Monday, November 30, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>㉓最終回

 翌年になって、私は山田を呼び寄せることにして、彼にメールを送信したら、彼は翻訳の仕事は今のところ暇だというので、最初京都に来て貰おうかと考えたのが、京都も飯島が島田と親しい以上いつ何時彼と遭遇するとも限らないので、静岡駅まで来て貰うことにした。まず彼に会って、彼の要望を聞いて、今後の身の振り方を相談に乗ってやらなくてはならない。私が沢柳から引き継いだ時点で私の人生は変わったが、私の場合率先して自分で変えていったという要素が強いが、彼の場合は全て私の指示に従っていた。しかし勿論彼の報酬は一年三ヶ月ほど支払われ、私の口座以外の沢柳の名義で彼だけが引き出せるように手配はしてあった。
 私は殆どの邸宅の資産を売却して帰国したので身軽だった。
 指定した日に静岡駅の私が指定した改札口に彼は東海道線のホームから降りてやってきた。私が改札の外から彼が来るのを確認すると山田は
「お待たせしましたでしょうか?」
と言って少し頭を下げた。しかし
「私も今来たところです。」
と言った。事実だった。私は彼に
「近くの喫茶店に入りましょう。」
と言って近くの喫茶店に入り、一番人があまり座っていない一角に二人で腰掛けた。相変わらず山田はサングラスを外さないでいる。
 私が翻訳の仕事についてどうかと尋ねると山田は
「大分慣れてきましたが、いつまで続けられるんでしょう?」
と私に尋ねたので私は
「このままずっと続けたいですか?」
と逆に聞き返した。すると彼は
「別に構いませんけれど、沢柳さんはこれからどうなさるんですか?もうストーンランド社長が就任されましたよね。」
 と私に質問した。私は
「これからは私が趣味にしてきた俳句を作りながら晩年まで過ごしたいですね。」
と言った。すると山田は
「でもリタイアの年齢がああいう企業は早いですね。」
と言いながら溜め息を洩らした。私はそろそろ本題に入ろうとして
「まあそうですね、ところで私がある仕事でお世話になってきた人がいるんですが、その方に贈り物をして頂きたいんです。翻訳家としての私として。」
と言った。すると山田は
「いいですよ。」
と返答した。私は飯島がどんな酒が好きか東京八重洲口で会う人物が飯島であると知る前に一度島田に別の用件(次回の句会の日程とか最近あったことを報告する内容の)でメールをした時島田から仕事を世話して貰った(島田は郷田守と私のことを思っているので、島津が死去した例の墜落事故の乗客名簿が報道されても私が死んだとは思わない。思うとすれば飯島と伊豆倉だけである)手前、お礼をしたいと言って聞き出していたのだ。島田からの返信によると飯島はウィスキーが好きだと言うのだ。
 しかしその時まで一切私はすっかり勘違いしているということに気づかなかったのである。そうである。読者は既にお気づきだろうが私は飯島にとっては死んでいなければならず、しかも飯島が島田に郷田守は金城悟という本名だと告げたら、島田にとっても郷田守は生きていてはならず、また飯島は島田と親しい以上島田に金城が不慮の事故で死去し、依頼した仕事が頓挫したと告げたに違いない。私はついサハシーの最後を演じ、サハシー本人のリタイア後を演じ続けることにばかり神経が行ってしまいすっかりそのことを忘れていたのである。そうなると島田もまた飯島と共に極めて私の今後にとって危険人物ということになってしまう。
 私がすっかり顔色を悪くしていたので山田が
「社長さん、どうなさいましたか?」
と心配そうに聞いた。私は必死に内心を悟られまいと
「いいえ、何でもありません。つい先日帰国したばかりなので未だちょっと時差ボケが直らないだけですよ。」
と言って誤魔化した。すっかり思案に暮れていってしまうかに見えた私は名案をその時思いついたのだ。それは島田が飯島とどんな会話をしたかによるが、飯島が島田に金城が死んでしまったと告げる公算は一番強い。ならば島田は折角自分が飯島に紹介した仕事が不慮の事故で頓挫したことで迷惑をかけたなら、そのことを詫びるという気持ちになっていておかしくはない。だったら島田が飯島に詫びの積もりで何かを送ってもおかしくはない。
 ただ問題は島田がもし私がサハシーとして記者会見をした模様をニュース映像で見ていたなら、郷田守=サハシーということを知っていよう。そして結局どちらにせよ、俳句仲間たちに対して死んだ郷田守が生きたサハシーと同一人物であることは通用しなくなるのである。またしもしただ単にサハシーと郷田守が瓜二つであるということであるなら、私は俳句仲間たちの前に以前の郷田守ということで現われることは出来なくなるのである。
 しかしあの時八重洲口で待ち合わせ時現われたのは飯島だけである。だから島田は郷田守の筈の男が金城悟であったと飯島が告げてもそれはその男がニセモノなのではないかと疑う可能性に賭けさえすれば、あるいは私が島田の前に出現しても私が「あの時少し後れて行ったら、先方(私は島田から飯島と名前を聞いていなかったので)が既にいなかった」と言い訳をし、しかもそれ以後多忙でそのことを報告することが出来なかったと言って白を切ることも出来よう。しかしその言い訳が通用するか否かは一重に飯島に対する島田の信頼の度合いと、親近度に依存する。島田が飯島と然程親しくはない場合のみニセモノが飯島と会った仕事の依頼を受けたという私の話しを島田が信じる可能性があるというに過ぎない。
 やはりその賭けをすることが危険だと私は思った。再び私は晴れて郷田守がサハシーであったと俳句仲間の前に現われる機会を逸してしまったのである。こうなると最早俳句仲間の前には一切出現することが私は自己を安泰にし続けるにはしないに限ると結論した。
 私はあの記者会見で俳句を作って生きていきたいと述べたので、もし彼らともう一度会いたいと思うならいっそ郷田守と瓜二つの沢柳静雄ですと述べて初めて会う人同士のように振舞って俳句仲間たちの前に出現することしかない。その際には死んだ郷田守は赤ん坊の頃から生き別れていた二卵性双生児であると偽るという方法もあると私は思った。それなら同じDNAを持った人間であり、同じ趣味があってもおかしくはない。しかしそれはまたあの時沢柳になりすまして飯島と出くわした時のように知人を前に替え玉を演じるようなものでありかなりストレスフルである。
 しかしそこまで考えてきて私は急に疲れが出てしまった。そして山田に
「このまま翻訳の仕事をされたいですか?」
 と聞いたら山田は
「ええ。」
と返答した。しかし今後いつかは郷田守が死んだ筈なのに、いつまでも以前島田の伝で得たクライアントたちや口コミで郷田守の翻訳が定評だからと言って続けていたら、いつかは島田にもその噂が広まって死んだ筈の人間がいつまでも翻訳をし続けているという風に理解され、そこに犯罪の匂いを嗅ぎつける人間が出現するであろう。
 そう思って山田に対して作り笑いをしながら今後その件に関して、そして山田の将来に関する処遇をどうすべきか思案し始めていた矢先、私の携帯の受信音が響き、私は山田に 
「失礼。」
と言って電話に出た。すると声の主は聞き覚えのある中年女性であった。
「お久し振りです。お元気ですか?」
という英語の響きが私の耳に入ってきた。私はすぐにサリー・フィッシャーの声だと分かった。私は電話のサリーに
「今、ちょっと来客中なので、後でこちらからお電話差し上げます。」
と言って、電話の向こうのサリーが
「分かりました。」
と言ったのを確認して電話を切った。そして再び山田の方を振り返りながら
「ところで今もずっと翻訳の仕事は詰まっているんですか?」
と聞くと山田は
「実はそれが去年の十一月くらい、だから丁度一ヶ月と少し前からぱたりと仕事が来なくなったんです。」
と言った。丁度島津が死んだ頃である。するとやはり郷田守=金城悟は死んだという風に飯島から島田や他の知人に知らされたということになる。しかし一人くらい郷田守の死去を知らずに依頼してくる人もいるだろうにどうしてだろうかと私は思った。
 しかしそう思った時もう一つ問題が噴出してきた。それは吹上と近田が島田から郷田守の死去を知らされていはしないかということである。しかしその憂慮はすぐに打ち消された。何故ならセレモニーの直後に私は吹上からのメールを受け取ったからである。勿論島田から郷田守の死去を知らされていてどうもこれはおかしいと私に対してどういう出方をするかを吹上が自主的に探りを入れる積もりで私にメールを打ってきた(私の記者会見の姿をニュース映像で見ていればそういう気持ちになることはあり得るだろう)という可能性もゼロではない。しかしよく思い出せば、島田と吹上は最初の京都吟行の際には多少会話があったが、それ以後あまり親しく話してはいなかった。だからそれほど親しくはない吹上に対し態々島田が郷田守の死去の話しをするだろうかと思った。第一あの句会の催し一切が須賀からの誘いであった筈だ。だが須賀にしてもいつかは島田から郷田守の死去の知らせが入るだろう。そうなると当然その知らせは吹上の耳にも入るだろう。そうなるといずれにせよ私は二度と俳句仲間の前に現われることが出来なくなってしまったのである。 
 そこで私は山田に 
「そうですか。それじゃあ、また別の仕事をそちらに廻すようにしますんで、暫くはシンガポールのマンションで待機していて下さい。」
と山田に言って百万円を包んだ包みを渡し
「これを当座の生活資金にして下さい。」
 山田が
「贈り物の件はどうしますか?」
と先ほどの私の飯島にタミフル入りのウィスキーを贈呈する話しを思い出し山田が聞いてきたので、私は
「いえ、その話しはまたにしましょう。」
と誤魔化したら、山田は
「そうですか。分かりました。」
とそれ以上追及しなかった。
 私はシンガポールでの紙幣のシンガポール・ドルとの換金方法を教えてから私は山田と別れた。山田が静岡駅から帰りは新幹線にすると別れしな言っていたが、それに乗るために去っていく後姿を見て、私はこの男は私に他意はないと思った。

 私は駅から歩いて十分くらいのところにある自宅のマンションに帰宅すると、早速サリーに返信をした。先ほど山田と一緒にいた時にかかってきた番号にそのまま連絡した。私の心は飯島を殺害しようかとさえ考えていたのに、山田が自分の影法師であることが、彼を郷田として飯島を殺させるということが事実的に不可能であるばかりか、万一それが山田の協力で実現したとしても、犯人にされる山田が実は自分と瓜二つであることから私に累が及ぶということも意味し結局飯島を殺害することは出来ないという無念が、しかしそれでよかったのだ、少なくとも自分が「正真正銘の」犯罪者にならずに済んだということだと無理矢理自分を納得させようとしているとサリーの済んだ声が聞こえてきた。私が
「先ほどは失礼、お元気ですか?」
と言うと
「ええ、元気です。ご勇退後初めてお声が聞けました。どうですかそちらは?」
と返答してから私に聞いてきたので私が
「それでご用件は何ですか?」 
と無愛想にそう聞いた。と言うのも内心私は自分の身元に関してこれからどのように他者に辻褄を合わせて生活していくべきか悩んでいたので、いくら少し前まで仕事仲間であった彼女から連絡があったからと言って、その親近的なモードに切り替える心の余裕をすっかり失っていたからである。
 サリーは
「それはたいそうご挨拶ですね。でも近くに来ているんでお会いしませんか?」
と言ったのでいきなり目が覚めた感じになって
「近くって、どちらからかけていらっしゃるんですか?」
と聞くと
「親しかった元執事のモリソンさんに私一度連絡したことがあって、静岡市のマンションにお住まいだとお聞きしていたので、静岡駅まで今来ているんです。」
と言った。私は驚愕してしまい
「また態々こんなところまでいらっしゃって、どういうことですか?」
と聞くとサリーは
「どうしてもお話したいことが御座いまして。」
と神妙な声で言った。私は元秘書で今は現社長の秘書でもあるサリー・フィッシャーが態々私を日本の自宅のある静岡駅に追いかけて来てまで話す必要のあることなど一体何だろうと思っていた。私は
「じゃあ、こちらからすぐですから、改札口のところでじっと移動しないで待っていて下さい。」
と言うと彼女は
「分かりました。」
と言って、私たちは電話を切った。私はすぐ自宅を出て駅まで足早に歩いて行った。すると私が指定した場所にサリーが微笑んで立っていた。私が彼女に近づき
「いつアメリカをお発ちになったんですか?」
と言うと
「昨日の夜です。」
と返答した。私が近くにある喫茶店(先ほど山田と入ったところとは別の)に彼女を誘って入ると、私たちは比較的空いているところへ向けて歩いて行き座ると彼女は
「私マイクの秘書を辞めてここに来たんです。」
と言った。私は俄かにはその意味を推し量りかねて
「えっ、辞められたって、一体何故?」
と尋ねた。これは何か尋常ではない。
「私たちは実は母子家庭なんです。娘と私っていうことです。六年前に離婚した夫は一ヶ月に一度私たちと会いその時だけ一緒に食事するだけです。」
と続けてサリーは言った。私が
「そんなプライヴェートなことを仰るためにここへ態々いらしたんですか?」
と怪訝な表情で問い質すと彼女は
「プライヴェートっていう意味では元社長だって同じじゃございませんの?」
と突っ張った態度でそう言った。私は彼女の真意を推し量りかねた。しかしその妙に納得出来ない私に構わずサリーは
「何か人には分からないことっていうのは誰にでもありますけれど、ある人にとってそうであることっていうのも別のある人からすればそうじゃないっていうこともありますわよね。」
 私は益々分からなくなった。しかし不吉な予感もしたのだった。
「あなたはある時からいなくなって、別の誰かを遣して、今度はその人を辞めさせて、また戻られましたよね。」
と彼女が言った時私は私が郵便局で郵送手続きをしている時にマイク・ストーンランドが私の携帯に突如連絡してきたことを思い出した。サリーは確かに私が山田を身代わりにしたてたことを直感的に見抜いていたのだろうとその時私はそう思った。
「あの方はあなたとは少し違うタイプでしたからね。恐らく現社長もジムもヒーリー現副社長も気づいてらっしゃったんじゃないかしら。」
とサリーが言った時それはある程度私が予想してことでもあったから私はそれほど驚愕せずに済んだ。と言うのももし私があのマイクからの連絡を受け取らなかったなら、あるいはそういうことを私が二年前に辞めて山田に交代した直後に言われていたならもっと驚愕していたことだろう。しかし私は山田を辞めさせてそれからもう一度職場に復帰していたから、復帰後の功績を彼女が讃えていてくれると思えばそれがいけないことであると知っていても尚私は「君も気づいていたか」などと笑って済ますことも出来たかも知れない。
 しかし彼女の目論見はそういうことではなかったのだ。そしてそのことが明確に私に理解出来たのは彼女の次の質問によってだった。
「あなたの本名がイサムだって知っているのは意外と少ないんですよ。どうしてだとお思いですか?」
 私はぎょっとした。遂に来たかと思った。と言うのも私はあの山梨県の山荘で殆ど沢柳自身の名前のことについては教えて貰えなかったからである。勿論勇というのが本名であることは彼から聞いて知っていた。しかしでは何故静雄と呼ばれているかということの方の理由を一切聞かされていなかったからである。確かに彼はイサムとは誰からも呼ばれていなかった。それなのにでは何故静雄と呼ばれていたかということについての知識を一切私は持ち合わせていなかったのである。だから私は必死に誤魔化そうとして
「でも、一体君はどうしてまた今更そんなことを言い出すんですか?」
それに対してすかさずサリーは
「今更って、いかにも全てお見通しみたいな仰り方ですね。」
 その一言で私は全てを悟った。この女は私が沢柳の替え玉であるということを知っているのだ。その瞬間まで私にとって最大の脅威は飯島であった。彼以外に私がその時沢柳ではないということを知る者は一人もいなかった。だからこそ私は沢柳然としてこうして静かな晩年を過ごせるとてっきり思っていたのである。
 しかしその一言が全てをご破算にした。
「私が静雄って名づけてあげたのよ。」
 私はその時既に一切の弁解をする余地をなくしただ呆然と彼女の言うことに意識を集めていた。そして彼女は静かに語り出した。
「私と静雄さんは深い仲だったんです。あの人がねサンタフェに事務所を立ち上げた時色々世話をしてくれた恩人は今あなたが付き添わせているライオネル・モリソンの父親のジュリアス・モリソンだったんですよ。そしてそのジュリアスが大事にしている姪がいるんですけれど、その姪がヴェロニカなんです。ヴェロニカはアイルランド系の父親とウェットバックのチカーノとの混血なんです。」
 私は狼狽していて喉がからからになっていたので
「一杯水を飲ませて頂けないかな。」
とグラスに注がれた水を一気に飲み干した。
 それを見ると再びサリーは話し始めた。 
「サハシーはずっとその恩人からの様々な義理的なプレッシャーに打ちひしがれていたんです。そしてイサムという名がどうしても厭になっていたんです。どうしてかって言うとジュリアスが彼の名前の名づけ親だったからです。本当はユキオ、日本語では幸せな男(幸雄)というのが本名だったんですけれど、渡米して会社を立ち上げる時多大なお世話になったジュリアスが自分の息子を何らかの形で採用して貰うことと、つまり彼の一番愛した若くして癌で亡くなった兄の娘を今際の際で兄から託された、つまりヴェロニカをユキオの妻にすることを条件で彼はユキオに融資したんです。その時ジュリアスが愛しているイサム・ノグチの名前を彼に改名させたんです。そしてそのジュリアスからの色々な懇意が段々イサムの重圧になっていったんです。そしてその頃から私は夫の浮気に悩んでいて、結局お互いの悩み事を打ち明ける内に私とイサムは自然と結ばれて、しかも彼がこのイサムって名前が嫌いだということで、私が静かな男だったから日本語の意味を調べて静雄という名前で二人でいる時だけ呼んでいたんです。そしてジュリアスは私とシズオが結ばれた直後くらいに脳梗塞で急死したんです。だからシズオはヴェロニカとはあまり愛し合っていないことを相互に了解し合っていたから、ジュリアスの死後結婚はしなかったんです。しかしやはり恩人の手前、彼はヴェロニカを捨てることも出来ず、私との仲を知っていたのは比較的モリソン家の中ではシズオの気持ちを汲んであげられたライノネルだけだったみたいです。尤もジムはどうか知らないけれど、マイク・ストーンランドは薄々気づいてらっしゃったみたいですけれどね。」
 彼女は全てを告白しながら少し深呼吸をして
「でもあなたはよくやったわね。」
と私の方に笑みを浮かべた。私はその言葉がある種の脅迫のように感じられた。しかし私の心の中にあるそんな動揺に構いもせずにサリーは再び静かに語り出した。
「あなたにもそのことは一切シズオは言わなかったでしょうね。いえ言えなかったんです。だから本当はシズオの理解者ではあれ、モリソンはジュリアスの息子ですからね、シズオは彼と共に同じ邸宅に住み続けることも厭になっていたんですよ。そんな時にシマヅさんをボディーガードとして雇って唯一心を許してきたんです。」
 私は最早言い逃れの出来ない状態でいた。しかし一つだけサリーさえ知らないことがあるのではないかと思った。それが沢柳と島津の死である。そこでそれとなくそのことについて聞き出そうと私は
「ところで私がいつ替え玉だってことに気づいたんですか?」
それに対してサリーは再び笑みを浮かべて
「あなたが私のバースデイにメールを入れてくれた時ですよ。」
と言った。私は思わず「えっ。」と叫びそうなのを必死で堪えていた。するとサリーは
「あなたがくれたメールメッセージが一度は深く愛し合った人同士にしては他人行儀な形式的というか社交辞令的な言葉の羅列だったからですよ。」
 私はプロの翻訳家であるからこそアメリカで何とかやり切れたのだが、寧ろここでそのことが仇となったのである。私は何故ヴェロニカを彼が私に宛がったかの理由もはっきりと悟った。そしてヴェロニカとてサハシーから私、私から山田に交代したことくらいとっくに見抜いていたろうが、それを敢えて問題化することなくうっちゃっていたことの理由もはっきりした。彼にとって疎ましい相手であるヴェロニカに対して、それでも彼の周囲の眼から追放することだけは出来ない孤独が彼を追い込んだ。そしてヴェロニカの正体を私は見抜けなかったが山田は見抜いていた。私以外の若い男性がずっと彼女の恋人だったのだ。私はその時改めて山田のある種の直観力に敬意を抱いた。そして利用価値と考えた自分を恥じた。
 私たちは粗方用件を済ませた男女、と言うよりどこか以前は親しかったのに(実際私はサリーと親しかったし信頼していた)今はすっかりさめてしまった男女のように喫茶店で私がレシートを持って行き代金を支払うと
「暫く一緒に歩きますか?」
と私はサリーにこれまでの友情が変わらずにあることを強調するかのように優しい口調でそう言った。
「ええ。」
と彼女は返答した。二人は店を出て繁華街を歩き出した。
 しかし私は一切肝心なこと、沢柳と島津の行方に関して彼女が認知しているかどうか確かめなかった。しかし一つくらい私は知っているのに彼女だって知らないことがあった方がいいと私は判断して敢えて聞き出さないようにしたままでいた。それに話しの文脈上私の代わりに島津が死んだこと、彼女の愛した男性が最も信頼していた男性を私が死に追い遣ったと思われることは私にとって得策ではない。だから私とサリーとの間にこれから何が起ころうとも、このことだけは一切彼女の前では黙っていようと思った。このことは一切私以外の者が知っていてはいけないのだ。しかし私は男として聞いておかなくてはならないことがあったので聞いてみた。
「私はあなたに一回も手を出さなかったですけど、失礼な質問になるかも知れませんが、サハシー本人はあなたをずっと愛し続けられたんですか?」
 すると彼女は
「いい質問をなさるわね。私たちはジュリアスが亡くなった頃からやはりこういう関係がよくないと彼が言って終っていたんですよ。」
 彼女はしかし次のように続けたのだ。
「でもあなたの演技は完璧だったわよ、と言うよりあなたは誰よりも世界中で一番サハシーに似ていた。あなたの次の人も私は嫌いじゃなかったけれど、サハシーとは似ても似つかなかった。」
と言った。すると
「あなたが完璧だったのはあなたが友人の少ない方だからじゃないかって私は思ったんですけれど、そうじゃ御座いません?」
と突拍子もないことを言った。私は彼女の顔の方を向いて頷いた。彼女は更に続けて
「あなたの後の人はあなたにはきっと似ていらっしゃるんでしょうね。」
と言った。二人は自然と繁華街から離れて、あまり人通りの少ない通りの一角に佇んでいた。私はその時この女がまるでサハシーが死んでいることを前提にしているような話し振りに気がついていた。
そうだ、この女は沢柳が私に送信したあのメールを読んでいたのかも知れない。沢柳が生前彼女にスペアキーを渡していたらそれも可能だ。あるいはサハシーはずっと彼女を愛していて、彼が死んだ時に彼女にそれを知らせるメールが届くように取り計らっていたのかも知れない。しかし今目の前にいる女は知らないようにも見える。
もし沢柳の死を知らないままでいて、しかも私に近づいているのであれば、彼女にとっての沢柳という元恋人の存在は今はそれほどでもないのだろうが、それにしても私に接近してきたということの真意は私の財産目当てなのだろうか?私よりも長い勤続期間であった沢柳の元に走った方が得だと思わないのであるなら、私に対してそれほど魅力を感じていたのだろうか?そんな筈はない。私は全くそういう魅力で彼女に接していたことは一度もなかったのだから。ならやはり彼女は沢柳の死を島津から伝えられるとかで何らかの形で知っていたことになる。
 私は徐々に近づいてくる彼女の熱い息を顔に感じながら何度もそういう風に考えを巡らせた。

