Friday, October 30, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑬

 私はシンガポールでの生活に慣れてきた私がダミーから退いてそれなりに悠々自適な生活をし始めてから半年くらいたった秋のある日、日本からメールが届いた。私は私の居所を誰にも告げていなかったが、私が持ち歩くパソコン上でのメールには何人かのメル友たちと繋がりがあったのだ。一つは私が俳句を作るのが昔から趣味で、その俳句を投稿する会の仲間と俳句を通してメールの遣り取りをするというのがアメリカCEО時代から日課になっていたのだ。不思議とそういう遣り取りは、現役中は頭休めという意味合いしかなかったものの、辞めた後にはどこか生き甲斐のようになっていたのだ。それ以外に私自身が私のアイデンティティー(そんなものはとっくに失っていたにもかかわらず)を示し得る部分は皆無であったために、俳句仲間との繋がりがその唯一の接点だったのだ。
 そのメールはこんな文面だった。

 俳句の広場でいつもお世話になっている元会社員の須賀です。あなたの俳句にはいつも驚かされます。俳句が巧妙な五七五の言葉のトリックであるということのいい意味での素晴らしさに覚醒させられました。私が勤めていた会社も大勢の従業員をリストラすることを決行したようです。これから先一体世界はどうなっていくのでしょうか?
 ところで今度一度京都で吟行を致しませんか?
 私が組んだスケジュールを申し上げます。

 集合場所以下徒歩 集合場所・南禅寺→永観堂→(哲学の道)法然院→銀閣寺
 そこからバスに乗り、御苑内レストランで食事、食後数箇所の美術ギャラリーを巡り、こちらで手配した会館で句会。
 夕食は各自自由、宿泊先は京都国際ホテル、
 翌日は徒歩で東寺→西本願寺→東本願寺→三十三間堂付近のうどん屋で昼食後、バスで京都駅に戻り、地下鉄と市電で広隆寺、そこから今度はタクシーで龍安寺、そして再びタクシーで妙心寺、そこからは山陰本線で京都駅へ戻り、京都内の料亭で句会、閉会後各自解散。

とあった。その男は人生の遍路において妙味のある句を捻り出し味わい深い雰囲気を句からは漂わすガイだった。しかしその俳句の広場というブログは既に出版界、句界では著名な五十代の中堅の俳人が主催していたのだが、その中でも特に才能をその俳人に認められていた数人だけがSNSの句会に主催者の俳人から個人的に誘われ参加していたのだ。そして私もその男も主催者に誘われてそのSNSにも参加していたのである。だから句会では投稿しかそれまでしていなかったものの、始めて直に会うということはそれなりに興味が惹かれることである。それまで句作しか知らないその男、須賀紫卿と一度会うという試み自体はそう悪いことではないと私は思ったのだ。またそれだけの句をその男は快適ではあるシンガポールのマンション暮らしもそろそろ日本の風土に対する懐かしさに侵食され始めてもいたこともあった。
 私にとってシンガポールがどのような歴史で、どういう精神風土であるかということは殆ど関心さえなかった。要するにマンションの高層階で他人から干渉されることなく快適に暮らすのに、英語が通じるのと経済的な意味でも最も相応しいという以外の一切の理由など私にはなかった。私にとってどこへ行くのにも便利で安定した経済状態と治安であるということ以外の思い入れはなかった。
 麻薬関係の犯罪で刑罰が重く死刑も多いと聞いたが、私はスカイスレッダー時代から犯罪に巻き込まれることだけは殆どなかった(誰にとっても自分がしていることは犯罪ではないのだ)し、第一それほどたやすく他人を信用するタイプでもなかったために、変なかかわりに巻き込まれずに済んできたのだ。
 しかしその句会の話をメールで読んで知った時、私は自分が日本人であるということを再び強烈に思い出した。しかも京都で吟行ということが、極めてここ二年くらいの精神的には頽落した生活から好奇心を取り戻すに絶好の機会であると私は直観し、メールに返信し、参加する旨を伝えた。
 一ヶ月後私は世界的規模の金融危機であると世界中のマスコミが騒ぐ中、一旦成田に行き、そこから京成ライナーで東京に出て、午後すぐくらいの時間帯だったので、一度金城悟として生活していたマンションへと赴き、埃だらけの部屋を夕方まで掃除して、再び東京へ電車で戻り、駅に近いところにある大型書店で京都のガイドブックを買った。そして敢えて新幹線で京都へ赴くことをやめて、学生時代の安い旅行のイメージを懐かしく思い、夜行の高速バスに乗って早朝京都駅に到着するというプランを実行した。シンガポールの高層マンションで57階の自室に戻るのには急行エレベーターに乗るが、その乗り心地に私はアメリカ時代から自分の中に身につけた便利さを享受するという感覚を自覚していたが、それを敢えて久しぶりに祖国帰還において全て捨て去るという気持ちになっていたのだ。
 バス内は一人だけ年配の男性がいた他は殆どが学生くらいの年齢の若者たちが乗客だった。大阪へ直接飛行機で飛ぶことをよしたのは、一重に学生気分で旅行をしたいということだったのだ。夜行バスは五千円だった。
 十一月下旬は最も京都で紅葉が綺麗な時期である。
 私は東京駅から京都駅まで直通のバスに揺られながら、予め持参していた毛布を椅子の背を倒し、自分の身体にかけた。バスの揺れはしかし時折強烈に身体にまで響き、学生時代に戻ったような旅に、ある瞬間老いということを感じた。周囲で寝息を立てる学生たちの若さを私は今更ながらに羨ましく感じた。
 京都駅には早朝に到着し、バスから降りると、京都駅の駅員に聞いてその通りに降りた地下鉄の最寄り駅の蹴上から少し歩いた先にある明治時代風のトンネルを右折して歩いていくと、次第に東山の風景一色になっていった。私は腕時計にちらりと目をやり南禅寺に急いだ。定刻通りに南禅寺正門前の駐車場の入り口辺りに着くと、そこには数人の中高年の男性たちがいたので、声をかけたら、その中の一人が句投稿をアメリカで始めた頃より使っていた俳号である「散見さんですか?」と私に今回の吟行のメールを送ってきてくれた須賀という男が名刺を私に渡しながら、「須賀です。今日これからよろしくお願い致します。」と私に挨拶した。須加は句のイメージからするともっと若い人かと思ったが、実際は私より更に二十歳くらいは年配者だった。
 南禅寺はかつてフランシス・コッポラの娘である映画監督ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」でも撮影された。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンセンが放浪するシーンに使われている。映画ではビル・マーレーが渋い中年米国俳優を演じ、日本国内でCM撮影が行なわれるシーンではCFディレクターをダイヤモンド・ユカイが演じ、マシュー南という名でヴァラエティー番組に出演していたそのままの出で立ちで藤井隆も出演していたのが印象的だった。
 しかしその日は幾分霧雨が降り、淡い霧も発生しているそんな天候だったために、南禅寺境内にある水道橋も荘厳な雰囲気に包まれ、歩く足取りも湿った匂いを煽り立てるような空気を醸し出していた。
 須加が私の横に歩き話しかけてきた。
 「私も句作をはじめてから既に三十年くらい経つんですが、散見さんは未だお若い方の俳人さんでいらっしゃいますね。」
と親しげにそう語る口調に嘘はないようだった。
 私は本名は今は郷田守にしているが、社長時代にも、スカイスレッダーのCEОという風には勿論名乗っていなかった。適当に翻訳業務紹介業者だと名乗り、本名を尋ねてくる句作仲間なんて殆どいなかったものの、時折あまり趣味のいいことではないが人のプライヴァシーに興味を持つ奴には適当に「意外と平凡な名前なので」と適当にごまかしてきたのだ。また句作にしてもそう多く作ることも出来なかったし、ゆっくりと他人の句を鑑賞するには忙し過ぎた。だから寧ろこうして偽のリタイアをした後に退屈しないで済む方法の模索の一環として趣味に俳句作りがもってこいのことだったに過ぎない。しかしそほんの思いつきが私の人生を更に別な方向へと差し向けていっていたのである。
 私は樹木医をしているという須加の温厚な眼差しに対してそれなりの礼儀を尽くそうという気持ちから
 「そうですね、意外と翻訳業って年をとっても大変さがなかなかなくならない、つまり慣れで適当に出来ない勉強の連続なんですけれど、いつも頭を使っているということは、それだけで僕くらいの中年でも年をとっている暇がないことだけれど、須加さんのような方からご覧になれば私なども若輩者ですからね。」
 その時しかしこのような会話内容をすることなどここ二年は一切なかったことを今更ながらにと思っていた。
 「いやいや俳句に年は関係ありませんよ。」
と言って須加は快活に笑った。こういう会話をここ二年くらい一切してこなかったということは、私はそれだけ精神的余裕がなかったということである。しかし須加に咄嗟についた嘘も百パーセント嘘とも言えないことだったのだ。というのもCEО職とは言ってみれば、業務と業務の間の連関に対する対外的には投資家や株主たちに対する説明であり、対内的には従業員たちに対する説明である。それは要するに替え玉であっても、翻訳業務をプロに委託すること、つまりそのプロの力量を見抜き、クライアントの要望を満たすという意味では、従業員たちがプロの翻訳家、クライアントたちは投資家や株主と言ってもよかったからだ。しかしそれにしてもこの須加という男はまんざら信用出来ないでもないとその時私は直観した。そしてそれは決して間違いではなかった。
 須加という男はよく快活に笑い、積極的に私に色々話しかけてきた。その時に私と須加以外にも四人の男性がいた。南禅寺の正門前の駐車場で皆は一応自己紹介し合っていたのだ。たまたまその日は女性の参加者がいなかったが、年齢的には古物商を京都で営んでいる島田という六十代の男性と、サラリーマンをしている東京から来た青森出身の近田という三十代の男性、そして桑原という写真家(女性のヌードを得意とするらしい六十代)、そして吹上という名の化粧品会社の社長である私より七八歳若い四十代前半といった面子だった。近田は桑原と妙に気が合いそうで、島田と吹上は商売のことについてしきりと話題にしていたようだった。私の横には主催者の須賀が、そしてその後ろに桑原と近田が、その後ろに島田と吹上が歩いていた。
 私が京都駅に到着したのは七時前だった。そして乗り継いで降りた蹴上駅から南禅寺に到着したのは須賀のメールによる提案で八時だったので永観堂を拝観するのには未だ少し時間があったので、そこは諦め哲学の道を通って禅林寺へ立ち寄り法然院で少し長めに見学した。(安楽寺に立ち寄り銀閣寺に着いた時には十時過ぎになっていた。)
 しかし私にとって不思議だったのは、かなり日本人にとっての自然とか、日本人の心といった生活から遠ざかっていたのに、京都の道を歩いていた時には、何故かサンタフェや、モンサンミシェルやシンガポールを歩いた時にはなかった大地との密着間が感じられたのだ。そうだ、私もまた日本人なのだとその時思った。それは私がずっと長いこと感じ続けてきた世界が虚構めいて見えるということに久しぶりにあのサンタフェから見た夕焼けの色が鮮明に生命的躍動を私の肉体に呼びさましてくれたように感じさせた。しかしただサンタフェで生活する日常ではずっと歩いている時もレッドカーペットの上を歩いている感じは拭えなかったのだが、それに引き換えずっと自分との間に密着感があったその時感じた哲学の道の傍らにある小川のせせらぎを眺めいりながら歩く京都の地面での感触がカーペットではなく大地であるということそのものもまた一つの私の脳が勝手に描く幻想かも知れないと思うことも私は忘れなかった。
 しかしすぐ後ろに歩く不良壮年といった感じの桑原に対して青年的雰囲気をまだ多分に残す近田が共感を示し友好的に語りかける内容は自然と耳に入る範囲内でもさほど違和感はなかったものの、その後ろに続く島田と吹上の会話内容を聞き取る私の耳は、伊豆倉の持つあの独特の商売人特有の慇懃無礼さと、俳句に関心があるのだぞと無趣味のビジネスマンたちを蔑む態度が見え見えで嫌な過去の出来事の想起を一瞬で招いてくれるのではないかという懸念を私の心に生じさせた。
 近田は結婚を意識した女性との付き合いがあることを桑原に告白し、時々彼女の自分に対する態度から女性というものがよくわからなくなるというようなことを告白すると桑原は
 「女という生き物は僕たちとはまるで違うからね。これは運命的な役割かも知れないね。人類のね。だから僕は女性を相手に撮る時には、向こうをよく知っているという態度を一切示さずに、僕は何にもあなた方のことを知りません、だからどうかそっちのことを教えて下さいという態度と表情でシャッターを切るんだけれどね。つまりそういう風に彼女に接すれば向こうは君を信用してくれると思うよ。」
 しかし島田は吹上に対して
 「化粧品というのは女性に対しては女性が使い勝手のいい雰囲気を持っている商品を自分のペットみたいに思えることが商品戦略としては最も有効なんですかね?」
と聞くと、島田に対して吹上は
 「いやあ、それは島田さんに寧ろ私がお伺いしたいことですよ。」
と返す要するにそんな遣り取りに終始していたのである。
 私はこの種の社交辞令に対して翻訳家としての生活においても、その後急転した沢柳=佐橋のダミーとしての生活上でも一切なかった。アメリカ人は本質的に全く異なった社交辞令の仕方をしていたからだ。だからと言ってちっとも私はこの二人の遣り取りを懐かしいなんて思いもしなかった。それどころか二度と聞きたくはないタイプの会話内容だったのだ。
 その点桑原の謂いというのは年配者から青年層へ向けた回答としてはよく理解出来る、そうその時私は思った。ある意味では桑原と沢柳=佐橋=サハシーは似たタイプだった。そんなに年老いてはいないのに、私と年恰好が似ているというだけで自分の職務を放り出し死んだことにして、ひょっこり私の前に現れ、再び去って行った。
 近田は銀閣寺に到着して庭園を散策していた時、私の後ろで桑原に再びこんなことを聞いたのが私の耳にみ入ってきた。
 「桑原さんは世界中の女性のヌードをお撮りになっていらっしゃるけれど、どこの国の女性が一番情感的ですかね?」
すると桑原は
 「君はどこの国の女性が一番そうだとお思いですか?」
 近田は自己紹介の時に南禅寺の正門前で自分は大手家電メーカーの社員であると言っていたが、更に自己紹介をも兼ねて
 「私は商品開発部に属していて、一年間ロス支店にもいたことがあって、まあそこでマーケットリサーチもしていたんですね。週末には滞在先の地域コミュニティーの色々なパーティーに誘われて大勢アメリカ人女性も見てきたけれど、確かにextrovert(社交的)な女性が多いけれど、では彼女らが本当に自分の本音を曝け出しているかと言えば、決してそうではなかったというのが僕の印象です。」
と言った。すると桑原が
「僕も米国人女性は大勢フィルムに収めてきたんだけれど、君の持つ感想と共通しているとも言えますね。だけど日本人の女性も少しずつ変わってきたからね。」
と呟くようにそう言った。そして続けて
「でもね、僕の撮るヌード写真のモデルになるような女性はアメリカ人でもフランス人でもフィンランド人でも日本人でも要するに何かある程度共通性があって限定されてくるんですよ。だから逆に僕はあなたが付き合っていたり、ビジネスで知り合う女性の方がずと僕が見てきた女性よりもワイドなヴューで見ている気もするけれどね。」
と付け加えた。それを聞いて
「そういうもんなんですかね。」
と半分怪訝そうにしかし半分感心した表情で半納得の意志を近田は桑原に示した。 
 吟行をしているので、皆小さなメモ帳にボールペンや鉛筆を片手に気がついたら俳句を書き留めていたが、そうしながらも和やかな会話も挟んで移動していたのだ。
 私は近田のアメリカ滞在の話を聞いた時心の底ではいつ頃アメリカにいたのか聞きたいと思ったが、勿論聞いたりなんかしなかった。そして一瞬ヴェロニカのことを追想した。今頃山田が巧く彼女をリードしているのだろうか?彼がヴェロニカも引き継いだのだ。そして彼は私のことを沢柳であると信じている(筈だ)。
私が予め旅行の前に着替えその他を放り込んでいたショルダーバッグの中から取り出したデジカメで法然院にある砂のような小石で作られた山型のある庭をそこへ降りるようになっている上から俯瞰で写真に撮るために須賀より少し早く前方へと歩いていって須賀がカメラの視界に入らないようにして構えていると、後ろから須賀が
「散見さんの今回の句を楽しみにしておりますよ。」
と言った。私は
「そう仰る紫卿さんこそいつものような歯切れのいい爽快な句をこちらこそ楽しみにしておりますよ。」
と言うと、須賀は打ち解けた雰囲気で更に話しかけてきた。 
 「幼い頃というのは人間って奴は何を見ても新鮮な感じを受けて吸収しようとしますわね、しかし大人になっちまうと、いつの間にやらこう何ていうか、何を見ても感動しないように、前に見た何かに必ず新しいものさえ結び付けて見てしまう癖がついてきますわね。」
 そこで私が
 「ええ、そういうものですね、よく分かります。何でもかんでも感動していたら身が持たなくなりますからね、社会生活って奴は。」
と賛同の意を示すと、須賀は更ににこやかに
 「ええ、ですからこういう吟行って奴は気が利いた計画ですよ。」
と快活にそう言った。
 私はもし以前の、つまり私が郷田守として生活し始めてから知り合った他人と共にいる時に、日本で金城悟時代の知人と鉢合わせしたら、その時はその者にだけ「金城の本名は仕事では使っていないんだよ」と説明する積もりだった。私が過ごしてきた翻訳家の業界ではそういうタイプの人間も大勢いたから、そこら辺は一向に不自然ではない。私はもうかなり資産があったので、細々と金城悟として生活している辻褄合わせとして以前の住所を引き払ってもシンガポールに滞在している時にも一応確定申告の際にはきちんとした書類を作成していた。事実私は郷田守になってからも院生に金城悟としての翻訳業務の代行をさせていたのだ。だから郷田守としてのアイデンティティーとは要するに佐橋=沢柳として生活していた頃の知人と鉢合わせした時に取り繕うための新たなアイデンティティーだったのだ。しかし不思議とこういう二重性に私は既にすっかり慣れきってしまっていたのだ。
 銀閣寺の庭で須賀の発案で最初は個々に次に皆で須賀の提案で記念写真を撮って、昼食をとるために京都御苑内のレストランに行くために乗るバス停まで出たらバスは出たてで、次のバスが到着するまでに二十五分くらいあったので、皆でバス停からほど近い茶屋に入って時間を潰すことにした。その時店内で三味線と琴によるまるでとってつけたような邦楽が流れていたので、咄嗟に黙っていれば
「いかにもさもありなんっていう感じのBGMですね。」
と私や桑原の顔を見て苦笑した。
その時島田が近田に
「ところで近田君は音楽も好きそうだけれど、どんな音楽を聴いているんですか?」
と質問した。すると近田は
「ええ、好きですよ。桑原さんのお撮りになっていらっしゃる写真とか見ながらロックとか聴くのも好きですね。」
と言った。するとロックと言えばエルヴィスという世代らしい島田が更に
「どんなロックですか?」
と聞いたので、近田は
「ニルヴァーナですかね。」
と言った。すると島田は
「僕はその名前知らないですね。」
と言った。近田は
「僕たち三十台中盤の世代にとっては多感な青年期に結構エキスを貰った人は多いですよ。だからヴォーカルのカート・コバーンが自殺した時はショックだったですね。」
と言った。するとその時吹上だけが頷いていた。ニルヴァーナはロメオスも好きで彼の邸宅に招待されて映画を見た時も、映画が終了した後互いにワインを飲んだ時にBGMに彼が選んでいたのがその時懐かしく思い出された。
私たちの世代にとってジョン・レノンが殺された出来事は極めて印象的であった。しかし私たちとて現役時代のビートルズをリアルタイムで聴いていたわけではない。島田と桑原と須賀はそれよりももっと上の世代だし、吹上も少しだけ近田よりは長く生きているものの大体似た音楽を聴いていたようなのだ。近田は同世代の吹上に
「吹上さんはどんなタイプの音楽をお聴きになられますか?」
と聞いたので、吹上は
「私は趣味ではあまり音楽を聴かないんですけれど、ビジネスタイムでは私の社ではアンビエント・ミュージックを聴いて皆仕事をしているんです。」
と言った。
 注文して出されたコーヒーをそそくさと飲み干すと周囲の皆は殆ど温くなってしまうまで口さえつけていなかった。私は何故か喉が渇いていたのだ。
バスが到着する五分くらい前になって皆目配せして示し合わせたように会計を済ますと、歩いて三十秒くらいのところにあるバス停に並んで待っているとバスがやってきた。
 その後私たちはバスを乗り継いで京都御苑内にある予約していたレストランの奥の和室で食事をして、ビールで取り敢えずの乾杯をしながら、各自既にしたためていたメモからある程度自信のある句だけ一句言い合うことにした。本格的に今回の吟行で作った句を発表し合うのは明日である。
 その時には既に近田と桑原、島田と吹上、私と須賀がペアを組んでいたようなことと関係なく全員が懇意な雰囲気で句を巡る様々な意見や感想が飛び交った。その時私たちは通常のレストランのテーブル席が、和室の上がり間から充分見渡せる間合いになっていたので、テーブル席の客たちが寛ぐために少し高く全体からも見られるようにして置いてあったテレビのニュースの内容が、私たちにも聞き取れたのだ。ニュースは20世紀から今日までの一世紀の間でも類例を見ない大不況の嵐がアメリカ証券業界から世界へと飛び火しているということを伝えた後、よりにもよってスカイスレッダーとミューゾソケット社との提携が暗礁に乗り上げているということが報じられたのだ。私が替え玉CEО時代にはズームアップ社とシューズデザイナー社との提携に漕ぎ着けたが、山田はどうも敵対していたミューズソケット社との提携を勘案していたようだったが、それが暗礁に乗り上げたというのである。私は当時既にスカイスレッダー社の行く末にあまり関心を示さなくなっていたのだ。だからそのニュースも私にとっては突拍子もないものだった。
 私が替え玉CEO時代以前に一度は懇意だったミューズソケット社は何度か独占禁止法違反ではないかと囁かれたり、槍玉に挙げられたりしていたこともあったが、その都度巧妙に新奇のアイデアによって乗り切ってきていた。しかしアメリカの実業界でよく見られるパターンとしてエディー・レンディーは既に経営の第一線からは退き、しかし通常の年齢からすればまだ一花咲かせることが可能だったので、慈善事業をすることに精魂を傾けていたものの、いざ提携という話になると彼だって山田=現在の沢柳との話には現在のCEОからも打診されていたに違いない。スカイスレッダーからしてみれば私の時代でのミューズソケット社に対する仕打ちは裏切り以外のものではないのだ。ロメオスがそれだけ私にとって魅力的な男だったということも実は手伝っている。
 しかし私はあの山梨の山荘で沢柳本人から
「マイケル・ストーンランドとジム・クラークは二人とも信頼出来る男であり、いざ決裁を仰ぐことを下の者から迫られたら、この二人に相談し、両方が同一意見ならそれを採用し、そうでなければいずれかあなたが自分で正しいと直観し得ることだけで流れを決定していけばよいんですよ。」
と言われたし、事実私はCEОになってからも、何度かサハシーが私にだけ密かに教えてくれていた携帯番号へかけて彼からアドヴァイスを聞きだしていたのだが、シンガポール在住になってから一度私は実は私をサハシー本人であると信じて疑わない(そうだろうと思う)山田から電話してこられたことがある。私がいざ困ったことでもあったら、自分に電話をよこすように私がサハシーから教授された山荘で、同じように彼にそう告げて、携帯番号を知らせていたからである。
 その時彼は私にこう言ったのをその時私は思い出した。
「サリーが運んでくれる私の日程表に従って私は行動すればよいのですが、では日程があまり過密ではない時はどうしたらよいのでしょうか?」
 その時私は確か次のように返答したと思う。
「CEОは意外と過密スケジュールではない時は暇なんですよ。普段は会計士も弁護士も色々スタッフが勘案してくれたことをこなせばよいから、それは丁度何かの流れに身を委ねてればよいけれど、いざ空白の時間が与えられると逆にぎょっとしてしまうものなのですが、そういう時に閃くアイデアが実はビジネスには重大な岐路の際に手助けになってくれることが多いんですよ。だからそういう時は好きな小説を読んだり、映画を見に行ったり、コンサートに行ったりして、気分転換することが意外と後でいい案が浮かんだり、困窮した時に打開してくれる道を指し示してくれるものなんですよ。」
 山田はその時以外は一回も携帯では連絡してはこなかった。そんな時間的、精神的余裕がなかったということもあるが、殆どの情報は私がその都度彼へメールで送信していたのである。
 しかし気分転換をせよとそう山田に告げた私であったが、私自身は細々したこと、例えば豪邸の庭師ロジャースらについての知識とか、豪邸の地元の人間関係についてなどは逐一メールで教えて貰ったりしたものの、精神的レスキューを私はサハシーに求めることは殆どなかった。当然ズームアップ社らとの提携の時も完全に私の一存で決めたことだったのだ。
 しかし俳句の話に花が咲いている時に、そのニュースを注目したのは私だけだと思ったら、流石化粧品会社の社長なことはある、一瞬そのニュースが流れた時そのアナウンサーの言う一言に注目した表情を私だけが恐らく見抜いていた。その鋭い視線と深く思念したような一瞬の冷徹な表情が、私自身のビル・サーストンやサリーやトムとの仄かなたった一年ちょっとではあったが、虚としての私の内心では実のある思い出に耽ろうとしていた気持ちに水を差した。たった一瞬ではあったが、俳句の季語と切字の話をしていた最中に見せた彼の経営者としての表情が一気に私の気持ちを元CEОへと立ち戻らせた。しかしそれを一切他者たちには悟られまいとして、今度は私の方から敢えて吹上に対して俳句に関しての質問をしたのだった。
「では吹上さんは一体用言止めと体言止めに関してはどのような見解をお持ちになられるんでしょうか?」
と私が言うと吹上は
「私は須賀さんや散見さんほど長く俳句作りに携わっているわけではありませんけれども、体言止めというのは何か固定させてしまうように思える一方、本家取り的な妙味にある時には活きることもありますが、一般に何と申しますかね、イメージを、つまり俳句を詠む者の表象的心理をですね、限定してしまう、つまり通り一遍の名辞というか、通念に縛り付けてしまう気さえするんですね、ですから、私は映像的に表象が明確化される用言止めの方に痛烈に惹かれるんです。それはフッサールとかサルトルといった哲学者の思念を彷彿されるんですね。」
 吹上は確か文学部出身であったが、まさか俳句の席でフッサールやサルトルの名が出てくるとは思いも拠らなかった。私自身哲学書を貪り読んだ記憶もあるが、大分昔の話である。一気に私は世界が虚構めいて見える私のヒューム的懐疑主義的青春にその一言が立ち戻らせた。私はその一言を聞いた後で、この吹上とは私を色々な時期に立ち戻らせてくれる若いがあまり軽く扱っては後で痛烈な竹箆返しを食らうことになるかも知れない、まさに見過ごせない奴だとその時確信した。それはニュースの内容に一瞬凍てついた表情を見せた男に相応しい私の下した結論だった。
 私は吹上の意見に対して
「それは私も吹上さんに完全に賛成ですね、余り巧くない詠み手が下手糞な本家取りにもならない名辞で締めくくると、句が死んでしまいますからね。」
と述べると桑原も近田も島田も須賀も納得した表情を示した。しかし暫く皆この遣り取りに納得したような表情をしていたが、思い立ったように近田が疑問を吹上にぶつけた。
「では自由律俳句の名作と言われる尾崎放哉の∧咳をしても一人∨は形式的には体言止めですが、どう考えたらよいのでしょうか?」
それに対して吹上はすかさず
「それはこう解釈すればよいでしょうね。つまり∧咳をしても一人でいる∨ということですね。これは∧一人で咳をする∨ということを言いたいのですが、そうただ言ってしまえば、面白くも何もないですね、しかし咳をしても周りには誰もいず、その咳をしたことを心配してくれる人も誰もいないということですからね。だから体言止めと言ってもね、これは限りなく用言止めに近い感覚の、つまり用言が省略された体言ですから、要するに知識とか解釈的な常套性に依拠したような体言止めのような本家取り的趣味性はないと見ていいですね。」
 吹上は吟行している時にはあまり同伴していた島田とも積極的に会話を弾ませることなく、一人メモを取っていたから、当然社交家ではないらしいということは逆に創作家としては優れていると私は思っていたが、事実彼は後で皆で一句ずつ披露した句そのものも優れていたし、解釈家としても、批評家としても優れていたことは確かだった。そしてこういう出会いとはどんなに生き馬の目を抜くようなビジネスワールドにいても、味わえない妙味であることを私はつくづく感じたが、それは世界そのものが私を存在させる前に既にかなり虚構めいて見えることそのものを、句と作る、それを集団で篩にかけるという行為によって虚構を虚構(句)によって表現することで自然に世界を非虚構にすることが出来るということを私は替え玉としての生活から足を洗った後の人生で初めて知った気がした。  
 しかしやはりそれにもかかわらず、あの時のニュースでのスカイスレッダーでの苦難とか、山田は巧くやっているのだろうかと、一度だけ私にアドヴァイスを求めてきたあの時以来一度も私の携帯にはかけてこないままでいる彼の現在の行状に関していささか憂慮めいた気持ちになっていたということ自体が、私は未だ完全には気分的にリタイアしているのではないということに気づき、私はこの句会において、誰にも気づかれないように一人で苦笑をしていたのだ。
「いやあ、今日は先生抜きで素晴らしい会合となりました。また私のところに連絡して下されば、私が句会をする場所を確保致しますので、いつでも何なりとお申し付け下さい。」
と閉めの言葉を須賀が句の批評が終ってから言った。それに対して島田が
「私たち一般庶民にとって社会で生活していくということは、個人的な創作への思いとか沈思黙考すること自体を諦めて、要するに自分というものや自分を見つめるということ自体を捨てて社会に奉仕するということです。ですから先生のような天才の方以外の私たち、と申しましても、私以外にここにいらっしゃる方は含まれませんけれども、要するにこういういい機会でもない限り、一切自分を創作を通して見つめる機会などなくただ死んでいくだけです。」
と言って、須賀に感謝の視線を注いだ。すると桑原が
「私は写真家ですから、よくあなたは自分の表現をなさる機会に恵まれていらっしゃるでしょうとか言われるんですが、写真家というのは、確かに通常の会社員の業務よりは、自分を見つめる機会に恵まれていますけれども、どうなんでしょうかね、却って近田さんのような若い会社員の方にとっての余暇の過ごし方の方が有効に自分を見つめる余裕が持てるんじゃないですかね。つまり私たちは半分は自分の写真家としてのテーマとか考えることが出来るけれど、それはあくまで社会全体が私に求めるものに対する受け答えとして設定された「私の世界」なのであって、私が社会に対して求めたり、私が社会から認定したりして貰いたいものとも微妙にずれ込んでいるのですね。」
すると、もうお開きかと思われた場が再び話に盛り上がって、それに対して近田が
「桑原先生のような方でもそうお思いになれるんだったら、要するにプロの世界ではあまり自由はないということになりますね。」
と述べた。すると桑原は
「そういうことですよ、世の中に一切認められないようなしかし本当の天才がいたとしたら、そういう人間はどこかで社会通念と対立して生きていかざるを得ないけれども、いざ自分にとっての安全地帯を見出したのなら、却って売れっ子よりももっと自由かもしれませんよ。」
と言った。するとその意見に吹上も島田も賛同するように大きく首を縦に振った。その場で全部お開きになり後はホテルで過ごすなり、土産物屋に行くなり自由時間という予定だったが、いきなりお開き前に話しが盛り上がったので須賀の咄嗟の発案で有志者のみで二次会を設け、酒を飲みながら俳句や俳句を取り巻く状況とか、それぞれにとっての俳句の出会いを語り合うということをすることになり、結局一人も参加しない者は出ず皆で祇園の居酒屋(須賀が一見ではない店があったので)に繰り出した。会費は若い近田だけ桑原の奢りということになって皆が出席した。既に御苑を出た時には夕方近くになっていたので、二次会がお開きということになり三々五々後は完全な自由時間ということで、土産物屋に寄ろうとする者もいれば、そのまま宿泊先の京都国際ホテルに向かう者もいて、ホテルのチェックインへと向かった時にはすっかり夜もふけていた。腕時計を見るとちょうど八時になっていた。近く(大津)に住む島田だけが明日また東寺で落ち合う約束を皆として、一旦自宅に戻って行った。
 御苑から祇園に行く途中でバスの中で幾つかのギャラリーを車窓から目撃したのだが、その時私は伊豆倉のことを一瞬思い出した。思えば彼によって自分の人生がある部分では急転したのだ。しかし彼のよく言っていたこと
「金城さん、画商って奴はとてもじゃないが、まともではない悪どい奴っているんですよ。贋作と知っていて平気で高額で売りつけてどろんするような奴とかね。」
を思い出したが、自分もそれと似たようなものかも知れないと思ったのだ。しかし極めて紳士的でこの替え玉詐欺が知られさえしなければ誰も傷つかないのではないかと大胆にもその時私はそう思ったのだ。

