Sunday, November 1, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑭

 句会以後の二次会によって私たちは相互の家庭の事情も、俳句との出会いに関する個人的なことに関する報告と共になされたので、取り敢えず島田と桑原と須賀が妻帯者であり、近田と吹上と私が独身であるということだけは判明した。本名も一応言い合ったが、近田と吹上と島田と桑原は本名で、須賀だけが俳号が下の名前だがいかにも作り名のようだがそちらの方が本名で、苗字は本名では金井と言うと告白した。私の俳号は河野散見だが、本名は郷田守ということにしておいた。私だけが嘘をついているということになるかも知れない。(尤もそれは私以外の皆が偽りなく皆の前で申告しているとしてだが)
 しかしそのように申告し合うという対話状況とは、実際ビジネスでは殆ど見られないことである。尤も翻訳家でいた頃には、プライヴェートな報告をし合うということもないことはなかったが、やはり大半が翻訳する必要に迫られるものとはビジネス上での形式的な遣り取りだった。だから本音のぶつけ合いと言っても、実はビジネス上と、オフの時間とでは同じ集団と言っても、全く性格が異なってくるということは極めてその当時の私にとっての興味深いことだった。しかしもっと重要なこととは、私たちはあくまで他者と接する時には、それがビジネスであれ、オフの時間であれ、完全にプライヴェートになることも出来なければ、自己本位を百パーセント曝け出すということもあり得ないということである。
 いやそれどころか私にとってであるが、一人でいる時でさえ私は常に私の中の他者の存在に「私自身」が晒されていることに自覚的ではない時間など生まれてから一度もなかったと言ってよい。それは私に固有の感じ方なのか、それとも誰しもそう思うものなのかということは、たとえ報告し合っても本当には確認し合うことが出来ない。
 ホテルそのものはバスで京都駅まで行ってそこから徒歩で到着してチェックインしたのだが、かなり立派でそう安価ではない宿泊費から言っても充分宿泊客の要望に答えるものだった。一緒にホテル内にある温泉に入ったが、その時一緒にいた桑原と須賀と近田と吹上という島田を除く野郎の宿泊客同士の会話は他愛無いものだった。しかしそんな会話をする心の余裕も実際スカイスレッダーCEО替え玉時代には全く持つことが出来なかった。しかしこの心の緩みは気をつけねばならないとも思ったが、私は既にサハシー本人になりすますこと自体の方に慣れ、却って素の自分でいるということの方にどこか心の落ち着かなさを感じ取っていたのだ。だから逆に俳句を作る者同士という関係が意外といい息抜きになったことも確かだ。つまり五七五という句形式を通して虚構的世界を構築すること自体が、素でいる自分があるかも知れないという恐怖に対する予防線となっていることが俳句仲間同士の会話自体から理解することが出来たからである。
 しかし私の隣の椅子に座り、頭にシャンプーをつけて掻き回してからお湯をかぶって話しかけてきたのが桑原だった。
「河野散見さんは外国生活経験が結構豊富なんですか?」
そう桑原は言った。桑原は自身著名な写真家で、世界中を飛び回っている。その男が私にそう言ったのだ。私はそれまで須賀以外には会話をあまりしていなかったが、その一言は一気に私に構える態度を作らせた。そういう風に申告したこと以外の会話をするということはある程度一日行動を共にした者同士の必然であったが、いざそう切り出されると私は内心たじろがざるを得なかった。
「どうしてそう思われるんですか?」
そう私が白を切ると
「だって、河野さんは、いや郷田さんでしたか、翻訳家に仕事を依頼する仕事なさってらっしゃるんでしょう?」
そう桑原は切り込んできたので私は
「まあ、そうですが、日本での仕事が殆どなので。」
と誤魔化した。それは二年前までは本当のことだった。確かに私はサハシーの替え玉になって以来各国を飛び回り、リタイア後もタヒチ、フランス、シンガポールと飛び回った。しかし翻訳家業務時代にはただ一度オーストラリアを業界の親しいクライアントと観光旅行をしたことがあるだけだった。私は必死にその頃の自分に気持ちから戻ろうと試みた。しかし桑原は世界中を飛び回る仕事人としての嗅覚から私のここ二年くらいの間に生活を直観的に嗅ぎ取ったようなのだ。しかし幸いそれ以上桑原は私のことを追及してくることはなくただ
「そうですか。」
とだけ言った。
後ろでは句会のお開き前に質問したことがきっかけで一番若い近田が少し年長の吹上に取り入るように色々質問していた。