 彼女の息遣いが決して義務的な接近であるようには思えないくらいに自然に私の頬を伝った時、私は永遠に金城悟を葬り、私が替え玉であることを確実に知る唯一の女(ヴェロニカには私はアメリカを去る時多大な慰謝料を支払っていたし確実にそのことを知れるわけではない)と生活をこれから共にしていかなければならないのかと思った。そして彼女の内面にだけ知られているが、対外的には私は沢柳静雄として永遠に生きていかなくてはならない。それも運命なら受け容れるしかない。それがサリーには黙ったままでいる私の身代わりに犠牲になった死者である島津と沢柳への生者からの敬意であるとも一瞬私は思った。
 
 そう思った瞬間サリーは溜め息のようなものを私に吹きかけてきた。今隣りには潤んだ瞳で私の腰に手を廻してきたサリーがいる。
(了)


 付記 これで「共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性」を終了します。この後暫く休暇を置いた後「退屈な村」を掲載更新していきます。(河口ミカル)

Thursday, November 26, 2009

<共犯者たちのクロスロード・偶然の虚構性>㉒


 
 しかし私が一切を捨てて、つまり金城悟としてのこれまでの一切を捨てて元スカイスレッダーのCEОを十余年勤続してリタイアした名誉ある称号を手にすることが最も合理的な判断であることを私にまざまざと自覚させてくれる一通のメールが私に届いたのである。しかもそれは飯島さえ殺せば、恐らく例の俳句仲間たちにも先にも述べたようにあまりにも重大な社会的地位であったが故にこれまで郷田守として振舞って皆と接してきたという言い訳を自然なものにするに足る内容だったのだ。
 そのメールの文面は次のようなものだった。

 前略 沢柳静雄様
 
 私は沢柳静雄です。このメールは遺書でもあるのですが、この遺書を開くこと自体があなたにしか出来ないように私は計らったのです。
 しかしこの手紙が届く頃には私はこの世にはいません。しかも恐らく島津もこの世にはいないでしょう。何故なら私が死んだ場合独身であった私の遺産は全て島津に行くように私はしていたからです。
 私が莫大な財産を築き上げあなたがCEОとして私の後を引き継いだ時点であの山梨の山荘であなたに話した通り、私はそれまでの十余年勤続してきたことの報酬としての財産を別口座に移しました。そして私が死んで、しかも島津が死んだ時このメールは自動的にあなたの下へ送られることになっているのです。つまり島津のたった一人の私以外の話し相手であった彼のフランスにある邸宅の執事がこのメールを添付送信してくれるでしょう。つまり彼島津は一週間自分の邸宅に帰宅しない場合のみこのメールを送信するように執事に言いつけてあったのです。
 しかし私はあなたにこのメールを読んだら、即座に消去して欲しいと思います。何故ならこのメールを盗み見る者がいるかも知れないからです。このメールを読んだ者のみが沢柳静雄です。
 しかし私は最初に私を引き継いでくれた人を信頼したいと思います。ですから逆にこのメールを見た人が三人目の沢柳静雄であるなら、最初に私を引き継いだ人はあなたによって殺されているのでしょう。しかしそれはそれで仕方ないでしょう。私は最初に私を引き継いでくれた人が一番好きですが、それより後に引き継いだ人がこのメールを見るのであれば、その人は最初に引き継いだ人よりも頭がいいということになります。私はこのメールが誰であれ一番頭のいい私の引き継ぎ者にのみ読んで頂きたいからです。そうすることによって私の命は少なくともあなたが生きている間は命脈を保ち、私が私を離れて長い寿命を維持する業績になります。あなたの業績は私の業績であり、私の業績はあなたの業績ですし、またあなたの失敗は私の失敗であり、私の失敗はあなたの失敗です。もしあなたがあなたの失敗のない業績をあなたの死後も永続させていきたいのなら、あなたも私が取ったのと同じ方法を用いることです。
 私にとって最大の友は島津でした。しかし島津は私と背格好は似てはいるものの、顔が似ていません。このメールを見ているあなたは恐らく似ているでしょう。似ていなければ似ている人に送られる筈だったこのメールが最初の人かその次の人であれ、私に似たある人よりも更に頭のいい人なのでしょう。
 私の、そして私が死んだ時点で島津の財産となった莫大な遺産の全てはこのメールがあなたに送信された時点であなたの口座に振り込まれるようにしてあるのです。ですからこのメールを読んだら即座にこのメールを消去して頂ければ幸いなのです。

草々 沢柳静雄

 このメールを読んで、そこにはただの一言も私の本名も書いていないということはある意味で私が犯罪に加担したということを隠蔽する意味での思い遣りではあるものの、そうではないとも受け取れた。もし私自身がダミーであるということを懐疑的に嗅ぎ取ったストーンランドかクラーク(彼らとヒーリーがスペアキーを持っている)が私になりすましてこのメールを開いた場合、彼が理性的に「いけないことにした。見なかったことにしよう。」と思って、一切私の財産に手をつけないでいる場合のみ彼らは私をどうやって告発しようかと思案することだろう。何故なら彼らがこのメールを盗み見る段階で既に彼らは私を懐疑的な目で見ているからである。
 しかし人のパソコンが受信したメールを盗み見ることはそれ自体犯罪である。従って替え玉CEО自体が犯罪であると知っていても、盗み見という犯罪をしたことで彼は長年のキャリアを棒に振ることを選択することはないだろう。もしそれでも私を告発しようとすることはあっても、自分の私腹を肥やすことなどないだろう。それは恐らく中間的な意味で理性的な人間である場合である。もっと極悪で非理性的な人間であるなら、その者は私を消そうとするかも知れない。しかしそれほどまでに非理性的な人間がこれほどの会社におけるCEОの書斎に入ることが可能な状態へと自らを誘導出来るだろうか?
 勿論最初に盗み見をした時点で彼は完璧な理性者ではない。だから彼らがまさに真に理性的であるなら、一切このパソコンを盗み見ることはしないし、仮にその時だけ魔が差してこのメールを盗み見た場合(真に理性的な人間に次いで理性的である場合)でも、文面から私が沢柳から信頼されていたということを知り、その友情に水を差すということを、少なくとも沢柳自身に対する敬意がある限りする筈はない(尤もそれは後で述べるが、この文面がジョークではないと確信し得る限りではある)。しかし同時にこのメールを盗み見た者が私以外の先に挙げたクラークかストーンランドだったにしても、他の何者であったとしても、その時この文面から私自身が最初の沢柳からの引き継ぎ者であるとその者は如何にして確信し得ようか?私が三人目の沢柳ではないという確証が、あるいはもっと四人目の沢柳ではないという確証があると言えるだろうか?
 要するにそれは沢柳に対するこのメールを盗み見る者の忠誠心と、信頼心と、私に対する信頼に依存する。つまり私が本当の沢柳であるか、あるいはこのメールの文面の意味するところが、自分が自分に当てて書いたメールではないという通り一遍の解釈ではなく、まさに自分が自分に当ててジョークでこのメールを送信し、受信したと受け取る(そのケースは大いにあり得る)場合のみその者の私に対する信頼心は私が本当の沢柳であるという確信へと直結するが、逆にこのメールの文面がジョークではなく真理命題的に真であるとその盗み見者が信じた場合、私が最初の沢柳からの引き継ぎ者であると確信する場合のみ私自身に対する信頼心と忠誠心は私が本当の沢柳であると確信する場合(つまりこのメールをジョークであると受け取る場合)に次いで大きいと言える。つまりその者は私に対して私が本当の沢柳であるということに次いで信頼度の大きい最初の引き継ぎ者であるという確信へと直結する。しかしこのメールを受信しているこの私が実は最初の引き継ぎ者ではない可能性への考慮をこのメールの盗み見者が抱いた場合、その盗み見者は私を告発しようとするかも知れない。そしてその者の抱く私への信頼心と忠誠心は希薄であると言えよう。またこのメールが自分で自分に当てて本当の沢柳へと送信して受信したと受け取った場合、その者は恐らくこれから私が実行しようとしているように、私の口座を確認することなどないだろう。
 しかしもし仮にこの文面を読む者が、私が本当は最初の沢柳からの引き継ぎ者か、それ以降の三番目以降の引き継ぎ者であると確信した場合(その場合私自身に対する忠誠心と依頼心は著しく低いということになる)、私の口座を確認しようという欲望を抱くことになり、それを何とか抑制するか否かはその者の理性の度合い拠る。
 しかしその盗み見者が、ダミーがダミーに、つまり自分が自分に対して送信して受信したジョークであると受け取る場合、私の口座を確認することなどないに違いない。しかし私を告発する気にはなるかも知れない。そのケースもないとは言えない。
 しかしである。クラークかストーンランドが盗み見という魔が差したとしても、彼らは既に私ほどではないににせよ、莫大な財産を築き上げている。そんな私の口座を確認するなどという暴挙に出るだろうか?蓋然性は低い。しかし一旦魔が差した人間というのは、留まることを知らないで暴走するという場合も皆無ではないだろう。私はこのように次々と沢柳の真意に対する憶測と、あり得る可能性を考え尽くしたのだった。
 何故そうしたかと言うと、そう考える内だけはあの忌まわしい飯島の処理のことについて思い巡らす必要がなかったからである。
 私があれこれそのように考えていたことの理由には、ストーンランドとクラークが自分にとってどれほど信頼のおける人間かという問いがあったからである。そもそも私が亡き沢柳からあのようなメールを貰ったということは、今現在このサンタフェの邸宅の書斎にいるからである。それはとりもなおさずマイク・ストーンランドが私を引き戻してくれたからである。それは私に対する信頼心が強いということの証である。しかし同時に私がいつまでもCEО職に留まっているということがただ単に気に入らず、私を本心では早くリタイアさせたいと願っていたからこそ、私から好印象を得たいがためにあの時私に携帯で連絡してきただけなのかも知れない。そう考えると、山田よりも私の方がより自分に対して寛容ではないのかと推測する辺り意外と策士だったのかも知れない、と私は思い始めもした。あるいは私に対しては普段無愛想な方であるジム・クラークだが、私からの引き継ぎに対する執心もなくあっさりと自分の財産で別の会社を立ち上げるという意味では、ずっと下心はなかったのかも知れない。しかしメールが届くのが絶好のタイミングだった。
 しかしそうこうする内に私とストーランドと、クラークに対するそれぞれの門出を祝うセレモニーが近づいてき、その日になった。
 サンタフェで一番大きな教会を借り切ってセレモニーが行なわれた。
 私は数日前、亡き沢柳から振り込まれた私の口座(ケーマンとスイスの)を密かにレオナルド・岸田に命令して調べさせたら、私は大金過ぎて資産査定をして貰わないことには一切どれくらいのお金が入金されたかさえ分からなかった。岸田によるとどうもアラブの石油王沢柳静雄からの贈答という形で振り込まれていたと言うから、あのメールは嘘ではなかったことになる。どちらにしても、あのメールは私にとっては嘘ではなかったのだ。しかし岸田はそれを私のジョークと受け取っていた。
 そしてそのセレモニーは危うく一命をとりとめたジムの弟のダニエル・クラークも出席したし、各界の実力者、文化人、芸能人、アーティストらが招待された。勿論エディー・レンディーも来た。
 私はエディーと立食パーティー形式の前夜祭(セレモニーは一昼夜行なわれた)でレンディーと顔が会った時、この前開かれて、島津が亡くなる不運に見舞われたアフリカ某国の教会設立落成記念のセレモニーに参加出来なかった非礼を詫びた。エディーは
「まあ、お互い忙しい身ですから、仕方ないでしょう。」
と言ってから私に
「ところでこれからはどうなさるお積もりですか?」
と尋ねてきた。私は
「今日の夕方隣の会館で行なわれる記者会見で発表致します。」
 と返答した。その後でレンディーは飛行機事故のことを沈痛な面持ちで遺憾の意を表明した。自分にも幾分責任があるかのような口調で
「折角の記念式典でああいう悲劇が起きてしまって、何ともやりきれない思いを私は禁じ得ません。」
 と言った。結局あの日、殆ど陽気な記念式典ではなく、半分亡くなった方々に対する鎮魂のセレモニーとなってしまったのだった。しかしその記念式典以降、あの国では確かに食料需給もレンディーの力添えで徐々に達成されていって、そのことは大きく連日取材されていた。
 私は早くから記者会見で何を言うか既に決めていた。
 つまり私は沢柳の私に対する信頼心が本物であることが了解出来たことにより、記者会見では沢柳が生きていればこう言うだろうということに忠実に沢柳になりきって、あるいは沢柳の魂に代弁して喋ろうと思っていたのだ。私は沢柳の代弁者であるという意識が私の中にある不浄な犯罪的心理を一時和らげた。
 あんなメールを送信してきて、しかもそれと同時に莫大な財産を私に振り込んだサハシーはある意味ではあのメールを誰かに読み取られてもそれがジョークであると思わせる仕掛けを思いつくほど頭がよかったと同時に私に対する信頼が厚かったということである。私は一時でも沢柳に対して疑念を抱いていたことを恥じた。
 そして山田に飯島の処遇をどうさせるかという思案が私の心の中で中断された時私は記者会見場にいた。多くのテレビネットワークのマイクが目の前に林立する記者会見場でのデスクに腰掛けて、私は司会を務めることになったサリーの挨拶の言葉を待った。
暫く待っているとサリー・フィッシャーが演壇に立ち
「これから我が社の社長で、ミスター・シズオ・サワヤナギ、サハシーとして親しまれた氏が今回勇退が決定して、今後の抱負と、今までに行なってこられた事業に関する見解をお聞かせ願えることとあいなりました。」
 と賑々しく挨拶をしたので、私は最初にスピーチを行った。
「私がこの社の前進であるスカイカヴァー社を創業したのが今から十八年前で、その社を現在の業務内容である、ポータルサイトビジネスと検索ソフト開発、そしてウェブデザインコンサルタントビジネスに転換して以来十六年間私はこの社に貢献して参りました。しかしこの業界では私のような五十代男性というのは老人に近く、かのミューズソケット社のエディー・レンディー会長もまた、今氏は私どものセレモニーにご出席されていますが、現在は慈善事業家としてご活躍なさっています。私はこういう風に世代交代が激しいということ自体を憂慮する気もなければ、今後私どものCEОに就任されるマイケル・ストーンランド氏に何か提言のようなことも一切致しません。そもそもこういう風に一人の経営者が去って、別の人が経営を担当するということ自体はいいことなのです。」
 私は暫く社を立ち上げてからあった色々なことを、前日にネットや書斎に置かれてある資料を手掛かりに内容を考えていた通りに話した。そして当然私自身が担当したズームアップ社やシューズデザイナー社との提携や、K社との提携に関しても、さりげなく(あまりそればかりを強調することなく)述べた。そして続いて
「しかし私は勇退後、レンディー氏のように慈善事業をしていく積もりはありません。私は物資提供とか教会設立も素晴らしいことだと思いますが、私に向いた日本の俳句を作って参りたいと存じます。」
 と自分自身の願望をそのまま告げた。つまりこれからは私が沢柳静雄を演じるのではなく生きるのである。
 そして記者たちが色々な質問をしたが、幸いあまり私が引き継ぐ以前の質問はあまり出なかった。出てもあまり詳細に聞き出すようなものではなかった。勿論そういうことがあったとしても動じないように常に私はこのビジネスに関しては準備万端で臨んでいたのだ。
 この記者会見が仮に日本で放映されたとしても私は俳句仲間たちには既に述べたように郷田守の方が偽名であったと告げることにしていた。伊豆倉がその映像を見たって、それがどうしたというのだ。事実私が沢柳と瓜二つであり、更に山田もそうであるという偶然が世の中にはあるではないか。
 しかし飯島だけは私をフリスコで目撃しているのだ。
 しかし私はその日は私に花を持たせるために私の後にマイクがスピーチすることは計画の中になく(後日設定されていた)、飯島に関する苦悩を忘れて、パーティー会場に記者会見を終えてから戻り楽しむことにした。それが沢柳に対する私からの供養だと思ったからだ。そこには内外の政財界の大物、大リーグの選手やCFに起用された日本の各界のスポーツ選手、あるいはアメリカの上院、下院議員たち、あるいは日本の政治家も大勢招待され出席しいていた。
 夜中の二時頃までパーティーは続き、その後自然に散会となった。私は邸宅に待機していてくれたトムの運転で戻り、少し酔ってふらふらする目を擦りながら、個人用のパソコンを開いてメールチェックをした。すると吹上からメールが届いていた。内容は、彼が発起人として須賀、桑原、島田を除いて今度近田と私と三人で一回京都を吟行してから独自の句会をしていかないかという誘いであった。
 私はいずれにしても日本に帰国する積もりだった(山田にも替え玉郷田守の今後のこともあるので会わなくてはならない)ので、快諾する旨を返信した。
 私は急に京都で共に歩いた彼らが懐かしくなった。ほどなく又会えるだろうと思った。
 私はその一ヶ月後、つまり再び秋も暮となった十一月初旬、つまり最初に須賀から来たメールでの誘いに応じてから一年が経っていたが、その頃まで残務整理と、邸宅に置かれてある資産の整理に費やされた。例の私が精魂を込めて作っていた盆栽は、私の指示によって山田時代にも引き継がれて作り変えられていたが、私の代に戻って再び修正したものであり、それを庭師のロジャースに別れの記念に差し上げた。
 そして翌日に帰国という段になって、トムとビルとサリーとヒーリーだけで一度送別会を植物園の一角にあるコーナーを借りて、植物園の園長や、私がよく行った教会の牧師たちを招待して行なうことになった。あの時は山田に引き継がせたので一切別れを告げないで海外旅行に行き、その後シンガポールに移り住んだが、本当に今度は日本に帰国することになったのだ。しかも沢柳静雄としてである。
 結局再び山田からバトンタッチして四ヶ月と少しサンタフェの邸宅と本社で過ごしたことになり、私にとっては一年三ヶ月とそれを足すと約一年七ヶ月のアメリカ滞在だったことになる。
 最後の送別会では普段私は書斎に閉じ篭ることが多く、それ以外の時間はオフの時は植物園か教会に出掛けていたので、顔は見かけたことがあったのだが、殆ど交流がなく時折地元の自治会等の書類にサインすることを求められて話す程度だった執事であるアイルランド系のライオネル・モリソンと一番長く談話し、彼が日本贔屓であることを知り、何ならここを辞めた後の仕事の世話をしてあげようと言ったら、是非日本に、しかも京都へ行きたいと言い出した。そこで私は彼を連れて帰国することにした。当分の生活の面倒くらいなら見られるし、何なら秘書として雇ってずっと日本に置いておいてもいいとさえ思った。サンタフェの邸宅は不動産が売り出し、スコット・ヒーリーが副社長に就任するに伴って彼が買い取り住むことになった。マイクはサクラメントに妻子と大邸宅を持っていて、いつも私用ジェットで個人のパイロットを雇いサンタフェまで来ていた。サンタフェ近くのホテルを利用して徹夜続きの時などは帰宅していなかったために、今まで以上に忙しくなるのでサンタフェの郊外に私邸をもう一つ購入することにした。やはりサンタフェ郊外にアパートを借りていたジムはニューヨークに移り住み、市内に会社を立ち上げることになった。岸田もトムもビルもサリーもそのままマイクお抱えとなった。マイクたち新経営陣の記者会見は私の帰国後行なわれた。
 私は送別会の翌日にロスまで最後にトムに送って貰ってトムに別れを告げそこから飛行機に乗って日本に帰国した。私は暫く新宿や池袋のホテルを泊まり歩き、連れてきたモリソンに不動産に行って貰って(彼は日本語が堪能だった)、一ヶ月以内に部屋を売り出し中のマンションを購入して貰い、しかし金城悟としての私の身元を知る人の殆どいない静岡市に居を構えることにした。