Tuesday, October 27, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑫

 私は山田のことをすっかり沢柳に後釜のことを聞かれるまで忘れていた。しかし山田に全てを託し、もうあの翻訳業務をしていた頃のように二度と今度はどんな仕事が来るのかと半分不安、半分期待が入り混じった感情でその都度迎えるというようなことなどないだろう。何故なら私は既にもう一生働かなくてもいいくらいの財産があった。しかしそれは決して真っ当な仕事によって得たものではないし、また世間に公表し得るものでもない。つまり私は生涯、楽な生活をすることが出来るが、同時に生涯、翻訳をしていた頃のようには、世間に胸を張って生きていくことは出来ない。勿論私は翻訳をしていた頃からとりたてて、人生の充実感とか、生き甲斐といったものを信じる方ではなかった。しかしあの得体の知れない沢柳による試用期間において、不安を入り混じらせながらも、必死で採用されることを考えていた頃には、それなりに精神的な充実感はあった。つまり何らかの生き甲斐とはこんなものではなかろうかというような感じは確かにあったのだ。つまりそういうことというのは後になってから、そうだ、あれが幸福という感情だったに違いないと分かるものなのかも知れない。
 しかし実際にCEОとしての仕事をこなし、それを替え玉としてではなく本当に自分の意志でし始めた頃まではある意味では最初の緊張感からの延長だった。しかしある時点から、つまり自分自身で替え玉としてではなく、いつしか最初から自分がCEОだったのではないかと錯覚するくらいに慣れていった頃から私は確かに完全に後戻りすることすら出来ず、またそれを一方では確かに決して望んではいなかったものの、未だ試用期間中なら、全く異なった場所で仮に誰かと居酒屋辺りで会話するにしても、どこか胸を張って会話することが出来たろう。しかし私自身が最初からCEОだったのではないかと錯覚するくらいに沢柳が死んだという事実自体に慣れていった頃、私は既に引き返すことの不能な地点に来ていたのだ。そしてその時点から私は居酒屋などで見知らぬ人たちと会話することなど最早する余地さえない地点に来ていたのだ。またそういう気持ちにすらならないようになっていた。そのことはその日、生きていた沢柳の笑顔を見てそう思った。つまりサハシーも今の私同様の気持ちを、私に全ての業務を明け渡した時点で味わっていたのに違いないのである。
 だから私は本来だったならもっと沢柳の生存に対して驚くべきところが、意外にも、私に任せて辞めていったサハシーの気持ちがよく理解出来るという感じだったことの方に私は驚いていた。それは私もまた今のサハシーと同じ身分になっているということからくる感じだったのだろう。

 私はモンサンミッシェルの風情もそこそこに、脳裏には殆ど沢柳が私に明け渡し、私が山田に明け渡した業務と、その業務に向かう人々といった関係についてどこか哲学的に思惟を働かせていた。社会そのものの運営ということが、自分の思惑とは全く違う部分で展開しているという感じは誰でも抱く感慨だろうが、それがこういう世界遺産のような観光地に訪れている時にも、いやそういう場所だからこそ脳裏を掠めるということは、私たちがいかに人間関係の渦に常に飲み込まれているかということを表している。が、私はそういうことを思い巡らしながらも、この先どのように生活していくべきか、おぼろげながら辞める前に考えていたが、既に私が抜ける前に購入していたシンガポールの高層マンションに移り住むことを実行に移そうと考えていた。既にフランスからシンガポールにまで行く飛行機の手筈は整えていた。そして再びパリへ列車で戻り、夕方には到着するから、それから予約しておいたホテルにチェックインし、翌日オルセー、オランジェリー、ルーブルといった美術館を見てから、夕方発の飛行機に乗る予定だった。ピカソ美術館も時間があれば見ようと思っていたが、翌日最初の二つの美術館をざっと見て回っただけで殆ど時間的にも体力的にもそれ以上一日で見て回ることが出来ないということを察知し、ルーブルとピカソは諦めて、私は空港へ搭乗時刻からすれば少し早いが、出向き、そこで新聞を買って椅子に腰掛けリタイア後に時々吸うようになっていた煙草を取り出し吸い出した。サンジェルマンをタクシーで通りかかった時、タクシーを停めて最寄りの店で購入したル・ジタンだった。
 その時フランス国営テレビのニュースが世界的規模での株の大暴落について告げた。私が職に就いている間はこんなことは一度もなかった。アメリカ国内でのサブプライムローンが契機となった今回の世界的金融危機は百年に一度であると報じられた。その時久しぶりに私は咄嗟に日本のことを考えた。日本での生活はどうなっていくのかということを、最早日本に戻り生活することを断念していたのにもかかわらず考えたのだ。そしてその時山田はこれからどう采配を振るっていくのだろうとも考えたが、それ以上に彼の心配をすることはなかった。

Saturday, October 24, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑪

 しかし私はタヒチでも長居はしなかった。即座にフランスのモンサンミッシェルに飛ぶことにしたのだ。と言うより予めそう決めていた。タヒチの海岸で飲んだトロピカル・ジュースの味が未だ舌に残っている間に既に飛行機は韓国ソウル、そして中国北京へと着陸していた。更にそこからロシア上空を飛び、モスクワで一度着陸し、再び今度はパリに向かって一路飛行機は飛び立った。
結局私が替え玉としての生活に区切りをつけたものの元通りの自分には終ぞ戻ることの出来ない地点に来てしまったということをまざまざと見せつけられたのは、実はハイウエーを建設してからというもの、前のような細い海岸だけが引き潮の際だけ残されているからこそ「あそこに行く前に遺書を書け」とまで言われた両際から打ち寄せる波によって辛うじて残っている風情がすっかりぶち壊しになり、ハイウエー沿いに泥土が打ち寄せられてすっかり様変わりしてしまい、元の風情を人工的に取り戻そうとハイウエーを撤去した後、橋を代わりにかけるために工事がしきりに行われている最中のモンサンミッシェルに到着した後に起きた出来事によってであった。

 内部にある礼拝堂の椅子に腰掛けていた時、私は最初ずっと天井の方ばかり気を取られていた。しかし内部に差し込む光の具合が、次第に外部の天候が曇っていくことを示すに従って光の差し込み具合による堂内の陰影が微妙に変化することに対して様々な国籍の観光客の静かなざわめきの方へと注意を以降させていった時、私は一人の男の後姿に目が釘付けになったのだ。それはまさに自分自身見紛うくらいの瓜二つであるあの沢柳にとてもよく似ていた。しかしその男はざわざわ数十人くらいいる白人や黒人やアラブ系の観光客が多かったその時の人垣の前を椅子から立ち上がって、ゆっくり歩き始めた。そこで私は人垣を潜って、その男の後をつけて行った。
 男は中庭の見える回廊に向かった。上部にあるその庭が見える回廊に到着すると、少し前に階段を昇って行ったその男の後姿が再び確認出来た。
その時曇った空がごろごろと音を立て、一気に土砂降りになった。中庭に叩きつける雨の音と、そのシャワーの縦に叩きつける様を見とれていたその男は、その雨の雫が自分の方にかかってしまったらしく、それまでは中庭の遠方を見ていたが、ふと回廊の内部の方へと視線を移した。その時だった。私はその男がまさにあの死んだ筈のサハシーであることを悟ったのだ。
 私はそそくさと彼の方へと近づいて行くと、彼はこちらを振り返った。そして私の顔を認めると
「やあ、金城さんですね。」
と一言そう私に告げた。私はあまりの展開に自分でも即座の対応としてどのような言葉をかけたらいいか判断つきかねていながらも、口からは意外なほどすらすら言葉がついて出てきた。
「あなた、お亡くなりになった筈じゃなかったんですか?」
すると沢柳は
「いやあ、あなたがどれくらい私なしで仕事をこなしていけるか試したくってね、まあ人が悪いかも知れないけれど、私は死んだことにさせて頂きましたよ。尤も私は二度とあのCEОの職には復帰致しませんから、結局それは死んだということと同じことなんですけれどね。」
私は抜け抜けとそう語るサハシーの態度に一気に怒りが込み上げ
「それにしても、一体なんでそんな手を込んだことをなさったんですか?」
すると悪びれもせず沢柳は
「だって、その方があなただってやりやすかったでしょう?」
と私に告げたので、私は対応に困って
「そう言われたって。」
とだけ言ってそれ以上は口を噤んでしまった。すると静かにサハシーは
「こんなところにいらっしゃるということは、あなたも既に自分の身代わりを立てて、自分が退かれたということですな?」
と私に問い質した。
「そうですよ、当然ですよ。あんな立場にいつまでも平気でいられるほど私はあなたほど図太くないですからね。」
と私が返すと、沢柳は続けた私に問いかけた。
「別に私はもう死んだことになっていたのだから、あなたさえよければずっとあのポストにあなたが居座り続けてもよかったんですけれどね。でも何で私があなたを私の身代わりに決めたからお分かりになられますか?」
 私は即座に返答出来なかったが
 「そりゃ、風貌が私とあなたはそっくりではないですか?それが理由でしょう?」
 するとサハシーこと沢柳は
 「そりゃ、似ているという意味ではあなたと私は勿論瓜二つです。しかしそれだけではないですね、そんなにそっくりというだけでは世界にはあなた以外にも三人くらいはいます。どこの国の首脳もそういう影武者を用意しているものですよ。ただ囮という意味だけでならね。でもあなたをただの囮ではなく、本当の私ということで代行どころか、私になって貰ったのはわけがあるんです。」
 と私に真摯な態度でそう告げたので、私は
 「一体それは何故ですか?」
 と聞き返した。するとサハシーは
 「それは、あなたが一番重要なことで窮したり、二進も三進も行かなくなった時に、誰かに相談したりするようなタイプではないと私が踏んだからですよ。」
 と述べた。私が
 「それはどういうことですか?」
 と尋ねると、沢柳は
 「つまり、ああいう重要なポジションにいる人間というのは、ある面では凄く弱気になっていくようなこともしばしばあるんです。でもあなたは少なくとも、些細なことでは周囲の人間によく相談するタイプだけれど、いざとなったなら、一切誰にも相談しないようなタイプだと私は見抜いたのです。違いますか?」
 と私の目を凝視してそう言った。
 「まあ、当たっていないということではないですね。」
 と私は沢柳の凝視する目にそう返答した。
 私たちが話している間に一時叩きつけていた土砂降りは嘘のように引いて、再び昼時の太陽の光が差し戻っていた。暫く私たち二人は押し黙ったまま、中庭に目をやっていたが、我に返るように、私は沢柳に尋ねていた。
 「今は結局どちらに落ち着かれているんですか?」
 するとサハシーは
 「まあ世界中今のあなたのように暫くは旅行していましんですけれどね、今はフランスの片田舎に引っ込んで、毎日釣りをしているところです。」
 と言った。私は再びサハシーに聞いた。
 「それでこれからもその生活をお続けになられるんですか?」
 すると沢柳は
 「そう仰るあなたこそこれからどうされるお積もりですか?それにあなたの代わりになった人は放っておいても大丈夫な人なんですか?」
 と逆に私に問い質してきた。私はそれに対して
 「さあ、それも少し時間を置いてみないと、分かりませんが。でも何とかやってくれるんじゃないかと思うんですけれどね。」
 と私は沢柳に頼りなげにそう答えた。
 沢柳は
 「あなたも私の代わりを勤めて、世の中の仕組みというものを大分ご理解なされたでしょう?」
 と私に聞いた。私は即座には返答せず、暫く間を置いてから
 「いや、これから少しずつ理解していくことでしょうね。寧ろ辞めた後になったばかりだからこれからね。」
 するとサハシーは
 「なるほどね、実感が篭ってらっしゃいますね。」
 と言って微笑んだ。そして私にパリに行った時に購入したという高級チョコレートを私に差し出してから
 「まあ、これでも私の思い出に食べて下さいよ。まあ、もう私たちは再びお会いすることもないでしょうけれどね。」
 と言って、沢柳は私に手を振って、先に階段をそそくさと下りて行った。私はどうしても聞いておきたいことがあって、沢柳を呼び止めた。
 「ところでどうしてまたもう一度自分で仕事をなさるように私の代わりにポジションにお就きになられるお気持ちがないのですか?」
 すると沢柳はくるりと振り返って
「それはあの時最後にあなたが返信してきたあなたの回答を見て、なるほどなって思ったからですよ。」
 と言った。私はあのクイズ形式の最後の質問も、それに対してどんなことを返答して返信したかも忘れていた。そこで
「私どんなことを書き込みましたっけ?」
と沢柳に尋ねた。すると彼は
 「あなたはあの時こんなことをお書きになられたんですよ。孤独を感じることは孤独という言葉を我々が知っているからだと言うことを書いた後で言葉がないのにその孤独という言葉を作ることをあなたは突拍子もない偶然と表現なさったんですよ。そして∧その突拍子もない偶然に対して私はそれが偶然であると思わないで私の気持ちであると感じるだろう。もしそうであるなら私は言語の創造者であるということになるが、それが偉大であるとも感じないままでいることだろう∨ってね。その突拍子もない偶然っていう奴で人間は言葉を持ったんですよ。それが∧アダムが蛇から貰った林檎∨だったのかも知れませんね。でも孤独という言葉を知っている私はその孤独を打ち勝つことが出来ます。ならばその打ち勝つことをあなたにもして頂きたかったんですよ。一人くらい私の孤独を理解してくれる人がいれば私はこれから先もそれほど寂しくはない。それが唯一私が私の孤独を打ち勝つ方法だったからあなたに依頼したのです。あなたのお辞めになられた後あなたの後釜に納まるくらいなら私は辞めたままでいたいですよ。何故って態々あなたを選んだ私の決断が正しくなかったことになるからです。」
 それだけ言うと彼はまたくるりと踵を返すようにしてそのまま私の方を二度と振り返らずに立ち去った。

Thursday, October 22, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑩

 私が山田と入れ替わるように手筈していた日がやってきて、私は予め山田と申し合わせの通りに、明け方に予め借りていたレンタカー(車は社長専用米国内vIP用豪邸の十数台もの車が駐車出来るガレージに密かに数日前の深夜に停めて置いた)で密かにフリスコまで運転して行ってそこで乗り捨てた。そして空港からそのままバリ島に向けて飛び立った。バリ島で数日過ごした後、次はタヒチに、そして続いてモンサンミッシェルに飛ぶ予定を立てていた。私はその際に勿論金城悟でも沢柳でもなく別名、郷田守を使用した。山田は私が明け方に出てから、一時間後にやはり彼の運転する私がフリスコの空港付近で乗れるように用意していたレンタカーで豪邸に到着することになっている。あの山荘で予め詳しく豪邸の地図は彼に手渡し、カーナビも装備しているレンタカーを用意していたので、万事巧くいくことになっている。
 私は沢柳という存在から解放されたのだから、金城に戻ることも出来た。しかし私の意図とは裏腹に私の稼いだ収入は、金城のままでは到底不可能なレヴェルへと一挙に到達していたのだ。つまり私は今後沢柳になりすました後で行ったあらゆる場所にも二度と訪れることは出来ない(それは既に山田の行く先になっているのだから)のに加えて、金城に戻ることすら不自然で出来ないのである。つまり金城のあれからの生活全般ではどう転んでも今の経済的能力を捻出することなど不可能なのだから、私は金城のままではいつまでたっても、今まで一年以上沢柳になりすまして得た収入を糧に派手な生活をすることなど出来ない。と言って同時に沢柳のままでもいられないのだから、私はある意味では不自由なことにも私本来の金城でも、なりすましてきた沢柳でもない全く架空の人間の生を生き続けなくてはならない。しかもひっそりと。そして同時に私は金城として知り合った飯島のような人間との偶然の出会いを恐れ、それに加えて沢柳時代に知り合った大勢の人間との出会いも避けて暮らさなくてはならない。最も恐れるべき事態とは、金城としての私の知り合いと出会った時そこに同時に沢柳として私が出会った知り合いとも出会うというある意味ではかなり蓋然性としては小さいにも関わらず、全く可能性ゼロではないそういう偶然に遭遇することである。勿論山田と出会うということも最も避けねばならない。また極めてリッチな生活をしていると、いつ何時山田と私が邂逅する機会が訪れないでもないのである。そういう意味では沢柳があの世に行ってくれたのは彼にはすまないが、天の恵みであるとも言える。三人が一同に会することだけは避けられるのだから。
 私はバリ島へ向かう飛行機の中でこれから第三の人生に突入していくことの実感を噛み締めた。これからは郷田守としてのんびりと老後に向けて人生そのものを味わい尽くすのだ。もうあまり金銭的なことは勿論、何か業績を上げたいというような野心さえ抱く気持ちにもなれなかった。だからと言って放心状態であるわけでもなく、ただほっとしたという気分だった。しかしそのほっとしたという感じは晴れ晴れとしたものではなかったものの、と言っていつまでも緊張が解けないというのでもなかった。と言うのも私はいつからか緊張と、そこからの解放という程よい起伏そのものから遠ざかり、何らかの感情が別の感情によってコントロールされること自体に驚くこともなく、内的に動揺したりするような内的な葛藤さえもが、他人事のように思えるそんな風だったのだから。そもそも私は嘘と本当のことの違いという奴さえ然程切実なものとして私の中では存在していなかった。だから沢柳になりすました瞬間から寧ろ本来の自分に向いた生活を手中に収めたとも言えた。
 私がここ二年くらいの間特殊な経験をしたからでもあるが、それ以前から抱いていた現実が虚構めいて見えるということの延長としてもそういう感覚が最早決して特殊なものではなくなっていたという意味では本来の私になれたということなのかも知れない。しかし不思議なことにも、ではだからと言ってそういう感覚にすっかり慣れきっていたという風かと言えば、それもまた違うというのが本当のところだった。しかし私はいつもそう感じる度に、「いや、人生などと言うものは所詮こういうものなのだ。」とただ勝手にそう納得しているその繰り返しだった。
それは人生に理想とか大いなる願望を持つことを諦めた方がそれに向かって努力してそれが報われない時に味わう失望感を予め招聘せずに済むという意味で気が楽だということだけである。だから思い出してみてもサハシーになっていた時期も私は水を得た魚という心境でもなかったのだ。空虚だけれど、その空虚をとりたてて払拭しようという意気込みを一切感じないまま過ごすという心の奇妙な平安がバリ島へと向かう飛行機上で私を支配していた。ファーストクラスに乗って隣に座るご婦人は私と恐らくこのフライトの間だけ私とかかわり、今後彼女と私が死ぬまで一度も再会することなく過ごすだろう。つまり人との出会いもそういうタイプの出会いの方がずっと都会を中心とする生活では多く、だからと言ってその事実に真剣に悩む人はいない。だから私が何とか一年以上やりおおせた沢柳=佐橋の役を終えて、今ほっと一息ついているということの内には、二度と会うことなく終わる隣のご婦人との出会い(勿論出会いと言っても語り合うわけではなく、ただそこに座っているということを知っているということだけのことなのだが)と似たような出会いをここ一年ちょっとの間してきて、マイク・ストーンランド、ジム・クラーク、サリー、ビル、トム、スコット・ヒーリー、エディー・レンディー、ロメオスといった人たちが、公私に渡って私の生活を支配していたが、もう二度と彼らと会うことなどないわけだから、それこそ彼らの中の只の一人として隣のご婦人以上の存在理由を持つ他者は私にとっては存在しなかったし、恐らくこれからも存在しないだろう。
 私が一切の成り済ましビジネスから手を引いたことによって、本質的にスカイスレッダーのCEОとしてではなく、私人である郷田守、しかも謎の資産家としてバリ島への赴くジェットの中であれこれ思い浮かんだことと言えば、何か役職を辞めた時に感じる固有の心境だった。それはこういうことである。他の人がどんどん去っていくことを目撃するということは、例えばオリンピックで競技を決勝戦にまで進めることの出来る選手たちに共通する体験である。しかし会社ではそのようなことを目撃しても、オリンピックと違って、世界のトップというお墨付きを我が社で貰えるとは限らないので、必然的にただ我が社で脱落して辞めて行く成員に対して、負け犬というレッテルを必ずしも貼れるものでもない。つまり辞めた奴の方が正解である場合も往々にしてあるわけだから、いつまでも自分のように一箇所に留まっているという決意と、行為の持続は、そのようにしながらもどこかで「あの時辞めて行った奴の決断の方が正解だったのかも知れない」という思念との葛藤が絶えず付き纏う。そして辞めた直後に回想することと言えば、自分が辞める直前まで行動を共にしたメンバーよりも、自分がその職に就いてからほどなく辞めていったメンバーたちの笑顔とか、話し振りの方なのだ。結局自分もこうしてあの場を去ることとなってしまったのだから、自分よりも早くその場を去った者の決断がより今辞めたばかりの自分にとっては正しい判断のように思えるからである。「俺もすっかりあそこに長くいたが、俺よりももっと早くあの場を立ち去った者たちの選択の方が正しかったかも知れない」という思いは必ず湧き上がる。
 しかしそれと特筆すべきことは、同時に新たな人生の幕開けを飾る旅行の最中で特に空港での待ち時間などに読む売店で買う新聞を開いてつい目が行ってしまうことというのは、それまで自分が属していた社の株の状況とか、社自体の業界における価値評定とか時価相場とかそんなことばかりだということである。もうそんなこと一切気にしなくてもいいのに、身体が自然にそういうことに対する注目をするように慣れてしまっているということに我ながら苦笑してしまう。「そうだ。俺はもう沢柳=佐橋社長ではないんだ。郷田守としてひっそりとしかしそんなに苦労することなく世界中のホテルとかに泊まり歩いて生活するくらいのことなら出来るんだ。」とそう言い聞かせた。
私はそれから一年くらいそういう生活をしてどこかスペインかカナダかそれは未だ決めていなかったが、田舎の奥まったいい景色で、あまり人の多く住まない邸宅を購入して生活したいと考えていた。そして今更ながらにかつてサンタフェの豪邸に最初に着いた時、居間のラウンジから書斎へと赴く時、あまりにも複雑で迷路のような行き順だった(佐橋が誰かに狙われることを未然に防止した措置だったのだろう)私は特注して購入し送って貰っていた一キロ近い長さのストランド・ロープを、一切邸宅に勤務する者が引き払った休日に密かに私が山荘で佐橋から貰った邸宅内の地図を頼りに書斎へと行き順を探り探りして辿り着こうとしていた時、足元に置いて、再びラウンジに戻る時にはそのロープを頼りに歩いて行ったことを思い出していた。しかしこれからはそんな複雑でただ広い豪邸に住むことなどないだろうと私は思った。すると急に肩の荷を降ろした気持ちにもなっていた。確かに完全に清清しい気持ちというのにはほど遠かったが、それでも一年以上も替え玉をやり終えたという達成感だけはあったのだ。
 私はハワイ経由でバリ島へ向かい、現地に着いてからは、一度泊まるホテルへと向かい、そこで簡単な荷物(あまり多くの荷物はなかった。と言うのも山田に後は全て任せていたので、佐橋としての所有物の殆どをサンタフェに残してきたのだ。そうしなければ怪しまれる。だから後は預金だけを頼りに生活していく積もりだった)だけだったので、その荷物を置くとすぐ帰ろうとしていたホテルで荷物を運んでくれた現地人のポーターにチップを払う時、彼は未だ二十代の青年だったので、久し振りに若者と話すいい機会だと思って話してみると、そのホテルは日本人が経営するホテルだったのだが、彼は現地では豪邸に住まうアメリカ人、中国人、日本人のどの人たちの下で働くのがいいかと言うと、大抵の現地人は人使いの丁重な日本人が最も人気があるということだった。そのホテルと懇意のやはり現地人ガイドと共に民族音楽のケチャを聴きに行き、そこで暫くワインを飲んでから、海岸に行き、予めガイドに運ばせていた折り畳み式のビーチチェアに寝そべり暫く転寝した。
 再びホテルに戻ると、そこでテレビをつけ、株式市況に関するニュースを見て、スカイスレッダーの行く末を見守った。しかし考えてみれば一年以上前にはそんなことどうでもいいことだったのに、その時にはすっかり「私のいなくなった後の社」という発想で全てを見ている自分に我ながらかつての地味な翻訳家としての人生から百八十度転換してしまったことに対して不思議な気持ちになっていた。
 しかしバリ島にはあまり長く滞在せず、翌日にはすぐにタヒチに飛んだ。タヒチではゴーギャンの記念館で彼の絵を見ることだけを予定に組んでいた。しかしゴーギャンはその時の私がなっていた年齢までは生きておらず既に死んでいたのだ。そう長くはない人生を華々しく絵画制作に明け暮れて過ごした人生は長さではなく濃密な生の苦悩によってその命脈を保っている。そういう息遣いだけを絵画から感じることが出来ればそれでいいと思った。私は絵を見るのが昔から好きで、だからこそ伊豆倉のギャラリーによく訪ねたのだ。しかしギャラリーというところはある意味では定評のアーティストの安価な作品だけを置き、作品を物として捌くことが目的の場所であり、純粋に絵画を鑑賞する目的の場所ではない。要するにそれは鑑賞目的であれ、投機的目的であれその時に必要とされる絵画作品という商品を陳列する場所なのである。商品を陳列するということは、多分にそういう信頼出来る偽者ではない本当の作品を陳列することが可能であるというディーラーの手腕に対する誇示という側面もあるから、その信頼ある市場価値ある商品を購入することの出来る購入者の経済力の誇示との鬩ぎ合いの場所でもある。しかし美術館は違う。そこでは商品としての絵画を購入する目的で鑑賞者たちは訪れているのではない。だから逆に翻訳家としてつましい生活に甘んじていた頃の私は自らの経済力の誇示をどこかで充足するためによく訪れた伊豆倉のギャラリーのような空間よりは、かなり経済力を身につけた後のその時には寧ろ鑑賞することだけが目的の美術館に憩いを見出していたのである。
 意外とその美術館は内部が暗かった。そもそもアートの作品は強烈な灯りに弱いので、室内は暗く作品保存のために設定されている。しかし恐らく私が感じ取っていたゴーギャンの作品の数々に描かれた内容が私にある種の内的な暗さを私の心に呼び覚ましていたのだろう。そして外部に展開する海岸沿いの自然の底抜けに明るい空気感が、逆にゴーギャンの絵の内的な荘厳さとか精神的深度のある暗さを彷彿させたのだ。外気の肯定性が内的世界の否定性を際立たすということがあるのかも知れない。私はいつの間には彼の絵画の前で私自身の人生をゴーギャンのそれと重ね合わせていた。

