Wednesday, November 18, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑳

              ★

 私にとって第二の人生は確かに伊豆倉に教えて貰ったあの奇妙なクイズ紛いの募集サイトによってであったが、第三の人生はリタイア後から始まったが、その方向を決定付けたのは明らかに須賀から来たメールだった。その第三の人生の初頭で最も大きなことは島津との出会いだったと今では言えるが、中盤で最も衝撃的なことはマイク・ストーンランドから来た携帯電話の受信である。
 私はジム・クラークとも、マイク・ストーンランドとも替え玉CEО時代には巧くやってきたが、この共にワスプである二人には基本的な性格の違いがあった。それはクラークの方はあまり多く語らず、私の指令に従い、私から積極的に何か尋ねない限りあまり本音を語ることがなかった。しかしストーンランドはそうではなく、寧ろ向こうから私に対して多く進言したし、クラークの真意も私に伝えようとした。クラークは私が何か聞けば最も親身になって返答してくれたが、私に率先して色々忠告したりするのは一切がストーンランドだったのである。そのストーンランドが私の携帯番号を知っていたということが私には驚きだった。何故なら私の携帯番号を知っていたのはその時点で島津だけだったからである。(それ以前は沢柳だけだったと私は思っていたが、沢柳の死後彼が私の番号を知ったのか、死の前から彼も知っていたかどうかを私は島津に確かめ損ねた)マイクは私にこう続けた。
「驚かれたでしょうけれど、私は大分以前から今の沢柳社長が替え玉ではないかと疑っていたんですよ。私以外では恐らく秘書のサリー・フィッシャーさんが気づいてらっしゃったんじゃないかと思います。」
と言った。それに対して私は既に正体がばれてしまったことに観念してマイクに
「じゃあ、ジム・クラークは?」
と聞いた。するとマイクは
「さあ、分かりませんね。もし彼なら気づいていたとしても私にそのことを告げることは決してしませんでしょうからね。」
と言った。
「でもどうしてこの番号が分かったんだい?」
と私がニセモノ現役時代の口調で話しかけると、マイクは
「それは、ある日製薬会社Kのリッチモンドさんとフランスのウウェッブデザイン会社の社長さんとポータルサイトのデザインの更新とKの広告に関して打ち合わせでパリに行かれた時に、私だけが持っている社長の書斎のスペアキーで書斎に入って、置かれてある社長個人所有のパソコンのデータからそれらしき連絡先を全部バックアップを取って一々全部当たってみただけですよ。もし本当に替え玉ならそれらしき本人への連絡先のデータを不明確な形でデータ保存している筈だと思ったんです。簡単ですよ。」
 私はマイクに
「今社長はどうしているんだい?」
と聞くとマイクは
「今庭師のロジャースと庭の手入れのことについて打ち合わせをしているところです。」
と言った。懐かしい名前だった。私は時々植物園にロジャースと休日には出掛けた。大邸宅だったが、私は沢柳の指南で一切の執事その他の人々への命令はヒーリーに委任してきていた。これらのことはサハシーが私に告げたのと同じように山梨県の山荘で勿論山田に告げていた。
「それで私にどうしろって言うんだい?」
とマイクに私は尋ねた。
「社長がどういうご意向でこんな手を込んだことをなさったかは私は存じませんけれど、戻って来て頂けないでしょうか?」
と私にマイクはそう言ったので、私は更に
「私でなければ駄目かい?今の社長ではどういうところが駄目なんだい?」
と尋ねるとマイクは
「社長とジムと私の関係が、社長本人だと連携プレーが出来るのに、今の社長じゃあ、ぎくしゃくしてしまうんですよ。」
と言ったのだった。そこで私は
「では他の連中はどうなのかな?例えばヒーリー、レオナルド・岸田、トム、ビルとかは?」
と聞くと
「少し最近社長の様子がおかしいと思っているかも知れませんが、実際に替え玉だと気づいているとしたら、可能性としては私以外ではサリーさんとジムだけでしょうね。」
と言った。私はマイクに
「じゃあ、どんなところが今の社長では不足なのかな?」
と聞くと私にマイクは
「意志決定の態度が決然としていないということですよ。いやあ、でもあなたに連絡が取れて本当によかった。よくご検討下さい。」
と言った。私は
「用件は分かった。考えておく。では、今ちょっと手が離せないので。」
と言って電話を切った。

 私は再び突如第三の人生からそれ以前のものである「第二の人生の頃の自分」に引き戻された。そして悠々自適な翻訳業生活から、あの目まぐるしく変転を重ねまるで生きた心地のしない替え玉CEО生活に気持ちは戻ってしまった。そしてマイクの電話口での口調からはっきりと私自身が既に沢柳自身の替え玉であるということだけは誰からも気づかれていないということだけははっきりとした。それはある意味で私に変な自信を再びつけてしまったのだ。そして山田が利用出来るのではないかという悪意を更に発酵させていってしまう結果にもなるのだった。

 私は数日今後どうしようかと考えあぐねた。朝目が覚めると、パソコンの画面を開き、メールチェックとネットでニュースを見たが、翻訳の仕事にも今一つ身が入らなかった。
 しかし実はある結論だけは既に出されていたのだ。それはもう一度山田を呼び出し聞き質してみるということと、彼に対する私からの今後の利用価値を査定してみようということだった。
 私は再び今度は一切句会の機会とは関係なく一人で京都、広隆寺の弥勒菩薩半伽思惟像の前正午に待ち合わせする旨を山田の個人用パソコンのアドレスへと送信して返事を待った。山田は私が指定した七月の上旬のある日なら大丈夫であるとメールで返信してきた。きっと川上との会議を急遽決定させて帰国する積もりなのだろうと思った。
 ところで私がその時も広隆寺を選んだのはわけがある。それは広隆寺の人の出入りが他の名所旧跡よりは平日は疎らだということからである。尤もそればかりではない。私にとって最も心の落ち着く寺であったということ、そして私が島津に会い、山田に再会した時明らかに徐々に今の状態へと兆す私の人生の分岐点を形作るように予感し得たからだった。

 山田と広隆寺本堂で会う約束の日がきた。替え玉CEОを彼に引き継がせてから初めて会ったあの京都吟行の二日目の日から丁度二ヶ月くらい経っていた。京都はすっかり夏になっていた。
 その日は成田に着いた時には比較的涼しかった。これで山田と会うのは四度目になる。山田は意外と悪辣さの希薄な男であることを私は前回の再会で感じ取っていた。だからその日私は山田の真意を尋ねてみる必要があると感じていた。マイク・ストーンランドは確かに彼のマイクやジムやサリーに対する応対が決然としていないと言っていた。なら今後このまま替え玉CEOを継続してやっていく積もりなのかだけは確認を取っておく必要がある。と言うのも意外と最後の最後になってCEOに成りすますことに未練が出てきて私が「そろそろ俺とバトンタッチしようか」と提案したならごね出す可能性も決してゼロではない。そして今度こそ私を脅してくるかも知れない。だから私はシンガポールから成田へ向けて飛ぶ飛行機の中で何故な少し心がざわつき始めた。しかし富士山が窓から見えてきた時少し心が落ち着いた。「しっかりしろ、お前はこれまでだって何とか切り抜けてきたじゃないか」と私は自分に向かって叫んでいた。

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