Friday, November 20, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>㉑

 今回は初めて新幹線で京都へ行った。本当は前回もそうすべきだった。何故なら島津と山田に会うことで殆ど吟行そのものに神経が集中することなどなかったからだ。その証拠に今ではその吟行でどの寺や神社に訪れたか全く思い出せないのだ。しかしその前は最初に訪れた時に三泊二日の学生旅行的気分だったからこそ、須賀が紹介してくれた面々と久し振りに生きた心地の旅行を味わえたのだ。だから二度目も京都に到着する前日の夕方以降に成田に到着する便でシンガポールから旅立ったのだ。しかしその時は流石に私は学生旅行の気分を思い出す心の余裕などなかった。それもその筈である。私の策略が配下の人間であるマイクにだけはとっくに見抜かれていたからである。その時現在で私から山田へのチェンジを知っていたのはマイク・ストーンランドと島津、そして薄々勘付いていたのがサリーだった。勿論そのことを山田は気づいてもいないだろう。つまりそういう山田の鈍感さを私は最初に見抜けなかったということがある意味では私の最大のミステイクだったのかも知れない。

 京都駅に新幹線で到着して広隆寺へタクシーを飛ばして門の前で降り本堂へ向かった時には大分蒸し蒸ししてきていた。私はメールの文面に∧この前みたいにサングラスをかけて来い∨と命じた。すると既に私よりも先に彼は弥勒菩薩の前に佇んでいて、私の方にちらりと目をやると少し微笑んだ。こういう風にいつも先に来ているところがなかなか礼儀のある奴だと私は思った。
 山田は
「どうもお久し振りです。あれから丁度一ヶ月ですね。」
と言って私に握手を求めた。
「今回は川上支社長のところにも行ってこられたんですか?」
と私が聞くと山田は
「いいえ、今回は沢柳さんにお会いするためだけです。」
と山田は言った。私は彼を本堂から出てあまりひとけのない一角へと誘い出しながら
「単刀直入に申し上げたいのだが、あまりあなたの決裁の態度とかでの評判がよくないんですよ。」
と言うと山田はやっぱりそうだったのかというような表情を浮かべ
「やはりそうでしたか。」
と項垂れるようにして溜め息をついた。
「そこでどうだろう、今後もずっと引き続き替え玉を演じていく積もりですか?」
と聞くと山田は私があるいはと想像したのとは逆に
「いいえ、私にはもう殆ど耐えられないんですよ。こんな仕事。どんなに高額の報酬を頂いたって生きた心地がしないんですから。」
と私に泣きつくような態度を示した。この時私は決心したのだ。もう一度私が沢柳に成りすまそうと。
 山田が縋りつくような表情でこう言った。
「今後の身の振り方を真剣にここニ、三ヶ月考えていたんです。」
私は山田のその言葉を受けて 
「じゃあ、これからはあなたに代わって貰って一旦秘密のリタイアをした後の私の替え玉となって生きていって貰うかな。」
と言った。
「沢柳社長は今どういう名前で生活されているんですか?」
と山田が質問してきたので、もうここまできたら、彼に私、つまり翻訳家、郷田守として入れ替わって貰うより他ないと悟ったので
「郷田守と名乗っているんですよ。」
と教えた。
 彼がどんな字ですかと尋ねるので私は水郷の郷に田んぼの田で守りに入るの守るだと教えた。それから私はシンガポールの住所と私のマンションに置かれてあるパソコンの操作方法、翻訳業務のいろはとこれまでの仕事上の経緯、郷田守としての俳句仲間や翻訳業務でのクライアントの情報を事細かに教えた。しかし俳句の句会の誘いにはどんなに仕事が暇でも決して参加せず、仕事が忙しいので欠席するように命じた。俳句だけはそう簡単に私の作風まで真似て他者を誤魔化すことなど出来はしない。ヴェロニカを引き継がせるよりもそれは大変なことなのだ。
 私は山田に更にこれまでの山田による決裁の色々を教えて貰った。と言うのも私自身その頃では殆ど翻訳業の方に忙しくスカイスレッダーの私が降りた後の成り行きに疎くなっていたからである。 
 山田と話しながら腕時計を見ると既に四時近くなっていた。私は山田にシンガポールでの生活上で注意すべきことを何回も念を押して、予めメールで指示しておいた通りに彼が持ってきたパスポートと自分が持っている郷田守としてのパスポートを交換した。山田とはそのまま広隆寺を出たところで別れ、山田はタクシーでそのまま大阪国際空港に直行しシンガポールに向かい、私はタクシーで京都駅まで行き、そこから新幹線で東京まで再び戻り、久し振りに川上節夫(尤もそれは金城悟による替え玉としてであって、向こうにとってではないが)に日程上の調整のための会議に出席するために所沢まで西武新宿線の特急「小江戸」の乗り二駅目の所沢で下車した。

 それにしてもここ数ヶ月須賀から来たメールで秋の京都を歩いた時から暫く吹上他の俳句仲間、あるいは句会の後島田を通して得た翻訳の仕事での兼杉や飯島といった人たちとの間で取り交わされた交流や人的ネットワークや本当のところ今は亡き沢柳の怨念や島津の忠誠心に心を多少掻き乱されながらの日常から今度はいきなりそれより一年前まで遡る全く異なった人的ネットワークへとひょいと乗り移ることは、それをするまではどこか心の中に不安を感じざるを得なかったものの、案ずるより生むがやすしで、私はすっかり所沢駅を出て日本支社にタクシーで向かった時には沢柳の気持ちにシフトしていたことは不思議だった。
 とは言うものの、私自身は「大丈夫だ、俺は山田とは違ってオリジナルなコピーである」と言い聞かせていたが、本当は山田からまた替え玉の面子が替わることで周囲に不協和音を立てるのではないかと懸念したが、その心配をよそに川上も、相川も、友部も、島村も寧ろ以前よりも私に対する接し方はよかった。その証拠に私が例の古めかしいマンションで夕食を友部の作った料理を食べた後、相川と共にマンションのテレビで十時頃ニュースショーを見ていたが
「以前の溌剌とされた社長の意気が戻ってきたようだって、川上支社長が仰っていましたよ。私もそう思います。」
と私に囁いたのだ。
 いよいよ明日は予め山田が用意させていた自家用ジェット(アメリカ国内ではそれを利用すると国民に非難されるから避けていたが、今回のような臨時の帰国(山田にとって)の場合には帰路は調布の飛行場から飛び立つことが多かったのだ)でアメリカのサンタフェまで行くのだ。一年数ヶ月前までのあの目まぐるしいビジーネスがまた私に戻ってきた。
 私を最も感動させたことというのはサリーがとても喜んでくれたことである。とは言え他の社員にとってはいつもと変わりないことなので、彼女は瞳だけでそれを私に示した。その時ふと私は島津が一切を沈黙したままでいたと言っていたが、本当は全てをサリーは理解し私から山田に交代したことも気づいていたのではないかとその笑みを見て思ったのだ。しかしその時はまだ私には想像の域を超えていなかった。
 しかし沢柳がこの事業を立ち上げた時と大分事情が変わってきていたというのが私の実感だった。ポータルサイトビジネスも、検索ソフトの開発にしても、最も需要の大きなコンテンツとは地方向けの利便性だったのだ。確かにITビジネスが最初に世界を席捲した頃というのは、世界中を一挙に駆け巡る情報という観点だった。そしてそれは今でも変わりなく需要があり続けている。しかしそれ以上に重要なことは自分が住むエリアでの細かい情報である。例えば態々遠くまで出掛けなくても近場で済む用事を多く作ることで時間を節約するということが現代人にとって必須の生きる知恵だからだ。その分空いた時間と金銭的余裕が逆にオフの時間のより充実したリッチな生活を保証するということこそスカイスレッダー社の今後のスタンスの取り方だったのである。その観点は幾分山田にもあったものの、私が再開した替え玉CEО職においてはより充実させていった。
 瞬く間に私が密かに返り咲いてから二ヶ月が経ちそろそろサンタフェも秋の装いが匂い立ってきていた。私はそろそろ五十の坂を上る年頃になっていた。私が替え玉CEОに着任した時には48歳だったが、50になるその年の秋私は「本当の」沢柳静雄のリタイアというものを考え始めた。あのエディー・レンディーさえ五十少しでリタイアした。この業界で40歳でも最早老人であると言われるビジネスで私は予想以上も長く続けてこられた。この年齢のことを考えた時沢柳が私に後を継がせる気になった気持ちも理解出来た。勿論彼は私と同年齢くらいだったが、私の場合彼の敷いたレールに乗っかっていればそれでよかった。創業者には創業者にしか分からない労苦というものがあるのだ。しかもサハシーが立ち上げた当時のビジネスの常識と、その頃の常識は先にも述べたが全く違ってきている。しかしだからこそサハシーは自分の名前を後世に残したくて私をダミーにして密かにリタイアしたのだ。だから私はその意志を継いで、山田があまり芳しくない評判のまま終らせるのではなく、一定の評価を得ていた私による采配によってサハシーに名誉あるリタイアをさせてあげなくてはならない。それが私にとっての影武者なりの誇りである。
 事実社内では既に私よりも九、十歳若いマイク・ストーンランドを後継に推す声が大部以前から上がっていた。私より五、六歳若いジム・クラークはかなり以前からマイクが社長に就任するのを機に独立することを考えていたようだった。結果的には全くその通りにほどなく落着することとなったのだが、それより前に私にとって第三の人生に邁進するだけではなく、決定的に第二にも第一にも一切回帰することが不可能になる事件に遭遇したのである。
 私がジムに自分の後を継いでくれないかと相談した時、彼の出した案は副社長に川上節夫、スコット・ヒーリー、日本支社長には相川というものだった。私は快諾した。全員私のよく知るメンバーであったからである。ヒーリーの後釜には顧問弁護士のレオナルド・岸田を私が推挙したら、マイクも賛同してくれた。そのことを会議で承認を得るために私たちは全ての経営陣の関係者を集めて臨時会議を開いた。そしてマイクが私の後を引き継ぐということは満場一致で承認された。そしてその際にジムは独立することを会議の際に宣言したのだ。
 全て後継のプランが会議で承認され決定された翌日午前中、来賓室にその日は一切来客がなかったので、借り切って、二人で来賓用のコニャックを飲みながらサリーの運んできてくれたオードブルをつまみながら、来賓室の大型画面の薄型液晶壁型テレビで大リーグ野球の試合を見ていたが、ニュースの時間になったのでチャンネルを換えて暫く二人は話しを中断させた。
 ニュースでアフリカ某国の自家用ジェット機が墜落したニュースをサンタフェの地方テレビネットワークのニュースで女性アナウンサーが読み上げた。その時ほどそれまでの私の人生で大きな衝撃を受けたことはなかったと言ってよい。何故なら私の本名である金城悟、つまりサトシ・キンジョウがその乗客にいたということだったからである。
 私はそれよりも数日前島津から、いよいよ教会落成記念式典のセレモニーミュージックをダニエル・クラークが作曲担当して指揮し、VIPが沢山招待されたそのパーティーの模様を取材することを私に代行するための最後の打ち合わせのメールを送信されていて、私はそれに対し、こと細かに指示し、色々なノウハウを伝授する内容を返信していたので、その日が記念式典の日であることを知っていた。私が飯島から承った内容によるとその教会はとても車で行くには時間がかかり過ぎる奥地なので、その国の中央空港から自家用ジェットで記念式典に参加する客を何回かに分けて運ぶというものだった。島津は山田が招待されるのではないかと言っていたが、幸い私にも実は招待状は来たし、作曲家の兄のジム・クラークにもマイクにも当然招待状は来たのだが、その日午後から重要な会議があったので全員参加できない旨を主催者のレンディーに伝えていたのだ。
 しかしレンディーは幸い別の便に搭乗していたし、ダニエルもそちらの方だったので、大丈夫だったが、気の毒なことに島津ら取材関連の人間は皆墜落した飛行機に乗っていた。
 そのニュースが報じられた時マイクはエディーやダニエルが大丈夫だったことをしきりに喜んでいたが、私だけは違った。勿論その時オードブルの追加を運んできていたサリーもマイクと同じ反応だったが、私も外見上ではそう装っていたが、島津が身代わりになって本来だったなら私が飛んでいたかも知れないジェット機に乗って遭難したのだ。そして私はその時名実共に金城悟としての人生に永遠に別れを告げなければならなくなったのだった。
 アナウンサーはすぐに次のニュース原稿を読み上げていた。
 そしてマイクが
「いやあ、よかったですね。レンディーさんたちが助かって。レンディーさんのような世界的な財産である天才実業家やダニエルのような世界的作曲家がそう簡単に死なれては世界の損失になりますからね。」
 確かに理性的に捉えればそうである。一度は敵対もしたが、ミューズソケット社の創業者であるエディー・レンディーがいなければ今頃世界はもっと不便だっただろう。そしてこの生き馬の目を抜く業界という奴は常に敵と味方がまるで戦国時代のように入れ替わることが茶飯な日常の連続であり、その連続に耐えられない奴は脱落していくだけであり、一度脱落したら誰も顧みない。忘れられた方が楽だと一年前は私もそう思っていた。しかし再度返り咲くと再び未練が擡げて来る。
 しかし私が山田を今後も利用出来るのではないかとあの時広隆寺で密かに内心愉悦に浸っていた時、山田には悟られないように悪の華を私は咲かせつつあったのだが、その悪を引っ込めるには不可能な地点に私は来ていた。私はそのニュースが報じられるのを見た瞬間、名実共に沢柳静雄になった。いやなるしか道は残されていなかった。金城悟は最早誰も知らない。確かに飯島だけが例外である。伊豆倉もそうだ。しかし伊豆倉はこちらから彼のギャラリーに訪れなければ向こうからやって来ることはない。そういう男であることを一番私が知っていた。実はその先私はこの二人の存在に対してどうしてもひっかかる思いを払拭することが出来なかったためにある暴挙に出るのだが、その時点ではマイクにもサリーにも悟られないように金城悟に対して別れの言葉を心の中で吐きつつ、最早確定申告をさも日本に滞在しているかのようにしてアイデンティティーを誤魔化しつつ生活する必要性がなくなったことを密かに祝っていた。
 マイクは他のニュースに移るとそのニュースのことを話題に上機嫌でコニャックを飲み干していた。そしてエコカー開発のニュースに移るとそのことを話題にして
「いやあ、しかし日本の電気自動車の開発は進んでいるけれど、世界中のガソリン車を退却させて、エコカーにするっていう時世界ではどのような騒乱になることでしょうね。アラブの石油王とかね。」
と言っていたが、私の頭の中では全て死んだ島津のこと、そして今後の自分の身の振り方についてだけ考えていた。私は栄誉ある撤退として未来永劫沢柳静雄の晩年を演じ続けなくてはならないのだ。

 私はその日会議に出席してからトムの運転する車でサンタフェの邸宅に戻ってから一人書斎に閉じ篭り一人予めネットで購入していたワインを飲みながら暫くじっとテレビもつけずに考え込んでいた。僅か二ヶ月前までは私はシンガポールの町並みを眺望出来るマンションで一人静かに島田からひょんなことから依頼されて再開して一定の成功を収めつつあった翻訳業に執心していた。しかし今や一転して全く異なった業務に就いている。しかしあの秋の京都旅行まではリタイアした人間の思考のモードだった。それは今再び始めた仕事の延長線にあった。しかし二度と同じような替え玉CEOに返り咲くことをしない積もりだったので、予想外にそうなってしまった。しかしそれもよく考えれば私は実は無意識の内に気弱そうで真面目そうな山田があまり芳しくない経営をしていくに違いないと思い、いつか自分で返り咲き、その時に山田を見下し、利用価値のある者として温存させるためにあの時彼を選んだのかも知れないと私は思った。それを言うならひょっとしたら島津に対して私は最初に話した時から好感を抱いていたのだが、その時無意識の内に彼が私、つまり金城悟として死んでくれればこれ以上のことはないとまで願っていたのかも知れず、その願いが案外彼の死を招き寄せたということもあり得るとまで考えを発展させた。すると途端に私は深い自己嫌悪に到達するのだった。
 しかし私は同時にあの今では既に懐かしい京都旅行での須賀による誘いに乗ったことで、思いも拠らず吹上や桑原、近田らと楽しい時間を過ごしたことで、郷田守としての生活もまた決して捨て難いなどとは言えないということの決してない無性に懐かしくもある日々となっていたのだ。私は既に島津の死によって沢柳静雄として生きることも、郷田守として生きることも両方とも捨てることが困難な地点に来ていることをはっきりと自覚していた。
 そしてその思いが強ければ強いほどある不安が私の脳裏を占領し始めた。
 それは飯島の存在である。
 もう一人伊豆倉もそうであるが、前にも述べたように伊豆倉は私、つまり金城悟が生きていても、それがそのニュースで報道された「私」であると確証出来ないだろう。また私が島津の死をもって日本にそのニュースがあった時私は日本にいなかったので、日本ではどのように報道されたかを知ることが出来ない(山田にも教えて貰うわけにはいかない)のだが、仮に金城悟として私が死んだということを伊豆倉が知ったとしても、私自身があのギャラリーに行くことさえしなければどうということはない。そもそも伊豆倉は国際的マーケットを相手にするディーラーではなく、国内の作家や国内で出回っている海外作家の作品を売買することで生計を立てている男である。世界的規模で歩き回ってきた私のアイデンティティーと金城悟としてのアイデンティティーを突き合わせるなどということは彼にあっては不可能である。私からあのギャラリーに出向かない限り彼の存在が私にとって脅威となることはまずないと言ってよい。
 またフランス在住の島津がフランスから自分のパスポートを使って、まず日本に来て、そこからアフリカまで飛んだとしても、私のパスポートを持っているのは山田である。しかしそのパスポートは郷田守として私が闇のルートを利用して四回目の山田との広隆寺で会う約束の時のためにその直前に仕入れていた偽造パスポートである。だから金城悟は法律上死んでしまった(仮に島津の死∧恐らく私しか知らない∨があの埼玉県の以前私が住んでいてマンションの住人としての金城悟であるということが発覚し得ないとしても、私が七年あのマンションに戻らず、しかも確定申告もしないで済ませば自動的に私は失踪宣告をされ、戸籍から抹消される)としても偽造人格ではあるとは言え、郷田守は死んでいない。尤も私、つまり郷田守としてのアイデンティティーが葬られるとすれば報道等によって私の死、つまり金城悟の死が世間一般に認知されることによってである。つまりもし私がこうしてその時サンタフェで悠々と生きているということが日本の報道によって発覚して伝えられたなら、その齟齬は一体どういうことかと世間の目はそこに犯罪の匂いを感じ取るのは必至である。またそれは郷田守として私と瓜二つの山田の存在が世間一般に認知されることによっても同じである。しかし前者の世間的認知の場合尤もそれを可能にするのは伊豆倉と飯島の証言のみであるが。
 ここで再び先ほどの問題に戻った。つまり伊豆倉は態々そんな証言をするほど社会正義とか、他人の人生そのものに関心すらないタイプの、それでいて律儀な商売人である。彼にとって脅威であるのは自分にとって脅威のある人間だけである。だからどんなに私が極悪な犯罪者であっても、彼は恐らくそのことで彼に対して私が脅威でない限り私を告発するようなことはまずない。しかし飯島は違う。彼は典型的に俗物なのだ。彼なら私の私生活に関心すら抱き、終いには私の生活の中に犯罪の匂いを未だ匂わない内から想定して嗅ぎつけるに違いない。
 だから逆に私は金城悟として死ぬ以上世間的な体裁の上では郷田守としても死ぬ必要があるのである。郷田守が死んでこそ初めて私は晴れて元スカイスレッダーのCEОとしての老後を保証されるのである。そうなると問題なのは、山田の存在である。しかし山田が今後私の申し出をどのような態度で応答するかという一点に彼の利用価値も、彼の脅威も存在し得るとだけは言えた。
 しかし困ったことに私は体裁上では島田と飯島が親しい以上沢柳を演じ続けるのにも無理がある。もし百歩譲って私が実は沢柳自身であり、オフの時間にお忍びで私的な行動をする時だけ郷田守と名乗っていると島田たち(あるいは吹上、須賀、桑原、近田のことである)に説得することが出来たとしても、私が金城悟であることを伊豆倉のギャラリーで紹介された飯島にはその言い訳は一切通じないのである。
 何度思い直してみても飯島の存在だけがネックとなって私に迫った。しかも困ったことには私にとって京都吟行の仲間たちは私の替え玉CEOをして心がずたずたになっているところに得たオアシスだったのである。それだから私は何としても、この絆だけは失いたくはなかった。しかし飯島はその人的ネットワークの枠から外れる。私の思考はそこで再び飯島だけが邪魔者であるという結論に達した。
 私はその厳然たる事実に覚醒した時真に悪に目覚めたと言える。何故なら飯島の殺害を企て始めたからである。
 しかし一旦殺害を実行するとなると、一番重要なこととは、私にとって安全な殺害方法と、自らは手を染めないということである。誰かに私がそれとなく何かをしかけさせ、しかも自分がしたことによって飯島が事故的に死ぬということを知らずにことが運ぶというシチュエーションしか私に火の粉が飛び散らない形での選択肢は残されていない。そこで私は即座に山田の存在を思い描いたのだ。まさにこういう時にこそ山田が利用出来ると私は思ったのだ。だからこそ人間は邪魔であると安易に判断してそれを捨てることをしてはいけないこともあるのだ。
 