Tuesday, October 20, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑨

 最後の一ヶ月間というもの、これで全てアメリカでの自分の責任は果たし、後は山田に任せると思うと、全てのアメリカでの生活がたった一年とちょっとだったにもかかわらず、懐かしく思えた。しかしいつものように過ごす必要があったので、私は一年ちょっと過ごした広大な邸宅の庭をいつもより慈しむようには眺めたり、手入れしたりすることもなかった。そもそも最初からプロの庭師を何人も雇っていた沢柳の仕方を引き継いだだけなのである。第一彼がそこに住んでいた当時どれだけ邸宅の庭を散策することを好んだかなどということまでは私は彼からは聞かなかった。散歩することもあっただろうし、終日書斎に閉じ篭っていたこともあるだろうとだけは想像し得た。
 しかし私は奇妙なことにもと言うべきか、それともやはりと言うべきかは分からないが、この二年とちょっとで私は自分自身の人生が極度に変わってしまったさえ思えなかったのだ。つまりこれはある程度人生というものに付き物の予定調和的な、想定された事態でもあるとさえ言えた。何故なら人生とは一度として同一の反復が出来事的にも、心理的にもないものだからである。次から次へと違う出来事と、違うその時々の、しかも二度と出会うことのない私の感情との出会いそのものが私の人生なのである。だから私がもしこのように経済的にはとんとん拍子で進行しない、例えば突如ホームレス生活を余儀無くされることがあったとしても尚私は人生とはそういうものだったのだと受けとめていたかも知れないとさえ思えた。私は恐らく二度と金城悟としての日常に未練を抱くことさえないだろう。と言うのもそもそもあの当時の私は生きても死んでもいなかったと言ってよい。しかし少なくともその後沢柳と出会い、一年後、アメリカで彼になりすましてからは、詐欺師として私は「生きてきた」ことだけは確かなのである。それは偽りの生き甲斐であり、偽りの活躍である。しかしそれ以前には体験することさえなかった毎日の張り詰めたあの緊張感とは一体何だったのだろうか?一人でするきつい業務である翻訳家にはない全く別の性質がCEO業務にはあった。それは集団内で自己の立ち位置を認識する必要を常に求められ、しかも自分自身でも確認する必要に追いまくられる日々だった。その心理的緊張とは、生きているとはどういうことなのだろうか、などと考える余裕を一瞬たりとも私には与えはしなかった。であるが故にいざその職から離れるとなると途端に私にはその日々とは一体何だったのかということを自問せざるを得なくなるのだった。

 私は誰にも悟られないように私が辞めた後のことを考え、今の内にしておけることはしておこうと決意し始めた。
その間に不思議なことに私の胸中に去来した最も懐かしい出来事と言えば、自分を本来の金城悟として認識したあの男古物商の飯島のことだったが(またあの男と会うことがあるだろうか?)、山田に引き継ぐことが決まっているその日が近づくにつれ沢柳本人に偽装した演技者として最後にし残しておくことが片付いていくに従って私の胸中に去来した最も懐かしい出来事とは沢柳に自分が採用される経緯であり、亡くなって結局私が全て采配を揮うしか方法がなくなってしまった当の本人沢柳という男そのものだったのだ。これはある意味では首相官邸や公邸を去る段となった首相が初めて自分が首相になった時に辞職していった前の首相の気持ちが理解出来るのと似たような気分だったのだろう。
 私は一つだけアメリカでの生活の最後の思い出としてそれまで一度もしてこなかったことを一ヶ月の間にした。それはサリーにだけ私が大切に作り込んできた盆栽を見せることだった。サリーにそれを見せたいと携帯でそう告げると、電話の向こうの彼女はひどく喜んで
「社長、今までそんなことまで気遣ってくれたことありませんでしたのに、どうなさったんですか?」
と不思議そうにそう聞いてきたが、その質問には他意などなさそうだった。
それにしても更に不思議だったのは、いよいよ山田と引き継ぐという段になって、最も自分が退いて後に残すものとして未練が残ったものはビジネスそのものでもなければ、サハシーが愛し、私に引き継いだヴェロニカでさえなかったことだ。勿論ヴェロニカとも最後の逢瀬を私は私自身最後のスケジュールの中に組み込んだ。だがそれとて私が全くひょんなことから沢柳から受け継いだものであり、私自身の意志によって望んで受け継いだものでもなかったのだ。勿論彼女とも楽しい思い出もあった。しかしやはりどこか私にとっては窮屈な思いも全く彼女との時間においては、拭い去ることなど出来なかったのだ。何しろ私はただの引継ぎなのだ。私は人の女を寝取って平気でいられるほど悪党ではなかったのだ。だから私にとって最も私が辞めた後どうなるだろうと心残りだったものとは、実は私が彼の業務一切を引き継いだ頃サハシーが何らかの思いつきによって始めたばかりだった盆栽で、私は勝手に彼沢柳の未練を斟酌して、それは豪邸の中に設えられた植物園の一画の棚に無造作に置かれていたものだったのだが、私が勝手に佐橋が考えていた当初のアイデアよりももっと手の込んだ一級品に仕立て上げてきたその作品だったのだ。私はビジネスがオフの時いつかエディー・レンディーを招いた時などに自慢しようと(結局、レンディーはおろかロメオスさえも招く機会を得ることを失したが)密かに手塩にかけて作りこんできたのだった。だからそれを最後に(勿論私がサハシーを演じるという意味で最後という意味だが)最も日頃からお世話になってきていたサリーにそれを自慢するという思いつきは私のこの二年間のサハシーとしての日々の決着としては自分でも幾分悦に浸れるものだった。
 サリーに私はある日夕食に招待したいと言い、彼女を私が作る料理で二人に共通の休日に招待した時にその場に連れて行って見せた。少し前にあった彼女の誕生日には実は彼女に私はバースデイプレゼントを渡していた。(と言うのも一年前のバースデイには沢柳に山荘で指南を受けていて、何か渡すどころではなかったからだ)プレゼントの内容は日本の博多人形だった。彼女は日本の風物とか文化に大変関心の強い女性だったので、それを彼女が私から渡されてつつみを解き中を見ると凄く喜んだ。だから私がアメリカを去る私にとっての最後の(しかし彼女らにとってはそうではない)サリーに対する奉公として私がその盆栽を見せた時もとても感心していた。サリーも私の日頃からの行動の逐一に世話をしてくれていたが、それはあくまでビジネスに限るものであって、勿論彼女は秘書なのだから、豪邸内の執事とか全ての関係者たち全員が休暇中に私がプールに水を入れっぱなしにしたまま、突然の電話やメールによって移動してしまい、水を出しっぱなしにしてしまったことを後で思い出した時とか、台所のガスの元栓を締めないまま出掛けたり、大広間の電気をつけっ放しにしたまま出掛けたりした時などに車で豪邸へと直行して貰い後始末をして貰うこともあるにはあったが、豪邸の一画にある植物園の中のましてや一画に設えられた棚に置かれた盆栽にまで見入ることなどは殆どなかったのだ。

Sunday, October 18, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑧

 ビルにだけは帰りの時間だけを告げ、それまではホテルで待機して貰うようにして、それ以外の一切のスケジュールは、予め日本支社での用向き以外は、誰にも知らせずに私は行動した。日本支社でのスケジュールなど小一時間くらいのものである。それ以外は誰も私の行動を監視する者はいない。そして支社での簡単な用を済ますと、ビルに乗せて貰って最後のアメリカでの仕事をするために戻るまで一日空いていたので、その間に山田の携帯に一年ちょっと前に私の車が来るのを沢柳が私を拾った同じ場所で彼を乗せて例の山荘へ赴くことにした。山田がどんなタイプの性格の奴か勿論関心はあった。私が全業務を引き継ぐことになる後釜である。要するに私以上に沢柳らしく振舞ってくれればよいのだ。私が辞めた後、昔の彼にまた戻ったねとさえ周囲に言って貰えればよいのだ。私も私なりにこの一年結構巧くサハシーになりすましてきたし、昔の彼と変わったねとは周囲から囁かれずに済んだ(少なくとも私の知り限りではだが)。だからそのように、あるいはもっと私以上に沢柳に似ていてくれる、似て行動してくれることが望ましいのだ。だからと言って私と巧く引き継ぐことが出来るくらいには私にも似ていてくれることが山田には求められている。
 果たして山田はそんなに不遜な態度の男ではなかった。私が車の中からあの時の沢柳のようにサングラスをして周囲に歩いている人たちに私と彼の顔が似ていることを気づかれないようにして見た彼の顔は、沢柳本人と言ってもいいくらいの出来(?)の顔の男だったし、礼節を弁えた態度で常に私に臨む男だった。私はサハシーが私にしてくれたのと同じことを山荘で、色々な資料を持って彼に話して説明した。特にサリーやビルたちのことを詳しく性格から癖まで説明して、彼らとは巧くやるように言いくるめることを忘れなかった。しかし私に対して沢柳がしたことで唯一違うこととは、山荘に行く時私と彼は既に何度目に会った時だったということである。私はいきなり全ての計画を前提に山田とその日に落ち合い、そのまま計画の詳細を告げるためにそのまま山荘に連れて行ったのである。その違いが私にとってどういうことを後に結果するかはその時には知る由もなかったが、全てを誰にも相談することなく決めることに意味があるようにその時の私には思えたのである。そうなのだ、もし沢柳が生きていれば、相談していただろう。しかし彼は最早この世の人ではない。だから却って私の独断が彼のやり方と違うということが彼に対する礼儀にもなるとその時の私は思っていた。
 山荘に山田を連れて行った四駆の車は沢柳が使っていたもの(それは恐らく彼が私と摩り替る以前から業務外の私的なことに使用していて、その使用をあまり多くの人は知らなかったのに違いない。だからこそ私を連れて山荘に行く時に使用したのだ。だから死ぬまでそれは私用で使用していたことだろう)と似たものを日本で密かに購入していたのだ。
 そしてその車から山田を降ろすと、私は彼を山荘の鍵をポケットから取り出し山荘の中に招き入れるや否や沢柳からかつて自分も今彼にしているのと同じようにここに連れて来られ、説明を受けたことを彼には気づかれないように心の中だけで懐かしんだ。しかし其の時の私の懐かしさに伴ってこぼれた笑みに山田はそこまで最初から自分の信用してくれているということと受け取ったことを私が説明する顔を眺め、喜びを表す笑みを浮かべて私に示した。彼は私にこう言ったものだ。
「沢柳社長、あなたの替え玉を演じられているなんて思いもよりませんでした。でもそんな光栄な役割を私如きが仰せつかうなんて今でも信じられません。」
 しかし私はその言葉を聴いた時今までの生活を捨てるということは、一年とちょっと金城悟としての生活を捨て他人になりすましたわけだが、事実上これからは、この山田にその業務と人間関係の一切を委ねて今度は再び金城の生活に戻り、その一年ちょっとの間に一切金城としての人間関係など築いていなかったし、仮に本当の自分に戻らなかったからといって誰も怪しみはしないだろうと思った。そして辞めた後もこれまでの収入だけでも十分暮らしていけるので、どうやら私は再びあの貧乏な翻訳家人生にまた戻る必要などなさそうだとも思い、もう金城として生きることを止めてどこか暮らしやすいいい外国で生活することをすることを考えていた。そう思うと、今度は再びこれからも他者を偽って生きていくということを引き受けるのだとぞくぞくした気分になるのだった。ひょっとしたら昔の知人とあのフリスコでばったり日本の伊豆倉の経営するギャラリーで知り合った古物商の男飯島と出会った時のように出会うかも知れないし、それだけではない、今度は私が沢柳として生活していた時に知り合った大勢の人の一人くらいと合うかも知れない。するとその時どのように今目の前にしている山田と自分の関係を誤魔化したらよいのか色々と考えあぐねだしていた。つまり私はこれからも最早あの頃と違って、全部を金城として生きることすら最早出来なくっているのであった。しかも沢柳が死去したことを知る者は私以外にもう一人いる、それが私に手紙を送ってよこした謎の男である。私はあの時私の背後にいて顔さえよく確かめられなかった男と奇妙な共犯意識を抱いてきていた。その共犯意識は、山田が今後私が彼にしたように彼独自にまた別の替え玉を用意しても尚、二人の間ではずっとどちらかが死ぬまで続くのである。沢柳が死んだ時私が全てを一人で決めることが出来るようになったのだが、それまではずっと沢柳がどう思うか気になっていたように。
 そして山田が私と同じ選択をするとしてもその時最早彼は私からの指導から一人だちして既に私からの指示なしに全てを決裁していることだろう。引き継ぎとはそのようなことを意味するのである。それは沢柳も一度は味わったのだ。そして山田は果たして私が沢柳になりかわってヴェロニカを愛したように巧くやりおおせるだろうか、そのことだけが気がかりだったが、ヴェロニカのことだけは最後に彼に告げようと、最後まで私は黙っていた。
 山田の履歴を調べて私は彼が独身であることを知っていたが、彼がそういう手管に通じているかどうかまで私は見抜く力はなかったが、もし彼が億劫に思えばヴェロニカに手切れ金だけを渡して私がずうずうしくも沢柳から女まで引き継いだようにする必要が絶対あるわけではない、それは山田が自分の判断で決めることである。
 つまり私はそのように彼を勝手に私の決裁を仰ぐことなくしてゆく可能性として選んだのである。そしてそれはある意味では決して間違いではなかった。私は一通り業務と、ビジネス関係のクライアントから、交渉の状況全てを彼に噛み砕いて説明して、彼が利発にも一を聞いて、十を知るような態度と反応であったことを悟り、予め彼に試用期間である旨を伝えてある一ヶ月の間私が沢柳から受けた一人で何も置かれていない部屋で数時間を過ごすだけの業務をこなして貰い、その後指定した日に私と彼に入れ替わって貰う手筈なのだが、それまでの一ヶ月つまり私にとって丁度一年三ヶ月の私の業務が終了する日まで、私は最後の仕事をしに再びアメリカに帰るのだ。しかし周囲にはその一ヶ月間の私の過ごし方が最後の一ヶ月であると悟られないようにしなくてはならない。私はあくまでいつもの通りの一ヶ月をサンタフェ等で過ごすのだ。私は山田には米国行きのチケットを予めインターネットで用意していたので、それを試用期間終了後に国際便で郵送し渡し、いよいよ、全てを彼とバトンタッチする積もりだった。そのような手筈が整ったので、彼を乗せた場所(あの沢柳が私を乗せた場所である。本来なら瓜二つの風貌の人間同士が四回もそこで乗り降りするのは不審かも知れないが、幸いそこら辺は一々そんなことを注視する人間などいない閑散としたエリアだったのだ。私はサハシーの遣り方を踏襲することで験担ぎをしたのだ)まで四駆に乗せてそこで下ろすと今度は私自身がビジネスから身を引き、金城悟としてでも、沢柳としてでもない無名の日本人として(未だ名乗る名前は考えてすらいなかったが)スカイスレッダーでの収益の一部によってリタイア後の私に当てられた報酬として生活するもう後一ヶ月という身近に迫った将来のことをビルのジェットに乗り込んだ私は想像していた。
 私はこの一年と少しもうこれ以上一生働かなくても通常人としては十分過ぎるくらいの収入を得ていた。それ以前の試用期間に何もしないでいたのに一年間高額の収入を得ていたことも合わせると多忙な翻訳家生活においては想像だにしていなかったが私は最早経済的な心配を地道にする必要などなかったのだ。だから少なくとも目立った行動だけを控えるのなら(沢柳を演じていた頃の私を個人的に知るビジネス外の人たち数人と私がどこかであのフリスコでのギャラリーで会った人とばったり会った時のようにいつ何時出会うとも限らない)十分生活は確保してゆくことが出来たのだ。だから私はいっそ日本を離れ、タヒチにでも住もうと考えていた。しかしその前に一度未だ一度も訪ねたことのないヨーロッパの名所・旧跡を訪ねるということも悪くはないとも考えていた。あの何もないオフィスビルで奇妙な試用期間を経た後、疾風怒濤の如きビジネスの日々を過ごしてきた私自身に対する労いの意味をも込めてヨーロッパの名所・旧跡でバカンスを過ごすのだ。
 調布の飛行場まで乗ってきてビルと約束の時間にビルと落ち合った後、その四駆は、近くの月極め駐車場に予め停めておき、再び今度は沢柳としてではなく、あくまでリタイアした替え玉として戻ってくる一ヶ月後には、私はそれで成田まで飛ばし、その無料駐車場に乗り捨てて、そのままヨーロッパに飛ぶ積もりだった。チケットは日本に戻る前に既にアメリカで手に入れておくのだ。
 彼を降ろして彼が一人で私とは別行動で例の部屋(沢柳に山荘で説明を受けた時、その部屋のあるビルも私は譲り受けていた)で何もしない試用期間を過ごすために一度自宅に戻る姿を認めた時のことを成田に向かうために私はそのまま彼とは別れた後で想起したものだったが、山田の表情は意気揚々としいていたようにその時の私にはそう思えた。そしてその時私は私に業務全部を引き継がせる時、故沢柳もまたそういう心持でいたのだろうかともふと思った。引き継がせ全てを辞して出て行く者の気持ちを私は初めて理解した。