「新入社員なんかの選別基準はどうなさっておられるんですか?」
すると吹上は
「まあ、化粧品のメーカーですから、ケミカル関係の技術者を大卒、院卒とか色々推薦も含めて採用致しますね、それに選別に気を遣うのは開発部だけでなく営業部や販売促進部なんかでは経済学、経営学だけでなく心理学の修士とかも採用していますね。販売戦略的に女性相手の場合には独身女性の心理とか既婚者の心理とかを予めリサーチした上で色々デザイナーやコピーライターたちと協同で作業しなくてはならないですからね。大学の四年だけの奴は一流大卒の連中でも使い物にならないですからね。」
私たちはその日は私と須賀が二人部屋に、近田と吹上、桑原が三人部屋にそれぞれ宿泊した。

 翌日、私たちは正門が開く時間八時半に東寺正門で待ち合わせ、ホテルのチェックアウトを各自勝手に済ませ、一人で行くも、誰かと一緒に行くも自由とした。前日のお開きの際にそういうことにしていたのだ。島田のように自宅に一旦戻った者もいたからである。
 私は誰とも一緒にはチェックアウトせずに一人京都駅から近鉄電車で一駅目の東寺迄乗り、後は徒歩で東寺正門へと向かった。
 須賀はホテルのロビー脇に設えられていたラウンジで桑原と何やら話し込んでいたので、私は一切両人との挨拶せずにホテルを出たが、先にホテルを出たので私の方が先に東寺に到着するかと思っていたら、私が正門に到着した時桑原と須賀は既に先に到着していた。きっと二人でタクシーに乗ってそこまで来たのだろうと私は思った。
 私は電車に乗っている時も、徒歩の時も妙に昨日の温泉での桑原からかけられた一言のことが気にかかって、何故彼はあんな質問を私に突然投げかけたのだとうとそればかりずっと考えていた。
桑原が披露した句は流石プロ写真家なだけあって、一瞬のシャッターチャンスを狙ったかのような歯切れのよい、切れ字を巧みに利用した句だったと私は彼のこと共に思い出していた。
 私が到着してから三四分くらいしてからほどなく近田と吹上が共に到着した。島田だけ七分くらい他の皆から遅れて到着した。
 「申し訳ありません、ちょっと遅れてしまって。」
 と頭を下げて彼は走って正門の方へやって来た。
 皆が揃ったので拝観料を支払い、内部の庭園が見える敷地に入った。そして五重塔、金堂、講堂、大師堂などを順次観て回り、最後に敷地から出て直のところにある観智院を拝観した。中には五大の庭と呼ばれる石庭が敷き詰めてあり、唐から恵運が請来した五大虚空菩薩像や江戸期の愛染明王像などが壮麗な雰囲気を醸していたが、それ以上に皆の眼を釘付けにしたのは宮本武蔵が逗留して描いたと言われる襖絵、「竹林の図」、そして床の間にある「鷲の図」であった。大分掠れてしまっていて元通りの図のイメージはある程度想像するしかなかったものの、一乗寺下がり松の決闘で敵方の子どもの大将を殺して、追手を逃れて過ごしていたそこで、一体武蔵はどういうことを考えてその図を描いたのかと私は思った。武蔵の気持ちが少し理解出来る気がしたのだ。勿論ただの錯覚かも知れない。しかし追手は今のところないがと私は思ったが、武蔵の孤独の意味は理解出来る気がしたのだ。武蔵は五大の庭の亀や龍を象った石の配列を眺めながら、図を描いていただろうか?そう思って武蔵の絵から石庭へと視線を移動していた時隣で武蔵の絵を見入っていた島田が私に話しかけてきた。
 「河野さんはプロの翻訳家の斡旋をされているのでしたら、ご自分でも翻訳をなさるんでしょう?」
突然のプライヴェートな質問にいささか面食らいながらも私は真摯に返答した。
 「ええ、以前は一人で翻訳業務をこなしていましたから。」
するとそれに応じるように島田は
 「実は私同業者の古物商の知人から長文の英文を翻訳してくれる人を探していると言われて、実は私その人には昔仕事関係で世話になったこともあって、もしよかったらその人から誰かいい翻訳家いないかという件をお引き受け下さらないでしょうか?」
と私に問いかけてきた。私はシンガポールでの何も特に仕事をしない日々に少し飽きてきていたので、その質問に対して
 「別に構わないですが、どれくらいの量の仕事なんでしょうか?」
と島田に聞き返すと島田は
 「ええ、何でもそれほど厚くない単行本一冊文くらいだそうです。よろしかったら、その本をスキャンでコピーして河野散見さんへメールで添付送信して貰うように言っておきますが。」
と返答した。それに対して私は久しぶりに纏まった翻訳を出来るのはそれなりにわくわくしもしたので、一も二もなく即座に
 「ええ、是非そうして下されば、後はいつまでに仕上げて提出すればよいかだけですが。」