 私はよく自分の気持ちを落ち着けさせるためにその時持っていたワイングラスの中のワインを一気に飲み干し、この三年半にあったことの全てをもう一度じっくりと想起し始めた。
 私の人生は世界が虚構めいて見えることが自然となるよりは虚構だけが世界であると益々自覚するものだった。それはこの三年半の急転直下において完成した。
 そのために私はパソコンを開きワードで次のように箇条書きにして文字を入力し、プリントした。(勿論これも日本語である)

① 伊豆倉のギャラリーに入り浸ることとなり、そこで飯島を紹介されたこと(尤もその時点で私の方から飯島の存在は大したものではなかったのだが、相手にとって私は印象的なものだったようだ。それにしてもああいうタイプの人間だけは始末に終えない。こともあろうにフリスコで私に声をかけてきやがった)
② 奇妙な募集に応じたこと、募集業務の適任者に選ばれたこと
③ 暫くして沢柳に出会ったこと、替え玉CEОになったこと
④ 沢柳が死んだと信じて自分で全て決裁して業務をこなしたこと、山田に引き継がせようと決心したこと
⑤ 沢柳が生きていてばったり出くわしたこと
⑥ 須賀からメールが届いたこと
⑦ その集いで島田に出会い、飯島と島田とが繋がりがあることが発覚したこと
⑧ 島津と出会い、沢柳の今度は本当の死を知ったこと
⑨ 経営に苦闘する山田と向こうから会おうと言われ再び会い最近の様子を聞いたこと
⑩ ストーンランドによって私が山田を替え玉にしてことを見抜かれたことを本人から伝えられ、携帯で米国に戻るように要請されたこと
⑪ ストーンランドの要請に従い山田を替え玉CEОから外すために彼の真意を確認してから彼を説得するために再度山田に会い、再び替え玉CEОに返り咲いたこと
⑫ 島津の死により金城悟の替え玉の死によって私は今後リタイアした沢柳として生きていかざるを得ないこと
⑬ にもかかわらず私が替え玉CEОとしての生活から足を洗った以降の人的ネットワークも捨て去ることが出来ないでいること
⑭ ⑫、⑬の要件を満たすためにはやはり飯島だけが余分な存在であることを確信したこと
 
 上記の箇条書を綜合して私は考えたのだ。
 しかしその時の私は未だそれが序曲であることに気づいていなかった。しかし飯島の殺害方法は気弱な山田でも実行し得ることでなければならない。そこで私はタミフルを何とか調達出来ないものかそのルートをネットで検索し始めた。闇のルートでよい。それは山田に殺せと命じるのではなく、タミフルを仕込んだ何らかの飯島の好きな飲み物を山田から飲ませるように仕向けることが最良の方法であることを思いついた。

 私はいざリタイアすることを決めたらいつまでもスカイスレッダーに留まっている積もりなどなかった。だから本当は山田が今いるポジションに戻りたいと思った。しかし山田こそ実は最も今後の私の人生での疫病神であるとも言えた。何故なら山田だけが私が選び、自分が私から選ばれた経緯を知っているからである。
 しかしその考えはサリーが薄々山田の存在をダミーであると気づき、ダミーを選んだことをしっかりと事実認知しているのはマイクだけである。ジムは気づいていたとしても事実認知しているのとはわけが違う。そこで再び私は山田が利用価値ある今後の道具として残しておくということの選択肢に有効性を認めた。
 そしていよいよ私が正式に引退を取材陣の前で記者会見をする日が近づいた。そして私は皆からこの十余年の間創業してから一途に業務に励んできた人間として本当なら殆どの期間を生きていたなら沢柳本人が祝福されるところを私が代わりに受けることになるのだ。
 それも一重に私のダミーとしての優秀さに拠るものである。そしてその私が沢柳のダミーであることを知る者はこの世には一人もいない、一人を除いて。それこそ飯島である。
 私は連日サリーやヒーリー、あるいは記者会見と、それに引き続き行なわれる予定だった私の引退セレモニーとジムの独立記念パーティーと、マイクの社長就任記念パーティーを兼ねた内外の著名人を集めたパーティーの準備に追われていた。
 しかしサンタフェの邸宅に戻ると私は密かに山田に私がシンガポールのマンションの自室で使用していたパソコンのメールに送信しては彼に翻訳その他の郷田守としての仕事のあれこれを指示し、時には携帯で連絡もした。
 私と沢柳との関係と、山田と私との関係において最大の相違は、私に対して沢柳は殆ど一切何も指示しないでいてくれたということである。ほんの最初の二、三ヶ月だけが私の試用期間であり、それ以降は全く私の裁量によって全てが進行したのだ。しかし山田は違う。勿論私が三度目以降の彼と会う約束を果たした後は明らかに彼はただ単なる私のダミーだった。私は全てを入念に指示してきたからである。
 しかしそれはIT企業のCEОと翻訳業ということの業務の違いにも由来した。何故なら大企業のCEОはこと細かに指示したからと言ってダミーが巧く行動することなど出来るものでもない。だからこそ寧ろ替え玉を用意したのなら、いっそ全てをその者に委ねるしかないのだ。それに引き換え、翻訳業で私がそれまでに培ってきた業績は、トップ企業のCEОと違って些細なミスが重大な結果を招いてしまう。スカイスレッダーは私が失敗すれば私一人が責任を取ればよい(勿論私の失敗によって多くの人が損害を被ることはあるにせよ)から、私の人生そのものはその後も落伍者としてかも知れないが、続行し得る。しかし翻訳の業務を失敗したなら、その時私はどうにかこうにか生活していくことすら覚束なくなるのだ。このことの意味するところは少なくとも私にとっては大きい。何せ私は沢柳から依頼された共犯者なのだから。
 つまり犯罪とはそれをする者にとって大きな意味があるというのではなく、それを辞めた後にどう生活していくかというレヴェルでは、たとえ大勢の人に損害を与えてしまうことがCEO職による失敗があったとしても、それは私にとってはどんなに大きな勇気のいる仕事であっても、ただ単に犯罪の失敗に過ぎないのであり、犯罪者が通常の生活に戻れるために死守せねばならぬこととして翻訳業しか私には残されていないということが重大なのだ。だからこそ私の脳裏には飯島の殺害方法に関する思念が渦巻き、次第にマイクたちとの最後の私にとっての連携プレーは気分的にはどうでもよいものとなっていった。しかしにもかかわらず既に私は全ての行動を粗相のないように運ぶことが出来る堂に入った犯罪者になっていたのである。犯罪だって完成された形態を示せば善行にも匹敵する。
 ニセモノの所業に栄光あれと私は言いたかった。
 私は残された業務をこなすために最後のサンタフェでの滞在をしている時オフの時間に書斎でメールを通じて、あるいは例のSNSを通じて須賀紫卿らと未だに俳句を投句していた。そして相互に講評し合ってきていたのだ。この日本語と英語の世界の往来こそが私の第三の人生におけるその時期の精神的活力を構築していた。
 私は昔から俳句を作るのに、殆どの場合その場ではなくその場から離れた後でその場にいたことを想起して作るというのが遣り方だった。そして京都の吟行から帰った後でもシンガポール滞在期にも、サンタフェ滞在期にも次のような句を作っていたのだ。
 
 西日差す影武者の背に我を見ゆ

 役降りて我の役追う嵐山

 山紅葉見ゆる眼(まなこ)の仕掛け知る

Wednesday, November 18, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑳

              ★

 私にとって第二の人生は確かに伊豆倉に教えて貰ったあの奇妙なクイズ紛いの募集サイトによってであったが、第三の人生はリタイア後から始まったが、その方向を決定付けたのは明らかに須賀から来たメールだった。その第三の人生の初頭で最も大きなことは島津との出会いだったと今では言えるが、中盤で最も衝撃的なことはマイク・ストーンランドから来た携帯電話の受信である。
 私はジム・クラークとも、マイク・ストーンランドとも替え玉CEО時代には巧くやってきたが、この共にワスプである二人には基本的な性格の違いがあった。それはクラークの方はあまり多く語らず、私の指令に従い、私から積極的に何か尋ねない限りあまり本音を語ることがなかった。しかしストーンランドはそうではなく、寧ろ向こうから私に対して多く進言したし、クラークの真意も私に伝えようとした。クラークは私が何か聞けば最も親身になって返答してくれたが、私に率先して色々忠告したりするのは一切がストーンランドだったのである。そのストーンランドが私の携帯番号を知っていたということが私には驚きだった。何故なら私の携帯番号を知っていたのはその時点で島津だけだったからである。(それ以前は沢柳だけだったと私は思っていたが、沢柳の死後彼が私の番号を知ったのか、死の前から彼も知っていたかどうかを私は島津に確かめ損ねた)マイクは私にこう続けた。
「驚かれたでしょうけれど、私は大分以前から今の沢柳社長が替え玉ではないかと疑っていたんですよ。私以外では恐らく秘書のサリー・フィッシャーさんが気づいてらっしゃったんじゃないかと思います。」
と言った。それに対して私は既に正体がばれてしまったことに観念してマイクに
「じゃあ、ジム・クラークは?」
と聞いた。するとマイクは
「さあ、分かりませんね。もし彼なら気づいていたとしても私にそのことを告げることは決してしませんでしょうからね。」
と言った。
「でもどうしてこの番号が分かったんだい?」
と私がニセモノ現役時代の口調で話しかけると、マイクは
「それは、ある日製薬会社Kのリッチモンドさんとフランスのウウェッブデザイン会社の社長さんとポータルサイトのデザインの更新とKの広告に関して打ち合わせでパリに行かれた時に、私だけが持っている社長の書斎のスペアキーで書斎に入って、置かれてある社長個人所有のパソコンのデータからそれらしき連絡先を全部バックアップを取って一々全部当たってみただけですよ。もし本当に替え玉ならそれらしき本人への連絡先のデータを不明確な形でデータ保存している筈だと思ったんです。簡単ですよ。」
 私はマイクに
「今社長はどうしているんだい?」
と聞くとマイクは
「今庭師のロジャースと庭の手入れのことについて打ち合わせをしているところです。」
と言った。懐かしい名前だった。私は時々植物園にロジャースと休日には出掛けた。大邸宅だったが、私は沢柳の指南で一切の執事その他の人々への命令はヒーリーに委任してきていた。これらのことはサハシーが私に告げたのと同じように山梨県の山荘で勿論山田に告げていた。
「それで私にどうしろって言うんだい?」
とマイクに私は尋ねた。
「社長がどういうご意向でこんな手を込んだことをなさったかは私は存じませんけれど、戻って来て頂けないでしょうか?」
と私にマイクはそう言ったので、私は更に
「私でなければ駄目かい?今の社長ではどういうところが駄目なんだい?」
と尋ねるとマイクは
「社長とジムと私の関係が、社長本人だと連携プレーが出来るのに、今の社長じゃあ、ぎくしゃくしてしまうんですよ。」
と言ったのだった。そこで私は
「では他の連中はどうなのかな?例えばヒーリー、レオナルド・岸田、トム、ビルとかは?」
と聞くと
「少し最近社長の様子がおかしいと思っているかも知れませんが、実際に替え玉だと気づいているとしたら、可能性としては私以外ではサリーさんとジムだけでしょうね。」
と言った。私はマイクに
「じゃあ、どんなところが今の社長では不足なのかな?」
と聞くと私にマイクは
「意志決定の態度が決然としていないということですよ。いやあ、でもあなたに連絡が取れて本当によかった。よくご検討下さい。」
と言った。私は
「用件は分かった。考えておく。では、今ちょっと手が離せないので。」
と言って電話を切った。

 私は再び突如第三の人生からそれ以前のものである「第二の人生の頃の自分」に引き戻された。そして悠々自適な翻訳業生活から、あの目まぐるしく変転を重ねまるで生きた心地のしない替え玉CEО生活に気持ちは戻ってしまった。そしてマイクの電話口での口調からはっきりと私自身が既に沢柳自身の替え玉であるということだけは誰からも気づかれていないということだけははっきりとした。それはある意味で私に変な自信を再びつけてしまったのだ。そして山田が利用出来るのではないかという悪意を更に発酵させていってしまう結果にもなるのだった。

 私は数日今後どうしようかと考えあぐねた。朝目が覚めると、パソコンの画面を開き、メールチェックとネットでニュースを見たが、翻訳の仕事にも今一つ身が入らなかった。
 しかし実はある結論だけは既に出されていたのだ。それはもう一度山田を呼び出し聞き質してみるということと、彼に対する私からの今後の利用価値を査定してみようということだった。
 私は再び今度は一切句会の機会とは関係なく一人で京都、広隆寺の弥勒菩薩半伽思惟像の前正午に待ち合わせする旨を山田の個人用パソコンのアドレスへと送信して返事を待った。山田は私が指定した七月の上旬のある日なら大丈夫であるとメールで返信してきた。きっと川上との会議を急遽決定させて帰国する積もりなのだろうと思った。
 ところで私がその時も広隆寺を選んだのはわけがある。それは広隆寺の人の出入りが他の名所旧跡よりは平日は疎らだということからである。尤もそればかりではない。私にとって最も心の落ち着く寺であったということ、そして私が島津に会い、山田に再会した時明らかに徐々に今の状態へと兆す私の人生の分岐点を形作るように予感し得たからだった。

 山田と広隆寺本堂で会う約束の日がきた。替え玉CEОを彼に引き継がせてから初めて会ったあの京都吟行の二日目の日から丁度二ヶ月くらい経っていた。京都はすっかり夏になっていた。
 その日は成田に着いた時には比較的涼しかった。これで山田と会うのは四度目になる。山田は意外と悪辣さの希薄な男であることを私は前回の再会で感じ取っていた。だからその日私は山田の真意を尋ねてみる必要があると感じていた。マイク・ストーンランドは確かに彼のマイクやジムやサリーに対する応対が決然としていないと言っていた。なら今後このまま替え玉CEOを継続してやっていく積もりなのかだけは確認を取っておく必要がある。と言うのも意外と最後の最後になってCEOに成りすますことに未練が出てきて私が「そろそろ俺とバトンタッチしようか」と提案したならごね出す可能性も決してゼロではない。そして今度こそ私を脅してくるかも知れない。だから私はシンガポールから成田へ向けて飛ぶ飛行機の中で何故な少し心がざわつき始めた。しかし富士山が窓から見えてきた時少し心が落ち着いた。「しっかりしろ、お前はこれまでだって何とか切り抜けてきたじゃないか」と私は自分に向かって叫んでいた。

Sunday, November 15, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑲

 それから私はすぐさまシンガポールのマンションに引き返すために成田に直行した。島田に誘いがなければ来ることのなかった東京への臨時の旅だった。しかし私は徐々にそのようにまた替え玉CEО時代のビジーネスに郷愁を覚えるように、その頃の身体のリズムに縒り戻そうとする気持ちにもなっていたのだ。それを促進してくれたのが俳句の吟行だったというわけだ。
 そして何日か経ってからメールチェックをすると飯島によるメールが送信されてきていた。その文面には何とエディー・レンディーが主催するアフリカ某国奥地の教会の設立セレモニーにはジム・クラークの弟の有名作曲家であるダニエル・クラークが記念のテーマミュージックを作曲し、現地で調達したオーケストラの指揮もするということで、しかも兄のジムも出席するということだった。そうなると益々私はそこに取材で行くわけにはいかない。
 しかし私は折角依頼された仕事を無碍に断ることは、今後の俳句趣味の集いとして吟行仲間である島田の手前あまり得策ではないとも思っていたのだ。その日は予め依頼されて着工していた翻訳の仕事が大分捗って、少し小休止してもよいと私は判断して、今後の仕事の対策を練ることにした。
 そしてテレビをつけ、ニュースを見ながら、アメリカの株価が大分上昇したといったことを耳で入れながら、コーヒーを入れてテレビの見えない場所にも置かれてあるソファ(たまにはテレビの見えない場所に向けて座りたい時もあるので私はそうしていた)に腰掛け、MDに録音していたジャズを聴きだした。
 その時私はコーヒーを口にしながらふと島津のことを思い出した。
島津のことを私はもし沢柳からの申し出を「そんなの犯罪だから断る」と言ったならあるいは島津を使って沢柳が私を消していたかも知れないと二度目の京都旅行における二日目の句会の時にぼんやりした表情で考えていたことを思い出した。が、よく考えてみると、島津がそれほどまでに沢柳に傾斜して遥か自分より若い実業家に残りの人生を賭けたのは、私が仮に断っても潔くそれを受け容れるという態度を採って、また私がそんな理不尽な申し出を受けたことを別の誰かに言いふらしたとしても一切私に危害を加える積もりなどないということを察知していたからこそではないかと論理的にそう思い始めた。すると途端に島津という人間にも、沢柳同様の興味を私は覚え始めたのだ。それは男が男に惚れるということかも知れないと思った。しかしにもかかわらず沢柳の方はそれほど島津に対して信頼していたとは限らない。だからこそ島津を自分がリタイアした時継続して私のボディーガードに留まることを薦めなかったとも言える。
 つまりただ単に脇に若くして成功した実業家を尊崇の目つきで控える自分よりも年配の者を置いておきたいからこそ彼がフランスの片田舎にまでついてくる元配下の人間の自分に対する尊敬心を払い除けることをしなかったとも言える。そう考えると沢柳本人は意外と姑息なタイプの人間にも見えてきたし、逆に妙に私は島津を憐憫の情で見始めたと同時に何かを頼みやすいタイプではないかと踏みだしもしたのだった。
 そしてあの時地下鉄の駅で別れしな私にひょいと彼がポケットから取り出して私に渡してくれた名刺を名刺入れから私は取り出し彼に電話を入れてみようと思い立ったのだ。彼はフランスの私に聞いたことのなかった地名の片田舎で、沢柳の最後を知っている唯一の人間である。
 すると電話の向こうで一ヶ月と少し前に会ったばかりの島津の声が明瞭に聞き取れた。彼は
「アロー。」
と言って電話に出た。私が一言
「金城です。」
と言うと島津は
「ああ、あなたでしたか。」
と安心したように日本語で話しだした。
「ちょっと、あなたの声が急に聞きたくなったんですよ。」
と私が言うと
「それは嬉しいですね。でも今仕事中だったんですか?」
と島津が聞いてきたので私は
「ええ、翻訳の仕事が結構常に押していましてね。でもまあ一息ついていたところです。」
と言ってから私はちょっと例の島津の一言、つまり「悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってある」というのが気にかかってそのことを問い質した。
「あなたがこの前仰っていたこの言葉の真意をお聞きしたくてね。」
と言うと彼は笑い出しながら
「いえ、そんな深い意味は御座いませんよ。でも実はまあ、もう言ってもいいかな、あなたから山田さんへと新しい替え玉CEОがチェンジしたことを薄々気づいていた人が一人いたんですよ。」
と言い出したのだ。私は急に胸がざわざわし始めて
「えっ、それは誰ですか?」
と島津に問い質すと
「ええ、実はサリー・フィッシャーさんが一度だけ私の下に電話して来られたことがあったんです。私の連絡先は実はトムにだけは教えていたものでして、そのトムから偶然サリーさんがお聞きになられたんだそうです。」
 私は急いて先を早く知りたくて
「それで?」
と聞いた。すると島津は
「何か、あなたと違ってジム・クラークやマイク・ストーンランドに対する接し方が卑屈だって、そう仰ってました。」
「それで?」
と更に私が聞き出そうとすると島津は
「ええ、そう仰るものですから、私は勿論一切白を切り通しましたよ。」
私は核心的なこととして
「その電話があったのは、私と沢柳さんとがモンサンミッシェルでばったり出くわした後のことですか?それとも前の?」
と聞くと
「確か少し前のことでしたね。」
と島津は返答した。その時私は即座に
「ではあなたはサリーさんが仰ることが本当の沢柳さんと私が入れ替わったことをサリーさんがお聞きしたという風に受け取られたんですね?」
と聞くと、島津は強く否定して
「いいえ、違います。あなたから誰か他の人に入れ替わったと思われていたってことで、彼女だけでなくそのことを既にサハシーも気づいていて、そのことを私に密かに告げていました。」
と言った。私は沢柳の眼力の鋭さに打ちのめされながら
「でも一体どうしてそれが分かったんですか?」
と聞くと
「テレビでリヨンとかの会議とかで映る山田さんの出で立ちとか立ち居振る舞いをご覧になって社長は即座に見抜かれていましたよ。」 
と島津は言った。私は
「それじゃ、私があの時モンサンミッシェルで沢柳さんとお会いした時には既にあの人は私が山田と入れ替わりリタイアしていたことをご存知でらっしゃったんですね。」
と島津に言った。島津は
「そのようですね。」
と応えた。私は暫く「うーん」と唸りながら、暫く深呼吸をしてから
「ところで、島津さん、実は一つ困ったことがあるんですよ。」
と言った。兎に角私はまず用件を告げることにしたのだ。それは私の中で先刻、妙に私は島津を憐憫の情で見始めたと同時に何かを頼みやすいタイプではないかと踏みだしもしたという気持ちを行動に移すことを意味した。つまり私は折角依頼された仕事を無碍に断ることは、今後の俳句趣味の集いとして吟行仲間である島田の手前あまり得策ではないとも思っていたから、その飯島から依頼された仕事を島津に代行して貰おうかと不遜にも考えていたのだ。そして私は電話でその旨を伝えたのだ。すると意外にも島津は
「そういうことでしたか。それは困りますよね。取材相手が何度もお会いしたエディー・レンディーさんで出席者の一人があなたが普段行動を共にしているジム・クラークさんですし、またひょっとしたら山田さんも(沢柳社長として)ご招待されるかも知れないですからね。」
と言って、一息ついて
「よござんすよ。お引き受けいたしましょう。要するに教会の設立記念式典の様子と主催者たちに意見を伺って文章に纏めてその飯島さんって方にメールか郵送でお送りすればよろしいのですね。」
と私に確認を取った。私はそれに対し
「一度私に記念のセレモニーで会ったこと、誰かが喋ったことをメモして下さってメールで添付発送して下されば、後は私が全て纏め、それを飯島さんにお送り致しますから。」
と言うと
「分かりました。私も丁度フランスの片田舎で退屈していたところですので。」
と言って笑った。
 結局島津は私からの願いをあっさり承諾してくれた。私は島津に私、つまり金城悟としてのパスポートを郵送する旨を最後に電話で伝え、後日郵送した。しかし写真だけは偽造して島津のものが貼られていなければならないので、私はかつて「太陽がいっぱい」という映画があったが、あの映画の主人公のように島津がプロレスラーの頃の写真をネット検索で探し画像操作して老けさせ、それを金城悟のパスポートの私の写真を剥がし、その上に見つけた島津の写真をプリントしてスタンプの形を写真につけ加え貼ったのである。私はそういう細かい作業が若い頃から得意だったのである。私は自分の悪知恵と自分の都合のよさに少々辟易していたが、これで島田とのパイプも傷つくことなく、それでいて私はレンディーやクラークと会うことなく済むと思うと何故か他の翻訳の仕事にも身が入った。
 