Thursday, October 15, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑦

 ネルソンとリッチモンドが率いる製薬会社Kとの広告戦略における提携と、今回のズームアップ社との提携だけは完全なる私の裁量によるものだった。勿論そのゴーサインを、つまり私の裁量を許可してくれたのは今は亡き沢柳である。しかしこれからはずっと許可なく私による裁量だけで全てが決定される。だから当然ヘマをすれば、大勢いる株主たちから突き上げられるだけである。
 案の定、ロメオスと私の目測通り、エディー・レンディーが数ヶ月前に一線を退き、しかし院政を敷いているところのミューズソケット社は追い詰められて、とうとうそれまで公開してこなかった企業秘密である広告制作ソフトの製造方法を世界に対して自由検索するように決定し、何とか一命を取り留めた。ここ数年ずっとエディーが世界一の資産家であったものの、後一歩というところでシューズデザイナー社のロメオスやズームアップ社のサム・ジャクソンたちによって追い上げられてきているというのも事実だった。それに加えて中国のIT企業である孫分がそれらに対抗すべく接近していた。ジャクソンと私とロメオスは私が沢柳当人の死の知らせを私が受け取ってからほどなくして会見し、合議し、三社分配方式による新企業設立という形で合意した。
 ミューズソケット社からの今後の報復だけは油断してはならないことの一つだったとは言え、それまでネックになっていた企業規模拡大と、収益に関する目下の悩みはロメオスを軸とする私たちとジャクソンたちとで合弁する新たな企業設立によって三分配方式による元の企業、つまりズームアップ、スカイスレッダー、シューズデザイナーに対して等価収益を上げることが決定されたことで、各々の企業カラーを失うことなく、それでいて新基軸によって個々が刺激を得ることが出来るという理想的な形で落着した。
 ビジネスというものは不思議な代物だ。いったん巧くことが運んだ時には、まるで最初からそういう風に決まっていたかのように誰もが信用するし、私の手腕を絶賛する。しかしいったんそれが破綻すると、どんなに努力してきても、どこか手腕そのものが振るわなかったのだと決め付けられる。だから私は巧く行っている時には、サリーもビルもトムも、マイクもヒーリーも全員私の周囲にいる面子の全てが私に対して協力的であるように思える。しかしそれは巧く行っているということが齎す偶然的な恩恵でしかないのだ。だから却って巧く行き過ぎると誰も私の相談を真に受けてくれるような人はいなくなる。そういう時にもし私が何か相談を持ちかけて真摯に受け答えしてくれる人がいるとしたら、そういう人は稀有な人だ。だがそういう人が苦境に陥った時に助けてくれるとも限らない。だからと言って私は全ての人に疑いの眼を向けることも出来なければ、全ての人を信用することも出来ないできている。要するに他人を当てにすることは憚らねばならないが、他人なしに事業を推進することは出来ない。しかし私はニセモノなのだ。だから引き際を常に考えてきていた。要するに辞め方である。しかし辞め方も沢柳が生きていれば彼に相談することも出来たし、彼が望むのなら人手に社全体を渡すことすら選択肢としてあっただろう。しかしいざ彼がこの世からいなくなったのだとしたなら、私は私の裁量でそういうことをしてもいいのだろうか、と考えるようになった。私のこの社での最後は彼の最後として記録されてしまうのである。つまり私が彼から引き継いだからこそ彼は死んだのかも知れない。ならば私が今のこの身分がうんざりして辞めたいと思っても尚、私が彼の替え玉であることは死んだ沢柳と自分しか知らないのだから、私が彼と入れ替わらなかったというケースで最もあり得る展開としては、沢柳本人は許す限りいつまでも生きて今まで通り経営を続行するという世間に対する認知の持続である。
 ボードミーティングや株主総会といった全てをここ一年私は恙無くこなしてきた。しかしそれは世間で通っている沢柳静雄、サハシーによるものであって、私の采配ではない。世間の認知自体を例えば私がリタイアするというようなことをもって勝手に変更することというのは、これまで彼による計らいで私が恩恵を受けてきたことに対する一種の裏切りに他ならない。だから私は私が辞めたい時には私と沢柳にそっくりなもう一人の替え玉を用意することを大分前から考えていた。ただ私にもこの業務に邁進するようになってからの私、つまり金城悟としての未練というものも多少はあった。だからそれだけは残さずに次の奴にバトンタッチしたいとこその頃ずっと考えていたのだ。
 結局私はなりすまして二年目に突入してから、次に自分の業務を引き継げることの可能な私と沢柳と瓜二つの男性を探すことを終日考えるようになっていた。そして私と沢柳の契約にとって、私が彼の替え玉を適切に選びバトンタッチすることこそが彼に対する報いであり義務であると考え、ある日、ある困難な英文の中にラテン語やギリシャ語がしばしば登場する10行くらいの英文をブログに載せ、適切な回答をした者だけがクリックして進むことの出来る広告を私は作り出した。勿論クリックした者の中で私が提示した一ヶ月何もない部屋で何もしない業務をすることを示し、東洋人に限るという触れ込みで使用期間就職希望者は上半身写真を添え、身長と体重、そして経歴とメールアドレスも明記するように指示するように目論んで作ってネットに乗せた。
 すると一週間後に千人くらいの正解回答者がいて、その回答者の中から更に私に似た風貌の者を百人厳選し、その中から更にその者の性格を判断するために選ばれた百人に新たな問題を課した。それは孤独に強いことが証明出来るような「もし~が起きたら自分はどうするか」とい質問に対する簡単な作文だった。私はその百人の中から特に私が関心を抱いた回答者で私と沢柳と風貌のそっくりな者三人の中から(当初別に日本人でなくても仕事はアメリカでするのだから東洋人であればよかったのだが、結局全て日本人だけに絞られた)、最も孤独に強そうな文章を書いてきた者一人に面接しようと思い、その旨メールで知らせた。私が指定した日は翌週の日曜日であった。勿論アメリカでは会わず、サハシーから引き継いでいた日本の山梨県の山荘(私はその課題を出す時に、沢柳と同じ遣り方をするつもりだったのだ)で会う約束をした。その男は風貌は私そっくり(と言うよりサハシーそっくり)だったし、何より英語の堪能さはオーストラリアの外資系商社勤めだったことで保証つきだった。
 私は日本へ行く用を作った。それはもう予め決定している事項についてではなく、新たな私の後任の替え玉が仕事しやすいような手筈を整えるために、敢えて全くサリーにもヴェロニカ(尤も彼女とは肉体関係があったので、そう簡単に私は引継ぎをするという心持ではなかったが、沢柳さえ私に彼女との関係さえ譲ったのだ。私とてそうしないなんて全く潔くないと思った)にも、その他トムにも一切私が辞め、他の引継ぎが継続して業務を遂行するという感じを持たせないように配慮して、いつものように振舞ったし、今回の日本行きは私用であるということで、沢柳も一年の間に数度そのようなお忍びの帰国をしていたようだから、私もそれに習ってビルに彼との最後のフライトをさせた。要するに、引継ぎに円滑に私の業務を行えるように私が一年してきた業務内容と、後任者が私の辞めた後、即座に人間関係を滞りなく捌いていけるような資料作成と、彼自身に会うたの帰国だった。
 私はビルのフライト一昼夜自家用ジェットで飛び、調布の飛行場で降り、そこでビルにホテルで待機しているように指示し、近くで借りた乗り捨てレンタカーで私を沢柳が乗せた場所に赴いた。今回は私と沢柳が最初に会ったレストランでの会見という面倒くさいことを一切省くために、私は採用することにした男にだけ最初から沢柳と違って、最終的に自分の替え玉になる、ただ自分もまた以前の本当の彼から業務を引き継いだ偽者であることだけは隠蔽し告げず、影武者同士の引き継ぎということだけは隠して自分「沢柳」からの引継ぎという目的を予め採用者の彼に告げ、忍耐力を通して偽者としてなりすます適性を試すために何もしないで部屋にいる仕事を一ヶ月に縮小して行わせることまで告げて全てを形式的にあまり時間をかけずに引き継ぎをすることにした。それが故・沢柳に報いる恩だと私は思った。(しかし結局それが裏目に出ることとなったのだが)一ヶ月後とは、私が着任してから丁度一年と三ヶ月後の期日だった。それから後私は私自身の采配によってその後私が一切働かなくても十分飯だけは食っていける晩年の本人サハシーのような余裕ある老後を送ることが出来るのだ。私は日本に赴く前に既にその例の部屋での何もしないで過ごす試用期間からその後のスケジュールまで全て細かく事情を説明したメールをパソコンで送っていた。相手はいささか面食らったと言ってそれでも引き受けるというメールを私はその男からその後受け取った。男の名前は山田三好といった。でも私は彼に試用期間前に一度は会っておく必要があると思って、沢柳が私に細かく指示するために使用した例の山荘を使うことにした。(私はその山荘をあの時彼からプライヴェートな使用のためのものとして引き継いでいたのだ。)
 つまりあの時と今回との違いとは、要するに最初に沢柳が私を試してその後で色々細かいそれまで試してきた理由と今後の対策を私に話し指示したのと違って、完全に最初からこちらの意図を全て包み隠さず告げてから、試用期間に突入させるという私流のやり方だった。しかも試用期間中の彼の何もない部屋での振舞いを私は一切ヴィデオでチェックすることもしないことにした。(これも全く私の独自の判断だった)つまりその業務が終わったら、自動的に私の後任者がそのままサンタフェの本社で勤務出来るような手筈を既に私は整えていた。
 私が何故そういうやり方にしたかと言うと、長期間変梃りんな業務をさせて、しかも高額の報酬を彼に与える時間的余裕、つまり私がその間気長に私の後任に相応しいガイであるかどうかという判定をする間、私は沢柳の替え玉として私の後任にとっては沢柳として依然以前のように振る舞い続ける必要があったわけだが、そのようなことは精神的に耐えられない気がしたからである。私は私が本当のサハシーであることを山田に信じ込ませるだけで精一杯だったのだ。
 沢柳は自分の替え玉を見つければよかった。だからあのように私を妙な業務に一年間もつかせ、万全を期すということには意味があったろう。しかし私は違う。何せ、私は私の替え玉ではなく、沢柳の替え玉を見つけるためにそれをしてきたのだ。私は私を選んだ故・沢柳と違ってオリジナルではない。コピーがコピーを選ぶ場合オリジナルに忠実でなければならないから、私は私にではなく故・沢柳に最も似たと思われるタイプの者の中から厳選して後任のサハシーの替え玉を決定した積もりだった。私は私らしさを替え玉としてやり切る後任者ではなく、あくまで私が替え玉を演じ続けた当の故・沢柳(勿論私にとってだけであるが)の替え玉を辞めていく会社に宛がって行く必要があったからだ。もしそれが功を奏せば、周囲は沢柳を中心に私が演じた頃のサハシーと私の後任の替え玉が演じた頃のサハシーを勝手に脳内で結び付けてくれるだろう。しかし私によく似ているガイを私が選べば、きっとサハシーそのもののイメージは徐々に変化していき、本当のサハシーが業務をしていた頃と私の後任の替え玉が業務をこなすこれからを同一性としては認識出来なくなるだろう。しかも私は私としてではなくあくまで沢柳としてその山田に会う必要があったのだ。だからこそ沢柳が私に施した悠長な試用期間を私が同じように耐えるということは私の精神的忍耐の限界としてあり得なかったのだ。(しかしそのことが結局私の首を後で絞めることとなったのだが)つまり私にとってその山田という男との秘密の会合とは私にとって最後の沢柳としての演技が試される場だったのである。

Tuesday, October 13, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑥

 しかしロスの空港のロビーでチケット片手に搭乗を待っている時に周囲に見かけた大勢の日本人を見て、そういう私のサハシーとしての意識は吹っ飛んだ。と言うのも私はその日初めて帰国することになったのだが、それまであの教会における沢柳の同級生とかという男と話した以外で、一般民間人としての日本人の顔を見かけることなど殆どなかったからだ。確かに大勢の日本人が沢柳の社でも働いているが、日系人のレオナルド・岸田以外に日本人らしき幹部は居なかったし、プライヴェートな時間でも、私邸近所に日本人は暮らしていなかったし、日系人というのは基本的にアメリカ人だし、ヴェロニカとの逢瀬でも、そういう日本人観光客と隣り合わせるようなことは殆どなかったのだ。要するに沢柳のアメリカでの人脈そのものが、ニューヨーク滞在のビジネスパーソンとかを除いて、殆ど日本人に拘ることがなかったということと、そのコスモポリタンな雰囲気そのものが私自身の性に合っているということと、私自身私、つまり金城悟としての人格が表出することを日頃極力抑えて生活していたので、敢えて大勢の日本人が行きそうな観光地などを私が訪れることを避けていたということも手伝っていた。ヴェガスでも私はあまり日本人の行きそうなところであるスロットマシーンやルーレットなどの近くには立ち寄らなかった。また大企業のトップCEОが迂闊にそういう箇所に立ち寄るべきではないということも十分心得ていたからである。
 しかしエディー・レンディーもそうだし、私自身も沢柳の流儀に見習って、飛行機では必ずエコノミークラスを予約するということをしたお陰で、大勢の日本人観光客、あるいはビジネスパーソンたちと顔を接近させることになったのだった。よもやこの間のよう飯島っぽい人が自分に声をかけて気はしないだろうか憂慮したが、そんなことは一応ないままに済んだ。
 しかしそれでも機中私の心は、一年前のあの時、沢柳と入れ替わるために、埼玉県の自宅マンションをずっと空けたままにしておくために時々その都度頼み人間を変えて鍵をその都度別のものに設え家政婦に掃除をして貰っていた。家具類などはそのままにしておき、私は金城悟としての人生をあの山荘での特訓の後沢柳と別れて約一年間空白なものとした。その間ずっと沢柳静雄のままで暮らした。あの時点で、私は金城悟としてのアイデンティティーを放棄し、サハシーになりすまして生活してきたのだ。渡米前には仕事の関係で渡米するという名目で、殆どマンション暮らしだったので、近所の顔見知りは多少いたにはいたが、一人身であることも手伝って、一切私の渡米後の住所を知りたいという殊勝な人はいなかったし、気は楽だった。だからもし近所の人間と機内で鉢合わせになったとしたら、その時の言い訳くらいはとっくに考えていた。そんなことよりも私がそういう鉢合わせを避けるためだけに普段エコノミークラスの予約を取るサハシーがその時に限ってファーストクラスを予約するというのはどう考えても社のメンツ、部下や私の世話をしてくれていた人たちの手前おかしいと思ったのだ。何故なら帰国すると言っても私はボディーガードだけは二人携帯して乗り込んだのだ(だからあの時普通だったら、サリーがチケットの手筈を整えてくれるのだが、私が彼女の娘さんのためにコンサートのチケットを購入するために敢えてサリーがチケット購入しましょうと言った時に、私は私用でロスに行く用があるから自分で買うと言っておいたのだった。私はボディーガード二人分のチケットも纏めてあの時に買ったのだ)が、私はあくまでサハシーとして帰国するのだ。だから機内で金城として私に声をかけてくる人がいたとしても、その人間を怪しんでボディーガードが振舞わないように予め二人に(一人は黒人、一人は白人だった)一切ノータッチしてくれるように頼んでおいた。どうせ二人とも人違いと思ってくれるだろうとさえ私は思っていたのだ。
 ところで私の給料の振り込み先はそれまでもサハシーが利用してきたカリフォルニアの銀行に振り込まれ、その中で二割程度が日本のどこかに潜伏している筈のサハシー本人(彼はいつも国際電話で自分は今日本にいると言っていたが、彼の知人と日本で鉢合わせした時にどう振舞うか彼は考えていたのだろうか、と私はそのことを時々ちらっと考えたりしたことがあった)の日本の口座に振り込まれ、後は私の自由に使っていいということを予めあの山荘で沢柳が私に告げていた。
 そして私にとって最後に残された業務をし、その後の展開を連絡してくる筈である沢柳からの連絡を待つというモードに私の行動も心理も突入していたその日飛行機は成田に到着した。すると予め川上節夫からの国際電話通り(彼とは始終、メールや国際電話の遣り取りだけはしてきていたが、会うのは空港が初めてだった)空港のロビーの彼が指定した分かりやすい場所にいてくれて、沢柳の見せてくれた写真の通りの人物が出迎えてくれた。この男の趣味はワイン、切手収集と世界中の警察官のバッジを集めることだということは沢柳から聞かされていたが、実際趣味のよさに似あういい着こなしのスーツと、物腰が柔らかで紳士的な男だった。彼が
 「ようこそ日本に帰国されて、お疲れでしょう。すぐに社の車が用意してありますので、こちらへどうぞ。ああ、お荷物は私がお預かりいたしましょう。」
と言って、彼が用意させたリムジンに私は乗せられて予定通り、西麻布にあるホテルに連れて行ってくれた。私たちはそこのロビーで暫く今後の日程について簡単な確認をとったら、その日はそのまま私たちはホテルで過ごすプライヴェートな時間だった。しかし翌日からはハードスケジュールだった。何と財務大臣、経済財政大臣とも面会する予定が組まれていた。尤もアメリカではテレビで取材されて画面に大写しになることこそなかったが、国務長官とか向こうの偉い政治家や財界人との何回も私は沢柳になりすまして会ってきた。あまり私の顔が大写しになったことは偶然それまでなかったものの、大勢の中の一人としてテレビでも映像が流されたことは何回もあった。そして今のところ私がニセモノであると疑うような世間の素振りは一回も聞き及んでいなかった。あまりにも私の他の人々に対する接し方が自然だったからだろう。事前に私はサハシー本人にそれぞれの人物の癖とかサハシー本人に対する個人的感情とかまで聞き込んできた。それにしても私は裏のアカデミー主演男優賞なるものがあるとすれば、絶対取れる自信があるほどのサハシー振りだったのである。
 私は川上が助手席に座る車で所沢の郊外にあるスカイスレッダー日本支社の川上の支店長室にまず連れて行かれ、彼による支社経営に関する報告を彼から簡単に受けてから、ヴィップルームに彼によって招かれた。そこで川上の秘書によりコーヒーをまずご馳走になり、例のアニメーターで映画監督の宮崎駿氏が残そうと運動して残ることとなった雑木林を見に川上の車で乗せて行って貰った。そして日本に沢柳が会議とか打ち合わせの空き時間に過ごすためだけの特別のマンションにその日は連れて行って貰った。そのマンションは七階建ての雑木林に隣接する駐車場つきの赤茶けた煉瓦が外装に使われた建物だったが、中に入ると高級感の漂う基本的には洋式であるが、中に一室十畳くらいの日本間もあるなかなか立派な滞在ルームだった。隣に常に待機している男の秘書相川と調理師友部がいてくれて、食事の支度、外出一切を彼らに連絡さえすれば即食べられ即一緒に出掛ける用意をしてくれていた。これも川上の沢柳日本滞在時の習慣なのだそうである。(これはサリーから聞いていた。「いつもの通りの滞在でいいんですか?」とサリーが私に帰国の際に私に打診してきたからである。)
 しかしその日時差ぼけで一日過ごしていた昼間の三時くらいに宅急便の配達員がチャイムを鳴らし、中からそれを玄関先のカメラで確認すると、私は隣の秘書の相川に「出てもいいか?」と確認すると「私が応対しましょう。」と言って相川が直接その配達員から物を受け取った。そして彼が隣室の彼自身の控え室で中身を確認して大丈夫そうであると了解すると、私の部屋に行っていいかとコールしてきて私の承諾を得てから入室した。
 相川が私に渡したものは、沢柳の出身高校の同窓会名簿だった。彼は一流私立進学校の出身で一橋へと進学したエリートであるが、その私立高校が時々更新される名簿を贈ってきていたのである。それをぱらぱらめくると沢柳の高校時代のまさに私と瓜二つの顔写真が出てきて、同じページに下塚の写真もあった。しかし後ろに掲載されている現在の社会的地位と住所録のところを見た時、私は絶句した。下塚は三年前に肝臓癌で他界していたのである。するとあの教会で私に接近してきた日本人の男は確かに高校時代の顔写真からすると、実によく風貌の似た男であったが、今となってはあの男は日本の同窓生に成り済ました産業スパイだったのかも知れないと私は直観したのだった。
 しかし私はそのことを敢えて相川にも川上にも告げなかった。私自身がニセモノだからというだけではない。恐らく当の沢柳が応対していてさえ気付かないくらいの巧みさで私に近づき送り込まれて私に応対した例の男は風貌が似ていたに違いない。そしてそういうことというのは稀なことではないのだろうと私は直観したからである。
 私はその日はそのマンションの一室でJリーグの試合をリアルタイム放送で見て、川上から連絡がなかったので、相川が手配した日本支社の手配の車で相川の指示によって外部から至急呼び出されてマンションの到着した私の付き人となった島村によって西麻布のホテルに夕方直行しヴィップルームに宿泊した。そして翌日決算報告を受け、島村の手配によって財務大臣(その大臣は沢柳がかつて会見した大臣とは違う人物だったので幸いだった。政治家や企業トップというものは刻々とメンバーが代わるので、私は何も全て沢柳の私用の電話番号をプッシュして確認する必要など殆どなかった。旧知の仲の者と会合する時だけ確かめればよかったのだ)と財務省がセッティングした公邸で会見し、今後のズームアップ社との提携プランを大まかに説明を求められ、それに応じて、二十分の会見を終え再び西麻布のホテルに戻り、そこで日本の支社の重役連と簡単な今後の打ち合わせをして、今度は再び所沢の支社ビルの奥にあるプランニングチームの仕事振りを見学し、少々のアドヴァイスを求められ、それに応じて再び西麻布のホテルに戻り、更にその夜そこで過ごし、翌日アメリカに戻る予定だった。しかしその間に一度だけ予定外の行動をしなくてならなかった。
 私はこの仕事を沢柳から引き受けた時、彼に成り済ますことに成功し、私の一存で全ての決裁とその後のビジネスが回り出した時、ある瞬間私の正体を知る者とはただ一人沢柳であることを私が思い出し、彼がいつか私の正体を誰かに告白するとか、彼自身が私の好き勝手な行動に業を煮やし、私の正体をマスコミとかに垂れ込むという可能性を私が恐れ、このまま私自身がずっと経営者として留まることを永続させるために、本物の沢柳を私の今の(偽ではあるが実体のある)権力を行使して、誰かを差し向け抹殺することを画策するのではないかという自分自身の豹変を抑えきれなくなるということだけが一抹の不安として潜在していた。しかし意外なことに私はサハシーに成り済ますと、時折、本人とコンタクトを取り続けてきたものの、殆ど一日の内で自分がニセモノであるという意識で過ごす時間はないことの方がずっと多いということにすぐに気づいた。 それは私が業務に追われ、そういう気持ちになる時間的余裕がなかったということも手伝っているのだが、それだけでもなかった。要するに私は私自身が本物の沢柳静雄であるという、いつしか自分自身でさえ信じられないくらいにそう信じて疑わないそういう心理になっていたからである。そしてそれは態々自分を名乗る嘘つき、つまり本物の沢柳が私をニセモノであると告白する本人を私自身が排除する必要性さえ生じさせないようなものとなっていたのだ。そのことだけが私はこの奇妙な依頼を引き受けてから私の心の変化に対して私自身で最も意外なことだった。
 しかし私は沢柳が共犯者であるということをまざまざと相互に確認する絶好の機会に恵まれたのだった。それはまさに私と彼が共謀者同士の連帯意識を最初に持っていたし、今も持っているということを改めて実感した出来事だった。
 私が西麻布のホテルに戻ると、私宛に私用のパソコンにメールが届いていた。それは私自身つまり金城悟としてのアイデンティティーを失うわけにはいかないので、私が沢柳となり代わった時に、米国での金城悟の行動を捏造するために、私は沢柳の了解の下、米国に留学している経営関係の学部の大学院生数名にビジネス用の翻訳業務をアルバイトを使って、させていたのだ。そして私は彼らとメールでだけで連絡し合い、翻訳されたものも添付送信させてきていた。そして私自身が添削しそれをクライアントに送信あるいは郵送していたのだが、そのクライアントの一人が是非帰国した際に一度お会いしたいとアメリカ滞在中に私にメールしてきていたのだった。そのクライアントは日米を言ったり来たりしている商社のCEОだったのだ。そこで私は私が成り済ましている沢柳の身のままそのクライアントと会うことがスケジュール上不可能なので、即座に今暇を持て余している沢柳本人に代わって会って貰うことを思いつき、私だけが知る彼の電話番号を、日本国内なので日本でだけ使う携帯で彼に連絡した。幸いその時彼は即座に出た。私は用件を早速伝えると、向こうさんが指定してきた都内のホテルに沢柳が私の代わりに行って向こうの持て成しを受けてくれると快諾してくれたのだった。
 この一件はある意味で私と沢柳が一蓮托生であるという意識を共有するのに非常に役にたった。しかしそれはもうじき彼が私に指定した一年という契約が終了する間際の出来事だったし、その後の私に降りかかる運命に対して私が全く無頓着でいられた最後の微笑ましい出来事であったという風に今では思える。
 
 その後アメリカに帰ってから私用パソコンにそのクライアントからメールが送られ、大変楽しいひと時をあなたと過ごせたとあったので、私は沢柳が義理堅い男であると知ってほっとした。これでもうじき終了するサハシーであることの責務から解放され、自分自身つまり金城悟に還ることが出来る、と私は思った。
 そして日本での業務を終えてアメリカでの業務も恐らく沢柳本人が私から本人に戻って恙無くこなしていくだろう。やっと私になついてきてくれていた沢柳の私邸の飼い犬ともお別れである。それにしてもこの一年あまりを振り返って私はいかにサリーという女性の神経が細やかで私の日常を滞りなくビジネスに熱中出来るように取り計らってくれるかということが実感し得たし、ヴェロニカにしても私とのひと時を潤いある者にしてくれたということに私は感謝した。そして任務終了期が近づくにつれ、私は次第に金城悟であることそのものに懐かしさを感じ出していた。
 私はあることに真理を見出していた。それは何か?一言で言えば、それは振りをするという行為が滞りなく遂行されるには、その振りをする実像であると自分を信じること以外にはないということであった。恐らく私の代わりに本来であったなら、私が出席する筈の宴席に出席した沢柳は自分で招いた挿げ代わり劇のもう一方の主役として急遽抜擢されたわけであるが、その時今まで私が味わってきた影武者としての自覚を初めて味わったであろう。私はずっと彼の鍵武者であった。やったことの全ては沢柳静雄の業績になる。しかし彼自身はずっと私の行動を自分の行動として俯瞰してきたわけだ。あと一ヶ月を切り、あと二週間となった時に沢柳から待ち合わせのレストランが指定されてきた。それも私が私用で利用してきたパソコンに送信されてきたメールによってであった。それは例の所沢のレストランとも程近い別の中華料理の店であった。私は再び日本支社に用向きがあって帰国することを周囲の全ての人たち、マイク・ストーンランド、ジム・クラーク、サリー、ビル、トム、ヒーリーに告げて二日だけ日本に行くとかこつけて、そのまま後は沢柳に全てを返上する積もりで私は今度はあの時みたいに本来ならサリーか別の人によってジェットのチケットを買って貰う筈のところをサリーの娘さんのためのコンサートチケットを購入するため私用でトムに載せて行って貰ったようなやり方ではなく、ビジネスのためのいつものやり方でサリーの手配(帰国手続き)でロスから日航のジェットで再び帰国して、翌日の十二時半に私は所沢の沢柳がメールで指定してきた中華料理店に赴いた。
 しかし彼は二時間半待っても来なかった。私は念のためあと二時間待つことにしたが、彼は来なかった。
 私はその時どうしようかと思いあぐねた。そして彼に何かあったかも知れないという可能性を考えて、もし彼に何かあった時、一度は彼の替え玉を演じ続けた者の使命として彼を演じたそのままの姿でアメリカへと帰還す必要があるのではないか、と判断して私はその日の夕刻そのまま成田へと向かい、そのままロスへと飛んだ。
 私は正直このまま約束の一年を経過したままサハシーを演じ続けることそれ自体に一抹の不安を感じていたということと、ニセモノとしてそのままサハシーに成り変ること自体に罪の意識を感じ続けていた。しかし彼自身が私との約束を反故にした、止むに止まれぬ理由がある違いない。もし何かあったとしても、彼にそれなりの事情があるのなら、必ず後日私宛に何か連絡があるものと私は心得ていた。それが一度は信用出来ると思った男から依頼された者の務めであると思ったのだった。
 案の定沢柳から私宛に今度はきちんとした手紙が私が留まり続けたサンタフェのCEОルームに届いた。その手紙には自筆による日本語で次のような文面で私にメッセージが伝えられていた。
 「この手紙があなたに届く頃には私はこの世にはいないことでしょう。何故なら私があなたと待ち合わせたレストランに私が来られなかった訳は、今は申し上げることは出来ないのですが、いずれきちんとあなたにお知らせする積もりですが、兎に角あなたの待つレストランにあなたの後ろに座っていた男が、この手紙を今何くわぬ顔でアメリカで仕事なさっている所に発送してくれるように頼んであるからです。つまりその男は私があなたが来てくれるか確認するために訪れあなたが約束通り例の中華料理店にくるのなら、(彼はあなたの来訪を確認してそのまま帰るのだが)私が予め彼に渡してあった手紙があなたの恐らく今座っているサンタフェのオフィスに届くことになっているのです。ですからこれを読むあなたは、既に死んでいる私からのメッセージを見ることになるのです。
 私はスカイスレッダーを立ち上げ、一人で頑張り、世界的規模の企業に伸し上がらせましたが、ある日私自身の憩いの時間が全く若い頃からなかったということに気づいたのです。そこで奇妙な本来なら犯罪になるようなことをあなたにお願い致した次第なのです。そして今私はスキンダイヴィングに凝っていて、赤道直下のある国に滞在していますが、未だ慣れていないので、もし私に何かあったのなら、この手紙が届くことになっています。そしてもしからしたらあなた自身が死んだということにされた場合のことなのですが、あなたが私のままでいることに耐えられないというのであれば、私があなたではなく沢柳静雄であるということを証明する書類を入れたコインロッカーの鍵を渡します。その場所と番号は下に書きました。ですからあなたがこのままサンタフェで私の社を経営し続けて下さってもいいし、その送られた書類をどうすることもあなたの自由です。そして社を放り出して元のあなたに帰ることすらあなたの自由なのです。あなたが犯罪の片棒を担いだということによってあならの人生に支障がないように私は最大限の配慮を周囲の人間に依頼しておきましたからご安心下さい」
 そしてその下にコインロッカーのある場所とそのナンバーが書かれてあった。そして封筒の底にはコインロッカーの鍵が入っていた。
 私は暫く考え込んでいた。しかしある意味ではもうとっくに結論など出ていたのである。つまり私はそのままサハシーに成り済まし、この社を切り盛りしていく決意だったのだ。しかしこの手紙にある通りに本当に沢柳が不慮の死を遂げたとしたら、今後完全にスカイスレッダー自体が私のものになる。最早彼から教授されるということもなくなる。沢柳の生涯とは一体何だったのだろう?そして私自身の彼との出会いとは何だったのだろう?私は流石に暫く何も手につかず、日本でのことをストーンランドに報告してから、少し気分がすぐれないので、帰宅する旨を伝え、サリーにトムに車の支度をするように手配させた。
 私はその日、つまりアメリカのサンタフェに戻って来てから二日目であるその日沢柳邸に再び帰り、暫く書斎に閉じ篭って、私、つまり金城悟が水難事故で死去したニュースがないかくまなく調べた。とは言え、彼がどこの国の海で遭難したか皆目見当が就かなかったから、ただ私の名前をネットで検索して調べた。しかしそのようなニュースはどこからも引っ掛からなかった。
 考えてみれば、私の居所は沢柳から大体察しがついていたが、私の方からは彼の居所は一度として知ることは出来なかった。ただ彼に指定されたナンバーを国際電話でかけていただけであり、彼自身は日本にいるのか、アメリカに居ることもあったのか、それとも第三国にいることもあったのか、いずれの可能性も考えられるが、全く知ることなど出来なかったし、教えてもくれなかった。また知りたいとも思わなかった。
 向こうがこちらの居所を知っているのに、その逆はあり得ないのだから、せめて私はプライヴェートな時間だけでも沢柳の想像も出来ない場所に出掛けてもよかったのだが、私自身そういう欲望そのものがあまり湧かなかったということも手伝って、しかも私はあくまでも沢柳として日常の全てを行動するべきなのだから、そのような欲望そのものを封じ込めてきたという側面もあった。しかしこれからは違う、自分で自分の行動範囲とか、行動パターンを全くこれまでにない形で作り変えてもいいとも言えた。
 しかしいざ彼が死んだということとなると、行動パターンを今までとは全然違う形で変えようという気持ちにすらならなかったのは不思議だった。要するに私は生まれた時から、世界そのものがどこか虚構めいて見えてきて、その時もそのことに変わりはなかったので、もともと人生などというものはどこか誰から監視されているようなものなのだから(別に私は信仰心があるわけではないが)もし沢柳がいなくなったとしても、またこれからの私の行動が最早彼からの依頼によるものではない(それまでは自由裁量でよい、と彼から言われても、そうすることが依頼内容だった)としても、依然私の行動や私の居場所の全てはそうそれまでと変わるということはないだろう、とどのつまり人生というものは限りもあることだし、そういきり立って変更しようとしたところで、そう変わりあるものとなるわけではない、という気持ちの方が私の中で強かったのである。
 事実例えば私が広大な沢柳の私邸において、私が頻繁に使用するルームというのはほんの一部に限られていた。パソコンの前に一日中向かっていると、時々書斎から出て、ビリヤードルームに出掛けて、そこに置いてある自動販売機からビールを買い、一ヶ月置きくらいにその中に貯まった金でピザとかパスタを注文し、出前で持ってこさせたりしてきた。それに私はアメリカでの食生活そのものに不自由を感じたことなど一度もなかった。もともと日本料理だけはないと困るという方でもなかったし、今はアメリカにも豆腐も納豆も売っているし、仮にそういうものが手に入らなくても、ハンバーグやサンドウィッチだけでも十分私はやっていけた。要するに行く場所とか、行きたい場所が格別あるわけでもなし、広大な邸宅であっても、頻繁に使用するルームも、プライヴェートな時間に出向く先も、近所の教会とか、果樹園とか、植物園とか限られていたのだ。だから最早沢柳が私の行動を時々電話で聞いてくるということがなくなったとしても、私の行動半径も、私の行きたいところも、それどころか私が金城悟に戻ることさえもそれほど熱望してはいない自分というものが私の中に支配していたのだ。だからコインロッカーがあるのは、どうも新宿駅のようだったが、また日本までそれを取りに行くためだけに戻る気力も起きなかったのだ。だから頭痛がすると言って早退したその日に、私はプールサイドを私邸で歩きながら、既に再び金城悟に戻らなくてもそれほどこれから先不自由はないな、と感じていた。だいたい私は独身だったし、私の父母もとうに他界している。私には兄弟もいないし、だから私のことを探す者などこの世には既に一人もいないのである。
 だから私にとって他者である沢柳の死は私より僅か早くあの世に行って、他の人々がそちらへと来るのをゆっくり待つという感じだった。そういう風に他者が去ることを意味付けられた。
 だから翌日トムに迎えに来させて、オフィスに向かう時も、それまでと変わりない仕方だったし、沢柳からの電話、あるいはこちらから彼への電話というものがなくなったということ以外は全ていつも通りなのだった。だから当然途中で見える車窓や、荒涼とした原野の風景全てがやはり私の周囲にいる全てのビジネスの仲間たち同様、私にバーチャルな映像を提供するように移り変わっていく様は、決して沢柳という唯一私のしている犯罪を知る者が不在となったという事実によって違って見えるということなどなかったばかりか、一層それまで以上にそれまでと何ら変わらないそれらだった。 私にとってその日から始まる業務の全ては沢柳からの依頼ではなくなっていたが、それはそれまでの依頼同様、周囲の仲間たち、社会がスカイスレッダーに求める依頼であるということに関しては何ら変わらなかったし、それまで以上にそれまでと何ら変わらないものだった。そもそも沢柳からの連絡、こちらから彼への連絡の全てが逆にただ取ってつけた行為でしかなかったのである。