と返すと島田は
 「そうですね、ではその旨も先方に伝えておきましょう。」
と私の要望に応えるようにそう言った。
 私はそろそろ半年くらい替え玉CEОから降りてたつ当時仕事を何もせずに過ごす日々にシンガポールのマンションで過ごしながらも固有の退屈さを持ち始めていたのだ。私がアメリカで過ごした期間に稼いだ報酬は全てスイスやケーマンに預金していた(沢柳には一銭も支払われていなかったし、それは私との間での彼との約束だった。彼は既にその当時以上の報酬を要求していなかったのだ。そして彼自身の口座以外に私のための口座を私が着任した時に拵えたのだ)し、そのことを敢えて日本の税務署は問い質すことはないだろう。そもそも私はその当時もずっと金城悟として申告していたのだから。
 しかし殆ど以前住んでいたマンションには戻っていなかったし、そのことを不振に思う者もいただろうが、年に一回だけ確定申告で税務署を訪れればそれでよい。アメリカ時代にもそういう風にして年に何回か纏まった大きな翻訳の仕事をサンタフェの豪邸の書斎でこなしてメールで完成する都度クライアントに送っていたのだ。例の部屋で一日何もせずに過ごす一年が過ぎた頃私は一度確定申告をし、その後、日本にCEОとして日本に滞在時に確定申告のため一日だけオフにして貰いこっそりかつてのマンションにも行き、そこで書類を作成して税務署にも行った。そして再び日本滞在時に過ごすマンションに戻っていたのだ。
 そして金城悟として久し振りにする仕事を得たというわけだ。シンガポール在住のビジネスマンという郷田守として頼まれた仕事をしてそれを金城悟として申告すればよいのだ。一々そんな細かいことまで気にする奴などいるものか。第一翻訳家は結構偽名で行なっている作家とかもいるし、またペンネームを使用する者も多いのだ。
 しかし私はその日はそれ以上先にこなすことになる仕事に対してあれこれ想像することはよした。折角京都までやってきて、吟行をしているのだ。手元に持ったメモ帳に今日の午後する句会で発表する句を捻り出さなくてはならない。今日は既に須賀が予約している料亭で食事しながら、句会である。
 その日は小春日和だったので、皆の同意で西本願寺まで徒歩で行くことにしたのだった。そして西本願寺では皆で記念写真を撮り、次は東本願寺に向かった。到着した東本願寺では護影堂が大規模な改修工事中であり、全容を見ることが出来なかった。それは銀閣寺でも同じだった。観音殿が修復工事中だったからだ。それはこのような国宝の保存という意味では致し方ない現実ではあったが、ホンモノの文化の構造を将来に渡って維持していくということ自体が、どこかニセモノを作り替えていくことでしか維持され得ないということに存するある種の人間社会の欺瞞性を私はしみじみと感じざるを得なかった。
 そこから更にバスで当初行く予定であった三十三間堂へと皆の合意で徒歩で行くことになった。天候次第で幾らでも当初の予定を変えられるというところが観光旅行のいいところである。
 東寺からスタートして三十三間堂へと至る徒歩の旅は吟行をするには天候的にも恵まれたせいか、持って来いのものであった。三十三間堂の入り口が遠くから見えてきた時には既に十一時半になっていたが、その日のそれまでのルートは大体京都市街地を縦に貫く感じのものだった。
 前日は島田と吹上、桑原と近田という組み合わせで隣り合って歩いていたが、その日は近田がいやに吹上を年齢の近い先輩として持ち上げ、関心を持ったようだったし、島田も島田で桑原をほぼ同世代として相互に古物商とプロカメラマンという全く異なった職業であるが故の好奇心を持ち合って、話が弾んでいるように思えた。
 近田が
 「吹上さんは経営者でいらっしゃるのにどうしてそんなに俳句とか文藝的なことにも造詣が深くていらっしゃるんですか?」
吹上は前日の俳句との出会いを相互に告白し合ったとき、ただこの会合の下となっている俳人の句を俳句雑誌で見かけていいなと思ったとだけ述べていたので、もっと詳しく近田にしてみれば知りたかったのだろう。しかし吹上は厭な顔も見せず