 しかしそうしながらも私は更に思いも寄らぬ電話を受け取ることになったのだ。
 私がやっと一つの翻訳を仕上げて、島田からの間接的依頼ではなかったが、やはり私が手掛けた島田→兼杉のための仕事を見て依頼してきたあるスポーツメーカーの重役であるクライアントのための仕事を提出するために郵便局に行った時突如私の携帯に着信音が鳴ったのだ。
 そして電話に出てみるとたまたまその時私が「はい」と言う前に向こうが懐かしい英語の響きで何か言っていた。その声の主は何とマイケル・ストーンランドだったのだ。私は一瞬で相手の声が彼であると分かったのだが、即座に返答せずに黙っていると、更に彼はこう言った。
「サハシーでらっしゃいますね?」

Thursday, November 12, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑱

 京都の吟行を終えて、山田からは一切の連絡はなかった。しかし翻訳に関する注文は幾つかあった。私のした島田を通した兼杉の依頼の件での翻訳の実績が口込みで広がったからである。
 しかしそういう風に幾つかの仕事が舞い込んできた時私はふと島田の二日目の京都駅前でのバス発着所での私に対して言った言葉を思い出した。京都旅行から帰宅してから一ヶ月たった梅雨の時期のある日(シンガポールには滅多に梅雨がないらしいが、私が過ごした六月にはじめじめして雨も多かった)私は翻訳ソフトを使用して新たな依頼の仕事の最中だったのだが、一時仕事を休止して、メールチェックをすると、新しいメールが送信されていた。それはまたも島田からのものだった。
 その文面は要するに知人があなたの翻訳の仕事っぷりを見てどうしても依頼したい仕事があるという内容だった。しかし島田という男はまるで紹介屋というか、ブローカー的性格の人間だと私は思った。しかしまんざら悪い話でもなさそうだとその時思ったのも実は兼杉からの依頼で米国人古物商の自伝を翻訳した時の経験が私に予想以上の満足感を齎してくれたからだった。
 その文面には島田が直接その人間を私に紹介するから彼にとって都合のよい日時まで指定していて、こちらの都合を聞いている内容だったので、私は日程表を一応つけているのだが、それを照会すると別に何の用もないので、島田による指定は∧東京駅の八重洲口の正面辺りにあるある著名な画廊の前辺りに立っていてくれ∨ということだったのでその通りにすると即座にメールを返信した。すると向こうからまた即座に「では会いましょう。」ということになった。
 
 その日がやってきた。その日は珍しく晴天だった。私は島田の指定通り初夏の東京駅八重洲口に翻訳家の郷田守としてシンガポールから成田、成田から成田エクスプレスで東京までやって来た。夕方の五時に待ち合わせたので、もう日も長くなっていたので、充分人通りで人の顔を見分けることは出来た。しかし約束の時間に島田は来なかった。しかし誰か人を探している風の男がいたのでちょっとその男の顔を見たら私は驚愕した。伊豆倉の知人でギャラリーで一度会い、その後替え玉CEОになってフリスコにサリーの娘のためにコンサートのチケットと日本に帰国する飛行機のチケットを買いに出掛けた時にばったり出くわした飯島ではないか。
 だから私は即座に顔を背けたのだが、その仕草が彼には却って目立ってしまったのだ。飯島は
「おや、金城さん。」
 私は矢庭に返答渋って
「ああ、お久し振りですね。」
と言うと向こうは
「アメリカのサンフランシスコでもお会いしましたよね。」
と言った。私はその質問に対し
「それは私じゃありませんね。私は一度もサンフランシスコには行ったことがないんですから。」
と白を切った。しかしどうしても信じられないという風な様子で
「そうですかね、私にはあの時の人がどうしてもあなたとしか思えないんですがね。」
と飯島が言うものだから私は話題を逸らすように
「ところでこんなところで飯島さんこそ何をなさっているんですか?」
と聞くと飯島はけろっとした顔で
「いやあ、私実はここである知り合いに頼んで人を紹介して貰おうと思って来たんですけれど、その紹介してくれた人が急にインフルエンザに罹ってしまって酷い腹痛で来られなくなって、その人が既に私を引き合わせる手筈を整えているって言うもんですから、急に来られなくなったことを携帯で私に知らせてきてくれたんで、私だけでも約束の場所に来ようと思ったんですよ。そしてその人にお詫び方々仕事をお頼みしようと思いましてね。」
 と言ったのだ。私は相手が飯島で私のことを金城として知っているので、咄嗟に白を切ろうかと思ったが、思い直して思い切って聞いた。
「その方のお名前は何とおっしゃいますか?」
 すると飯島は
「島田さんと仰いまして古物商の方なんです。」
と言った。やはりである。私は最早観念して
「いや、私が島田さんに紹介して貰う筈だったんですよ。」 
と言ったら飯島が怪訝な顔で 
「でも、飯島さんは確か郷田さんとか仰っていましたけれど。」
と言うと、私は咄嗟に作り笑顔で
「実は私は翻訳業をしている時にはペンネームで通しているんです。そしてそれが本名だと思われているんですよ。いやあそのことを私特に誰にも告げていませんでして、ですからそれを私の本名だって思ってらっしゃるんですよ。でも我々の業界ではそういう風にペンネームで通している人間もかなり大勢いるんですよ。」
と言った。すると飯島は妙に納得した表情の笑顔を浮かべて
「そうだったんですか。金城さんでしたなら話が早い。ではお話をさせて頂きます。」
と言って、飯島は私をすぐ目の前にある喫茶店に誘った。
 飯島は最初伊豆倉のギャラリーに一つ大きな翻訳の仕事をし終えた後訪れた時、私より先にギャラリーで伊豆倉と談話しており、その時伊豆倉が私に紹介してくれた。伊豆倉は私のことを飯島に文筆業とだけ言って翻訳家とは言わなかった。伊豆倉は飯島を骨董店を経営しているとだけ言っていた。最初彼を見た時粘着質な人に対する接し方だと直観的に思ったが、それはアメリカでこともあろうに私がCEOとしてスカイスレッダーを切り盛りしている時に声をかけてきたし、今またこうして私の人生の岐路に立ち塞がっているのだ。そしてなかなかこちらの相手に対してあまり好意を持っていないという真意を汲み取ってくれないそういうタイプである。
 飯島はウエイトレスが水を運んできた時
「ブレンドコーヒー。」
と素っ気ない態度で言った。私もそれにつられて
「私も。」
と言った。すると飯島は
「実は私の経営する骨董店のある重要なご贔屓さんがね、製粉会社の社長さんでいらっしゃるんですが、彼がもうすぐ年齢的なことがあってリタイアされることになって、息子さんに継がせられるんですが、実は息子さんはそれ以前に既に自分でウェブデザインの制作会社を立ち上げて成功していたので、この二つの会社を合併して一つの事業をすることにしたんです。その際に新企業立ち上げということのアピールのために何かしようということになって、そこで息子さんの大学時代の学友が出版事業を行なっていて、その人の協力の下でインタビューと取材雑誌を発行しようということになったんです。そしてその息子さんが憧れていらっしゃるエディー・レンディー、あのIT業界の立役者にして、五十少しの年齢でリタイアされて、今は悠々自適かと思いきや、慈善事業をされていますよね。」
 私は
「そうですね。」
と頷いた。飯島は続けた。
「息子さんはそのレンディーが今度アフリカの殆ど文明的に未開な地に教会を設立することになって、その記念式典をすることになったんです。そして息子さんはその取材を他に先駆けてしようということを決定されたわけです。私はお父さんの社長さんが息子のために誰かいい取材能力のある人材はいないかと探しているのだがと声をかけられたってわけですよ。その息子さんの知人で私の知人でもある古物商の方が息子さんの願いを代行して伝えたいということなんです。息子さんはお忙しいのでね。」
と一気に話した。私が
「で、それを私にしろというわけですね。」
と私は確認を取った。
「ええ。」
と飯島は返答した。
 しかしエディー・レンディーの名前がここで出てくるとは思いも寄らなかった。しかしもしレンディーがその記念式典に出席するのだろうか?もしそうだとしたら、私は何度か経済会議でレンディーと会ったことがあり、私がのこのこ式典に出席するわけにもいかないと思った。そこで
「レンディーもその式典に出席するんですか?」
と聞くと
「そうです。」
と答えた。私はどういう風に断ろうかそればかりを考えていた。しかし飯島はそんなことはお構いなく勝手に言い続けた。
「どうですか?金城さんなら打ってつけだと思うんですけれど。」
と言った。私は何も今更アフリカくんだりまで出掛けて行って自分の語学力と取材力を試したいとも思わなかったし、ただどうやって断ろうかとそればかり考えていて、お座なりな返答をした。
「まあ、スケジュールとか調整して検討させて頂きますよ。」
 通常日本社会では前向きに検討するということは婉曲な断りの文句である。しかし前向きをつけ加えなかったから、まああまり乗り気ではないが、無碍に断れないということにもなる。
 飯島は
「今日店に戻ったら、詳細に記述した文面をメールでお送りしますよ。」
と言った。そしてそそくさと
「まあ、用件はそれだけなんです。お忙しいところをご足労下さり有難う御座います。」
と言って、私がレシートを取り上げようとすると私を制して
「私が出します。」
と言って立ち上がった。
 私たちはそのまま店を出て別れた。飯島は別れしなにもしつこく
「でも確かにあの時にシスコで見かけた人は金城さんだったんだけれどなあ。」
と独り言を繰り返し、首を傾げながら去って行った。

Sunday, November 8, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑰

 その日の吟行は前回の時よりは言葉が少なめだった。もう大体の相互の性格とか考え方が分かったからなのか、風景とか、名所旧跡に立てかけられた説明書きとかに熱心に見入るということも多かった。また私自身が吟行をしながら振り切れないくらいの強烈な思いが去来していたからかも知れない。私と風体はそっくりなある同世代の私の人生を全く思いも寄らない方向へと誘った男の突然の死に対して私は京都という地がかつて多くの武将や僧侶や詩人たちの命を彼らの血と共に吸収していったことを想起しつつ、人間の死ということを想念せずに歩くことは出来なかった。しかも沢柳に影法師のように付き纏っていた壮年男性が私に態々彼の死を知らせるために会いに来たのだ。それらの思いがメモ帳を開きながら時折句が浮かぶと書き留めるということの内に無意識に私自身の死生観が滲み出るということを抑えることが出来なかった。
 だから必然的にその日仁和寺や幾つかの禅寺を回って夕方に持つことになった京都国際ホテルでの句会での私の句は他の五名から「一体誰の句なんだろう」と思われ、無記名で投句した後で皆に選ばれた句に対して作者が名乗りを上げる時、私が須賀と吹上と共にその日は最も多く句が選ばれたのだが、「半年前の時とは作風が変わってきた」というのが皆の共通した印象であった。その句会が終ってから例の如く近田が先輩として敬う吹上に対してこんな質問をした。
「吹上さん、文学と哲学の違いって何だと思いますか?」
 すると暫く思案しているような表情を見せた後、吹上が
「こういう句会でもいいですが、趣味の集いのような場で人生の一切の精力を注ぎ込むことは俳句だけを取ればいいことですよね。でもプロの俳人でない限りこういう席で誰より抜きん出ようとする意味は、社会的地位が安定した人にとっては大したことないかも知れないですよね。誰か別の人に勝ちを譲ることが社会的地位に相応しい態度です。だから社会的地位が不安定でこういう趣味の集いでしか自らの手腕を発揮出来ない人がいたとして社会的地位の安定した人に花を持たせられて喜んでいるとしたらそういうのって何か哀れな感じがしますね。そういう人間の機微を描出するのは文学では面白いかも知れないけれど、哲学ではどうですかね。哲学ではそういう社会的人間関係そのものの機微がどうのこうのにはあまり関心を持たず、寧ろそういう時に何故人間は他者を哀れに思うのかとか、何故そういう風に趣味の集いに全精力を傾ける人に対して社会的地位の安定した人が憐憫の情を持つのかということ自体を分析しようとするでしょうね。要するに哀れさの描出を文学が得意とすれば、哲学は哀れさの根拠を説明し得るものとして、そういうような違いと理解していてここは間違いではないのではないでしょうか?」
 と言った。この時私は以前もそうだったように、吹上は簡潔明瞭に説明する才に長けていると思った。しかし吹上がそう言った瞬間間髪を入れず桑原が
「でも哲学者は社会的な意味での人間間での哲学には関心がなさそうだな。例えば科学者の哲学がどういうものかには多少興味があるかも知れないけれど、デリヴァリーヘルス穣の哲学っていうようなことに関心があるように思えないな。」
と言った。それに対して吹上が
「要するにデリヴァリーヘルス穣の考えている生き方がどういう風に説得力があるかという風には考えるでしょうけれどね。」
と言った、すると桑原が
「要するに哲学者は言葉によって全てを考えるっていうわけですね。」 
と確認すると吹上が
「まあ、そういうところはありますね。」
と頷いた。すると桑原は
「そういうところが文学者とは違う気が僕はするね。つまり文学者は対人感情的に他人をデリヴァリーヘルス穣がどう考えるかとかに関心があるような気がするから、それは言葉で考えると言うより、身体で考えている気が僕はするな。」
と言った。すると近田が
「それは考えることにおけるタイプの違いということですね。」
と言うと、頷いて吹上は桑原にも近田にも反論はしなかった。
 しかし私の脳裏にはどこかそういった観念的な論議にもかかわらず気もそぞろで、翌日会う約束をしている山田のことがなかなか消し去れなかった。そういう表情は皆に伝わっていたのだろうか?幸いその日島津に会いに行ったことを問い質すような者は一人もいなかった(須賀にだけ二日ともメールで昼食時だけ中座したい旨を伝えてあった)。
 結局初日は私と近田と吹上が三人部屋で同室に、桑原と須賀が二人部屋で同室だったが、これと言って宿泊した部屋の配分で翌日の対話する相手が決定されることもなかった。以前の時と違って句会の後これと言って何もしないままで各自自由時間を過ごしていたからである。句会そのものを共にするという段階から、句会の内容そのものを充実させていこうという段階に移行したということである。
 