Sunday, October 11, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑤

 私は徐々に業務に慣れていった。それはサリーに手渡してくれる日程表や、彼女による私が外出中で私と同伴出来ない時には私の携帯のメールやら、車中でも常に持ち歩いている卓上型パソコンのメール等に随時送信してくれる次の行動の指示に概ね従っておればよかったし、パーティーに出席する時には既に沢柳から時々来る私の私用の携帯や、パソコンに別名で届くメールにその都度、会う人々の経歴や性格、趣味などは示してくれていたので、私はそれに従っていれば、ある程度のことを切り抜けられた。後は私自身の翻訳業務時代に培った社会的常識とかノウハウを応用すればよかったし、何より私はパーティーそのものの雰囲気には昔から慣れていた。それは私が世界が虚構めいて見えることを最も象徴した場所だったからだ。だから若い頃からそういう場所で振舞うことそのものは苦ではなかった。時々ヴェロニカを抱くことだけがかなり緊張を持続的に強いる日常だったこと以外は、パーティーでアラブの石油王や、アメリカ国内の鉄鋼王とか、世界的ポータルサイト運営会社のCEОや、時には映画スターやロック歌手たちと雑談することはそれほど億劫でもなかった。
 製薬会社CEОのネルソンとは、沢柳本人時代には面識のない人物であった。だから当然私が彼にとって初めて会う「沢柳静雄」である。そして不思議なことに彼とは最初から馬が合った。沢柳本人時代にはこのネルソンの製薬会社とは縁がなかったのに、副社長のストーンランドが私に彼らの社と広告契約を取ることを提案し、向こう側の副社長リッチモンドもまたストーンランドと合意に至っており、その旨私はストーンランド自身からも、ジム・クラークからも伝えられていた。私は沢柳に連絡を取って「あなたの一存でお決め下さい。」との指示で、初めて自分の裁量でストーンランドにОKのサインを出した。
 沢柳の実際の年齢は知らなかったが然程私と変わりないだろうが、ストーンランドは私自身よりは九歳くらい若かった。有能な経営陣であり、それは沢柳も強調していた。もう一人の副社長であるジム・クラークは私より五歳くらい若かった。しかし私が沢柳本人と交代することで、それまでは私の「本人」と馬が合っていたのに、私になった途端相性が悪くなる者、あるいはその逆で沢柳「本人」にとって腹心であった者の一部が私になった途端、怪訝になるという事態が最も替え玉としての私にとって憂慮すべきことであったが、幸いそれまでのところそういった現象は立ち現れてはいなかった。しかしそれは向こうから私に対して持たれる感情であって、私から向こうへと渡される感情ではなかった。そのことに関して顕在化するのはもう少し後のことである。そしてその時期私にとっても最も心地良かったのは、サリーという人物が「本人」時代から「私」に対してより大きな信頼と忠誠心を抱いていたということが、最初から、その時期まで通して私に実感出来たことだったのだ。私は彼女の娘の誕生日には祝いをしてやったりした。勿論それもまた「本人」時代からの慣例としてであるが、そこには私から彼女への誠意も加わっていた。
 しかしそれまでは私は一度も困難であると思えることはそうなかった。オフの時間にはまめに沢柳に彼の人脈において未だ知らされていない者がいないかどうか確かめるためにメールをパソコンで送っていて、向こうからその都度返信して貰っていたからである。しかしついにそうしながらも落ちこぼれた彼から私への情報が露呈する時がやってきた。それは彼の高校時代の同級生とやらがある日、全く私的な、つまり沢柳としてではなく、私が渡米してから培った滞米経験から、植物栽培のサークルで一ヶ月に一回、近くの教会の一角で行う集会に参加するようになって三ヶ月目に、よりにもよって全く私が沢柳として生活するようになったサンタフェの市民としての生活の中から潤いを求めて参加したその集会で、日本からやってきた栽培園の関係者としての来賓にいて、沢柳とクラスメートだったと私に近づいてきたのだった。私は沢柳の青少年時代のことは全く知らされていなかったので、
「おお、沢柳久し振りだな。俺だよ、下塚だよ。」
とその高校のクラスメートだと名乗るその男に集会の来賓として紹介された大阪の栽培園の関係者の中の一人が私にそう声をかけてきた時、率直に私が心臓が表へ飛び出そうな勢いで高鳴り、それが彼に聞き取られるのではないか、と恐れさえした。しかしそういう時こそ落ち着かなくてはと思い、私は技とすっとぼけて
「そうでしたっけ、ですか?」
と変な応対をした。久し振りにする日本語の会話だった。すると予想に反して彼は
「そうだろうな。お前はあまり変わっていないけれど、俺は昔ひょろっとしていたけれど、今はもうこんな腹も出てきたからな。」
と中肉中背と言うよりは少々太めの彼はそう言った。その口振りからすると、沢柳とその男は然程親しい間柄ではなく、ただ単にクラスメートであるに過ぎないといった雰囲気だった。その時私は沢柳に関する自分の知り得る全てのデータを想起しつつ、何とか辻褄合わせに必死だったが、元来昔のクラスメートなどというものは、社会に出た後で偶然会うということは、そう誰にとっても楽しいものではないケースの方が多いのであり、だからこそ私が取り繕った時の会話のぎくしゃくしていることとは、私自身が沢柳本人ではないということからくる焦りというよりは、そういう一種の社会的地位の高い人間が昔のまだ社会的地位が何ら確定していない頃の知り合いに合う場合の気まずさとして理解してくれたらしいことを思えば、その時偶然居合わせた周囲の他者の眼からしたら、それほど不自然ではないということも言えたのかも知れない。
 しかしである。その後に私に訪れた偶然とはもっと始末の悪いものであった。そうなのである。それは私がビジネスで移動中にこともあろうに、私が沢柳から聞かされていない彼の知人と遭遇したのではなく、まさに私、つまり金城悟自身の古い顔馴染みだったのである。
 その日私は前夜に久し振りにヴェロニカといつものレストラン(あれから例の初めてあの時利用したヴェトナム料理店が私たちの待ち合わせの場所になっていた)で合い、あの時利用したモーテルで休憩してから、ヴェガスに繰り出しホテル・フラミンゴに宿泊していた。そして朝私の運転手である黒人のトムに本社まで乗せて貰うように、前夜に手配して、ヴェロニカを寝かせたままホテルで早朝チェックアウトした。ホテル・フラミンゴから私の毎日勤める本社は数十分で到着した。
 ヴェロニカと逢う時は、最初だけはそのヴェトナム料理店にしていたが、その後は、いつも気まぐれに行き先を変えていた。しかしその日は私自身の感傷から、私、つまり沢柳に扮した私にとって最初に彼女と逢った時のモーテルに行った。だから彼女にとってはその時気まぐれに行った場所というに過ぎないそのモーテルが私には格別の印象の場所だったのだ。その時と同じようにその前日も私がレンタカーを運転しながら、勝手にそこへ向けて走らせたのだ。
 その日の早朝からニュースは世界的ITソフト開発企業であるミューズソケット社の創業者エディー・レンディーが恐れていたライヴァル社のポータルサイトクリエイターであるズームアップ社に対して間を空けるために、世界で二番手のシューズデザイナー社の株を買い占めるというニュースで持ち切りだった。副社長のマイケル・ストーンランドは私が早朝詰めているソファが置かれたアイデアルームと沢柳が呼んで来た応接間にそそくさとドアをノックして入ってくるなり
「わが社の態度を明確にしておかなくてはなりません。どう致しますか社長、もしミューズソケット社から手を組まないかと言われたら。」
と私に真意を尋ねてきた。私は以前からミューズソケット社の思惑を薄々勘付いており、その時のために沢柳に連絡して相談していた。しかし意外なことに私の社内のプライヴェートルームにかかってきた彼からの電話では
「君の裁量に任せるよ。もう君の判断で好きな方につけばよい。」
とそう言ったので、私は以前からミューソケット社のやり方にある種の強引さと独占禁止法すれすれのマナーに憤りを感じていたので、一も二もなく私自身の判断でもしミューズソケット社から何か言ってきても一切無視し、逆にズームアップ社からの申し出を受けようと決意していたのだった。案の定ズームアップ社のCEОのバルバドス・ロメオスが私の私用電話(アイデアルームに引かれてある)にかけてきて
「私たち、つまり私どもシューズデザイナー社とズームアップ社と組んで、ミューズソケット社を追い落としませんか?」
と殆ど単刀直入にそう尋ねてきた。私は結局その日ロメオスの申し出によって彼のプライヴェートな時間に使用しているカリフォルニアのサンディエゴの郊外にある別荘に招待されたのだった。そして私用ジェット機のパイロット、ウィリアム・サーストン(白人)の操縦によってロメオスの邸宅の敷地内にある私設滑走路に到着して彼の邸宅内に用意してあった食事をご馳走になったのだった。
 ビルの操縦するビジネス用ジェットでヒスパニック系で未だ三十歳になったばかりのロメオスの邸宅に設えられた立派な滑走路に降り立った時、私の視界には砂漠質の土壌で砂埃が今にも立ちそうな荒涼とした荒野のど真ん中に立派に聳える邸宅がまるで、楼閣のような出で立ちで仁王立ちしているように思われたが、サボテンや砂漠系の植物に覆われたオアシスのような一角に立てられた二階建ての邸宅の前はプールサイドとなっており、テラスからロメオスが手を振って私を歓迎してくれた。その時がまさに私が渡米して沢柳になり済ましてから、初めて私的なビジネスパートナーからの招待だったのだ。まさにあの伊豆倉と二人で話し込んだりして以来、金城悟としても久し振りのビジネスパーソンとの私的時間だった。それまでは殆どが本社ビルにおいてか、街に繰り出して予約しておいた高級レストランにおいてのあくまでビジネス会話であった。勿論ロメオスとの対話も目的はそういうものであったが、今後の二人の交流を確認するための形式的ではない会話にしようという向こうからの提案である。だから翌日夕方にサンフランフリスコのレンタル会議室において私とサリーとマイケル・ストーンランドとスカイスレッダー日本支社から派遣されたビジネス専門の顧問弁護士である日系三世のレオナルド・岸田という男と、その日本社に到着することになっている副社長ジェームス・クラーク、後はロメオスと、ロメオスのシューズデザイナー社の腹心スーザン・リンドバーグと彼らの弁護士レオン・ソダーバーグ、そしてエンジニアであるマーヴィン・ブラックモアであった。
 私が沢柳になり換わってからまさにもうじき一年という頃合のことだったので、私は比較的新しいビジネスパートナーとの和やかな対話と食事(食事中には彼自慢の特別注文で彼が作らせた迫力の大画面のテレビにアクション映画のDVDを見せてくれた。)の後に、まさか忘れかけていた本名を呼ばれるなんて思いも拠らなかったのである。
 私はその日、パイロットのビルにそのまま社の方に飛行機ごと戻って貰ったのである。と言うのも私がその翌週に日本の支社に社用で訪れるためにロスの空港までチケットを求めに行くため私をビルが下ろしてくれた時に彼とは別れたのである。(私はビジーな日常に気分転換を挿入するためにチケット等をネットで購入することをしないで時には自分で街に出向くことにしていた)ビルはロメオスの邸宅で私を下ろすと、直後にサンタフェの社に戻り、私は最初からそういうロメオスとの携帯での口約束で、彼の別荘に常時待機している運転手が運転する車でロスに向かった。しかしその時態々ロスにまでチケットを購入するために行くことにしたのは訳があったのだ。それは私が毎日お世話になっているサリーの娘さんが明後日十六歳の誕生日だというので、彼女が好きだというとある有名ロックグループのコンサートが行われるのがまさに彼女の誕生日だったので、私は気を利かせてコンサートが行われるロス市内のプレイガイドでチケットを購入してサリーに手渡してやりたいと思ったからである。そして私は予め朝ストーンランドにロメオスに合いに行く時にトムをそのプレイガイド前で迎えに来てくれるように手配しておいたのだ。だからチケットをサリーに娘さんのために買ったら、そのプレイガイドを出た歩道で待っていればすぐ時間通りにトムが来てくれる筈だったのだ。トムは今まで一分たりとも遅刻するような男ではなかったし、その時もそうだった。ところが私が丁度定刻通りにトムの運転するロールスロイスが到着しトムが後部座席に私をすべり込ませようとドアを開けたまさにその時、何と私に向かって
「金城さん。」
と声をかけてきた中年男の声がして、私は咄嗟にその男の声のする方に振り返ったのだった。その時確かめられた顔を見て、私は数年前伊豆倉の経営するギャラリーで一度だけ伊豆倉から紹介された絵画コレクターで特にアメリカ現代絵画ファンで古物商の飯島であることが即座に判明した。しかし私にとってその男は然程印象深い人物ではなかった。
 しかし私はその場で白を切り、
 「いいえ、私は金城ではありませんよ。ソーリー。」
とだけ言って即座にトムの車の中に納まったのだった。しかしその態度を怪訝に思ったらしい飯島は私の顔を暫くじっと車の中まで覗き込むようにしていつまでも不思議そうな顔をしていた。しかし私はそれを敢えて無視するように努め、トムに車を発車させるように首を振って促した。
 しかし私が沢柳になり換わってから私は初めて嫌な気持ちでずっと暫く過ごさなくてはならなかった。その一件があるまではまるで自分が完全に沢柳になりきっていて、自分の本名さえ思い出すことさえなかったのだ。だから暫く私の顔色が優れないことを慮ってサーストンやストーンランドやサリーやトムやヒーリーが私の気分が優れないのではないかと気を遣ってくれたのは言うまでもない。
 しかし私は次のようにパソコンのワード(勿論日本語である)で打ち出してそれをプリントして何回も読み直した。

 <若い人たちは往々にして自分の力だけで全部出来ると思いがちだ。しかし私たちはある日社会というゲームに投げ込まれているのだが、実際自分の力でどうにかこうにかなる部分とはほんの微々たるものであることをある日知る。しかし私はそれを知るのが少し早かった。だからこそ世界が虚構めいて見えると感じ続けてきたのかも知れない。人間が自然の上に文明を築き上げたように社会というゲームを築いた先人の構築物の上に、ニュートンの言葉を借りれば巨人の肩に乗っかっているからこそ何か行動することが出来るのだ。私はただそれをしてきたに過ぎない。翻訳がそうであり替え玉CEОがそうである。私のしていることを犯罪と呼ぶのなら世界中の全ての仕事もまた犯罪である。>
 

 しかし私が既に大きな決断でさえ沢柳からの提言や指令一切なくしてきていたその頃、私は何故だか沢柳が自分に徐々に業務を引き継がせ、終いには完全に私に全てを委ねた気持ちが理解出来るような気になってきてもいたのだった。つまり私はどこかで沢柳になりきりながらも、沢柳としてもう一人の私の替え玉を欲しいと思うようになっていたのである。
 だが約束は一年である。そろそろ沢柳から連絡があって、今後の指示があるだろう。だから私は自分の裁量で私の引継ぎである沢柳とそっくりさんを沢柳が私を見出したように見出す必要はない。だが、どこかで自分がこのままずっとサハシーに成り済ましてやっていけそうな自信もあったし、何よりそういう風になってもいいなとさえ思っていたのである。
 しかし不思議である。何か業務を終え、ほっとしている時には私はあの飯島との一件が心につっかえていたから、鎮痛な面持ちだったのだろう、だから私の周囲の人々が気を遣ってくれたことというのはそれはそれで嬉しかったのだが、実際職務に邁進している瞬間の連続において、私はまるでずっと昔から本人の沢柳であったかのように、まさにてきぱきと全てを滞りなくこなし、鎮痛な表情で想起する暇すらなかったのだから。だがもうじきそういう生活にも別れを告げねばならない。もう十分私は庶民の手には余りある収入を得ていたのだ。
 だから飯島に声をかけられた翌日の夕方ロメオス側が指定してきたロスのレンタル・ミーティングルームへ出掛ける前にサンタフェの社のミーティングルームに午前十時に集まってストーンランド、そしてその前日に常駐しているニューヨーク支社から到着していたもう一人の副社長であるジェームス・クラーク、そしてサリー、そしてその日の早朝到着したばかりのレオナルド・岸田が(このメンバーが一同に会するのはその時が初めてだった)私と綿密なつまりズームアップ社との提携における自社側を有利な条件で進行させるプランを練った。結局深夜二時までかかって何とか結論を得ることが出来た。それも前日私がロメオスの招待を受けて相互の真意を表出し合っていたからなのである。
 だからその日はビルの操縦する自社ジェットで私たちは夕刻に向こうの指定したビルのあるロス郊外の比較的そのビルに近い空港へと飛んだ。サリーにはビルの操縦するジェットの中で例のロックグループのチケットを渡してやった。彼女は頬を綻ばせ私が渡したチケットを嬉しそうに大事に握り締め、バッグの中にしまい込んでいた。彼女はサンタフェ市内に娘さんと暮らしている。それ以外の彼女の情報を私は知らなかったし、沢柳も私には告げていなかった。
 私が約一年前にサンタフェに来て、沢柳になりすましてから、最も不思議だったこととは、仕事する時には個人的内面を気にすることがなかったということではなかった。それは私、つまり金城悟という人物のアイデンティティーを感じる瞬間が限りなく稀少であるということ、それはすなわち本当の自分なんてものは、ビジネスではあまり重要ではないということだった。私が早朝オフィスに到着すると、まずアイデアルームに篭る前にサリーが一日の日程表を私に見せてくれる。そんな時でも最初佐橋と名乗っていた今は不在の社長の言うように沢柳のビジネス名である静雄により、サワヤナギシズオを早く言うと向こうの連中にはサハシーと聞こえるらしいことから、皆彼をニックネームとしてサハシーと呼ぶことから、当然私は成り済ました初日からサリー他の連中からそう呼ばれてきたが、一度もそう呼ばれる自分の気持ちに違和感を持ったことなどなかったのだ。
 だから正直言って逆に色々な業務のチェックとか決算報告とかのために年初に日本の支社へ来訪するために帰国することになった時(だからこそそのためのチケットをロスで買い求めたのだが)私は今までよりは幾分金城悟に還ることの恐怖を感じ出していた。向こうでなら、飯島と偶然会ったようなことはもっと頻繁に起こり得る。
 しかし今から考えると私はその時あるいは、それから私に次々に起こることをある程度予感していたのかも知れない。確かに私が昔小説家を志したこととか、その後翻訳家になったこととかの経歴とか経験が、こういう特殊な状況を切り抜けるのには役に立ったと思う。しかしある意味ではサリーやトムやビリーが私の英語に何の不審も抱かなかったことが、私をビジネスにおいて、成り済ましながらも、いつしか自分自身がこの会社を切り盛りする(事実私は殆ど沢柳からの指令を受けずに全てをこなすようになっていた)ことに違和感を抱かないような日常を手中に収めることには成功したのだが、そのことが却ってそういう状況から離脱した時に味わうあの一種独特の気持ちを理解するくらいには先が読めなかったとだけは言える。しかしそれでも敢えてそのことに気づくまいとしてサリーたちにあたかも普段以上に沢柳らしく振舞っていたというのも、その実いつかはこうした茶番劇が終了すること、そしてその後色々取り返しのつかないことになることを薄々予感していたからだ、とも言える気がするのだ。
 そしてその端緒となった出来事は日本へ帰国して比較的すぐに到来した。帰国し、日本支社の連中とする仕事が私に残された最後の大仕事である。
 私はその日より一週間前の金曜日、僅か四日前にロメオス側の人間たちと自分たちサイドの人間たちとで協議し、提携の基本路線を綿密に話し合い、今後のスカイスレッダーの少なくとも二年くらいの目処は立ったところで、一息つきながら、トムの運転するリムジン(私用で出掛ける時はロールスロイスで、社用の時リムジンで送り迎えしてくれるというのは沢柳がトムに求めてきたやり方だった)でロスの空港に向かう車上で、私の脳裏に掠めたのは、あのロメオスがその協議の前日に私を私用の別荘に招待してくれた時彼が私にも差し出してくれたワインを飲みながら話してくれた内容だった。
 「僕は本当に数年前には先行きどうなるのかという二十代の青年でした。確かにエディー・レンディーは世界でも指折りの富豪になったけれども、実際にはね彼は五十代のしょっぱなからもう守りの人になってしまっている。要するに若く成功した人というのは、どう転んでも、世界一というステータスを死守するしかもう手を出すことなんてないんだ。だから僕も行くところまでは行きますよ。でも後はそれまで手伝ってくれた人とは巧くやり、やはり今エディーがしていることをどこかで模倣するようなことになるのかも知れないですね、サハシー。(私がそう呼ばれるのにももう慣れていた)」
 そうワイングラスを傾けながら
 「だから一度エディーには倒されてもらわなくちゃね。この別荘の庭は全部日本人の庭師にやって貰ったんですよ。日本庭園のよさとマカロニ・ウェスタンのイメージを融合させた奴を僕は彼に頼んだんです。私幼少の頃例のクリント・イーストウッドが主演でセルジオ・レオーネが主演の「荒野の用心棒」と「夕陽のガンマン」とかが好きでね、成功して別荘を持てるようになったら、是非あの映画に出てくるようなタイプのガンマンに闊歩するような荒野をイメージした庭園にして貰いたかったんですよ。だって僕は不法入国者の子孫だし、ヒスパニックでしょ。そういう人間が成功したシンボルとしてそういうのってありじゃないですか。」
 そう言えばロメオスの発音はどこかチカーノ訛りが最初からあった。しかし熱を帯びてくると、あるいは相手を信頼して真意を表出するようになると逆にチカーノ訛りから脱却していったことが不思議だった。だからこそ仕事で成功したのかも知れない。しかし興味深いことには、ヴェロニカは逆だった。相手に対して防衛心を解除すればするほどあの独特のスパングリッシュ風のチカーノ訛りが露呈した。 私はスカイスレッダーの歴史に残る業務を自分がいる間に成し遂げたのだ。何だか妙に自分の人生を振り返って、それが犯罪であるにもかかわらず、すがすがしさを覚えていたのだ。結果全てのビジネスで私は沢柳として一つの社の転換点に立ち会ったのである。