 「元々私の父は昔大手出版社に勤めていたんですよ。その出版社が倒産して、別の出版社の一部になったんですが、その方針が少し父が編集補佐をしていた頃のものと食い違っていたし、そうなっていくことを予想出来たので、併合する社からは居残っていいと言われていたのだけれど、当時父は、父と共にその後の身の処し方に困窮していた一番親しかった同僚と共に自費出版を中心にする小さな出版社を経営しだしたんですよ。結局父はその自分たちで立ち上げた社も経営が巧いようには運ばなくなって、駄目になる寸前に会社毎知人の結構儲かっていたデザイン会社に売ったんですよ。そしてその時は僕ももう大人になっていて、後は余生を俳句でも作ろうということになって、ずっと句作三昧な生活だったんですよ、父は宿毛の生まれで少年時代に松山に祖父の事業のために松山に引っ越してきて松山高校時代に入学し、その高校で英語を教えていた先生が俳句を作っていた人で、その人に人格と才能に惹かれて、俳句作りを指南して貰っていたところ父が勤めることになって結局倒産して別の社に買い取られた出版社で編集長をしていたある句界では知られた俳人を兄弟子として知遇を得たんですよ、それが父の俳句作りをより情熱的なものにしていったんですね。つまり父の俳句の情熱は将来私にもそういう素養を持たせたいということで、私を幼少の頃から句会とかに連れて行ってくれたんですよ、それこそ小学生の頃からね。」
 吹上は前日句会になるまでは控えめだったが、近田が質問してそれに返答してから、一気に饒舌に語りだし、近田が兄貴分的に彼に慕う態度を見せていたので、そのことにも気をよくしていたようだった。
 「それにしても経営者というお立場と、俳句ってどこか全く違うようにも思いますけれど、そういう立場の人って結構趣味で俳句を作っている人は大勢いらっしゃるんですか?」
と近田が質問すると吹上は
 「私も先行きどうなっていくか分からないんですけれど、俳人っていうのはある意味では世間を隠遁して生きていく覚悟の人の方が多いですよね、その生き方が逆に経営者とか責任ある立場の人にとってある種の理想のように映ったり、自分がリタイアした後の人生をどう過ごすかという指針になったりするんですよ。勿論私は経営者としてはまだまだリタイア後を考えてはいけない立場の人間ですが、いつかはそういう時も来るでしょう?ほら政治家とかが文学者や書家や茶人の生き方とか、その詩や書や作法に惹かれることがあるじゃないですか。それと同じじゃないかな。」
と返した。それに対して近田は妙に納得したような表情で
 「それはいざという時の一大決心とか責任の取り方とか引き際とかにおいて政治家たちが古代の武将や文学者の生き方を参考にするような意味でですね。」
と賛同の意を示しながらそう言った。すると吹上は
 「まあ、そう格好よいものでもないですけれどね、私たちは。」
と謙遜してそう言った。
 その時須賀がもう目の前まで三十三間堂が近づいていたのに急に
 「もう後十数分で正午です。どうです。まず昼食を取ってからゆっくり見学するというのは?」
と提案した。すると桑原が
 「そうですね。僕も久し振りに大分歩いたので腹が減ったな。」
と言った。桑原は島田なんかよりはずっと世界中歩き回っているので、一番疲れないだろうに、皆を休憩させたいという須賀の申し出を無碍にしないためにそう言ったのだろうと私は思った。
 しかし吹上に熱心に話しかけていた近田も
 「いいですね、どこで食べますか?」
とさも待ってましたとばかりに嬉そうに言ったので、皆頷いて同意を示し
 「そこの店にしましょう。私も以前そこで食べて結構おいしかったんですよ。」
と言ったので、皆逆らう者も出ず、その蕎麦屋で食事することになった。皆が店に入って二つのテーブルが一緒に合わせられた格好のところに陣取っていると女将さんがやってきてメニューをテーブルの上に差し出した。それを見てめいめい注文する品を決めて、口々に少し奥の食べ物を差し出す口の傍に待機している女将に告げた。女将はそれを更に奥にいる料理人(多分夫だろう)に口早に告げた。
 十分もしない内に皆の前に注文した品が運ばれた。私は鰊蕎麦を注文した。皆が注文の品が来た順に食べだしたので、私もニ三人未だ来ていない者もいたが、構わず食べ始めた。麺が延びてしまうから早く食った方がいいというわけだ。食べると京都の出汁の取り方は薄味でコクがあった。シンガポールにもアメリカにも蕎麦を出す店はあったが、大して美味くなかった。中華料理店の方が気が利いている気がしたが、京都で食べた蕎麦は東京の蕎麦より柔らかい気が私にはした。
 店を出てすぐ眼と鼻の先である三十三間堂の構内に拝観料を払って入った時十二時半まで十二三分あった。私はこの細長い建物を見た時私が通っていた小学校の校舎を思い出した。
 この寺院は1165年に後白河上皇によって建立され、脇に聳える南大門は豊臣秀頼によって加設された。