 私たちは二日目には京都駅前のバス発着所の立て札が立ち並ぶ一角に集合し、そこからバスに乗って寺巡りをする予定であった。島田は例によって電車に乗って自宅から現われた。しかし私の心は殆どその日の正午に広隆寺で落ち合う約束をしている山田の現在の様子とかこれまで替え玉CEОを二重の意味でこなしてきているものの本人は本物の沢柳の替え玉であると固く信じている山田の私に向けられた態度がどういうものであるだろうという未来の想像へと振り向けられていた。だから島田が私にある一言を言ったことを殆ど上の空で聞いていたのだ。しかし確かに後で思い出せばバス停で目的地の二条城へ行くバスを皆で待っていた時、島田は次のように言っていた。
「散見さん、いや郷田さん、素晴らしい翻訳の仕事をして下さって兼杉さんは本当に喜んでらっしゃいましたよ。」
私はその一言に対して
「そうですか。」
とだけ応えていた。そして更に島田は
「兼杉さんのお知り合いがあなたの翻訳なさった仕事を拝見して、何か仕事をあなたに依頼したいようだと兼杉さんが仰っていましたよ。」
と言ったようだったが、私はその時もただ
「そうですか。」
とだけ素っ気無く返答していたのだった。
 バスが到着して二条城へ向けて出発し、私たちは二条城に到着したが、前回と違って殆ど私的会話は皆交わさず、只管句作りに熱中していた。その時は一切記念撮影もせずに、風景を眺めては頭を捻るように思案している姿が殆どだった。私は自分で作る句が山田と再会することで得る何らかの不吉な情報に対する不安が読み取れるニュアンスの句が生み出されていた。
 二条城に到着してから城内を見学して一時間半くらいしてから須賀が
「そろそろ広隆寺の方へと参りましょう。」
と言った。須賀が三月中に送信したこの句会の誘いのメールの後で四月に追伸を須賀は皆に送信したことがあって、そのメールは皆が以前来た時に訪れた場所でもう一度訪れたい場所があれば明記して欲しいという内容だったが、返信した五人の要望で一番多く一人を除いて四人とも選んだのが広隆寺だったのだ。そこで再度そこに行くことになった。広隆寺まではタクシーで行くことにした。タクシーがいいと発案したのは桑原だった。
 桑原と私と須賀が、そして近田と島田と吹上がそれぞれ乗って広隆寺に到着した時は正午近かったので、予定通り私は皆が寺に入る前にまず食事するという既に須賀が予約しておいてくれた大正時代風の建物の中にあるレストランに入る前に一同から中座して、広隆寺に急いだ。私はレストランには戻らないで広隆寺境内で待っていると須賀に告げた。
 流石に一同から中座するのが二日目なので桑原と島田が
「散見さんは色々とお忙しい方でらっしゃいますね。」
と皮肉交じりに、しかし一体どんな人間とこう続けて約束があるのだろうというような表情を浮かべてそういうようなことを言った。しかし近田と吹上は一切無関心というような風情だったこともまた印象的だった。
 しかし私は島津の言葉が妙に気にかかっていた。
「でも今の替え玉さんは現況の世界経済情勢も手伝っていますが、なかなか苦闘なさってらっしゃいますね。」
 あれはただ単なる皮肉だったのだろうか?
 この京都旅行を終えてシンガポールの自宅に戻ってから真意を問い質してみようかとさえその時思ったが、すぐ私はただ今自分は山田にどう対応されるか、そのことが気掛かりなだけであると思い直した。
 私が指定した広隆寺本堂の弥勒菩薩の前にサングラスをかけた私と同じ中肉中背の中年男性が立っていた。すぐに私は山田三好だと分かった。
 私より先に向こうから声をかけてきた。
「沢柳社長、もうこっちは大変ですよ。」
と小声で山田は私に泣きつくような仕草を見せた。私は出来る限り平静さを装って 
「どういうことですか?世界同時不況という意味でですか?」
と問い質すと
「それもありますよ。資産査定とか色々しなければならないこともありますけれど、スカイスレッダーの税理士と話し合ったこともあったんですけれど、あまりリストラはしなくて済みそうです。今日はさっきまで所沢の支社で川上さんと日程の打ち合わせをしてきたところです。」
と山田は返答し今日の経緯を報告した。
 決算報告が近づいてきていたのだ。株主会議もある。私は
「ここを出て外で話しましょう。」
と提案すると山田はサングラスをかけたまま私と共に本堂を出た。
 歩きながら私は山田にこう言った。
「あなたには申し訳ないという気持ちもあるんです。こんな酷い不況に見舞われるなんて思いもよらなかったものですから。ところでミューズソケット社との件はどうなりましたか?」
と弁解口調で私は山田に告げてから質問をした。
「まあ今後の交渉次第っていうところで保留になっていますね。」 
と渋い表情で返答した。
 しかしポータルサイトビジネスはそれでもまだ景気がいい方である。ただ製薬会社Kや、その他の提携先がリストラを断行しなくてはならないとかの色々な憂き目に合っていたので、テレビのニュースでも何度か私はスカイスレッダーの行く末を外側から観察することくらいなら出来たのだ。特に翻訳の疲れを癒すために時々つけたニュースでは英語に翻訳したものを聞いて何とか世界情勢を知ることも出来たし、ネットでもよくニュースは見ていた。しかし必ずしもスカイスレッダーだけが時の人というわけではなかったのだ。
 私は提携先の株式相場の下落とかの要因による経済的打撃に対して山田に対してあまり慰めにもならないような一言を告げていた。
「産地偽装とか汚染米のような問題はIT関連事業では起こらないし、こんな時代でも未だましな方ですからね。そもそも情報に本物もニセモノもないですからね。それは嘘の情報ではない限り受信するパソコンがどんなに旧式のものであれ、解像度の高い高性能のパソコンであれ情報が情報である価値という意味では等価ですからね。」
 と言った。ニセモノがニセモノに共感したような台詞だったので自分で苦笑することを私は必死で堪えていた。しかし山田は意外と従順そうな性格だったのだろう、そういうことを見抜くほどメタ認知能力が優れた人物でもなさそうだった。そして再び島津の言った一言を山田の顔を見る時重ね合わせて考えていた。そして急にヴェロニカのことが気掛かりになって私は山田に質問した。
「ヴェロニカとは巧くやってくれていますか?」
 すると山田は急に真面目腐った態度となり
「社長が山梨県の山荘で指南して下さったように何とか彼女の趣味とかを考慮して付き合っていますが、最近他に私たちよりも若い男性に惹かれているみたいなことを匂わせていましたね。」
と言った。そしてすぐ続けて 
「申し訳ありません。社長の大切な人をお預かりしているのに。」
と詫びた。
 私は内心では必死に笑いを堪えて、しかももう今度こそ私以外に沢柳本人はいないのだと妙に開き直りもしながら(しかし本当は今回も沢柳本人は生きているのに島津を送り込んで本当に自分が死んだということを偽装している可能性もゼロではない。それくらいやる人だからこそ私をサハシーは替え玉として送り込んだとも言えた。しかしその頃私は既に替え玉をリタイアしていたので、意外と素直に島津の言うことを信じていたのだ。しかも彼のあの目つきが本当らしいと私には思えたのである)
「それは仕方ありませんね、彼女は若いけれど、私たちはそう若くなどないですからね。」(「ヴェロニカの奴!」とでも言うべきだったか?)
とぞんざいに山田に告げた時、あるいは沢柳が私にヴェロニカの相手まで宛がったのは、彼女の情熱に沢柳が辟易していたからだったのかも知れないと思った。そう言えばセックスの主導権も殆ど常にヴェロニカが握っていた。しかし不思議と替え玉の方にしてみればその方がずっと楽だった。それに比べ私にとってサリーの方がずっと御し難い相手だった。私はついでにサリーのことも聞いた。
「サリー・フィッシャーさんの方はお元気ですか?」
 すると山田は
「社長の仰るように誕生日にはバースデーメールを送ろうと思ったんですが、一緒にフランスのリヨンでの経済会議に出席していたので、彼の地の店でその晩プレゼントを渡しました。」
と言った。私は何を渡したか急に気になり聞いた。
「何をプレゼントなさったんですか?」
すると山田は
「何ていう名前だったかな、社長に教えて頂いた彼女の娘さんが贔屓のロックバンドのギタリストがオークションをかけてこれまで使っていたギターをヒーリーに落札させました。」
と言った。私は意外と粋な計らいをする男だと感心しながら
「それは巧くしてくれましたね。そんなオークションをあのロックバンドのギタリストがしたんですか?」
 すると山田が
「ええ、ジム・クラークの弟さんが有名な作曲家だそうで、その人がジムに教えてくれたそうです。」
と言った。私も副社長のジム・クラークの弟が世界的作曲家であり現代クラシックオーケストラ用の交響曲から、映画音楽まで担当する人であることは知っていたが、私が在任(?)中には一度も会うこともなかった。沢柳の山荘での話しでは彼も一度も会ったことがなかった筈だ。私は急にそのことも気になって
「あなたはその作曲家とはお会いになったんですか?」
と聞くと山田は
「いいえ、ジムから話を聞いただけです。」
と答えた。
 しかし山田が急に襟元を正すような態度になったので私は来るべきものが来たと思った。
「ところで私の任務期間もそろそろ終了ですけれど、そこら辺はどうして頂けるんですか?」
と彼が聞いてきたのである。私は咄嗟に
「退職金のことですか?」
と尋ねると
「ええ、それもありますけれど、今後の身の振り方とかね、そういうことを指南して頂きたくて。」
と殊勝な態度でそう言った。私は山田のその言葉を聞いた時自らの中に沸々と悪の心が芽生えるのを感じ取っていた。最早仮に沢柳が生きていても、それは恐らくないのだろうが、それはそれでよい、自分が山田を操ってやろうと思い始めたのだ。山田が悪辣な奴だったなら、私を逆に脅すことも出来た筈だ。しかし私は沢柳に対してそうするほど悪辣でも間抜けでもなかった。そういう意味では山田もまた私と似て私に対して忠誠を尽くしている。しかしある意味では沢柳さえ最初は私を操れると思っていたに違いない。しかし徐々に本当のリタイアリーになっていったのだ。そこで私は試しに山田に聞いてみた。
「もしこのままあなたの好きなようにスカイスレッダーを経営し続けることがあなたの裁量で出来ることなら、やってみますか?」
 すると山田は 
「えっ、本当ですか?そんなこと許されるんですか?」
そう言った。私は山田に対して推し量ってきたイメージをやや裏切るようなその乗り気な態度に少々狼狽しながらも、それを一瞬押し留めて
「やる気がおありなようですね。」
と言った。
「いえ、そうご命令なら、社長がですよ。」
と言ったその口調と表情から私は山田が意外と素直な性格で悪辣さとは今のところそう関わりないと踏んで
「ではお願いいたしますよ。もし何か不都合なことがあればいつ何なりとお尋ね下さい。そうか、それはよかった。だってあなたはずっとオーストラリアで外資系の商社にお勤めになっていらしたんですから、私よりもずっと経済には明るい筈でしょう。」
 と言った。沢柳自身も彼の山荘での語りによると経済学部でも、経済関係の仕事をしてきたでもなかったということを私は知っていたので、別に本当に矛盾している話でもなかったのだ。
 私は腕時計を見た。するとあと五分くらいで私以外の俳句仲間たちの昼食会がレストランで終わる時刻だったので、私は山田を出来る限り見られないように、早々と帰すように嗾けながら
「暫く遣ってみて下さい。私が何とかするような立場では既にありませんし、そうですね、報酬の方もヒーリーとクラークとストーンランドに相談して決めて下さい。」
と急いだ口調でそう言うと
「分かりました。やってみます。また色々ご指南下さい。」
と言った。彼は
「またメール致します。」
 と言って足早に私の元から去って行った。その後姿を見てヴェロニカも引き継がせると彼に述べた時彼はあまり私が沢柳から告げられた時のように狼狽しなかったことを私は思い出した。それから三分くらいして私が本堂から出て待っていると向こうから俳句仲間の五人がやってきた。そちらを見ると既に山田は門を潜って出ていてこちらからは見えなかった。一度も彼はサングラスを外さなかったので、誰も私と瓜二つの男がいたとは気づいていないようだった。
 皆私に対して笑顔で
「お知り合いとは会われましたか?」
と須賀が代表して聞いてきた時、私は作り笑顔で
「ええ。久振りに会った昔の友人でして。」
と嘘をついた。
 皆で暫く広隆寺境内をうろうろ本堂を出たり入ったりして楽しむと、嵐山へ向けて以前の吟行の時には降りた駅から京福嵐山線で更に西に移動した。
 私はその日どこを訪れたかさえよく覚えていないのだ。それくらい二人、つまり島津と山田との会見が頭にずっとこびりついていた。他の皆が必死に俳句を作りながら歩いている姿がぼやけて見えた。
 私たちはその日も全ての行程を経て再び京都駅に戻り、今度は祇園の料亭で句会をした。少し高い料金だったが、今回は流石の若手近田も自費で参加した。
 その日の句会で私は次の句を投句した。

菩薩見て悪の華咲かす月下香

 そろそろ初夏も近づいている。そこでこういう句を作ったのだ。月下香とは夜間に咲いて強烈な香りを放つ中央アメリカ産の中ペチュローズの和名で、ヒガンバナ科の多年草である。晩夏から秋にかけて咲く。花言葉は危険な快楽である。勿論菩薩の清らかさを見て広隆寺で山田を利用出来るかも知れないと初めて思った気持ちを詠んだのだ。清らかさとは一歩間違えるとその清らかさに比して自らの悪辣を知り、その清らかさを陵辱したいという欲望を生む。山田は清らかな性格なようだった。だから私は山田が私よりももっと悪辣であってくれれば逆に私の中の清らかさを知ったかも知れない。しかし彼はあるいはそういうことあるかも知れないと思ったように私を脅迫してくることもなかった。だから私が沢柳を脅迫することが出来なかったのは私の清らかさからではない。沢柳の悪辣さに対する真実の恐怖からかも知れないと初めて山田の無垢な態度に接して私は気づいたのだ。私はあの時イタリアンレストランであの突拍子もない申し入れを断ったならあるいは島津に消されていたかも知れないと島津と会ってから山田と会った後の翌日の句会で私は想像したのだ。
 と言うのも島津は私に含み笑いをしたような表情でこう言ったと私は句会の時、その日は何かいいことでもあったのか、妙に快活に一人で上機嫌に笑い声を上げる島田の声も殆ど耳に入らずに思い出していたのだ。確かに島津はこう言った。
「悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってある」
 これは私が彼にとっていい集団ということであるなら、恐らく私がサハシーの突拍子もない申し出というか依頼を私が承諾することを意味し、悪い集団というのは私があるいはサハシーの申し出を挿げにしていたなら私は俄かに沢柳社長の目論みを知る者となり危険人物となるということを意味し、彼にとってあの時私は態々フランスから会いに来ることになった人物ではなかった、つまり私は殺されていたということを意味するものだったのだろうか?
 暫く皆が自分で選んだ句を読み上げている時に私はそれなりにその時に思念していたことの結論を出した。
 私はただ単に私の中のサハシーに対する畏怖の念を尊敬心に変えていたのだ。自分の意気地なさを認めたくなかったからである。よく考えればプロレスラーとしての生活から引退を余儀なくされた島津のような豪腕な男さえ操った男が沢柳だったのだ。彼が生きていたとしてもその悪辣さは変わらない。寧ろいつまで経っても私は彼のニセモノ、替え玉、ダミーいずれも本物ではいられない、と。
 そしてそれを彼(島津もそうだし、沢柳もそうである)は知っている。つまり一番その時の私にとって重要なことは、私が替え玉CCEОであったことを知っているのはサハシーが生きていれば彼と島津だけであり、サハシーが島津が言うように本当に死んでいれば島津一人だけである。つまり私は島津の人格を彼の私を見る瞳の輝きを真実のものであるかどうかを見極めることが出来るか否かで私の秘密を知る者が世界で一人か二人かを知り得るのである。
 その日私が投句したものの中で月光香の句が最も評判が悪かった。
 私はその日の句会での皆の会話の内容を殆ど今では覚えていない。それは最初の句会での会話が印象的であったことと対称的である。

Thursday, November 5, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑯

                ★

 今日こそ景気の底打ちをするかするかと連日マスコミは世界同時不況を告げていた。だから当然マスコミはスカイスレッダー社とミューズソケット社との間の交渉とかそういうニュースは差し控えていた。私の中から徐々に替え玉CEОだったという意識は薄らいできていた。私は島田から話を持ちかけられた兼杉の依頼を引き受けたことにより、シンガポールに滞在するということを一切誰にも知らせずメールに送信してくるということだけを伝に兼杉による紹介だということで(兼杉はそれだけ人望のある古物商であるということがそれで判明したが)幾つかの翻訳を引き受けることとなり、金城悟時代の職能に関するアイデンティティーを取り戻しつつあった。
 今回の世界同時不況は世界中のどの専門家も予言することが出来なかったということが最も深刻な事態であることを世界中の人々に自覚させた。とどのつまり専門性というものは予測のつかなさ自体を常に孕んで全てが進行している。その予測のつかないことに対して予測のつく範囲でそれ以上の悲惨を招かないような措置をとることだけが残された望みということになる。要するに最悪の事態に対してただ右往左往するだけでいることだけを避けるということが専門家やトップの人間には求められる。
 しかしそういう不安が世界を覆っていた頃私は次に引き受けた翻訳の仕事が比較的経験のある方である企業内の倫理に関する経営者向けのマニュアル本一冊の翻訳だったので、須賀から再び春も酣の五月の連休に再び京都で前回のような集いを持とうという申し出に対してメールで私は再び参加する旨を伝えていた。また学生旅行的に高速バスで行って、丸々二日古都の赴きを楽しもうと思った。
 しかしそんな矢先、私の携帯に久し振りに連絡が入った。山田にしか教えていなかった携帯から電話があるということで即座に私は山田からのものだと思ったが、携帯を耳に当てると、その声は明らかに山田のものではなかった。
「私はあなたに初めてご連絡申し上げる者です。」
と言った。私はいきなりのその言葉にいささか面食らって
「私は郷田守ですよ。それをご存知なのですか?」
と質問すると向こうは
「ええ、存じております。」
 と言った。私は郷田守としては俳句の仲間にしかその身元を明かしていなかった。つまり金城悟として自分の携帯のアドレスを知っているのは山田と沢柳だけな筈だし、まして沢柳としての自分を知っているのは沢柳だけである。郷田守としての私の電話番号(以前の金城悟としてのマンションの電話番号)を教えているのも俳句仲間たちだけである。一体誰だと言うのか?
「私のことをさぞかしご不審かも知れないと存じますが、私はある方からあなたにお伝えしたいことがありまして、その方に申し付かってこうしてお電話差し上げているんですけれど、電話では何ですので、一度お会い出来ないでしょうか?」
といきなり切り出したので
「あなたお名前は?」
と私が聞くと向こうは
「これは失礼致しました。私は島津と申します。」
 聞きなれない名前だった。しかし私の携帯アドレスを知っているのは沢柳だけの筈である。と言うことはある方とは必然的に沢柳ということになる。そこで私はただの電話ではないと察知して
「実は場所はお教え出来ませんが、私は普段日本にはいないのです。今もそうです。そこで来月京都で出る予定が御座いまして、その折にお会い致しましょうか?」
と敢えて沢柳のことを言及することを避けて提案すると向こうは
「よう御座いますよ。そう致しましょう。実は私も日本にいつもいないし、今もそうなんです。」
 と言った。私は益々相手に対して抱く気持ちに心がざわついたが、こういう時におたおたしないでいるということが替え玉CEО時代以降に身につけた私の知恵だったので、私は冷静さを装って 
「日時は既に決まっているので、お教えしますよ。その日の細かいスケジュールも決まっていますので、皆で取る昼食時にちょっと抜け出してお会い致しましょう。」
 と私は言って、五月二日ということと俳句仲間と共に昼食を取る御苑のレストラン付近にある地下鉄の駅の改札口を指定し、正午に会おうと言った。すると向こうは
「分かりました。」
とだけ言って切った。

 その日以来私の気持ちはどこか落ち着きのないものとなっていったが、沢柳のことだから、あるいはまた以前の自分の地位に戻りたい、しかしその時既に自分のポストは山田に乗っ取られているので、そのことに対する非難かとも思った。しかしあの時モンサンミッシェルにおいて私を非難することなく別れたのだから、それもよく考えるとおかしかった。そもそも彼が私に対して生きているのに死んだことにするなどという手の込んだことをしたということが端を発して私による山田の選別を招いたのだから、今更私自身が糾弾される言われはない筈だと私は自らの心の動揺を何とかして振り払おうと思念を反復した。
 その時期の私はすっかり久し振りに文学的香りを味わった兼杉依頼の翻訳をしていた頃の気分をしまい込んでいた。勿論引き受けた企業内倫理のマニュアル書自体は金城悟時代に何度か引き受けたこともあったので、さほどそういった心の動揺に左右されることなく私の脳は一方でしっかりと業務を執り行う体制にあったと言ってよい。しかしそのことが逆に不安を一層駆り立てもした。
 だからそろそろ四月も近づいてきていたので、向こうから連絡がある筈だと思っていた山田の声を携帯で聞いた時には少しほっとした気もした。山田が
「そろそろ私の契約期限も切れるんですが、どうしたらよいのでしょうか?」
と質問してきた時私は既に彼に全てを続行して貰いたいという気持ちを持っていたが、ではもし沢柳がカムバックしたいということが島津と名乗る男による伝言であるなら、そう軽はずみな決裁を今するわけにもいかない。私は暫く考え込んでから
「一度お会い致しましょう。」
と言って、それなら一纏めに京都行きの際に会うのがよかろうと思って、二日目である三日正午に再び須賀たちと訪れることとなっている広隆寺本堂(広隆寺の近くのレストランで広隆寺を拝観する直前に二日目の昼食を取ることになっていた)を相手に指定した。少し時間が遅れることでもあれば私の方から山田に彼の携帯に連絡する旨も伝えた。すると山田は
「分かりました。」
とだけ言って切った。

 島津と名乗る男と、自分が選んだ後継の替え玉山田と会う期日が徐々に近づいてきていた。島津からはきっと沢柳のことが聞けるだろうと思ったし、日々不況風に晒され、経営陣たちが自家用ジェットで会議に出席したことや、高額なボーナスが支払われたことがアメリカ国内でも大きな社会問題と化していた時節私は果たして山田三好が巧く切り抜けていけるか実は辞めた人間であるから関係がないとは言え心配だったのだ。しかし意外と私は二人の次々と会う次回の京都行きの前に締め切りが迫っていた翻訳に打ち込めることが出来て、ようやくニセモノから本来の自分に回帰してきていることの実感を取り戻し、日々摩り替わった犯罪に加担していることから来るストレスから開放されていた。その二つの興味は私の仕事を寧ろ後押ししてくれたのだ。
 しかし同時にサンタフェの夕日が懐かしくも感じられた。何故だろうと思ったが、その理由は世界が虚構めいて見えるという実感の上で砂漠も原野も林立するビルディングも全てが虚構めいたアメリカという国の持つ仕掛けであるが故の白々しさが逆に本当の自然である夕日を美しく映えさせていたからなのだ。しかし京都もまた仕掛けである。巨大な歴史という仕掛けなのだ。ただ私たちが日本人として、日本語の世界に生きるという現実がそれを仕掛けから開放しているかのように錯覚しているだけのことである。

 京都行きの前日私はこの前とは違って新宿発の方の高速バスを予約して、乗り込んだ。この前は成田から東京の直行してそのまま行く積もりだったので東京駅発の便を予約したのだが、私の金城悟としてのマンションに立ち寄ることとなって寧ろ態々東京駅まで行くのが面倒だったので、今回はもう京都のマップを買う必要もないので新宿発の便にしたのだ。京都に行くのはこれで四度目だった。中学校の時の修学旅行が京都と奈良だったのと、社会人になってから建設関係の仕事で行ったことがあるからだ。しかし京都タワーは未だその頃にはなかったが、三回目の京都行き(つまり俳句の仲間に会うために行ったこの前の)において初めて目にしたのだった。京都は兎に角駅前が激変した。
 そろそろ初夏の風が匂い立つ頃合の京都の早朝は未だ肌寒かったが、高速バスで早朝京都駅に到着した私は適当に駅周辺を散歩して、地下鉄の待合所のようなベンチに腰掛け、昨日買っておいた弁当を食べ、八時半に須賀をはじめこの前と同じメンバーで待ち合わせた地下鉄東西線の京都市役所前駅の改札口まで向かって皆がほどなく揃うと、今回は河原町三条に沿って歩き橋を渡って鴨川沿いを歩いた。そして北上して平安神宮、そして御苑に行った。そこで以前と同じレストランに入る前に私は予め京都に住む知人と昼食時だけ会って話がしたいと今回も発起人である須賀にメールで知らせてあったので、他の五人から中座して、そこからほどない所にある地下鉄烏丸線の丸太橋駅の改札へ向かった。約束の時間は十二時ジャストだ。
 改札脇で待っていると私に接近してくる帽子を被った壮年の、しかし意外とがっしりとした体格の男がいて、その男は私を見る一目で分かった(彼が沢柳の関係の者であるならそれは当然だ)らしく私に向かって
「沢柳さんでらっしゃいますね?」
と言った。私は即座に
「私が沢柳ではないということをご存知なんでしょう?」
と返すと彼は被っていたフェルト帽を取って禿げた頭を下げ
「いやあ、そう言って頂ければ話が早い。私は本当の沢柳のボディーガードだった島津と申す者です。彼があなたに摩り替わるまでね。」
 私はそれに対して
「私は本名は金城悟です。今日も今まで一緒だった俳句が趣味の集いの間では本名郷田守ということにして、俳句の名前は河野散見と称しています。」
 すると島津は
「ほほう、俳句をなさっていらっしゃるんですか?」
と聞き返してきたので私は
「ええ、まあ下手の横好きですが。」
と言ってから、彼の声は小さかったが周囲の眼を気にして続けて
「どこか近くのカフェかなんかで話をしませんか?」
と言うと
「そうですね。」
と返答し、私はそこら辺にどんな店があるかは全く知らなかったが、さもよく京都のことを知っているかのような足取りで彼を後ろに歩き始めた。
 地上に出ると、すぐ傍にファーストフード店が見えたので 
「そこでいいですよね。」
と島津に言うと彼は首を縦に振った。