Friday, October 9, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>④



 結局私は沢柳の持つパスポートをそのまま所持し、その翌日午後一時の便で渡米して彼になりすまして事業を経営することとなった。シリコンバレーからもそう離れていないサンタフェにある本社にまず沢柳の指示通りに直行く、そこで社員たちと何食わぬ顔つきですれ違う度に私に向かって会釈する社員たちに適当に応対しつつ私は沢柳の社長室に向かった。誰も私が替え玉であることに気づきはしない。秘書のサリーが私の顔を認めると、ドアを開けてくれた。私は翻訳家でいた頃から記憶力には抜群の自信があった。しかしそれは私が必要なことだけを記憶し、後は一切忘れることが得意だからである。だから私は全てに対してきちんと記憶するタイプではない、と私に沢柳が告白した性格にまさにうってつけの役者だったのだ。サリーは全く疑っていなかったし、あの時、ほどなく彼女からバースデーコングラチュレーションメールの返信が来たが、そのメールの文面に違うことのない誠実な性格の女性であることはすぐに私にも分かった。
 そうやって私は二日前にはあの奇妙な業務から開放され、しかし結構な大金をせしめ、今後の身の振り方を考えていたのとは全く異なった運命の下に、身の振り方を考える暇もない勢いでその社長室や、ミーティングルーム、そして本社以外の各部署へと移動から移動の生活になり、サリーの指示した日程表に従って社長業務を勤め、付近大体十キロくらい離れた豪邸に住むことになった。豪邸の執事の趣味や癖から思い出まで事細かに書かれたノートを密かに私は消印が東京都になっている速達で受け取った。そういった遣り取りは一ヶ月に一回くらいに及んだ。そして何かばれそうになった時の言い訳や工夫を時々私が運秘書と共に運転手の運転する公用車に乗って移動する時などに、後ろに一人で乗り込んで運転手の座る席と、秘書の座る助手席が、それら全ての間がアクリルで隔てられているのを利用し、沢柳からのパソコンを開いてメールを時々チェックした。そして向こうのメールに私は時々「こんなことがありました。」という出だしで一日にあった印象的な出来事を報告した。
 仕事は比較的早く慣れることが出来た。そして取引先のビジネスパートナーたちの趣味や癖、社長との思い出などをやはりメールで、あるいは豪邸に届けられる資料によってさも何年も付き合いのある者同士のように振舞うための助けとした。そして私が入れ替わったニセモノであるということを気づく者は、豪邸で飼っている番犬代わりのイヌと室内にいるネコ以外にはいなかった。ネコを私はずっと好きだったので比較的早く手なずけることが出来たし、そのことで執事や使用人たちが不審に思うということは一切なかったが、イヌがなかなかなつかないことには辟易した。私は在宅時なるべくイヌには近づかないように心掛け、執事や使用人たちにはイヌの吐く息が神経性のストレスによくないとかかりつけの精神科医に言われたと嘘をついて、イヌが興奮する姿を前にして誤魔化した。
 アメリカでは殆どのビジネスマンたちがshrinkと彼等が呼ぶ精神科医を掛かりつけている。そのことは渡米前から翻訳をしていた手前知っていたし、若いユダヤ系の精神科医さえ私が替え玉であることを気づく風もなかった。
 サンタフェはニューメキシコ州の中央に位置した町で、州都アルバカーキを南西に、ラスヴェガスを南東に持ち、標高3000メートル以上の市街である。私が社長になりすまし住む豪邸には二十人くらいの使用人(執事を含む)を要し、砂漠質の土地を耕し広大な庭(と言っても、植樹した森林やゴルフコースまで含む)を見渡すと、まるでディズニーランドに来たかの如き錯覚に陥った。そしてこれが本当に自分の力で手にした土地であるなら、どこからどこまで物珍しそうにして愛しい感じで歩き回るのだろうが、私は社長から教えられた庭の一画に設置された熱帯植物を育てている温室に腰掛けて読書するのが好きだという習慣だけを真似し、それ以外は敢えて色々珍しいのでじっくり観察しなかったのだが、却って物珍しい風情でいると疑われはしないかと思い、庭の管理を一括して任せてあるロジャースという庭師に社長から予め保存場所を教えられていた豪邸を配す土地の見取り図を取り出して豪邸の管理を社長に教えられた要領で指示し、時々向こうから来る質問に応答し、さもそこに沢柳が住み始めた十年前から住み慣れた住居と、庭であるように振舞った。しかしこうして替え玉となって気がついたことだったが、ニセモノとしてさもホンモノのように演技して暮らす我が家では最初は全く庭を鑑賞する気持ちの余裕などなかったが、それも不思議なもので、一ヶ月、二ヶ月とたつ内に次第にその住居のホンモノの住人に精神的にもなってくるもので、四ヶ月目には庭の色々なものが私の居住感性に馴染んできたのだった。しかもその頃になると色々な会合で大勢のビジネスマンと接するのも、例えば初めて会う時には、社長が面識のあるビジネスマンのことは予め秘書のサリーに手渡された出席者名簿を捲り、その名前をメールで急遽沢柳に送ると、社長は色々説明してきた。勿論写真つきでいきなり本人と会っても自然に振舞うためである。しかしそれは最初の一回だけである。つまり二度目からはもうこっちのものである。だから三ヶ月以降徐々に私は一々全てのことを社長に教えて貰う必要もなくなり、それどころか色々なことを決裁することを自主的に行うようにすらなっていった。そしてある年月経験してこなければ理解出来ない特別のこと以外は一切沢柳本人に確認を取ったり、教えを乞うたりすることなく全ての急場を切り抜けることすら出来るようになっていたのだった。
 それにしても私は忙しく一日のスケジュールをサリーの渡してくれる日程表を見て判断するのだが、一度は接待である鉄鋼関係の重役と共にラスヴェガスに行ってルーレットをしたこともあった。しかしそういったことよりも私をその頃(五ヶ月目くらいの頃)感動させたのはサンタフェの荒野に沈む夕日の美しさだった。これは日本で見たどの夕日よりも美しかった。そしてその時この美しさが虚構めいた感慨を与えるということ以外の感情を私に与えることを知った。しかしそれは次に待ち構えていたことに比べれば極めて単純な心の動きだったと思う。
 そうである。あのヴェロニカと再会(私は初会であるが)する日のことである。それは三ヶ月半くらい私がニセモノの社長としての生活をしてきた頃のことだった。私は本社の総務の責任者であるヒーリーにある日
「ところでここ数ヶ月お忙しかったので申し上げませんでしたが、ヴェロニカさんともそろそろ一度お会いしておかれてもいいんじゃないですか?」
と言われた時、私はそれまでこのこともまた社長の沢柳から託されているということをけろっと忘れていたことに気づいたのだった。そしてそうヒーリーから言われたあくる日が丁度金曜日だったので、携帯で連絡を取り、彼女と会うことにしたのだった。会うことにしたのは社長に言われていた二人でよく行くメキシコ料理の店ではなく、敢えて私の判断でヴェトナム料理のレストランを予約したのだった。何故そうしたかと言うと、社長の行き着けたところではない場所の方が初めてその店を予約することで、彼女との久し振りのデートを気分転換のように振舞うのに丁度いいと思ったのと、一回普段とは別の店に彼女を誘うことで、再び行き着けの店に行くことに新鮮味があるような素振りにニセモノであるがための不自然さのためになっていたとしても不思議に思われないだろうと思ったからである。しかし私があの山荘で沢柳の突拍子もない依頼を引き受けた時、自分もかなり悪の部類に属する人間だと自分でも感じ取ったのだったが、ヴェトナム料理店で彼女がやって来るのを待ってタバコを吸っていた時、約束の時間ぴったりに私に前に現れたヴェロニカを最初に見た時、あの山荘で社長が私に見せてくれた写真のイメージから想像するもの以上の妖艶さに私は正直言って打ちのめされた。
 あの時は確か三十六歳と聞かされていたので、もう少し中年っぽい雰囲気を想像していたが、実際はそれよりは四、五歳は若く見えた。(サリーは成人近い娘がいるので、五十台初頭だったが、彼女も実際より若く見えた。)
 しかし私はヴェロニカを抱くのは初めてとなるわけだが、彼女の側からすればそうではない。彼女が胸を借りるのはあくまで彼女がよく知る沢柳なのだ。そう私は心を落ち着けた。彼女は殆どチカーノ訛りのない綺麗な抑揚と発音の英語で私に向かって
「珍しいわね、あなたがこういうレストランを予約しておくなんて。」
とそう言いながら、私の前の席に腰を下ろした。彼女の言葉上での英語の流暢さがサハシーを惹きつけたのかも知れないとその時私は思った。彼女は全体的には意外と小柄だったし、顔は細面だったが、身体は肉付きのいい豊満さを称えた女性だった。何より私自身は長く一人暮らしに慣れていたので、女性の肌に接することそのものが新鮮なものだった。しかし私はもう五十に近い年齢である。だからと言って二十代の男性のような慄きを女性に接する時に抱くこともない。自分でも驚くほど彼女との久し振りのデート、私にとっては初のお目見えであるその日の会話は私の近状を適当に報告することで、切り抜けられた。彼女は経営コンサルタントをしている。そして趣味はオペラ鑑賞、ドライヴ、読書だった。彼女は最近観たオペラと、読んだ本の話をした。私自身も意外と観劇や読書は嫌いな方ではなかったので、そんなに違和感はなかった。しかしそういう風にスムーズに行っている時に彼女が一言洩らした時にはぎくりとした。それは彼女が英文学の話をしていた時のことだった。私が昔好きだったカポーティーの話をした時のことだった。
「あら、あなたトルーマン・カポーティーあまり好きじゃないって前は言っていなかった?あなたサリンジャーとかの方が好きだって。」
その時私は
「いや例のロバート・レッドフォードが主演した昔のフィルム「華麗なるギャツビー」をDVDでこの間観たんだよ、それが結構よかったからさ。」
と誤魔化した。
 確かその時私は沢柳が彼女は性格的には疑い深いタイプではないけれど、変化には敏感なところがあるとも言っていたと思い出していた。一人でドライヴをすることも好きな彼女は、独立心旺盛な女性らしかったし、それは沢柳の言うところと、実際の彼女を見て話しをした時の印象とが一致しているところだった。しかしオペラ鑑賞が趣味という割には、あまり古風なものには関心を注がないようにも私には思われた。つまり彼女の場合、オペラの観劇スタイル(オペラグラスとかの)のような伝統的形式からではなく、オペラの内容、その歴史的背景から関心があるのであり、そういった意味では似非ファンではないから、話の内容もそうだし、生き方の話にしてもそうだし、あまりいい加減なことを不用意に述べることはどうも彼女の面前では差し控えねばならないとも思えた。
 しかし同時にそういうタイプなら寧ろベッドではあしらいやすいのではないかとも思えたのだ。と言うのも概して教養のない独立心の希薄な女性ほど、ある意味では嗅覚だけは優れているということがあり得るが、逆に芯のある女性は却って単純なところもあって、ベッドでもいつもとは違うスタイルに対して変に敏感である、ということはないのではないかと私はその時人間観としての直観を持ったのだった。
私たちはそのレストランからそれほど離れてはいない、古風だが落ち着いていて、その辺では一番人気があるモーテルに泊まった。そこで二人でビールを飲み(彼女はワインからブランデーまで幅広く酒を楽しむ女性であるとは沢柳から聞いていた)、シャワーを浴びてから、ベッドに入った。そこで彼女は私を沢柳の本名であるイサムと連呼した。通常女はメタ認知が得意ではない。つまり嗅覚の方がそれよりずば抜けて優れているのに、彼女は性感帯とか、感度とか、反応とかは勿論敏感で男である私を充分楽しませたが、男の嘘を見抜く能力はそれほどではなかったのだろう。と言うことは逆に性的なパートナーとしては勿論のこと、ある意味ではビジネス関係の相談相手としてもまた、女性にしては珍しいメタ認知の優れた存在なのかも知れない。だからこそ沢柳静雄は、この女性をパートナーとして選んできたのだろうと思った。しかしそんな優れた相手からも私を替え玉にして逃避することを選んだ沢柳が、今どこで何をしているかは見当もつかないが、それほどまでしてCEОというものが捨て去る必要のある身分であることに、その時点では私は未だ勘付いていなかった。またそんな余裕さえなかった。

Wednesday, October 7, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>③

 レストランに着き、しゃれた内装を仄かに漂わせる旧式のノブを引くと、古めかしいがどこか家具製作の本場イタリアらしい凝ったドアとよくマッチしたシャンデリアとランプが所々柱に掛けてある内装の店だった。沢柳は一時に指定してきたが、腕時計を見ると未だ約束の時間まで十二、三分あった。私はカウンターからやや奥まった場所に腰掛け、メニューを見ると中年のウェイトレスが来て、
「何になさいますか、お決まりになったらお呼び下さい。」
と言ってカウンターの方へと引っ込んだ。店内は比較的スペースはゆったりとした感じだった。外から見るよりはずっと広かった。その時気がついたが、フニクラフニクラとイタリアの民謡がかかっていた。私はウェイトレスを呼び、コーヒーを頼んだ。暫くしてコーヒーが来てそれを飲もうとしていると、ドアの音がして自分とそっくりな顔をした沢柳がこちらに笑顔を示しているのが確かめられた。
「やあ、お待たせ。」
と沢柳は言いながら、私の座るテーブルの向かいに腰掛けた。
「どのくらい待ちましたか?」
と彼が言うので、私は腕時計を見て、丁度三時十分くらいだったので、
「いやあ、さっき来たばかりですよ。」
と嘘をついたが、まあ十分くらいの遅刻でとやかく言うのも大人気ない。
「さて、本題を申し上げましょう。そのまま飲みながら聞いて下さい。」
沢柳はあまり時間の余裕がないからか、いつもそうやって結論を急ぐタイプに思われた。そういう日常から脱却したくて私は彼の依頼で何もせずに一日室内にい続ける仕事を引き受けたのだ。しかし以前は自分も、今彼が忙しないタイプと思われるような生活だったのだ。しかし一旦それまでの一年間のような生活に慣れれば慣れたで、それが自分には最も性にあっていたのだと今更ながらに、自分の順応性に驚いてもいた。しかし彼の口から出た言葉は意外なものだった。私たちの会話は次のようなものだった。
「どうでしたか?一年間精神的にはどういう感じで過ごされましたか?」
と彼が聞くので、私はやはり高額な報酬を何もしないて得ることが出来た一年間だったので、
「いやあ、結構それなりに楽しめましたよ。」
とだけ言って沢柳が次にどんな言葉をかけてくるのか待った。すると彼は続けた。
「私は時々あなたのことを監視カメラで撮ったものを見させて頂きましたけれど、基本的には私はあなたのお人柄を信じていたので、全部チェックなどしていたかったのですが、かなり何か文章をお書きになられていたようですね。」
と彼が質問してきたので、私は
「ええ、これまで仕事以外ではあまりそういうことをすることもなかったのですが、初めて自発的に自分自身を見つめることをしたい、とああいう特殊な時間の中で考えまして、それは私の中のもう一人の今まで知らなかった自分との出会いでもありました。」
と柄にもなく哲学的なことを彼に述べている自分に再び驚いた。すると沢柳は
「それは羨ましい限りですね。私は本当にもう、最初は自分で作った会社なのに、今ではすっかり部下たちが勝手に動かして、私はただ一日座っていたり、日本国内ではハンコウを押したり、アメリカではサインをしたり、交渉に行ったり、財界人や政界の人たちと会食につきあわなくてはならなかったり、それなりにぎっしりスケジュールは詰まっているのですが、私はそういう日常から全然違った視点を得たいと常々思っておったのですよ。どうでしょう。私とあなたは瓜二つだ。一回一年契約で私と入れ替わってみませんか?」
遂に来たという感じも、実は後から考えるとあったことはあったのだ。と言うのもこの男沢柳はその業界では知られた男であることが私はあの奇妙な業務をし始めてから、二ヶ月くらいたった頃ネットで調べて私は知っていた。しかしアメリカは彼くらいの実業家は五万といるのだろう。だからそういう激烈な市場競争の中で、彼も一人の孤独なビジネスマンであるに過ぎなかったのかも知れない。しかし私はその時は意表を突かれて
「しかしまた何をおっしゃられるかと思っていたら、一体それはどういうことですか?」
と私は礼節を失わない程度に慇懃無礼にそう聞き返すと
「実は私は今の生活を一回変えてみたいとずっと思っていたのですよ。そこでどうでしょう。私が指導いたしますから、私の言う通りに行動を採られて、一年過ごしてみる気は御座いませんか?」
私はその時一回深呼吸をして自分の気持ちを整えた。そして再び聞き返した。
「そう言われましても、私は社長のような業界のことに関しては全然知りませんからね。」
すると沢柳は笑顔を示しながら
「全く御心配には及びませんよ。あなたはしっかりとした方でいらっしゃる。つまりあなたは忍耐力と創造性に富んだ方だと私はお見受け致しました。」
そう言うと、私が困惑している表情を和らげようとして再び間を置いてから
「私は日々情報の渦の中におって、数値だけが踊り狂う世界に生きてきたんです。そこで私費であなたにちょっと変な仕事をして貰ってきたというわけですよ。つまり全ての情報をシャットアウトすることで、しかもそれを長期間過ごすことでその人間にどんな変化が訪れるものなのか、それも知りたかった。しかしどうもあなたを見ていると、健康そうだ。あなた御自身も、どうやらそういう退屈な時間を過ごすのに、工夫なさって充実した時間に変える力もお持ちになられているようです。そういう意味で私はあなたなら一年くらいなら私の替え玉として生活されても大丈夫だと踏んだんです。」
と悪びれもせずに沢柳はそう一気に捲くし立てた。
「どうでしょう。私は明日あなたに誰にも知らせていない山荘に来て頂いて、そこで私の部下のプロファイルをお見せしますし、私の日常的な業務内容も細かくお教え致します。それを踏まえてあなたの一存でこれから一年だけ私の替え玉として生活なさって頂きたいのです。」 
あまりにも突拍子もないことを言い出す沢柳に対して私は肝心のことを問い糺そうと思ったのだ。
「では社長さんはどうなさるのですか、その間。」
 しかし後から考えればその口調は既に沢柳の策謀に加担することを表明したも同然のものだった。すると沢柳は
「私は以前からずっとあなたのことをカメラで時々見させて頂いて、憧れておったんですよ。つまりね、何にも考えないで過ごすことの人生における貴重さというのかな、それを私も欲しくて、それに私にはずっとしたいと思っていたことも他に沢山あったんですよ、それを全部犠牲にして今まで生活してきたものですから。」
しかし私はそれ以上社長のプライヴァシーに差し障ると思って聞くことをよした。それにしても正直言ってまさかそういう展開になるとまでは予想していなかった。しかしこれで沢柳が自分とそっくりの私を雇った意味は判明した。つまり私の顔が彼とそっくりであるということで親近感を抱いて私を雇っていたのではなく、あくまで彼は自分とそっくりの男を雇うのでなければ意味がなかったのだ。そして彼の目論見は成功したということになる。私がそれ以降巧く替え玉を演じ続けられる限り。
 
 翌日私は社長に昨日帰宅後にメールで指定された昨日のイタリアンレストラン(結局コーヒー一杯でその店を私は後にした。社長も何も注文せずにあれからすぐ私と一緒に店を出てそこで別れた)のすぐ脇の駐車場の路上にいた。社長からのメールだと十一時にそこにいてくれれば、ほどなく車で迎えに来てくれるとのことだった。そこから彼の隠れ場に直行することになっている。私はこういう展開になるとは思いも拠らなかったが、同時にどこかではそういう展開になっても面白いという気持ちも手伝って、ああいう仕事を引き受け、その契約終了後も社長に呼び出されたらそそくさと出向いて行ったのに違いなかった。人間には好奇心というものに誘発されて出る行動も多分にある。そしてその誘惑がよく作用することもあれば、全く逆の場合もある。今の私は一体そのどちらなのだろう。そう思った。
 社長は私が駐車場に着いた時刻である十時五十分から少したった、十一時二分くらいに今度は比較的遅刻せずにその場に四駆で現れた。クラクションをしたのですぐ分かった。昨日はあまり人通りの少ない路地にあるレストランで、しかも昼休みを取らない店で一番客の入りの悪い時間帯だったので、素顔で現れたが、その日はサングラスをしていた。未だその駐車場付近は人通りが多かったからだ。そして私は社長に促されて助手席に乗った。車を出すと社長は車を東京都に向けて走らせた。比較的その時間帯渋滞には巻き込まれずに済んだ。都内に走らせてからほどなく青梅を抜けて、道路は曲がりくねった感じになってゆき、臼杵山を左にと馬頭刈山を右に挟まれた山道を抜けていくと、秋川渓谷付近を通りかかり、やがて右に臨める檜原村諸共、甲武トンネルを背にして東京都共々別れを告げると、山梨県上野原市に入った。そこをまっすぐ行くと三キロほどでY字路に突き当たり、それを右折すると左に鶴川を見下ろし二十キロ弱走ると、小菅村に入り、左折すると葛野川ダム及び深城ダム方面である。しかしそちらへは行かず、鹿倉山を前方に臨み、更に三キロほど行くと沢柳は左折した。そちらは白糸の滝方面である。更にその向こうは雄滝である。右にサカリ山を臨みやや行くと近辺には何も人家らしきものは見当たらない感じの県道になり、その道で白糸の滝にまで行かない手前で地図にも出ていないくらいの細い山道に入った。そこからほどなく鬱蒼とした茂みの中腹に小さな山小屋が見えた。そして沢柳は私をその玄関下に停めた車から私を降ろし、山小屋の玄関に行き鍵をポケットから取り出し中へ招き入れた。中はあのレストランの時の印象と同じで、意外と広く感じられた。
  室内には小さな暖炉があった。そしてその上方に額縁入りで油彩画が飾られてあった。見たこともない画家の作品だった。しかしよく田舎の民宿にあるような安い風景画ではなく、程よいセンスのコラージュ風で半抽象的装いの風景画であり、山と川が描かれているということだけは理解出来た。山小屋の内部は洒落た感じの山荘のようだったが、ふとベランダの方を見ると、外には薪が積んであった。恐らく中の暖炉のために沢柳が集めてきたものだったのだろう。
 沢柳は中に私を入れると徐に押入れから何かを取り出そうとし始めた。それを見て私は押入れの奥の方に手を突っ込んで取り難そうにしている彼を手伝って、手前に入れてあるものを一旦取り出し、奥から社長が取り出そうとしているものに手が届き、それを彼が手前に引っ張り出して外に出たら、それまで出していたものを再び元の場所に戻した。沢柳は自分で取り出したファイルを私に見せ
「こいつはあなたに私になり代わってもらうために必要なあなたが覚えるべき事項の全てが載っているんです。」
とそう語った。そしてファイルを開いて
「これが私の部下たちの顔写真です。」
と言って最初のページに挟まれた顔写真を私に示して
「これが副社長のジェームス・クラーク、四十三歳です。この男は趣味がゴルフ、絵画コレクション、そして中国陶器コレクションです。そしてこの男はあなたが社長になったら、いつも傍にいてくれると思いますが、もう一人の副社長のマイケル・ストーンランド、三十八歳です。会議では常に司会もしています。私たちの社では毎月一回は課長クラスまで全員出席する会議を行っているのです。」
そして彼は次のページを捲り、
「これが日本支社長兼本社専務の川上節夫、五十歳です。この男は趣味がワイン、切手収集と世界中の警察官のバッジを集めるのも趣味です。彼は主にポータルサイト運営業務を担当して貰っています。」
と彼は次々と彼を取り巻く人間関係について私に教授した。そして最後にそのファイルとは別に自分の胸ポケットから取り出した顔写真は白人の女性の写真だった。そして彼は
「この女性は私が社長に就任してから初めて訪れたフリスコ(サンフランフリスコのアメリカ人の呼称)で会食したあるレストランで呼ばれたコンパニオンの女性で、私が在職中休暇等で唯一私と行動を共にした人です。名前をヴェロニカといい、ヒスパニックです。」
私は社長が一体何を言おうとしているのか俄かには判明しなかったので、彼に
「えっ、と仰いますと?」
と伺った。すると沢柳は
「つまり私の愛人です。」
と素っ気なくそう言ったので私は急に度肝を抜かれたような感じの表情で彼に
「愛人の前でまで私が替え玉になるって仰るんですか?」
すると悪びれもせずに沢柳は
「それくらいしなければ、あなたが本当の社長であるという風に世間は信用しないですからね。」
と言った。
「でもそれでも社長はいいんですか?」
と私が確認すると
「ええ、それくらいしなければ私は私が今まで立たされてきた立場から身を引いた時どんな心持でいられるかということを知ることは出来ませんからね。この際徹底してやった方がいいし、あなたにもやって貰わないと。敵を欺くにはまず味方からって言いますからね。」
と断言した。
私はその山荘で過ごした時間から、奇妙な仕事で多額の報酬を得ることで、それまで多少薄れかけていた世界そのものが、あるいは生活そのものが虚構めいて見えるという感覚を再び取り戻している自分に確かに気がついていた。世界は向こうから自分に語りかけてくる、「俺は造られたものだ。」と言いながら。そして世界が私を見つめる。「俺がお前を造ったのだ。しかしお前が俺を造りもするのだ。」そう言いながら。
 沢柳社長は次第に私へと社長のポストを譲り渡すために、私に対して社長の自覚を持たせるために言葉遣いをも私に敬意を表明するかの如く振舞った。そして自分はまるで退役する軍人ででもあるかのように謙って私に接した。まるで王室教育をする家庭教師のような雰囲気になっていた。そしてその態度から私は彼が本気で一年全く仕事を放棄して、私に託そうとしているのだな、と思った。そしてそれは本当にリタイアする気のように見えたが、私はそれ以上の真意をその時読み取ることは出来なかった。ただ多少愛人まで私に引き継がせる気でいることの真意に、ひょっとしたら別の愛人が出来たからではないかとも思いもしたが、それは勘違いかも知れないと思い直そうともした。そして写真で確認出来るものと現物とはまた多少異なることもある、実際彼女がどんな女性であるのか多少不安にもなった。そして沢柳は私にベッドでの会話の傾向から癖まで私に教授したし、自分の公になっている趣味についても教えてくれた。しかしそのことはある意味では彼が非常識な提案をする私にさえ隠している趣味もあるのだ、ということを暗に示してもいる気がした。そうである、このように私に一年間全てを委譲することが最も大きな趣味であると言えるからだ。
 全ての指南をし終わってから彼は私に色々と過去の自分の経歴を語った。それは苦労に苦労を重ねた末のアメリカでの起業だったのだ。しかも彼は大学も中退し、いきなり渡米して、向こうでネットビジネスのいろはを学んだと言う。
 そして沢柳は私に一月に一回は電話で指示すると言ったが、自分で経営してゆく自信が出てきたら、必ずしも自分の指示に従わなくてもよいとまで言い切った。その時私は彼がまさに本気で私にこの仕事を託して自分は違う生活を手中に収めることを考えているのだな、と思った。しかしある意味でそれまでの一年間はあくまで奇妙な依頼ではあるが、仕事は仕事だったと言える。しかしこれから社長が私に命じる(?)業務は替え玉という明らかに法的には逸脱する行為なのである。それを私も沢柳も承知の上でこうして私は社長の秘密の山荘において指示を受けてきたのだ。そう思うと、私は何度かその前日いたイタリアンレストランで彼から依頼内容を聞いた時から怖気のようなものが背筋にぞくっと走るのを感じ取っていた。前日の夜は興奮して眠れなかった。そしてそういう興奮をどこかで楽しんでいる自分を発見することもまた、一つの驚きだった。
 沢柳は私がいつから替え玉になればいいのかと尋ねるとすかさず
「明日からですよ。」
と言い放った。私は一応全ての指示と教示を終えた後、
「後はまた連絡して折々不明瞭なことに関しては色々お教え致しますので、今日は私がまたあなたを乗せたところまでお送り致しますので、車にお乗りになってお待ち下さい。」
と言う社長に言に従って、その山荘まで乗ってきた四駆に乗って社長がサングラスを再びかけて、さっきまでの服装を着替えてジャンパー姿になって室内から出てきたのを確認した時まで、私は社長には報告せず、勝手に社長の秘書の米国人サリー・フィッシャーにメールをした。勿論社長から既に室内で手渡されていた私用のノート型パソコンからである。社長は先ほど私に言っていたのだ。社用でサリーと離れている時彼女の誕生日ならメールで祝いの言葉を送ると。だからサリーの誕生日が今日であることを私は社長から見せられたファイルから気がついていて私は自分の判断で誕生祝のメッセージを送ったのだった。私はその時からすっかり沢柳になり代わり、社長の気分になっていた。
 私を山荘で乗せ沢柳は私を乗せたところで下ろした。車中では私はその山荘に来る時にも、帰りに沢柳が送ってくれた時にも私の方からは一言も発することはなかったし、社長もまた私に何か語ろうともしなかった。そして明日渡米するための飛行機のチケットを沢柳は私に手渡した。その成田発ロサンジェルス行きの飛行機は勿論ファーストクラスのもので日付は翌日になっていた。尤も沢柳は普段エコノミーを利用すると言っていた。予めインターネットか電話でチケットを予約していたのかも知れない。沢柳は私を下ろししな次のように言ってすぐ引き返した。
「すぐ慣れますよ。御健闘をお祈り致しております。また何かあったら連絡致します。」
 またあの山荘に戻るのだろうか?私は向こうから語ることを聞き入れる以外は一切こちらかは質問しなかった。それが替え玉の替え玉らしいマナーというものであろう。

