の殺害方法に関する思念が渦巻き、次第にマイクたちとの最後の私にとっての連携プレーは気分的にはどうでもよいものとなっていった。しかしにもかかわらず既に私は全ての行動を粗相のないように運ぶことが出来る堂に入った犯罪者になっていたのである。犯罪だって完成された形態を示せば善行にも匹敵する。
 ニセモノの所業に栄光あれと私は言いたかった。
 私は残された業務をこなすために最後のサンタフェでの滞在をしている時オフの時間に書斎でメールを通じて、あるいは例のSNSを通じて須賀紫卿らと未だに俳句を投句していた。そして相互に講評し合ってきていたのだ。この日本語と英語の世界の往来こそが私の第三の人生におけるその時期の精神的活力を構築していた。
 私は昔から俳句を作るのに、殆どの場合その場ではなくその場から離れた後でその場にいたことを想起して作るというのが遣り方だった。そして京都の吟行から帰った後でもシンガポール滞在期にも、サンタフェ滞在期にも次のような句を作っていたのだ。
 
 西日差す影武者の背に我を見ゆ

 役降りて我の役追う嵐山

 山紅葉見ゆる眼(まなこ)の仕掛け知る

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