 店に入ると私はフライドチキンとコーヒーを頼み、続けて島津も同じものを頼んだ。そして少し待っていると食べ物と飲み物が出され、それを持って二人は二階に足を運んだ。すると殆ど誰も座っていない窓から外の景色が眺められる席に腰掛け
「沢柳さんはどうしていらっしゃいますか?」
 といきなり質問すると島津は少し眉間に皺を寄せて
「実はつい先日沢柳社長はお亡くなりになったんです。」
 と言った。私はその言葉を聞いた途端、以前も同じように自分が死んだということを私に告げたが本当は生きていたので、訝るような口調で
「それって本当のことなんですか?」
 とそう尋ねると島津は
「以前のことは私もあなたに謝罪致しますよ。あの時中華料理店であなたが来られることを社長に仰せつかって確認しに来たのも私なんです。」
 と応えた。暫く私もまた眉間に皺を寄せて考え込んだような表情を相手に見せてから私はふと思いついたように
「全く手の込んだことをして下さいましたよ、そもそも替え玉になるっていう依頼そのものが非常識だっていうことに重ねて、本人が死ぬなんていうのも。だから亡くなったって言ったって、俄かには信じられませんね。」
 と少し突放すようにそう言うと
「あなたのお気持ちはよくお察しします。あの時は確かに本当にあなたが彼が築き上げた事業を継続してやって頂くには相応しい方かどうかを確認する上で非常識であることを省みず戦略的にさせて頂きました。ですからこの場をお借りしてあの時の非礼を謝罪致します。」
 私は仕方なく納得するような表情を見せて
「しかし、亡くなられたっていうのはどういうことですか?私と殆ど同年齢ですから未だお亡くなりになるには少し若いんじゃないですか?」
 と訝しげに聞くと
「そうです。事故だったんです。あのメールの時には嘘をついていたスキンダイヴィングを本当に社長はお始めになられて、熱中しだして、ついに先日慣れない深度のところまで潜って行って、途中で足を海草に絡み取られて、酸素ボンベの酸素も尽きてしまって亡くなられたんです。」
 と私に報告した。
「あなたはそのことをどうやってお知りになられたんですか?」
 と私が更に質問すると彼は
「ええ、実は私はずっと沢柳さんのご贔屓もあって、お付き合いがあったんですよ。」
「フランスにお住まいでらっしゃったということですが、フランスまで行かれたんですか?」
 と私が聞くと
「ええ、社長の裁量で私も近くに住むように手配なさったんですよ。沢柳さんは話し相手がずっといなくて寂しい方でしらから、せめて自分の配下の人間で信用出来る人間を一人くらい自分の傍におきたかったんでしょう。それに・・・・」
と一気に告白した後島津が途中話を止めてしまったために私が先を促すように
「それに何ですか?」
と言うと納得したように
「私自身壮年になってから彼に仕えたんですが、人間的に沢柳さんが好きでしたので。」
と続けた。私が
「でも、僕なんかにCEОを続けさせてもし僕の方が先に死ぬようなことがあった時はどうなされるお積もりだったですか?」
と質問すると
「ええ、そういうこともあり得ないことではないけれど、そうなったなら、自分自身が死んだことになっても構わないとそう仰ってましたね。」
と明確な口調でそう返答した。島津は結論づけるような口調で
「ですから、ちょうど今から二週間くらい前に私の自宅に早朝警察が訪ねてきて∧あなたのご友人が今朝海岸に引き上げられた∨と報告してくれたんです。どうも明け方に海に出掛けたみたいなんですね。私の方はいつも朝九時くらいには彼の自宅に訪問する習慣になっているので、その日も朝七時くらいに起きて朝食の用意をしていたところに警察が来たんです。」
と言った。私はその時沢柳のことも気にかかっていたが、寧ろこの島津という人間の生き方の方に関心を持ち出していた。そしてつい
「ところで島津さんは沢柳さんよりも大分お年のようでらっしゃいますが、ご家族もおありでしょうに、どうして沢柳さんと一緒にそこかでついて行かれたんですか?」
と聞いてしまった。しかしそれを聞いて非礼だと気づいた時には既に遅かったが、しかし島津は一切厭な表情一つ見せず
「いえ、私には家族はおりません。沢柳さんと同じです。若い頃一度結婚致しましたけれど、すぐに離婚しましてそれ以来ずっと一人者を通してきましたので、沢柳さんの孤独を理解することが出来たんです。」
と言ってからややあって
「でもそれは金城さんとて同じじゃありませんか?」
といきなりこちらに聞いてきたので私は一瞬慌てふためいて
「ええ、まあそうかも知れませんね。」
とお茶を濁した。
 二人は暫く沈黙した。するとその沈黙を破ってこちらから何か聞こうと思っていると向こうがそれを遮るように 「でも、人生っていうのは全て出会いも別れも偶然ですね。」
と言い出した。それに対して私が
「それは私と沢柳さんが瓜二つだっていうことですか?」
と尋ねると島津は
「ええ、それもありますけれどね。でも何か責任を追及されることがあったとしても、自分がたまたま失敗する上司についているか、それとも入社試験に落第するかでそういうことも決まりますよね。」
と言った。私がそれに妙に納得したような表情を見せると島津は 「私は色々な本を読むのが趣味なんですけれど、例えばナチスは戦後その責任が追及されましたけれど、ナチスに入党した者全員が初期悪いことをしようという気持ちではなかったみたいですし、あるいは上官の命によって収容所に派遣された者の中にはユダヤ人をガス室に送り込んで死刑を執行する役目から逃れた者もいたそうですよ。でもその人を匿っていたのも元収容所に収容されていたノルウェー人だったらしいですが、もしユダヤ人の収容者で処刑された人の子孫がその人に会ったなら、俄かに許すという気持ちになったでしょうかね?」
とやや哲学的な質問を仕掛けてきたので私はいささか面食らって
「そういう難しいことをいきなりおっしゃられてもねえ。」
と訝しげな表情を浮かべて俄かに返答出来ないことを誤魔化した。
「つまり悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってあるっていうことですよ。」 
と島津は言った。しかしその内容は確かに一理あると私は思った。
「つまり人間が立たされている状況全ては偶然的なことであり、その偶然
的なことがその人間の評価をかなりな部分決定してしまい、後はどうすることも出来ないということがあるんですよ。」
と更に続けた。そして徐々に話すスピードを落としながら
「ここにこうしてあなたと居合わせるということもまたほんの偶然的なことなのですよ。だって私が沢柳さんと知り合ったから、彼が社をアメリカに立ち上げた時に私が丁度前にしていた仕事のけりをつけるために渡米していた時ボディーガードのオーディションを受けてどういうわけか沢柳さんに気に入られて採用されたからこそ今こうしてあなたと話しているんですからね。」
そう言った。その時私はその言葉の意味を俄かには理解出来なかった。
しかし私にはその言葉とは別にどうにも解せないことがあったので、それを聞いてみることにした。
「でも島津さん、一つお聞きしたいんですけれどね、私は既に後釜に全てを託して、今は沢柳さんに頼まれたことを継続してはいないんですよ。そのことは私、既にあなたも沢柳さんからお聞きになられていると思うんですけれど、モンサンミッシェルで偶然お見かけして沢柳さんに告白しているんですけれどね。何でそれなのに私に会いに態々来られたんですか?」
すると島津は
「分かっています。モンサンミッシェルであなたとお会いしたことは伺っています。ですから仕事的な義務としてではなく友情としてですよ。」 
と言った。しかし一瞬ではその意を測りかねて
「仕事的な義務ではないと仰ると?」
と聞き返すと島津は
「沢柳さんっていう方は仕事に関しては冷徹な型だったけれど、人を見る目に関しては確かなものを持ってらっしゃいましたからね。つまりあの方はあなたを人間的にとても好きで、信頼されてらっしゃったんですよ。」
と言った。
私はその言葉に嘘偽りがない様子を島津の顔色から読み取ったが、あるいは失礼かも知れないが、どうしても島津の前歴への興味を拭い去ることが出来ず聞いていた。
「前の仕事のけりって一体何ですか?」
すると厭な顔一つせず島津は
「私は若い頃プロレスラーを目指していて、実際一回はプロになったんですよ。しかし地方巡業の際に高速道路で私たちを乗せた車の運転者が脇見運転をしていた時、対向車線にカーブを曲がりきれずに、対抗する車を正面衝突をして、私はその時腕と足を痛めたんですよ。隣に座っていたもう一人の白人のレスラーはその時頭を強く打って亡くなりました。結局私は腕と足という商売道具を傷めたものですからプロを引退して、結局アメリカで射撃の練習をして、合気道とかも一応見につけたんです。勿論プロレスラーを諦めなくてはならないくらいの怪我だったので、プロとしてではなく護身用としての作法だけは身につけておきたかったんです。だってそういう世界で生きてきた人間がいきなり全く違う業種に鞍替えすることは困難ですからね、幸い反射神経とか身のこなしそのものは現役時代からのものを失っていなかったですからね。その時亡くなった白人のレスラーの奥さんが私の日本にいた頃からの知り合いの日本人の女性で、私とタッグを組んでいた相方だったものだから、独身時代に来日した時に私が彼女を紹介したんですよ。それで二人は結婚することになったんです。でも彼の亡き後彼女は日本に帰国することなくアメリカで彼と共に暮らしたテネシー州に今でも住んでいるんです。」
 なかなか泣かせる話だと私は思った。しかし最初に見た時にかなりがっしりとした体格であることの理由がこれではっきりした。
 最後にどうしても私は聞きたいことが二つあったので、尤も私は一切どれくらいの時間を共に語り合うかなど相手に聞いて会う約束をしていたわけではなかったが、相手にもそれ相応の時間の制限があるだろうから、一番聞きたい質問を最後に残しておこうと会う前から決めていたのだが、それを聞くことにした。
「ところで本当にお亡くなりになった沢柳さんが私を人選して実質上のリタイアをなさった理由とは一体なんだったお思いでいらっしゃしますか?」
 すると暫く思案するような表情を見せて島津は
「私も完全には理解しているわけではないのですが、金城さん宛の手紙にはどう書かれてありましたか?」
と逆に聞き返してきたので私は
「いやあ、ただCEО職っていうのがプライヴェートな時間なんて全然ないからとしか書かれてありませんでしたのでね。」
と素っ気なくそう応えると島津は
「まあ、それは本音の一部でしょうけれど、結局あの方は自分で作り上げた組織が一切自分の手だけでどうすることも出来ないくらいに肥大化してしまってきていることに耐えられなかったんだと思いますけどね。だからこそ恐らくあなたにも一々指図をなさらなかったでしょう?」
と言い私に確認を求めてきたので私は
「そうですね、一切何も仰らなかったですから、結局製薬会社Kの件なんかは私の一存で決めさせて頂きましたし、シューズデザイナー社とズームアップ社との件もそうだったですね。」
 すると島津は
「でも今の替え玉さんは現況の世界経済情勢も手伝っていますが、なかなか苦闘なさってらっしゃいますね。」
と言った。その時どうしてだか私も自分で自分が意外だったのだが、つい
「ところで今の替え玉さんの名前は何て仰るんですか?」
という島津の質問に私は
「山田さんです。」
と教えてしまった。そしてあろうことか
「明日、その私が選んだ替え玉と同じ京都の別の場所で会うことになっているんですよ。」
とまで告白してしまっていたのだ。しかしその時不思議とこの島津という男にはそういう立ち入ったことを話しても大丈夫だという私の直観が働いたのである(尤もそれが私の運命を決定的に変えたのだが)。しかし私は何故沢柳が会社経営のゲームから降りたかということに関して一応確認しておきたかったものの、本当は沢柳の気持ちが自分で替え玉を一年ちょっとしてみて骨身に沁みて理解出来ていたのである。つまり本当に真実だけを追い求めるのであれば、超ビッグなIT企業のCEОなどやっていられないのである。
 だが次の質問はある意味ではその男島津に対しては私から彼に向けられた一番核心的質問だった。
「では何故島津さん、あなたは私に会いに態々私が指定した京都くんだりまでいらっしゃったのですか?」
すると島津は
「そうご質問なさるだろうと私も思っていました。それはね、金城さん、つまり私が一番惚れ込んだ私より若いが私など足元にも及ばない凄い方が態々お選びになった方があなたですからですよ。」
 そう返答する島津の瞳はしかし決して世辞でそう言っているのではない真剣さがあった。その時私はふと山田を選んだ時私はそこまで真剣に考え抜いた末の決断だったか少し自信を失いそうだった。
 しかしそれもある程度翌日に彼と会うこととなっているのだから理解することが出来よう、そう思った。
 私はつい島津の生き方がそのまま滲み出るような話し振り、語り口に引き込まれ、時間が経つのを忘れていたが、既に一時間近く経っていた。そこで最後に幾つか好奇心から
「島津さんは今はどのように生活なさっていらっしゃるんですか?」
と尋ねると
「私はあなたが引き継いだ時点でボディーガードを退職していたんです。と言うより私だけ彼があなたになった役を選ぶということを聞かせられていたんです。唯一ね。私は今退職金と沢柳さんの心づけで何とか不足することなくフランスの片田舎で生活させて頂いております。あなたにもボディーガードがいらっしゃったでしょう?」
と島津が聞いてきた。私にはボディーガードは特にいなかった。と言うのも車に乗る時にはトムが、飛行機の時にはビルがその代わりをしていたからだ。そう言えば一度沢柳に報告したいことがあって連絡した時向こうが私にボディーガードは要らないかと聞いてきた時私はあまり一人で町に繰り出すのが好きではないタイプなので、もしそういうことがある場合には自費で雇うと言って向こうが手配してあげようかという誘いを断ったことがあったが、事実植物園くらいしか外出しなかった(ヴェロニカとの逢瀬以外では)ことが正解だと思っていた。と言うのも私はあくまで替え玉なので自由に行動することから慎まねばと思っていたからである。そこで
「ええ、私はあまり自由行動すること自体を慎んでいましたものですから、一切運転手と自社用ジェットのパイロット以外では飛行機で日本に帰国する時以外でつけていなかったですね。SPは。尤も経済国際会議の時には飛行機の時のSPがいつもついて来てくれましたけれどね。」
そう言うと島津は
「まさにあなたを沢柳さんが選んだ理由がはっきり今分かりましたよ。」
 そして少し間を置いて
「ヴェロニカさんやサリーさんたちもあなたなら不自然に思わず、社長と信じてついて来られたんじゃないですか?」
と言った。私はそれに対して
「そうでしょうか?そうだと私もほっとしますが。」
と言った。そしてついでに
「今日は態々私にお会いしてきて頂いて実に恐縮です。もしこちらから連絡差し上げるとするとどちらに連絡すればよいのでしょう。」
と聞くと彼は自分でペンを使って書いた名刺を私に渡し、そこに書かれてあるメールアドレスと電話番号を指しながら 
「何か御座いましたらこちらまでよろしくお願いします。」
と言った。私は島津に俳句仲間にも、替え玉CEО時代の側近にもない、ある独特の親しみを覚えていた。と言うのも彼は沢柳の影という意味では私の場合と全く違った意味でかなりの共通性があったからだ。そしてそのことに対して島津の方も理解していたことだろうと思う。
 その日私は島津を地下鉄の駅の改札口まで送って行き、別れの挨拶をしてからレストランに戻ると五人の俳句仲間が首を長くして私が戻ってくるのを待っていた。私は時計を見ると昼食と昼食後の俳句の談話に須賀が当てていた時間を十分くらい超過していたことに気づき、皆に頭を下げ深く謝ると、近田が
「今日の句会後の二次会は散見さんの奢りですからね。」
 と屈託なく笑いながら他の皆と目配せした。

Tuesday, November 3, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑮

 連日ニュースでは世界同時不況の煽りを食らった日経平均株価の暴落を告げていた。私はしかし京都旅行から四日くらいたった日の午後、シンガポールの自宅の書斎に置かれてあるパソコンに島田から送信されてきた島田の知人が依頼してきた翻訳原稿を見て、即座に翻訳をし始めていた。島田がスキャンでコピーしたものを私に送ってきたのだ。
 それは一冊分の本くらいに相当する長さの取材物だった。それは長く古物商を営んできた米国人の男性による古物そのものとの出会いと、ニセモノを掴まされた経験などを語った自伝的要素と、苦境に陥った時に巧く難を逃れるハウツーものの要素が絡まりあった内容のものだった。
 その翻訳をし始めてから、私は依然埼玉県に住んでいた頃よく立ち寄ったギャラリーのオーナーでアートディーラーの伊豆倉のことが懐かしく思い出された。私は独身だったし、両親も既に数年前に母親が死去してから、それより十数年前に死去していた父と共に私は天涯孤独だったので、もう金城悟の名を知る知人は伊豆倉と、飯島だけだったのだ。
 しかしその時期私は久し振りに纏まった本業に身を入れていて、替え玉、ダミーとしての生活で味わったストレスから開放された気分でいた。基本的に翻訳上で必要なデータとか業界の知識とかはインターネットで検索したり、そこで登場した本をネットショッピングで仕入れて読んで調べたりした。図書館にはなるべく行かないようにしたが、時折古書とか廃刊となった本を調べる必要のある時だけ出掛けた。シンガポールでは私は一切寺院を訪れることはなかった。日本人だけの寺社の方が私には落ち着いたのだ。そういう風に頑なにしていったのには、私の京都行きが手伝っていたかも知れない。
 しかし私が手掛けた翻訳の原書本は実にいいことも沢山書いてあった。例えば次のようなものがそうである。

<人間は若い頃には正義を信じ、行動の原理をそれなり形作っていく。しかし往々にして若さとは正しいことというのが一つであるように全てにおいて一つの正解を求める。勿論概ねその都度正しいことというのは一つである場合も多い。しかしその一つに辿り着くための経路は様々である。だから正しいことをするのには一種類だけの仕方しかあるわけではない。
 対抗意識とか敵対意識とは、ある意味ではかなりの部分で自己内にあるその者との近親性に根差している。つまり相手に対する近親憎悪こそが敵対意識とか対抗意識を育んでいる。と言うことは相手を批判するということを通して私たちは批判する相手と最も近接した立場であり、性格である自分を見出さずにはいないということだ。
 その意味でも批判する前にまず相手の立場を自分の立場と比較して検討してみる必要がある。相手を批判する前にまず自分の批判的な眼差しで見つめる必要がある。
 だからこそ商売の基本とは出来得る限り対立とか抗争を避けるということに尽きる。そうするには危険な橋は渡らないということである。そのためにはいい意味で責任転嫁と、責任回避をすることである。
 つまり権威ある別の人に対して敵対することを避けるには権威ある人の商売上での戦略に乗せられないように、「知らないこと」、「出来ること」、「責任を持てること」を限定し、そのことを顧客に明示することである。価値あるかどうか分からないものを高くは売らないということ、あるいはニセモノである(贋作)とかそういう危険のあるものを扱わないことである。それは権威ある人から薦められた商品に関しても該当し、しかしその権威ある人の信用を傷つけないような仕方で丁重に勧誘を退けることである。要するに今現在そのような経済的余裕がないことを明示すればよいのである。>
 
 翻訳をし始めてから二十日くらいたった頃島田から私が南禅寺で彼に渡した名刺を見て彼が私にかけてきた電話があった。
「翻訳の調子はどうですか?」
 と電話の向こうで彼はそういきなり私に尋ねてきた。
 私は半分くらいの量をざっと翻訳したことを告げた。しかしこれから丁寧に本などの資料を調べてチェックして兎に角半分だけでも仕上げなければならないと彼に語った。
 すると島田は慇懃無礼な口調で
「散見先生はスピーディーに仕事をされる方ですか?大体どれくらいで出来そうですか?」
 と質問してきたので、私は
「そうですね。ものにも拠りますけれど、今回のようなものは、技術翻訳的なものとも少し違うからマニュアルが予めあるようなのと違うので、自分で調べなければいけないこともあるので、そうですね、急ぐのでないのなら、二ヶ月くらいは頂きたいですね。」
と告げると島田は
「分かりました。では先方の兼杉にもそう伝えておきましょう。」
と言った。