Sunday, October 4, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>②

 翌日私は昨日のあの突然の佐橋からの電話の着信から数時間後、不可解な氏からの依頼の仕事をする部屋のあるビルを指定したメールを受け取り、それに従い、東京から小一時間くらいで到着する埼玉県のある市の中心街からやや外れたあるあまり目立たない雑居ビルに赴いた。昔小説家になろうかと思って過ごした学生時代アンケート調査員の仕事をしていたことがあった。その頃はまだインターネットなど普及するよりずっと前の時代である。その頃アンケート用紙を配る個人宅を指定した書面を見ながら、知らない土地を随分歩いた経験があったので、比較的初めて指定された場所を見つけるのは苦労せずに済んだ。こういう時若い時にしていたことというのが役に立つことがあるものである。
 メールにあった部屋番号を四階の目立たない、しかし表通りに面した角の部屋だった。ドアのノブに手をやると簡単に開き、中に入れた。中に入ると、室内はビルを外から眺めていた時に想像していたのよりも広かった。しかし中はいたって殺風景で、中央よりもやや手前のドアに近いところにデスクが置かれていて、スタンドがそのデスクに据えつけられ、その脇を見ると、そこには冷蔵庫が置かれてあり、その中を覗くと確かに弁当(どこか近所の弁当屋に運ばせたものらしい)が入れてあり、その冷蔵庫の隣には佐橋の言った通り、電子レンジが台の上に載せてあった。要するにこれで暖めて弁当を食べよ、ということであろうと思った。窓は全部ブラインドが降ろされていた。しかしこれを上げてはいけないのである。そして壁を何気なく見ると、確かに監視ヴィデオが据え付けられている。
 九時になった。私はそれまで室内をまるで受験生のように落ち着きなく歩き回っていたが、私はデスクの置かれた椅子に座った。その椅子は比較的座り心地がよかった。そうでなくてはこれからずっとただこうして座って時間が来るのを待つだけなのだから困る、そう思っていると、眠気が襲った。最初の二十分くらいはただ座っていて何もしていなくても、色々なことを想像するだけで時間は過ぎて行った。しかし自分の腕時計を見て、一時間くらいたった頃、ふとデスクに腰掛けた後ろ側の壁にかかっている時計を発見し、自分の腕時計と同じ時刻であるかどうか確かめると、やはり同じ十時であったが、その頃から少しずつ眠気が襲ってきたのだ。
 人間は何かしていれば眠くなることはない。やがて眠気はどこへやら吹き飛ぶものである。しかし何もしないで一日こうしてこんな退屈な室内に閉じ込められれば、やがて眠くなるのは必定である。しかし眠ってはいけないと佐橋は言った。それはそうだろう。こうしてじっとしていることだけが業務なのだから、それこそただ寝ているだけなのだったら、あまりにも一日百万円という報酬は法外である。それにしてもあと数日立てば、私の口座に五十万円だけ前金として振り込まれる。その前金を確認してから第一日目の出勤だったら、もっとよかったのだが、実際本当に一日百万円も払ってくれるのなら、そんな横着を言っても失礼というものだろう、とあの時にはそう思い、「えっ、五十万円を確かめる前に出勤日ですか?」などとは質問出来なかったことを多少悔やんだ。しかしもしその五十万円が振り込まれないのなら、その時、ことの全てをブログに書き込む積もりでいたので、私は色々湧き上がる疑念を抑えて、その日は兎に角一日何もしない業務を遂行することに決めたのだった。
 しかしそれにしても何もしないでいた場合、どれくらい耐えられるかということを最初の一日は試してみようと私は考えていたので、その日は例えば佐橋が言ったように紙を持ってきて何か絵とは文章を書くということをすることすらしないようにしたのは後で考えれば正しかった。と言うのもそれまで兎に角紙に文章を書くことと、それを基にパソコンに入力するためにワードの画面に向かうこと、そして出来上がった翻訳をメールで添付発信することとか、郵送することに明け暮れていた毎日だったので、私は一日でもそういう枷から外れた経験がしてみたかった、から私はあの時佐橋の奇妙な申し出を引き受けたのだった。
 そして佐橋の言う通り私が初めてその部屋で何もしない業務を遂行してから、四日後に五十万円の入金があり、私は取り敢えず佐橋の言ったことを信用することが出来た。そしてそれまで一日ただ座って時々タバコを吸ったり、欠伸をしながら背伸びしたり、壁の時計を眺めたり、それほどきちんとしたものではないものなら冷蔵庫に入れておいて何か食べ物を買ってきて後で取り出し、休憩時間外にも食べたり、買って来てデスクに置いてあった煎餅を一つか二つ缶茶やペットボトルの茶を電子レンジで温めて飲んだりして過ごした。
 しかし入金があって、それまでは何もしないで一日部屋の中で過ごすことがいい加減うんざりしたこともあって、全然勤務時間外には自宅でテレビを見たり、ネットサーフィンをして楽しんだりする以外しなかったのだが、その五十万円を使って休日には遠くに出掛けることもするようになったし、一泊旅行も二、三回くらいはした。
 そして何もしないで過ごすことも一週間くらいで飽きてきたので、私は翌日、つまり八日目以降、スケッチブックとノートを持ち込み、その日に室内で何もしないでいる時に考えたことをメモするようになった。それは椅子に座ってブラインドの下りた室内を見回していた時に感じたこと、考えたことの全てをそう感じたり、考えたりしたことをメモしだし、やがてそれは文章の形になって日記的なものになったり、あるいはその時々の室内にいる自分の姿をイラスト調で描いたりしたものと形を変えていったのだった。
 そうこうする内に私の最初の給料振込み日になった。そして月の途中から勤務し始めたので、大体二週間くらい働いたので、私の口座にはたったそれだけの日々だったのに、凡そ一千万円が入ってきた。その金を貰った頃から私はその何もない部屋でただ居眠りしないで、何もしない勤務以外の時間が徐々に重要になっていった。つまりそれだけの大金が今までにないやり方で入る方法を獲得したので、それだけの大金を何かに有効に使うということに非常に大きな意味が出てきたのだ。そこで私は貯金を幾箇所かの金融機関にするために口座を新たに設け、収入の半分を常にそちらに回すことを考え始めて実際に実行した。そして半分は毎日の生活費と、仕事以外の時間を有効に過ごすために利用した。
 私は元々チームでする仕事を中心にしてきた人間ではなかったので、一人でただ何もない殺風景な室内で何もしないで過ごすということはそれほど耐えられない仕事でもなかったのだ。ただ最初の頃は何でこんな奇妙で不可解な依頼を佐橋と名乗る男はしたのか、そればかりを考えていた。しかもこれは何か重大な犯罪の一端ではないかとさえ勘ぐった。しかしいざ月々の報酬がその都度振り込まれ、きちんと約束が果たされていることを確認すると、次第にそういった疑念は消滅し、代わりに余暇の時間の過ごし方を有効にしようという気持ちの方が大きくなって、未だに一度も会ったことのない佐橋と名乗る男の正体を突き止めたいという気持ちすら薄れていった。
 そして私は半年そういう生活を経験すると、次第に一切の疑念を抱くことすら忘れてしまって、今の生活に満足するようになっていった。
 そして久し振りにあの伊豆倉の経営するギャラリーに行った。今の仕事で安定した収入を得ることが出来るようになったのも元はと言えば、伊豆倉のお陰である。そのことを最初は正直に報告しようと思ってギャラリーに足を運んだのだが、ギャラリーに近づくにつれ、私はその気をなくしていた。と言うのもそんな変な仕事を得ることが出来たと、正直に彼に報告したら彼に「そんな仕事怪しいですよ、辞めた方が身のためなんじゃないですか?」などと言われるかも知れなくて、それが嫌だったからである。もうここまで来て、しかも随分そのことのお陰でいい収入を得ることが出来て、その生活に満足している自分にわざわざ自分から水を差す必要などどこにあろう、私はそう思ったからだ。そしてギャラリーに入った時、
「ああ、金城さん、お久し振りですね、どうですか仕事の方は?」
と伊豆倉が私に質問した時、私は咄嗟に
「うん、翻訳の仕事でかなりいい仕事が入って、いい生活させて貰っているよ。」
と私は適当に嘘をついた。そして色々な最近の美術界の世間話をした後、ふと思い出したように伊豆倉が
「ところで大分前に私があなたに勧めたあのブログ見ましたか?」
と聞いてきたので私は
「うん、見るには見たよ。」
と気のない風を装い、そう返事した。すると伊豆倉は再度私に
「それで申し込んでみましたか?」
と聞いたので、私は
「いや、何か怪しいから止めたよ。」
とだけ答えた。すると伊豆倉は
「私は申しこんだんですよ。」
と言った。私はわざと
「それで採用されたの?」
と聞いた。伊豆倉は首を横に振った。
「採用通知は来なかったですね。」
と言った。私は彼がそう言うことを知っていたが、あたかも
「それは残念だったね、でもああいうのって危ないよね。」
とさも触らぬ神に祟りなしのような感じで返したが、実際その神に触っているのは自分なのだ。そして久し振りに絵を、しかもそう安くない奴を買おうかと思って
「例の棟方の板画はあれからどうなったですか?」
 と伊豆倉に聞くと彼は
「ああ、あれならまだありますよ。」
 と答えた。私は
「最近ちょっと収入があったもんでね、あれでも買っておこうかなと思って。」
 と言った。それはそうである。私はその時あの奇妙な仕事を始めてから大体半年たっていたので、一億円以上の収入があったのだ。そして今度の確定申告にはどういう業務で報告すべきかということもそろそろ考えていたところでもあったのだ。だから私は
「確か百四十万円くらいだったよね、あの棟方は?」
 と伊豆倉に確認した。
「ええ、そうですよ、でも随分景気がよろしいんですね。」
 と伊豆倉は少々びっくりした様子で私にそう言った。以前数枚このギャラリーで絵を購入していたが、せいぜい数万円から二十万円くらいの絵だけだったからだ。このギャラリーは絵画に関しては信用があるだけでなく、庶民が購入するには比較的良心的な値段で経営していると常々私は思ってきた。通常もっと高くふっかけてくる悪質とまでは言えないけれどちゃっかりした画商というものは大勢いる。絵の値段というものは相当なブランド力があっても、普通の日用品などと違って殆どあってないようなものである。例えば本当にその絵を愛している人にとってはその絵に無関心な人では考えられないような値段でもそれを何が何でも欲しいと思う、そしてそういう人たちだけが値段を吊り上げるそういう世界である。
 結局伊豆倉のギャラリーで私はそれから数十分世間話をして、その棟方の板画を購入して、伊豆倉に久し振りに絵画を購入したことを感謝され、ビールをご馳走になり、お暇した。
 私の生活は一変した。生まれてから世界そのものが虚構めいて見えたその感慨はその頃までもなくなってはいなかったが、その大仕掛けの世界という作り物が、まるで自分のために回っている、そんな感じがしてきたのだ。休日は近場ではあるが、日帰りか一泊二日くらいでサイパン、グアム、チェジュドウ、台湾、シンガポール、香港といった場所に出向いて、カジノで遊んだり、優雅な生活を享受したりするようになっていた。日本国中を旅行した。
 そんな頃のことだった。丁度何もしない業務を始めて七ヶ月くらいたった十一月の初旬くらいに私の携帯に着信したメールに意外な内容を私は見た。それは私に今の仕事を依頼して、未だ一度も顔も見たことのない佐橋からのものだった。
<一度あなたとお逢いしたいと思っているのです。明日あたりあなたの職場に行きたいのですが、よろしいでしょうか?>
 とあった。よろしいも何も、私の方から逢えるものなら感謝の意を一度伝えなければならないと思っていたところだったのである。考えてみれば、何もしないで一日室内にいて、その退屈さと格闘することが億劫だったのは、最初の給料が入るまでのことだった。つまりもしこれだけ退屈な思いをして何の報酬もなければ、どうしようという不安もあったからだ。しかしまず四日後に例の五十万円の前金が支払われた。その段になって俄然私にとって佐橋の謂いに対する信頼感は高まり、やがて一ヶ月過ぎきちんと最初の約束通り百万円が私の口座に振り込まれた。その時から私はこの仕事はそう容易には辞められないぞ、という気持ちに切り替わり、次第に佐橋なる人物の顔が全く見えないということの不安もどこ吹く風となり、私はそういう奇妙な自分の運命と奇妙な仕事との巡り合わせそれ自体を当たり前の日常として引き受けるようになっていたのだ。慣れとは恐ろしいものである。それがどんなに奇妙奇天烈なものであっても尚、人間は順応出来るのだから。
 翌日になった。その日は月曜日だった。昨日久し振りに訪れた伊豆倉のギャラリーで購入した棟方志功の板画を室内のかつての私の翻訳業務室の壁に飾ってそれを見ていた時に、伊豆倉からのメールが入ったのだった。
 私の住む城下町から三十分くらい電車に乗って着くその街の中心から少し離れたそのビルに一旦入ると、夕方まで一切昼休みも外出を禁じられているので、私はそのビル周囲ではあまり親しい顔見知りは出来なかった。そもそもあまり人通りに多くない一画にそのビルがあったということも手伝って、私がその街の中心にある駅に降りたこともそれまでは東京に出るためにその駅を素通りするだけのことだったので、殆どなかった。しかし一旦そこに勤務することになると、私がその街で知り合う人と言えば、いつも利用する市の中心に位置する駅のキヨスクのおばさんや駅ホームに設置された蕎麦屋の従業員たちくらいだった。私が通り過ぎると会釈してくれる従業員もいた。そのスタンドの蕎麦屋で私は時々帰宅時に、電車がすぐ来ない時には(と言うのも時々駅前のパチンコで時間をつぶすこともあったからだ)帰宅してから炊事するのが面倒なので、よく利用して立ち食い蕎麦を食べることがあったからだ。
 私はビルに入ると、勤務時間が始まる九時になるのを腕時計と壁の時計とを見比べながら待った。それまで一服しようと思ってタバコを吸っていると、ドアのノブをいじる音がしたので、私はそちらの方に振り返った。するとドアを開ける背広姿の紳士が眼に入った。 
 その瞬間私は凍てついた。と言うのもその紳士がまるで私を鏡で見るように私とそっくりの風貌だったからである。世の中には自分とそっくりな人が三人はいる、いや七人はいるとも言われる。しかしここまで私と瓜二つである人物に出会うと、内心私は心穏やかではなかった。
 「佐橋と申します。と言いましても、そう名乗らせて頂きましたけど、本名は沢柳と申す者です。向こうで私が日本語の通り沢柳静雄と早口で名乗るとサハシーと聞こえるそうで、だから私は佐橋と名乗ることも多いんです。」
 とそう名乗る佐橋と自己紹介した社長が私に握手を求めてきた。私は右手を差し出す沢柳に対して右手を差し出した。そして握手すると沢柳の暖かい体温が伝わってきた。
「驚かれたでしょう?」
 と言う沢柳は自分の容姿が私とそっくりであることを言っているようだった。
「でも、一体私の方こそ色々お世話になっているので、こちらからご挨拶申しあげなければならない、と思っていたのですが、そちらの連絡先が一切分からなかったものですから。」
 と私がそう言うと、沢柳は
「いえいえ、そんなことはお気になさらないでいいんですよ、大体こんな変な仕事をあなたに依頼したのは私の方なのですから。」
 と言った。
「でもどうしてこんなことを私にさせて、しかも高額な給料をお支払いになられたんですか?」
 と私は逸る気持ちを抑えきれず、そう質問していた。
「いあや、でもあなたが予想以上にこういう退屈で気が滅入る業務を半年以上もしてこられたのに、お元気で、溌剌としていられることにはほっと致しました。」
 と沢柳は言ったが、私はどうも腑に落ちなくて聞いていた。
「一体、それはどういうことですか?」
 すると沢柳は
「私は実はIT関連のつまりウェッブ2.0から3.0の業界トップのCEOなのです。本店はアメリカにあり、今は日本からも大勢社員を抱えています。それでね、私は毎日殆ど分刻みに行動し、仕事のスケジュールがぎっしり詰まっているのです。そこで一度私のような人間がもしいきなりそういうスケジュールの網の目から開放されたら、どういう風になるか試してみたかったのですが、何せ周囲がそれを許してはくれない。そこでどちらかと言うと忙しい仕事をなさっていたあなたのような方をこういう何もしないで一日過ごすような業務に就いて頂いて、その結果どのような精神状態でいることになられるかをどうしても確かめたくて、あなたに無理にこういう業務をして頂いたというわけです。」
私は沢柳の言うことが今一つ掴めないままでいたのだが、ぼんやりとではあるが、彼が多忙な毎日を送っており、そのことから開放されたいと考えてだけはいるようだとは理解出来た。
「こんな単純な業務で高額な報酬を私ごときに社の方は大丈夫なんですか?」
と聞くと、沢柳は
「いいえ、この依頼に関しては私的な試みですので、あなたにお支払いする給料も全部私の私費で賄っていますので、そこら辺は大丈夫です。しかしこれは心理学実験というよりは、私の将来にかかわる重要なことなので、でもご安心下さい、私の一存であなたはこうしてある意味では辛いお仕事をして頂いているわけですから、当然不労所得であるわけは御座いません。ですからきちんと一個の業務として会計処理して、あなたの確定申告にも余計な税負担をかけないように致しますから。」
と言ったので、私は多少安心した。しかしこの男は一体全体何を考えているのだろう、という疑問は残った。そんなことを思い巡らせていると、沢柳は
「では、私は今日これから会議が御座いますので、失礼いたします。業務にお入り下さい。」
と言ってそそくさとドアを開けて外へ出て行った。そうである、私はこの業務を未だ後最低五ヶ月は続けなくてはならないのだ。そして一年の契約が切れた段階で、次の職を探せばよいのだ。尤もこの仕事を見つけるまでのようにあまり焦らなくても、何とか当分は食っていけるのだが。
 そしてそれまで私はここ三ヶ月くらい日記を書く量が凄まじい勢いで増えて手記のようなものだけで十数冊分に達していた。主にこの異常体験を綴った手記であった。兎に角ここで座っている八時間の間中一切の外部との交信を持ってはいけないのである。そういう意味では監禁生活とも言えた。だからまさにドストエフスキーの「地下生活者の手記」のような幽閉された生活を享受しているかの錯覚に陥ったのだ。しかも完全遮断ではなく、一定の時間内だけの遮断である。それ以外は通常の生活であるということがより一層異常事態が自分の身に降り掛かっているという錯覚を強くしたのだ。しかしその沢柳の来訪という一件があった時より、今度は自分の意識の流れを綴る手記の内容が、がらりと様相を変え、今度は沢柳という人物に対する疑念とか懐疑といった思念によって埋め尽くされた。私の手記は十数冊目から内容や心理的様相の一切を変えたのだった。
 私は沢柳が個人的理由でこんな変梃りんな仕事を誰かに依頼するということの真意が掴みかねた。しかし少なくとも求人応募に写真を必須としていたのも何か自分とそっくりな人間を探すためだったのかとも思ったし、またそれはただの偶然、つまり自分とそっくりな男を探していたのではなく、そっくりな男だったから親しみを覚えて私を採用したのかも知れないとも思った。しかし私に逢いに来た時、私が忙しい職についているから雇ったと言ったことを私は覚えていて、それが一体何を意味するのかも散々考えた。しかしその理由はずっと解明出来ないままでいた。ひょっとしたら沢柳は精神衛生に関する心理学のレポートでも書いて博士号でも取る積もりなのかも知れない。しかしそれにしては手が込んでいる。そういうしっかりとした理由があるのなら、何もわざわざヴォイス・チェンジャーを使ったり、半年以上も一度も自分の姿を見せないでいたりすることもないだろう。その理由がさっぱり分からない。
 しかしそうこうする内にまた数ヶ月たち、丁度私が契約した一年の期限が切れる頃になった。そうなれば最早自分が今までのように都合よく、何もしないで大金を手にすることも出来なくなると、当初訝しい思いを抱いて始めたのにもかかわらず、一旦楽をして大金を手にする味をしめた以上その生活が脆くも突き崩されることに対する恐怖に慄くようになっていたのだった。そんなある日今度は沢柳という名義で、十二ヶ月目の最後の給料が振り込まれた翌日に私と逢いたい旨を彼はメールで送信してきたのだ。
 その日になるまで私は毎日土日、祝日以外はただ只管昼食の時間だけを楽しみに、いつものように室内の壁やブラインド、冷蔵庫や電子レンジを眺め、思いついたことを十五冊目となったノートに書き綴り、その時の仕事を辞めた後の自分の未来に対して夢想していた。しかしそのメールを眼にした瞬間私はとうとうこれで今までしてきた退屈ではあったけれど、毎月初め五日の給料の振り込みが楽しみだった生活から別れを告げなければならないということに未練が出てきたのだった。いざそうなると今度はどんな仕事を探そうが、翻訳業務を再び始めるかとも思ったが、一旦こういう奇妙な仕事に慣れると以前ちまちま翻訳をしてかなり大きな仕事でも十数万円から数十万円くらいしか稼げないような毎日に舞い戻ることに恐怖すら覚えるようになっていた。その時それまで沢柳が自分に対して変梃りんな仕事を依頼してきて、それに応じて結構いい報酬で満足していた自分が少し惨めに思えてきた。これが逆の立場だったらどんなに優越感を感じて生活出来ることだろう、とまで思った。
 沢柳のメールの内容は、その日から丁度一週間後である十一月六日に五日で給料が払いこまれ、その前日が最終日と最初に業務を行う部屋があるビルを指定していたメールに指示して決められていたので、最終業務日の二日後にそのビルから一キロくらい離れた場所にあるイタリアンレストランで待ち合わせるというものだった。丁度昼時の三時半に沢柳は時間も指定してきたので、断る理由もないし、また大金で自分を雇ってくれた恩人でもあるので、それに従う意向のメールを返信したのだった。いざ今までしてきた不可思議な仕事でも、もうこれで終わりだと思うと、この仕事を見つけるまで翻訳業務を一生続けるべきか悩んだり、友人の伊豆倉に相談したりした頃や、ひょんなことから自分以外誰にも知らせていない業務で結構翻訳を必死でこなしていた頃よりもずっとリッチになっている今の自分にとって、ビルの一室で一日何もしないで業務終了時まで過ごすだけの一年の間に色々考えたことそのものを思い出し、それまでの締め切りに追われた毎日とはがらりと変わった一年だったけれど、それら人生のある一時期のプロセス全てが懐かしく思われた。恐らく今後一生の間で私に残された時間の中で沢柳が私に依頼したほど変わっていて、しかも高額な報酬を得ることが出来る仕事はもう二度と巡り合うことはないだろう、と私は思って、最終日である勤務日をいつものように過ごすと、自宅に帰る前に、この一年過ごした街にある一度でも帰宅前によった店全てを一軒一軒訪ね、何か一品頼んで食べたり、飲んだりしてこの街との別れを惜しんだ。沢柳が指定してきたレストランに明後日来ることになっているが、その店はビルのある一画から一キロくらいあるので、一度も訪れたことなどなかった。

Thursday, October 1, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>①

 本当は沢柳という名であると私が知らされたその男から来た新たな依頼を受け取った時私は未だそれほど深刻にはそれ以後の人生が急転直下して行くなどとは思いもよらなかった。