 皆細長い廊下を歩き、一体一体見ていったが、片手に持っている俳句をメモする手帳に時々書き込んでいたのは須賀と島田と桑原の三人であり、その日はあまり若手は書き込むことに精を出していないようだったが、昨日もバスの中とかでしきりに書いていたから、その日もそうなのだろうと私は思った。時々近田が吹上にあの像が誰それに顔が似ているとか何とか囁いて二人であまり声を立てないようにこっそり笑っているところを見ると、大方私か島田か桑原か須賀に似た顔を発見していたのだろう。
 歴史趣味的な俳句を作ることなど私はなかったが、そのような趣旨に関心がありそうなのは前日の句会の時での皆の会話から古物商の島田と須賀であることだけは皆認めていたが、桑原はどうか定かではなかったものの、それほど好きではないのではないかとは彼の取った写真を見れば理解出来る気もしたが、彼はしきりと句を十一面千手千眼観世音を見ながら捻り出しているように見えた。一人言のように何かぼそぼそ呟いていたが、所々に示された解説の札の字を読んでいたのだ。
 「運慶の長男、湛慶による82歳の時の作か。」
と感慨深げに呟いていたが、八十二歳とは彼らすら未だ一回り以上生きねばその年齢にはならないのだ。
 しかし秀頼が南大門を作ったということは秀頼の時代には既にこの寺院は名所旧跡だったわけだし、東寺にしても、宮本武蔵の時代ですら古代のものだったわけだ。尤も空海が造営した後から盛んになっていったわけだが、その空海から武蔵まででもかなりの時間が経っている。五重塔も金堂も大師堂も壬生地区が湿地であるために追手を逃れて潜むのに都合がよかった武蔵にとってその地区に潜んで生活するにしても、毎日それらの建立物を眺めて生活したということにある感慨を私は抱いていた。しかし何故そんな気持ちになったかということが私にはよく自分でも分からなかった。ただ武蔵の孤独がどこか理解出来たような気があの鷲の図と竹林の図の筆跡を見た時そう思ったのだ。今の私の気持ちに似た気分で武蔵は今朝訪れた観智院を過ごしたのだ。観智とは心でものを見るという心得のことである。昼食で食べた蕎麦が大分こなれて来た時そう想起した時、私は前日の桑原の隣で髪の毛を洗いながら私に尋ねた質問、私の海外生活は他意のないものだったかも知れないと思い直したのだ。自分に疚しいところがあるとどうしても他人の一言が皮肉とか揶揄とか懐疑のように思えてくるものであると私は反省した。

 皆は南大門を前にして再び須賀の手配で記念写真を須賀と桑原のデジカメで撮って、そこから京都駅までバスで一旦戻り、そこから地下鉄と市電を乗り継いで広隆寺へと向かった。京福嵐山線の太秦広隆寺で下車すると狭い街道を横断すると眼の前は広隆寺正門である。そこを潜るとそこは鮮やかな紅葉の木々が眼に入ってきた。皆三十三間堂の時もそうだったが、しきりとデジカメで紅葉を撮影した。
 桑原はカメラマンらしくいかにも迅速でシャープな視線を被写体に走らせ、周囲を畏敬の念に包み込んだ物腰でシャッターを切っていた。彼はいかにもハイブローな趣味が似合うという感じの育ちのよい不良壮年っぽい雰囲気を湛えていた。それに対し、何をしても愚鈍な感じを醸し出す島田は同業者たちとカラオケで演歌を大声張り上げて歌い出すことがいかにも似つかわしい感じの壮年だった。
 私がロメオスと提携に踏み切ったのは彼が幼少の頃ニューメキシコ州へとメキシコからリオ・グランデ川を渡って密入国を果たしたウェットバックである固有の悲愁故に私自身の世界への懐疑の目から見ても共感出来るという私の感情からだったと思う。その意味では桑原も明らかに直観的にロメオス・タイプであることが私には察知させられた。要するにどこか教養ある家庭に育った感じがするのである。こればかりは経済的に豊かな家庭というのとは違う雰囲気を人に与える。いくら経済的に恵まれた家庭に育ってもどこか下品さを漂わす雰囲気こそ島田に似つかわしい形容だった。島田によく似たタイプというのはアメリカCEO時代には一人もいなかった。ジム・クラークもマイク・ストーンランドも皆教養ある家庭に育ち、両方ともワスプだったが、大学時代にはロックや現代アートに親しんだそういうタイプの人たちだったが、強いて島田と同類を挙げろと言われれば、それは伊豆倉の下で会い、替え玉時代にフリスコで私に声をかけてきた飯島くらいのものである。
 確かに人を類型で見てはいけない。しかし生き馬の目を抜く判断に次ぐ判断の日々において、私には一瞬で出会う人の本質を見抜く術を身に着けてきていた。しかしそれは別の角度から見れば本当に相手を見抜けずに大した者でもないのに、買被ったり、逆に本当は信頼出来る好漢であるのに訝しい思いで敬遠させてしまったりするような出会いのニアミスをしてしまうこともあるということである。