   ★

 私はこの世に生まれてからかなり早い時期から今までずっとある考え、と言うか感覚的な印象に支配されてきた気がする。それは人間社会の現実は言うまでもなく、大自然や我々の周囲に散見されるあらゆる人工的ではない現象までが全て虚構であるかのような感じ、つまりフィクションとしてしか全ての事象を捉えられないという一種の病的な感覚である。
 私はそういう自分の性向からか一度は小説家を志したこともあった。しかしどんな奇抜な小説を書こうとしてもそれはいつもどこか空しいという感じを拭えなかった。要するに何を試してみても、心から自分が創作する世界に満足出来なかった。それは私が私の頭の中で組み立てようとしてきた世界があまりにも現実に起こる現象や、自然、あるいは社会全体の動きとかいったものたちよりも陳腐なものにしか思えなかったからである。つまり現実に起こる全ての方が常に私の精一杯力を込めて創造した世界よりも勝っており、しかもそれら全てはまさに予定調和的フィクションの世界に見えたのである。それらの虚構性は常に凄く迫力を持って私に迫ってきた。私はある意味では私自身の身体と精神の全ての観点から私自身の存在が私の心を離れた一種のフィクションのように感じながら生きてきた。そういった私自身の感慨から私はほどなく文学的創作の世界から足が遠退いていった。
 私が小説家を目指していた頃はしかし学生時代であり、実際に何か仕事をして飯を食うという必要性もそれほどなかったのでそういう試みが出来たのだが、私は大学を卒業後、大学に張り出されていた一切の就職情報を見て選ぶことなく、大学で学んだこととは全く関係のない水商売の世界に足を踏み入れたのだった。それは文学から離れるには絶好の環境にも思えたからでもある。つまり私は都市という虚構そのものの渦の中に身を置くことによって寧ろ世界全体がフィクションであるという感じそのものを追い出したかったのかも知れない。それらはレストランの調理場で皿洗いをしたり、キャバレーでウエイターをしたり、要するに汗を流し、若い肉体を生活のために奉仕させることだったのだ。都市の片隅で生きることは、昨今のような劇場型社会の片隅で生きることが楽しいと感じる今風の多くの若者の走りだったのではないか、とさえ最近では思える。しかしそういう世界に身を投じた頃私が胸中に抱いていた意に反して私の世界に対する見方はそれ以前の事象の全てが、自然や社会、つまり世界の全てが虚構めいて見えるという感じを一層深めさせることにしか貢献しなかった。
 当時私は何箇所かの水商売の世界での仕事の後に、自宅で翻訳をすることをしだした。学生時代に語学には自信があったからだ。それはビジネス関係の書類である英文の翻訳が中心の業務だったのだが、時々日本の商社などから多忙な時には海外の支社や、海外のクライアントへ向けて記述された日本語の文章を英語に翻訳することも頼まれるようになっていた。しかしその仕事は忙しく金になることも時々はある割に創造性は全く乏しく、全ての仕事を終了した後にも疲労感だけが蓄積される、といった感じが拭えなかった。
 基本的に日本語には英語へと極めて訳し難い語彙というものがある。その一つが「遠慮する」である。例えば英語には「配慮する」とか「考慮する」のような表現の動詞はあるが、日本語で遠慮するという行為性そのものが英米文化そのものにおいて希薄なので、それを訳すというのは骨の折れる作業である。つまりmodestという語彙は明らかに遠慮とは異なっている。しかしいざ翻訳するとなると、それを使用するしかないような状況もしばしばあったし、全く別の語彙を仮に使用しても尚、そこには原文の遠慮するというニュアンスは正確には伝わらないというもどかしさが常に残ったのだった。私はそういうことが積み重なって次第に別のもっと精神衛生上いい仕事はないものか、と模索するようになっていった。幸い私の下には翻訳の業務は比較的コンスタンツに依頼があったし、またその業務をこなすこと自体にも大分慣れてきていたから、私は暫くはその業務を惰性的に続行させながらも、同時に精神的には別の業務のことを考える心の余裕というものが生まれていた。
 そんなある日のことだった。私は最後にしようかと思って引き受けたかなり大きな翻訳業務がかなり終了に近づいてきていたある日のこと馴染みのギャラリーにでも出向いてみようかと思って電車に乗った。丁度私の住む町から一つ目にそのギャラリーはあったのだ。健康のためにそこまで歩いて出向くことも多かったのだが、その日は夏のかなり暑い日だったので電車に乗って行くことにした。
 その時から丁度十五年くらい前のことだったのだが、私がそれより一、二年前に引っ越してきてその頃も住んでいた東京から電車に乗ってほどなく行ける距離にあるある歴史的な風光明媚な都市の片隅にあるギャラリーの存在を知った(私の住むマンションはその伝統的な景観の都市からはやや距離のある隣の駅のすぐ傍である)のだが、そのギャラリーに仕事の合間に時々出掛けて絵を見ることが習慣になっていたし、ただ見るだけではすまないという気持ちも手伝って時々安価な値段の絵を購入したりしていたその場所に久し振りに出掛けてみようか、という気になってそこに出掛けたのだ。
 オーナーの伊豆倉は私がそのギャラリーのドアを開けるとチリンと鳴る風鈴のせいで一旦控え室の方に赴こうとしていたが、私が入店してくるのを確認するために振り返った。
「やあお久し振りですね、金城さん。」
私はここ数ヶ月職替えのこともあったし、最後に大きな収入を得る(新しい職に就くためには軍資金が必要である)ために働き通しだったので、以前は月に一度はそこに足が向かっていたのに全くこのギャラリーに足を向けることがなかったのだった。だから私の顔を確認した時、伊豆倉は一瞬懐かしい感じの表情を私に見せた。
「どうです、最近またいい絵が入りましたか?」
私が品評会に出席して時折売れ筋のいい絵を購入して店にディスプレーする習慣になっている彼にそのように尋ねた。すると彼は私に
「棟方志功の鑑定書付きのいい絵が入りましたよ、どうです、金城さん。」
とそう言って、壁際に数枚重ねておもむろに床に並べてあった額縁付きの絵の中からそれを選び出し私に見せた。それは比較的晩年に近い作品だった。私は元来世界が虚構であると思える感慨を一番よく表しているものが絵だと思っていた。だから本当は画家を目指すべきだったのかも知れない。しかし画家という職業は出来上がった作品の素晴らしさとは裏腹にちょっと想像しただけでもかなりしんどそうな仕事だと思っていた。ただ趣味で絵を描くことと職業として絵を描くことは天と地ほどの開きがある。それだけ身体的にも精神的にもきついものであるからこそ我々の琴線のどこかに触れるのだろうということが私には最初から直観的に感じられたのだ。
 伊豆倉は私に徐に私に布に包んでいた額装した棟方の絵を私に見せた。この男は日常的な私人として交際するには最適な奴だ、と前から思っていた。そう思わせるのは、この男のあまり私自身の私生活に踏み込んでこないそういう気遣いから来るものなのだろう。私は一度も正式に結婚したことがそれまでなかったが、この男はちゃんと家庭を持って、生活の基盤をしっかりと築き上げてきていた。それが却って自由に生きる気持ちでいたわけではないものの、結果的には自由な生き方となってそれまで過ごしてきた自分のようなタイプの中年男に対して正反対であるが故に一定の理解と共感を持ってくれることが出来たのかも知れない。自分と似た人生の歩み方をする人間とはだいたい人間は巧くはつき合えないものである。今になってみれば彼との出会いが私の人生を大幅に異なった方角へと、それまでの私の未来への想定にはなかったような方角へと連れて行ってくれることとなったのだ。
 その時私に見せてくれた棟方の作品は最晩年の板画であったことがすぐさま見てとれた。棟方は板を掘って刷る仕事の他にも多く油彩画も描いていたが、一番世界的に有名となったものはやはり板画である。私は以前西武池袋線で終点の秩父より一駅手前の横瀬で降りて、歩いて羊山公園に芝桜を見に行った帰りに立ち寄った美術館で絵以外にも彼の画業を知ることの出来る画集を見た時、棟方の仕事が私の中に密やかに侵入してくるのを感じたのだ。それは静かなしかし確実な共感だった。何故その時ミュージアムで見た棟方の釈迦十大弟子その他の作品に魅せられ、しかも画集で油彩画等の仕事もしいたということを知って共感したかと言うと、恐らくそれは棟方が私の中にあった世界そのものが虚構に見えるという感覚に対して、その虚構そのものが再び自然へと立ち戻ってゆくことが出来る可能性に対して共感したのに違いなかった。そしてそれは私がそういう感情に浸ることの出来た今まででは最後の瞬間だったような気もする。
 そうなのだ。志功のその板画は明らかに晩年作風を転じだした頃のものだった。世の中ではかつてしきりに言われたこととして勝ち組と負け組という区分けがあったが、まさに出世という一語が象徴する意味では人間社会では経済的にも政治的にも巧く世を渡る者を勝ち組とかエリートと言うのなら、アーティストは敢えて負け組的な人生、生活、人生観、生活観を率先して引き受けるからこそ名作を生む。それは金儲けとも政治的手腕とも相反する者たちの生き様である。そしてその相反する価値を社会において高額な美術品として捌くのが画商である。
 強烈なイメージで売り出し世間を賑わす小説家は負け組を理解することは出来るが、アーティストほどはその中にどっぷりとは浸かっておらず、そこそこのブルジョアであり、要するに勝ち組に対しては批判的であるが、負け組にもなれない風の中間層であり、相互の調停者とも言える。小説家も画家同様あまりにも勝ち組と負け組の差が歴然としており、売れない小説を書く輩も五万といる。それは画家と同じである。だが我々はそういう負け組に対してある種の敬愛心も持ち合わせている。だから我々は人生において共感というものをより負け組の人間に対して抱く。大望がありながら果たせずに終わった人、自分ならもっと巧くやれたのにこんなにも不器用な、と思える人に対して我々は判官贔屓するし、そういうずるくない人間に対して共感する一方、そういう人間に自らなりたいとも思わないし、お手本にしたいとも思わない。そういう場合人間は平素憎き敵方の勝ち組に対してアンチ・ヒーロー志向的にお手本にする。敵ながらあっぱれと思い、自らの処世訓に彼のアンチ語録をつけ加える。
 共感することと見本とすることは常にどこかでずれている。共感し得る人間や生き様は実は自分の方が優位に思える、劣等感を抱かずに済むからこそ存在する。自分はそういう生き方はしたくはない、と思い寧ろ共感感情からすれば軽蔑したくなるずるい生き方の人間を密かにお手本にして生活するのだ。つまり人間は処世に関しては善人やお人好しからよりも、より悪党、ニヒリストから学ぶ。愛すべき不器用者からは学ばず、憎き器用者に学ぶ。私にとって志功の芸術世界は負け組に敢えて率先して飛び込んだ典型に見えた。寧ろ彼こそアンチ・ヒーロー志向を無効にするようなエネルギーの持ち主だと思えた。不器用な巧さという所謂「ヘタウマ」とも違う気がしたのだ。
「棟方の作品は贋作が多いんです。」
伊豆倉はそう言ってこれは贋作では決してないんだ、と言わんばかりに額縁をひっくり返してそこに日本美術クラブの鑑定書が張ってあるのを私に見せてくれた。
 美術品はその画商が扱う商品のために自分の手に入れるまでの来歴を、より市場価格が安定し贋作が作られやすい画家ほど注意する、と彼は私にいつか言ったことがある。贋作とはそれを作ってでも元手が取れる画家しか贋作家は作ろうとは思わない。海外マーケットにも流通している画家の中ではレオナルド・藤田とマリー・ローランサンがかなり多いらしい。レンブラントも多いというのは私も聞いたことがあった。贋作を作ってもあまりにも手がかかるのでその贋作を売って儲ける価格よりも高くつくものは贋作の対象にされないことの方が多く、例えば複雑な技法の版画のメゾチントやエングレーヴィングなどは殆ど贋作にするメリットはないので贋作は少ないだろう、とも彼はいつか私に言ったことがある。
「でも金城さん、日本美術クラブではね、皆が挙手をして多数決で真贋を決定するわけですが、誰もが真作であると疑わないものの中でも贋作がある場合もある、つまり真作として世間に出回っているということですな、逆に真作であるにもかかわらず、例えばサインをしないことで有名な画家が画家から直接購入した作品のような場合、作品に付け加わったサインのお陰で贋作とプロの鑑定家にレッテルを押されたものの中にも実は真作が混じっている場合だってあるんですよ。そういう場合真作であることは裏の市場で出回っていてもいつか誰かに気づかれるケースがあって、そういう場合その真作を第一に発見した目利きのコレクターが安く買い入れて後で一儲けすることもあるんですよね。」
とまるで「でもこの棟方はホンモノですよ。」と言わんばかりの自信たっぷりな顔つきで私に美術界の裏話をする伊豆倉だった。棟方の作品は云十万円くらいから云千万円まで幅が広い。しかしこの男は人間的には信頼出来ると私はずっと思っていた。だから彼が言うことを私は信用した。しかしホンモノがニセモノとして通り、ニセモノがホンモノとして罷り通る、これは何たる皮肉ではないだろうか?以前あった考古学の捏造事件のことを私は思い出した。昨今は行政の世界でも詐欺まがいの事件が頻発している。でも皆本物らしい偽者になるということに器用な詐欺師(それは世間には大成しているとされる人の中にも大勢いる)の方に処世訓的には見習いたいというところがあり、それが人間の性悪的な部分なのだ。私の経験から言っても愛すべきキャラクターという奴にはどこか同情すべき部分や憐れむべき部分という、要するに自分は安全地帯にいるのにそいつは気の毒にという半ば軽蔑心さえ入り混じった感情が宿っている。共感することを厭わないほど不器用な負け組にはなりたくはない。本物なのに偽者としてしか通らない人生なんてまっぴらだ、生きている間だけ輝いていられるのならたとえニセモノでもホンモノらしい方がずっとましだ。ホンモノなのにニセモノとしてしか通用しないでいるよりは。そう私も考えていた。
「ところで最近あんまり今の仕事に生き甲斐を感じられなくなったといつかおっしゃっていましたね、金城さんは。」
と急に伊豆倉が切り出した。一体何のことだろうと一瞬思ったが、私は時々本音的発言をこの伊豆倉にはしたくなることがあって、一回そういうことを言ったのに、張本人である自分はすっかりそのことを忘れてしまっていた。その時も「そうか、俺そんなこともこの男の前で喋ったのか。」という感じで
「そうだったかな。」
と気のない返事をした。そういう私的なことを何とはなしに話してしまえることとは、商売人に特有の利益になる人とそうではない人という区分けでだけで生活上で知り合う全ての人に対して判断を下すことを潔しとしないという生き方が感じられる者に対してしか成立しないコミュニケーションである。例えば人間には他人を見る時、好きな奴とそうでない奴という二分法でしか判断出来ない奴もいるし、自分にとってためになる奴とそうではない奴という二分法で見る見方も当然考えられる。あるいは女性は概して、信頼出来、金銭的にも社会地位安定的にも頼れる男性とそうではない頼れないどうしようもなくだらしなく下らない男という二分法を持つ。もっと極端な出世欲にとり憑かれたタイプの人間の従えるいい上司と命令出来るいい部下という組み合わせもある。しかし意外とそういう二分法に支配されている輩に限ってそういうマターをひた隠し、どこかで反体制を気取る。その点伊豆倉はそういう欺瞞的なタイプではなかった。そういう意味でディーラーとしては良心的なタイプだったと言ってよい。伊豆倉は最初の内は寧ろあつかましさというものは感じられはしないものの、どちらかと言えば商売人にしては無愛想な性質だった。また商売人固有の商魂そのものを隠蔽するのも下手だった。あるいは権威ある者に対する配慮という点に関しても隠さなかった。しかしそういう権威に対して阿る部分を極度に否定する者の方が却って警戒すべき輩が多いということを、この伊豆倉とのつき合いで私は知った。真の詐欺師とは善人振るのが巧みであり、警戒心を持たせない名人なのだ。その点伊豆倉は警戒心を第一印象から持たせるくらいの態度だった。しかしそれが私の交友歴から言っても稀有のケースとして長く話し友達でいられた理由だったかも知れない。少なくともある時期が来るまでは。私は彼とのつき合いから離れていった時、私の私生活は百八十度転換していったのだ。
「それがどうしたんだい?」
私が伊豆倉になんでそんなことを聞くのかという顔つきでそう言うと、彼は
「何か面白そうなブログを見つけたんでね。」
私は急にそんなことを私に告げる伊豆倉に
「どういうようなの?」
と好奇心がある風を装ってそう聞き返した。すると彼は
「何かね、私的なことで依頼したいことがあって、高額の謝礼を弾むから、依頼を引き受けてくれる人は顔写真を添えて、既婚、独身いずれかと、メールアドレスと、携帯の番号を記入して送信するようになっているんですよ。」
「一体業務は?」
すると伊豆倉は
「何か依頼者をこちらで決定し次第詳細は説明するっていうらしんですよ。」
と言った。私は多少怪訝な表情を隠さず
「何かやばそうな仕事じゃないだろうね?」
と伊豆倉に念を押したら、彼は
「でもそのブログ自体は健全な内容の奴でしたよ。」
と言ったので、
「どんな内容のブログ?」
と私が尋ねると彼は
「ブログやインターネット社会でのその活用の仕方に関する世論を寄せるようなタイプのブログでバックには有名なアメリカのプロヴァイダーが協賛しているみたいでね。」
と答えた。私は伊豆倉にそのブログのアドレスだけ聞いて、自宅で早速興味本位で検索してみることにした。彼の言うことだからそうやばいものでもないだろうと言うのは、彼が協賛していると言ったプロヴァイダーがかなり信用のおける社名だったことによる。
 私が発見したそのブログは彼の言う通りだった。ブログが作られた目的そのものは極めて堅いものだった。例えば現代の通信情報網社会が現代人に与えるストレスの問題を世界的生理学者に意見を言わせたり、人類の意思疎通を、言語学者によって説明させていたりしたのだ。その二人の意見を統合して纏めたブログ提案者の意見によると個的な意味と体験、そして集団に社会成員として同化するために身につける言語とは常に齟齬があり、その齟齬が自己本位を表出することが出来ずにいて、しかも欲求を十全には充足し得ない社会の個に差し向ける制約からの脱皮という意識が言語行為の内的なモティヴェーションには潜んでいる、つまり非充足的な欲求不満の解消が言語行為であるという側面が否定出来ないというような内容のものだった。それらは日本語と英語の両方のヴァージョンが用意されていた。各ヴァージョンいずれかを選択するようにクリックするようになっている。そしてそのブログには通常のポータルサイトでは画面の端に確かめられる箇所に、このブログを世界的規模で維持してゆくためのスタッフ募集があり、その募集には語学に堪能な者に対しては英語から日本語、英語から韓国語、あるいはスペイン語からロシア語へのというように多くの組み合わせパターンで異なった言語同士の翻訳問題が出され、数学が得意な者に向けては高度な数学の問題が示されており、共にそれらをクリアした者の中からスタッフを決定する旨も示されている。そしてそれ以外に小さくよく確認しないと見過ごすくらいの文字で特別依頼という項目も設けてあり、その小さな文字で示された特別依頼という項目をクリックすると、そこには名前と生年月日、身長体重、既婚の有無、携帯番号、メールアドレス、現在の職業と週勤務平均時間を明記する欄か設けてあり、携帯写メールかeメールかで顔写真横、正面二つを送信という風に指示してあった。そして肝心の業務内容は「特別技能一切不要だが、詳細は起用決定後通知、高額保障」とあった。それだけから判断すると可もなく不可もなくとしか言いようがないが、そのブログ作成に協賛している社名からしか信用の二文字は出てくる根拠は皆無だった。しかしどんな些細なことであってもその時の私には今の惰性的な生活から脱却する可能性のあるものなら何でも食らいつく必要が感じられたので、早速その欄に全て記入し、そして写メールで自分の顔写真を指定されたアドレスに送信した。よく見ると、時間毎にそのアドレスは変更されているようで、かなり多数の携帯で受信しているようだった。その携帯はただ単に応募者を募るためだけに使用して起用者を決定したら即座に廃棄処分にする積もりなのだろう。
 しかし私はその日あったことをじきにすっかり忘れてしまい、又再び元の翻訳業務をメールその他で依頼を受け応じるという生活に戻っていた。土台私はあまり夢のような幸運というものを信じるには現実の虚構めいた悪辣さを知り過ぎていたのかも知れない。つまりあの伊豆倉に面白いブログと言われた時、そういう瓢箪から駒とはお世辞にも信用するに足るものとは言えないということを、私は寧ろ無愛想な印象を持つ伊豆倉から教わったとさえ言えた。その張本人から教えて貰ったことである。どうせ夢物語に違いないとそのブログを見て即座にその求人に応募してから、その夜寝てから全て忘れた。そういう風に私に忘れさせたことの原因の一つは明らかに後から考えると、あの時ブログで得た印象の堅苦しさ、つまり学術的な内容とかけ離れた、まるでブログ作成者の私的な用件ででもあるかのような印象の求人項目だけが妙に他の求人、つまりスタッフ募集から浮き立った印象だった、ということである。私はそういうことにあまり関心のあるタイプじゃなかったのだ。
 私はその日翻訳業務を始めた頃から私に仕事を斡旋してくれた恩人の頼みで結局もう次の仕事を探そうという意欲そのものを捨てかけて、新たな依頼、つまり企業内の情報システム管理上のノウハウを記述したアメリカの専門書の翻訳を企業向けの出版社から自宅に置いてあるプライヴェートなパソコンではなく、業務用のパソコンに届いたメールで引き受けることを承諾する旨の内容のメールを返信したその日の午後、私の携帯に呼び出しがかかった。そしてその声の主は明らかにヴォイス・チェンジャーを仕込んだ声で私に次のように語りかけてきた。
「私はあなたが申し込まれた求人欄を作成したブログの管理人の佐橋と申します。今はちょっと事情が御座いまして、私の身元を明かすわけには参らないので、こんなお声で申し訳ありませんですが、ご容赦願います。」
唐突なその語りの内容にやや狼狽した私は
「ああ、あの求人欄の。」
とだけ言って佐橋と名乗る男の次の句を待った。すると佐橋は
「あなたを採用させて頂くことに決定いたしました。」
と言ったので私は
「ああ、すっかり申し込んだことを忘れていました。」
と言うと佐橋は
「実は採用条件はあなたの風貌だったですが、その理由はおいおいお知らせさせて頂くとして、まず労働時間ですが、土日、休日は全て休みです。そして業務内容はただある部屋で待機して頂くだけで結構なのです。それだけです。」
と、ぶっきら棒にそう伝達する佐橋に対して私は疑念を隠さずに
「それは一体どういうことですか?」
と質問すると、
「まあ、いきなりそう言われればどなたでも面食らわれることでしょう。ある理由からあなたには何もしないでいて貰いたいのです。しかしだからと言って何か悪事をするための幽霊会社とかの建前業務では決してありません。私個人の私費にてお願い申し上げる業務なのです。しかし一つ条件があります。」
と佐橋が言うので私は
「条件とおっしゃいますと?」
と先を促すと彼は
「その何もしない業務中決して眠らないで頂きたいということと、デスクに座って時計を見るなり何か想像されるなりなんなりすること以外、例えば部屋にラジオやテレビを持ち込んで見たり、あるいはパソコンでネットサーフィンだけはなさらないで頂きたいのです。本も駄目です。失礼とは存じますが、室内にはその規約だけを厳守させて頂くために監視ヴィデオを設置させて頂きます。それ以外ならストレッチ体操をなさっても構いませんし、床に転がってタバコをお吸いになっても構いませんし、居眠り以外なら何をなさっても構いません。例えばスケッチブックを持ってこられて、何か絵をお描きになられても構いません。ただし鉛筆とかボールベンとか万年筆以外の持ち込みは禁止します。そしてこれが大切なことですが、外の景色も一切見られないようにブラインドも下ろしておきますので、それも引き上げたり、窓を開けたりは決してなさらないで下さい。要するに業務内容は指定された室内にずっといて何もしないでいることだけなのです。」
と一気に佐橋はまくし立てた。その話を聞いた時、私はまるで心理学実験の被験者の募集か何かだとてっきり思ったので、そうかどうか確かめようかとも思ったが、最初に彼が今は事情があって、ということだったので、聞くことを止めて、彼に先を促した。
「それで。」
「ええ、そして一番大切な給与のことですが、原則として毎月二十五日締めで翌月五日払い、銀行振り込みにて日給百万円でお願い致したいのです。」
と素っ気なく言い放った佐橋の提案に私はその日給百万円という給料に対して度肝を抜かれた。一体この高額報酬の実体とは何なのだろう?私は咄嗟にそう思った。そして
「日給百万円?」
と佐橋に対して携帯越しにそう叫んでいた。そして佐橋は更にこうつけ加えた。
「一年契約でお願い致したいのです。そして契約が切れた時、私はあなたに一度お会いして、このお仕事をあなたに依頼した理由を全てお話したいのです。」
私もその時まで世の中には色々な奇妙な依頼された仕事があることは聞いていたが、彼の言う業務内容の単純さと、それに対する報酬の高額なのにははっきり言って驚愕した。しかしそれが本当ならそう割の悪い仕事でもなさそうなので詳細を聞くことにして私は尋ねた。
「食事と休憩時間の過ごし方が自由なんですか?」
すると佐橋と名乗る男は
「基本的に外部から例えばあなたに携帯で連絡がある時以外は一切自分の方からは外部と連絡を取らないで頂きたいのです。そしてお尋ねの食事と休憩時間ですが、まず休憩時間内もその部屋の中で過ごして頂き、当然お食事もそこで取って頂きたいので、食事は冷蔵庫を室内に設置させおき、そこに入っているものを、毎日食事は朝業者に頼んで配送させますから、それをお食べ下さい。そして電子レンジも冷蔵庫の隣に設置しておきますから、それをご利用なさって、暖めるものは暖めてお召し上がり下さい。」
と冷静な口振りでそう答えた。私はまるで狐につままれた気分になって、どうしてそんなことをさせるのか、と尋ねようと思ったのだが、事情があるからこそヴォイス・チェンジャーで声を隠しているのだから、それ以上聞こうと思っても無駄だ、と私は諦めて、ただあまりにも高額な給与なので、度肝を抜かれて、ただただ胸中で、どうしようか、引き受けるべきか、ということだけに思念を集中させた。そして佐橋が
「どうですか?お引き受けなさいますか?」
と返事を催促してきたので、条件反射的に
「やります。お引き受け致しましょう。」
と自分でもびっくりするくらい快諾していたのだった。しかし不思議と、前職である翻訳業務のきつくて単調な毎日から少しでも気分転換出来るのではないかという安易な推測からだが、そう返答して「しまった」とは思えないのだった。
「私のことをご信用なさって頂けないかも知れませんので、前金として五十万ほどあなたの口座に取り敢えず振り込ませて頂きますので、銀行名と口座番号をお教え願えないでしょうか?数日以内に必ず振り込むように致しますので。」
と佐橋が言うので、私は自分が持っている銀行の口座番号を快く佐橋に教えた。私はその時一瞬、自分が殆ど英語と日本語の活字だけを一日中眺めて過ごしてきたので、いい気分転換になると思ったのだ。そしてこの男がただの冗談でこんなことを言っているのか、それとも本気なのかは、振り込まれるという五十万円によってある程度明らかになるだろう。そして私をその部屋に閉じ込めておいて、本当にただそれだけで私に報酬を一切支払わない時には、この仕事の応募を発見した例のブログにその旨書き加えればよい、いざとなったらいくらでも告訴する手段ならあるぞ、とも思った。そしてもしこの男が全て本当のことを言っているのなら、自分はあと一年後は一億くらいの収入を得ることになる。最初の五十万と、それから一ヶ月だけ待って何も報酬が入らないという場合、その時には暫くいい夢を見させて貰ったと諦めればよいだけかも知れない、とも思ったのだった。
佐橋は
「あなたに働いて貰う部屋があるビルをあなたの携帯に後で住所を送信しますので、それではよろしくいいお仕事をして頂くことを期待します。そして最初の出勤日は明日です。」と言い放って、私が何か聞こうとするのを遮るように電話を切った。私は一時間くらい狐につままれた感じの状態で私の自宅の電話を貰った時に座っていた翻訳をする室内でぽかんと口を開けたまま過ごした。そしてその仕事を引き受けたなら、今まで私の生活をいい意味でも悪い意味でも成り立たせていてくれた翻訳の最後の仕上げをするためにパソコンと辞書とに向かい合った。明日からまた今までと異なった生活が始まろうとしている。しかしもしその仕事があまり向いていないようなら、その時また考えればいい、とも安易に私はそう思っていた。人から薦められてあまり気乗りしない本を読むことの退屈ささえ感じる暇のない、何もしない業務、これはこれで一つの人生経験なのかも知れない、そう思って安易に仕事を引き受けた自分を正当化していた。