 しかし私にとって近田ややや年長の吹上は私よりは若いので、見抜く、見抜けないというレヴェルではなかった。しかしそれはあくまでも半分正しく半分そうではなかったと思う。だが広隆寺境内でのその時の二人の会話はそういうレヴェルのものではなかった。
 二人ともデジカメでしきりに周囲を撮影していたが、一旦撮影を中断し、また近田が吹上に声をかけた。
 「紅葉っていいですね。日本人の心に響くっていうか。」
すると吹上が近田に
 「近田さんはご出身はどちらですか?」
と尋ねた。すると近田は
 「成田です、千葉県の。」
と返答した。そして続けて
 「吹上さんはお父さんと同じで松山ですか?それにしては訛りがないようですね。」
と尋ねると彼は
 「私は父が上京してから生まれたので、東京の近郊出身です。仮に松山で生まれたとしても、恐らく父自身が宿毛生まれで、思春期になって松山に引越してきたので、それほど訛りはなかったでしょうね。松山弁の方が遥かに愛媛県の他の場所、例えば宇和島とかよりも関西弁に近いですね。」
と返答した。それに対して近田は
 「僕や僕の両親の田舎は私の人生と共に激変しましたからね。昔は結構訛りがあったみたいだけれど、今の若者はさほどではないですよね、東京からも大勢人がやってきますからね。勿論田舎の人同士ではそっちの言葉も使えるだろうけれどね。」
と言ってから更に
 「でも吹上さん、化粧品って男性と女性とでは戦略が違うんでしょう?」
と言った。すると吹上は
 「そうですね。基本的にデザインも変えなくてはならないですね。僕は元々心理学専攻でその知識を買われて入社したんで、そこら辺は神経使って今でも作らせています。」
と応えた。すると近田は更に興味を掻き立てられるように
 「女性と男性とではどのように化粧する心理が違うんでしょうね?」
と追求していくと、吹上は
 「要するに女性の場合自分の好きな男性にどう見られるかといことと、同性からどう評価されるかということが男性の比ではなく大きいですからね。」
と言った。それに対して近田は
 「何か雑誌で読んだことがあるんですけど、女性化粧品の容器のデザインって、女性が無意識に男性器を連想するようにしてあるって本当ですか?」
と聞いた。それに対して吹上は
 「ええ、それもありますね。要するに女性は男性よりも触れられ、触り返すということで愛情を確認していますからね。それは男性よりも大きいことです。だから女性は男性の手をまず見て自分がどう触れられるかということを一眼で見抜くんです。それと男性に囁きかけられるために男性の声質に拘るんですね。」
 特に島田のようなタイプの人間にとって、およそ俳句を作る従来のイメージとこの二人の会話は次元を異にするものであったろうが、若い世代にとって季語とかも俳題にしてもどんどん変化してきているので、この二人の会話はそれなりに彼らの世代の俳句を作るモティベーションを象徴してもいた。
本堂に設えられた弥勒菩薩半跏思惟像は表面の木目が艶っぽい表情を際立たせていた。本堂に入る前に更に別の拝観料を支払い皆で見てきた国宝桂宮院本堂の後で拝観したこの像は、桂宮院本堂に到着する道すがら交わした若い世代の二人の会話内容を重ね合わせて眺めると男性と女性の触覚的邂逅を超越したエロティシズムを私に感じさせた。それは世界が虚構めいて見えるのに、世界そのものに白けた印象を私に抱かせるのではなく、その虚構めいたこと自体が生々しいリアリティーを現出させるような感じだったのだ。つまりそれは女性が愛しいものを愛撫した後で示す愉悦の表情のようにも見えたが、愛しい女性に愛撫された美少年が示す愉悦の表情のようにも見えたからである。しかしそれは仕掛け的な美でもなかった。
 その虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺に次いで訪れた最も他の名所旧跡以上に外国人観光客が多く訪れていた名寺龍安寺で確固としたものとなった。虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺正門で掴まえたタクシー二台に先に発車した方に近田と吹上と桑田が、そして後続に私と須賀と島田が乗って太秦撮影所を通り過ぎ、仁和寺をも通り過ぎて到着した臨済宗妙心寺派の名寺龍安寺の石庭に池沿いに歩いて到着した時により説明しやすい形で私に迫ってきた。
 龍安寺の石庭が見られる縁側より手前に視覚障害者のために触ることが出来る石庭のミニアチュールが置かれていて、そのミニアチュールの配置と現実の石庭の配置が相似配置であることが、私に虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーが理窟っぽくはないものの説明しやすい感じの美として私に迫ってきたのだ。私にとって世界そのものが虚構めいて見えることに神経質であった二十代にはそれらはそう感じさせなかったかも知れない。率直にそれが仕掛けられてはいるものの自然的美と映ったことだろう。しかしその時の私にはそれは説明しやすい構成美と映ったのだ。勿論それは否定的な意味でではない。しかし自然に感動するというよりは自然に理解出来るという感じだったのだ。まさにその私の気持ちを代弁してくれるように石庭を目にした瞬間島田が
 「巧い配置だな。」
と誰にも悟られないような小声で呟いたのを、しかし私だけは聞き逃さなかった。
 二十分くらい石庭を縁側から眺め、ぼんやりと深呼吸をしてから石庭に配置された石を交互に凝視しながら過去を追想していた時私以外の五人がどんなことを考えていたか、それは彼らが私を含めた五人がどんなことを考えていたかを想像するのとそんなに変わりないだろうが、そのほぼ同じだろうという考えが六人皆に思い巡らされていたかも知れないという終ぞ確認し得ないにもかかわらずそうに違いないという思い込みが私の中で飽和状態に達してきた頃私以外の五人もまるで私と同じように考えていたかのように私たちは示し合うかのように最終訪問地である妙心寺派の本山である妙心寺に向けて竜安寺の入り口脇に待機していたタクシーに乗って向かった。
 二台のタクシーの先発に私と吹上と近田が、後発に須賀、島田、桑原が乗った。近田が吹上の会社に興味を持ち、色々な質問をしていた。
 「今経営なさっている吹上さんの会社の創業者はどなたなんですか?」
すると吹上は
 「私が二代目で、先代は今別の香水のメーカーを経営なさっているんですが、その人が一代で作り上げた会社を私が引き継いだ形ですね。」
と言った。
 タクシーは円町駅の前を通り過ぎ、右折してさっきまでよりは少し細い路地に入り込み、暫く直進すると妙心寺が見えてきた。妙心寺のような中道の集合寺は林下と呼ばれる。その他にも京都では大徳寺などがそうである。広隆寺よりは新しいが、龍安寺よりは古く、花園天皇が建立し、関山慧玄が初代住職である。竜安寺もこの本山に属する寺である。妙心寺は権力者の側にも大衆の側にも阿ることのない中道を貫いてきた宗派として知られている。
 そういう意味では私は翻訳業を通して、経営者の考えというものを多く伝えてきたし、翻訳されたものを読む側は大衆であることが多かった。しかしある日突然私は経営者に成りすますことを強いられた。希望すれば断ることも出来た筈だ。しかし報酬の高さに私は惹かれたのだ。そして経営権という権力の旨みに酔いしれたかったのだ。そう思っていると吹上に対して先ほどからの会話の続きで近田が
 「私もいつか吹上さんのように自分の手で会社とかを動かしてみたいですよ。」
と言うとすかさず吹上が
 「私も前の社長が私に新しい事業をするために今までの自分の社を引き継いでくれないかと頼まれた時、経営が楽しいものだとかなり期待していたんですけれど、今はちっとも自由なんてないということを充分理解出来ますね。社会の中でのわが社の一定のヴァリューとか要望とかによって自分たちの社の存在理由が生じているわけだから、自由気侭というのとは本質的に最もかけ離れているんですよ。寧ろあまりしたくはないようなビジネス上の雑事に追われているそんな感じなんです。それはそれまで期待していたようなほんわかとした期待を打ち砕くに充分なものだったですね。楽しいというのとは程遠く、辞めたくなることも多いのにもかかわらず、自分個人の主観的意見なんて一切言えない。それどころか自信がなくなっても簡単に辞めたくても辞められないという雁字搦めの状況に常に身を置いているって感じなんですよ。憧れるようなタイプの立場じゃ全くないですね。」
 とほとほと経営者の辛さを痛感したような心持の謂いを近田に返した。それに対して近田は
 「そんなものなんですかね、まあそれは言えるかも知れないですね。私くらいの生活が一番気楽かも知れないですね。」
と言ったが、それに対して吹上は格別の反応を示さなかった。
 その時の二人の意見を私は理解出来る気もしたが、現在している生活の経済的基盤とは偽者としての活動によって得たものであり、実際は島田が前日に私に依頼してきて承諾したものの、それまでは皆に今していると公言した仕事というのは全部偽りである。確かに再び纏まった翻訳業務を勤しむことが出来ること自体にはある期待感があったが、吹上の気持ちを理解出来る風を誰に対しても示してはいけないと思った。それに自分は山田に全てを委任して降りてきたことなのだ。
 アメリカではまだ成功していない人たちがバーなどで自由に自分の夢を語ることがそれほど不自然ではない国民性である。しかし日本人は最近では大分そういうこともなくなってきたとも言えるが、依然夢を語るにしても大それたことを語ることを憚るということが美徳である。あるいはあまり大それた欲望を持たないということがそもそも慎みと受け取られることを知っている。そこがアメリカ人と違う。しかし権力を真に持っている人たちはノブレス・オブリッジがあり、奇想天外なことを語ることが憚られている。だからそういう人たちが真に心の奥底の欲求を語り合えるのは趣味の集いとか、地域社会での社会人同士のコミュニティーであろう。日本人も大多数の人々は趣味の集いでは真意を告白し合えるだろう。尤もそういう場合でも夢を大胆に語るよりは諦め的気分を告白するということの方が庶民は多いかも知れない。そしてその時私は趣味の集いにいる自分を振り返りながら、しかし少なくともこういう場所での人間の会話というものは、アメリカ人と日本人の間でも然程の違いはないだろうとそうも思った。
 妙心寺も東寺や広隆寺と同じで、各棟に入る度に拝観料を別料金として取られた。その拝観料を皆と一緒に払いながら、私は沢柳と共犯関係にあるということをつくづく思った。そうなのである。私はある程度大それた犯罪をしてきたのだが、それは沢柳がかなりの悪党であり、自分の策謀を知って断る私に対する報復に対する私の側の恐怖が彼に協力させたと弁解する私にとっての余地をあまり説得力のないものにするくらい私の側にも好奇心があることを何よりも私自身が知っていた。私は一回くらいはそういう立場に身を置いてみたいと思っていたからこそ、あんな大それた摩り替わるということを承諾したのだ。それは山田にしても同じだろう。そう考えながら、吹上が自分の替え玉を心の中では探しているかも知れないと思ったり、もっとそれが発展して、いやそこにいた吹上自身が既に本当は誰か違う人物であり、吹上の替え玉かも知れないではないかとさえ考えたりした。しかしそれは次の瞬間自分たちほど大それたことをした者の行動を基準に全てを判断してはいけないという反省になり変わった。
 私たちは本堂で雲龍図(狩野探幽作の天井画)と妙心寺鐘を寺の女性の解説つきで鑑賞したが、鐘の方が国宝で、その後鑑賞した浴室(明智風呂)と探幽の画は重要文化財であるが、鐘はただ床の奥に置かれてあって、鐘の音を録音したテープを聴くことが出来るだけであり、どちらかと言えば重要文化財の方に感動した。とりわけ雲龍図は見る角度によって表情を一変させる龍に込められた探幽の絵師としての執念を感じた。同じ敷地内にある退蔵院で如拙の画となる瓢鮎図と元信の庭を鑑賞してから、大心院で阿吽庭を鑑賞すると、日がとっぷりと暮れかけてきた。大心院では大柄な虎の猫がいたが、人に対する警戒心を捨て切っていなかった。大心院周辺の白壁で隔てられた歩道の赴きはまるで忍者映画のロケに相応しいという感じだった。
 しかし私の心はこういう日本最大の禅寺でさえ自分が禅を組むことなど一生ないだろうということだった。
 私たち皆は正門(南総門)を潜ると、ややあってJRの花園駅に到着し、山陰本線の普通電車に乗り、京都駅に戻り、そこから徒歩で十分くらいの予約してあった料亭に赴いた。
 皆は五句ずつ無記名で投句し、六人全員の三十句の中から選りすぐった句を各自四句ずつ発表し合うという形式で行なわれた。
 近田と吹上は若い世代に特徴的なこととして、観念的な句を作ったし(無記名なので最初は分からなかったものの、後で案の定観念的な句はこの二人のものと判明した)、他の全員の句からもそういう傾向のものを選抜していた。それに対して須賀と島田は古風な自然観察的な句をより選抜していた。桑原と私はそのどちらでもない寧ろ題材も使用語句も素朴なものを選抜する傾向だった。六時半から始まって二時間半後の九時にお開きということとなった。皆は料亭を出てそこで各自勝手に帰宅した。大半はお開きになってからは各自新幹線に乗るなりして帰宅したが、私だけは十一時ちょっと前くらいに京都駅を出発する高速バスに乗るために暫く時間を潰すために大津まで一旦電車で乗って行き、駅近くの24時間のファミレスで時間を潰してから再び京都駅に戻り、バスに乗って東京駅まで行き、そこから朝一で成田エクスプレスに乗り、正午前の飛行機でシンガポールのマンションへと戻り三泊二日の学生的な京都旅行を終えた。

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