 島田に対して私は郷田守として接している。それは京都で出会った俳句仲間全員に対してもそうである。しかし私はそこでしている仕事を全て金城悟として税務署に申告するためにしている。では何故私が日本のマンションに帰宅することをしないのかと言えば、私の金城悟として生活してきていたマンションが所沢にも近く、あるいはフリスコで飯島とばったり出くわしたような形でいつ何時スカイスレッダーの日本支社長である川上やマンションでの雑事をしてくれていた相川や料理人の友部、あるいはホテルとかに行く際の手配の付き人である島村らと出くわさないとも限らない。そこで私は日本に来た時のみ埼玉県のマンションに赴くことにしていたのだ。だから京都旅行の直前にも私はかつての住処に赴いていたのだ。
 島田は俳句の吟行において最も俗物であり、作る句にも魅力に欠けたが、私が経済的には悠々自適であるにもかかわらず、空虚感を持っていたおり、ひょんなことから私に再び翻訳業務に赴かせてくれた貴重な出会いであったとも今なら言える。
 私が世界が虚構めいて見えるという世界観を拭い去れないこと自体を否定的に捉えれば、ある意味では何故翻訳家として生活してきたかということの理由も説明出来る。翻訳の彼方にあるものとは端的に他者の考えであり、その他者の考えをその他者以外の全ての他者に伝えるための橋渡しとするのが私の役割であり、それは原テクストの著述者にとっての「私」の解放を、一人では出来ないから、手助けすることでもある。それは私自身にとって世界が虚構めいて見えることの脅迫観念から一時開放してくれる、著述者によって作られた虚構の「現実性」を私が彼らに代わって成し遂げることが出来るか否かが私の翻訳家としての技量次第だからだ。
 しかしスカイスレッダー時代には生活自体が虚構だった。虚構を通して現実を仄見えるものとして認識する猶予さえない毎日では、私はただ自分の行動を世界に対峙し得る唯一の道具として、行動をこそ虚構とすることで、内心だけは自分であり現実であるという生活を生きた。しかし山田は一体巧くこの経済不況に難関を突破し得るのだろうか?考えてみれば彼こそ最も不運な男であるとも言えた。
 私に仕事を依頼した兼杉という男は後で私に謝意を伝えるために電話で連絡してきた。島田からの電話のあった四日後くらいである。その男は島田の若い頃からの友人で、島田が事業をすることとなった時資金も工面するのを手伝ったらしい。今では彼も島田に一足遅れて古物商もしているということだった。私はそれ以上その男に関心も持たなければ興味も沸かなかった。しかし彼は私にこう言った。
「こういう不確実な時代に相応しい内容じゃないかと思ったんですけれど、先生は今お訳しになっておられて、そうお思いではないでしょうか?」
 もう内容を全部読んで把握しているかのような口ぶりだ。尤も英文を読むことが出来ても、翻訳してそれを日本語で読ませるということはまた別のことなので、もし彼が既に内容を把握していても全く不思議ではない。しかしそれにしてもまるで自分の能力を試しているかのようなその口ぶりに私は一瞬沢柳からCEО職を引き継いだばかりの頃の私の周囲のスタッフの視線を意識して常に構えていた頃のことを思い出した。
 ただ翻訳をすることとなって、久し振りにCEО替え玉時代に金城悟として申告する分だけはこなしてきた雑翻訳と違って、島田の友人によるそのテクストはかなりためになる内容でもあった。
 テクストの著者はニュージャージー州のトレントン出身の人間で、父親の家業が家具屋だったということも手伝って、商売の基本は父親の生き方から学んだが、美術や陶芸が好きで、結局ニューヨークのアートスクールに学び、卒業後古物商の見習いをして、世界中を回り、ヨーロッパからアメリカ、日本、韓国、中国の陶芸家の作品も見て研究し、例えば日本のものでは北大路魯山人、荒川豊蔵、石田破山、加藤唐九郎といった巨匠のものも取り扱い、且つバーナード・リーチやガンサー・ステント、ルース・ベネディクトといった文献も広く読み漁っている様子が明確に文体、内容、引用文献などから推し量られた。そればかりは古い文献ではバウムガルテン、クローチェ、ジョルジェ・ルカーチ、あるいは哲学者からはディルタイ、ジンメル、文学ではゲーテやアーサー・シモンズはもとより、日本からは青山二郎、白州正子といった文献も読みこなしてきている節があった。私もそれら全てを読みこなしているわけではないが、それだけのものを通過してきている者のみが持ち得るような自信がそのテクストの文体には表されていたのだ。
 私はスカイスレッダーにおいて職務を代行していた時にも、空いた時間にはギャラリーやミューゼアムを見ていたが、こんな凄い古物商がいたということは勿論知らなかった。いたとしても会う機会などなかっただろう。
 しかし私が翻訳業務をしていた頃注文を受ける文章とは殆どがアメリカにおける組合の仕組みに関する解説とか、大企業のイントラネットに関する技術書とかそういう類の技術翻訳だった。そしてそれらは世界が虚構めいて見える自分の資質から必然的に文学への関心が芽生えていった思春期から学生時代までと基本的に異なっていることとは、そもそも文章とは文学であれ、とどのつまり仕組み以外のものではなく、詩であれ、小説であれそれらは虚構的技術によって顕現されているということだった。だから素晴らしい内容であったなら自伝で指南書でもある兼杉の依頼してきたテクストは彼の資金によって知人筋にだけ配布するために自費出版することになる筈だったが、私は兼杉が読んだなら必ずそう決意するだろうと翻訳しながらそう思ったのだ。

 私は島田から兼杉に依頼されたこととして引き受けた翻訳を約三ヶ月かけて完成させ、島田からの電話の際にも言われていたことだが、兼杉に直接メールで添付送信した。数十万円の報酬は私がメールで指定した口座に一週間後くらいに振り込まれた。兼杉は日本語の本を読むのは早いようだ。その後彼から丁寧な謝意を告げた手紙も届いた。勿論シンガポールのマンション宛ではない。私が確定申告に日本に戻った時に寄ったかつての住処の方にである。島田も私が日本にいると思っている。私は全部日本のマンションにある電話からシンガポールの自宅に転送されることになっている。尤も島田も後で請求される電話料金の明細を見れば私が日本にいないことを察するかも知れないが、そうなってもそれがどうしたの言うのか。
 山田からは彼が就任して一瞬間くらいの時期に私の携帯にあった電話以来一切梨の礫であった。しかしそれはそれでよいことである。しかし問題なのは私が彼に委託した期間は沢柳が私に委託した期間と同じ一年であり、そろそろ今後も契約を更新すべきか否かを向こうから尋ねてくることだろうし、それに対して私もそれなりの回答を彼に出さねばならないということである。
 しかし基本的に私は一切彼山田が契約の一年過ぎて以後もう一度返り咲くというようなことは考えていなかったし、事実山田が私からの要請という意識を捨てて一切の決裁を自分で執り行い縦横無尽に職務に邁進してくれることこそが私が彼に望むことだった。
 しかし始末の悪いことに私はCEОの替え玉時代そのものは懐かしくもなっていたのだ。それはビルやトムや総務のヒーリーや庭師のロジャース、秘書のサリーたちが仲間であるという意識では他の全ての面子とも違う生活を常に共にするという経験自体が私にとってはそれまでと違った体験だったことにも根差す。
 例えばスカイスレッダー社の日系人レオナルド・岸田、製薬会社Kのネルソンやリッチモンド、あるいはズームアップ社のサム・ジャクソン、シューズデザイナー社の腹心たちであるスーザン・リンドバーグ、弁護士であるレオン・ソダーバーグ、シューズデザイナー社のエンジニアであるマーヴィン・ブラックモアといった人たちは全てまず名前を覚えることが第一であり、その人格的な背景をなす育ちといったことをあれこれ想像することに意味がないくらいのエリートたちである。しかしやはりエリートという機能によって命脈を保つ偉大なる部品でしかない。その意味では同じ日本人でも川上、相川、友部、島村は皆そのタイプに属す。
 それに対して島田のようなタイプの男は絶対アメリカにはいないタイプである。確かに島田は飯島同様俗物である。別に古物商という人たちが俗物だというのではない。たまたま私が出会った古物商たちに俗物が多かったというだけのことである。それは私が翻訳業務をしていた頃にもクライアントとしてもあまり見ないタイプだった。私に翻訳を依頼してくる人たちは全て忙しくてしかも英語があまり得意ではないタイプの人たちなのである。だからそれはアメリカのビジネスマンタイプでもなければ島田タイプでもなかったのだ。 
 伊豆倉はアメリカのビジネスマンたちとも島田とも異なったタイプだったが、もし敢えてどちらかに属すると定義するとすればそれは完全にアメリカのビジネスマンたちの部類である。つまり私は伊豆倉のようなタイプの人間の存在によって逆にアメリカでも、島田的な存在であるサンタフェの地元のアメリカ人に対しても、あるいは日本でも日本にはあまりいないアメリカのビジネスマンタイプの人に対しても、アメリカにはいないタイプの島田のようなタイプの商売人に対してもさほど一々その差異に驚愕する必要がなく接することが出来たのだ。そういう意味では伊豆倉もまた懐かしき知人のデータベース上での存在となっていた。あるいは京都で出会った須賀もまた伊豆倉以降知り合った者の中では最も伊豆倉に近い中間タイプだったが、一度も会ったことのないタイプであった桑原に対しても既に私は心の動揺をあの風呂での一言を除いてあまり感じることないままにやり過ごせたのだ。因みに近田と吹上に対しても敢えて定義すればアメリカのビジネスマンなのだなと勝手に同類という風にカテゴライズして出会い自体にたじろぐ必要がなかったのだ。
 そのように他人をカテゴライズすることはあまり倫理的にはいいことではないだろう。しかし仕事をして生活するということとなるとそのようにカテゴライズすることを全く怠ると精神的にはとてもやりきれなさが残るものだ。それは喩えれば大病院の医師が一々死んでいく患者に感情移入し過ぎていては職務が務まらないというのと同じである。医師にとって必要なのは技術であり、患者は壊れた機械である。私はある意味では翻訳業にしても、急激な変化をきたした替え玉CEОにしても、そのように接する時に他人毎に即座にカテゴライズすることが巧みだったからこそ全てを切り抜けてこられたのだ。つまり仕事上では他人は全て何らかの機能を持った役割を与えられた存在でしかない。だからある機能に支障をきたせば、それを補修する係りが代えをすぐさま用意するだけのことだ。代えられた部品に一々未練を持ってなどいられない。
 とその頃はそう思っていた。しかしその後の私の人生を考えると若い日々に憧れた文学の香りをも感じることの出来た米国人古物商の自伝兼指南書の翻訳をしたことの意味は後から考えると大きなものだったのだが、それと同じくらいにその後の私の人生にとって大きな意味を持つ、まさに私にとってもう一人の私であるが故に一切のカテゴライズを拒み続ける、その典型の一人である沢柳とはまた別の意味で、つまり私と風貌は一切似ていないものの、私と立場上では最も隣接したある影法師のような男との出会いがその直後くらいに私を待ち構えていたのである。
 私は社会ゲームにおいてある役割を与えられ、それから自ら降りた。降りることは自由だが、降りた者を一々気にして生活する者などいない。すぐ忘れられる。しかし降りた者は降りたゲームをいつまでも覚えている。与えられるのではなく自らに与えるゲームを作っていくという気持ちに目覚めたのがこの頃の私だったのかも知れない。

Sunday, November 1, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑭

 句会以後の二次会によって私たちは相互の家庭の事情も、俳句との出会いに関する個人的なことに関する報告と共になされたので、取り敢えず島田と桑原と須賀が妻帯者であり、近田と吹上と私が独身であるということだけは判明した。本名も一応言い合ったが、近田と吹上と島田と桑原は本名で、須賀だけが俳号が下の名前だがいかにも作り名のようだがそちらの方が本名で、苗字は本名では金井と言うと告白した。私の俳号は河野散見だが、本名は郷田守ということにしておいた。私だけが嘘をついているということになるかも知れない。(尤もそれは私以外の皆が偽りなく皆の前で申告しているとしてだが)
 しかしそのように申告し合うという対話状況とは、実際ビジネスでは殆ど見られないことである。尤も翻訳家でいた頃には、プライヴェートな報告をし合うということもないことはなかったが、やはり大半が翻訳する必要に迫られるものとはビジネス上での形式的な遣り取りだった。だから本音のぶつけ合いと言っても、実はビジネス上と、オフの時間とでは同じ集団と言っても、全く性格が異なってくるということは極めてその当時の私にとっての興味深いことだった。しかしもっと重要なこととは、私たちはあくまで他者と接する時には、それがビジネスであれ、オフの時間であれ、完全にプライヴェートになることも出来なければ、自己本位を百パーセント曝け出すということもあり得ないということである。
 いやそれどころか私にとってであるが、一人でいる時でさえ私は常に私の中の他者の存在に「私自身」が晒されていることに自覚的ではない時間など生まれてから一度もなかったと言ってよい。それは私に固有の感じ方なのか、それとも誰しもそう思うものなのかということは、たとえ報告し合っても本当には確認し合うことが出来ない。
 ホテルそのものはバスで京都駅まで行ってそこから徒歩で到着してチェックインしたのだが、かなり立派でそう安価ではない宿泊費から言っても充分宿泊客の要望に答えるものだった。一緒にホテル内にある温泉に入ったが、その時一緒にいた桑原と須賀と近田と吹上という島田を除く野郎の宿泊客同士の会話は他愛無いものだった。しかしそんな会話をする心の余裕も実際スカイスレッダーCEО替え玉時代には全く持つことが出来なかった。しかしこの心の緩みは気をつけねばならないとも思ったが、私は既にサハシー本人になりすますこと自体の方に慣れ、却って素の自分でいるということの方にどこか心の落ち着かなさを感じ取っていたのだ。だから逆に俳句を作る者同士という関係が意外といい息抜きになったことも確かだ。つまり五七五という句形式を通して虚構的世界を構築すること自体が、素でいる自分があるかも知れないという恐怖に対する予防線となっていることが俳句仲間同士の会話自体から理解することが出来たからである。
 しかし私の隣の椅子に座り、頭にシャンプーをつけて掻き回してからお湯をかぶって話しかけてきたのが桑原だった。
「河野散見さんは外国生活経験が結構豊富なんですか?」
そう桑原は言った。桑原は自身著名な写真家で、世界中を飛び回っている。その男が私にそう言ったのだ。私はそれまで須賀以外には会話をあまりしていなかったが、その一言は一気に私に構える態度を作らせた。そういう風に申告したこと以外の会話をするということはある程度一日行動を共にした者同士の必然であったが、いざそう切り出されると私は内心たじろがざるを得なかった。
「どうしてそう思われるんですか?」
そう私が白を切ると
「だって、河野さんは、いや郷田さんでしたか、翻訳家に仕事を依頼する仕事なさってらっしゃるんでしょう?」
そう桑原は切り込んできたので私は
「まあ、そうですが、日本での仕事が殆どなので。」
と誤魔化した。それは二年前までは本当のことだった。確かに私はサハシーの替え玉になって以来各国を飛び回り、リタイア後もタヒチ、フランス、シンガポールと飛び回った。しかし翻訳家業務時代にはただ一度オーストラリアを業界の親しいクライアントと観光旅行をしたことがあるだけだった。私は必死にその頃の自分に気持ちから戻ろうと試みた。しかし桑原は世界中を飛び回る仕事人としての嗅覚から私のここ二年くらいの間に生活を直観的に嗅ぎ取ったようなのだ。しかし幸いそれ以上桑原は私のことを追及してくることはなくただ
「そうですか。」
とだけ言った。
後ろでは句会のお開き前に質問したことがきっかけで一番若い近田が少し年長の吹上に取り入るように色々質問していた。
「新入社員なんかの選別基準はどうなさっておられるんですか?」
すると吹上は
「まあ、化粧品のメーカーですから、ケミカル関係の技術者を大卒、院卒とか色々推薦も含めて採用致しますね、それに選別に気を遣うのは開発部だけでなく営業部や販売促進部なんかでは経済学、経営学だけでなく心理学の修士とかも採用していますね。販売戦略的に女性相手の場合には独身女性の心理とか既婚者の心理とかを予めリサーチした上で色々デザイナーやコピーライターたちと協同で作業しなくてはならないですからね。大学の四年だけの奴は一流大卒の連中でも使い物にならないですからね。」
私たちはその日は私と須賀が二人部屋に、近田と吹上、桑原が三人部屋にそれぞれ宿泊した。

 翌日、私たちは正門が開く時間八時半に東寺正門で待ち合わせ、ホテルのチェックアウトを各自勝手に済ませ、一人で行くも、誰かと一緒に行くも自由とした。前日のお開きの際にそういうことにしていたのだ。島田のように自宅に一旦戻った者もいたからである。
 私は誰とも一緒にはチェックアウトせずに一人京都駅から近鉄電車で一駅目の東寺迄乗り、後は徒歩で東寺正門へと向かった。
 須賀はホテルのロビー脇に設えられていたラウンジで桑原と何やら話し込んでいたので、私は一切両人との挨拶せずにホテルを出たが、先にホテルを出たので私の方が先に東寺に到着するかと思っていたら、私が正門に到着した時桑原と須賀は既に先に到着していた。きっと二人でタクシーに乗ってそこまで来たのだろうと私は思った。
 私は電車に乗っている時も、徒歩の時も妙に昨日の温泉での桑原からかけられた一言のことが気にかかって、何故彼はあんな質問を私に突然投げかけたのだとうとそればかりずっと考えていた。
桑原が披露した句は流石プロ写真家なだけあって、一瞬のシャッターチャンスを狙ったかのような歯切れのよい、切れ字を巧みに利用した句だったと私は彼のこと共に思い出していた。
 私が到着してから三四分くらいしてからほどなく近田と吹上が共に到着した。島田だけ七分くらい他の皆から遅れて到着した。
 「申し訳ありません、ちょっと遅れてしまって。」
 と頭を下げて彼は走って正門の方へやって来た。
 皆が揃ったので拝観料を支払い、内部の庭園が見える敷地に入った。そして五重塔、金堂、講堂、大師堂などを順次観て回り、最後に敷地から出て直のところにある観智院を拝観した。中には五大の庭と呼ばれる石庭が敷き詰めてあり、唐から恵運が請来した五大虚空菩薩像や江戸期の愛染明王像などが壮麗な雰囲気を醸していたが、それ以上に皆の眼を釘付けにしたのは宮本武蔵が逗留して描いたと言われる襖絵、「竹林の図」、そして床の間にある「鷲の図」であった。大分掠れてしまっていて元通りの図のイメージはある程度想像するしかなかったものの、一乗寺下がり松の決闘で敵方の子どもの大将を殺して、追手を逃れて過ごしていたそこで、一体武蔵はどういうことを考えてその図を描いたのかと私は思った。武蔵の気持ちが少し理解出来る気がしたのだ。勿論ただの錯覚かも知れない。しかし追手は今のところないがと私は思ったが、武蔵の孤独の意味は理解出来る気がしたのだ。武蔵は五大の庭の亀や龍を象った石の配列を眺めながら、図を描いていただろうか?そう思って武蔵の絵から石庭へと視線を移動していた時隣で武蔵の絵を見入っていた島田が私に話しかけてきた。
 「河野さんはプロの翻訳家の斡旋をされているのでしたら、ご自分でも翻訳をなさるんでしょう?」
突然のプライヴェートな質問にいささか面食らいながらも私は真摯に返答した。
 「ええ、以前は一人で翻訳業務をこなしていましたから。」
するとそれに応じるように島田は
 「実は私同業者の古物商の知人から長文の英文を翻訳してくれる人を探していると言われて、実は私その人には昔仕事関係で世話になったこともあって、もしよかったらその人から誰かいい翻訳家いないかという件をお引き受け下さらないでしょうか?」
と私に問いかけてきた。私はシンガポールでの何も特に仕事をしない日々に少し飽きてきていたので、その質問に対して
 「別に構わないですが、どれくらいの量の仕事なんでしょうか?」
と島田に聞き返すと島田は
 「ええ、何でもそれほど厚くない単行本一冊文くらいだそうです。よろしかったら、その本をスキャンでコピーして河野散見さんへメールで添付送信して貰うように言っておきますが。」
と返答した。それに対して私は久しぶりに纏まった翻訳を出来るのはそれなりにわくわくしもしたので、一も二もなく即座に
 「ええ、是非そうして下されば、後はいつまでに仕上げて提出すればよいかだけですが。」
と返すと島田は
 「そうですね、ではその旨も先方に伝えておきましょう。」
と私の要望に応えるようにそう言った。
 私はそろそろ半年くらい替え玉CEОから降りてたつ当時仕事を何もせずに過ごす日々にシンガポールのマンションで過ごしながらも固有の退屈さを持ち始めていたのだ。私がアメリカで過ごした期間に稼いだ報酬は全てスイスやケーマンに預金していた(沢柳には一銭も支払われていなかったし、それは私との間での彼との約束だった。彼は既にその当時以上の報酬を要求していなかったのだ。そして彼自身の口座以外に私のための口座を私が着任した時に拵えたのだ)し、そのことを敢えて日本の税務署は問い質すことはないだろう。そもそも私はその当時もずっと金城悟として申告していたのだから。
 しかし殆ど以前住んでいたマンションには戻っていなかったし、そのことを不振に思う者もいただろうが、年に一回だけ確定申告で税務署を訪れればそれでよい。アメリカ時代にもそういう風にして年に何回か纏まった大きな翻訳の仕事をサンタフェの豪邸の書斎でこなしてメールで完成する都度クライアントに送っていたのだ。例の部屋で一日何もせずに過ごす一年が過ぎた頃私は一度確定申告をし、その後、日本にCEОとして日本に滞在時に確定申告のため一日だけオフにして貰いこっそりかつてのマンションにも行き、そこで書類を作成して税務署にも行った。そして再び日本滞在時に過ごすマンションに戻っていたのだ。
 そして金城悟として久し振りにする仕事を得たというわけだ。シンガポール在住のビジネスマンという郷田守として頼まれた仕事をしてそれを金城悟として申告すればよいのだ。一々そんな細かいことまで気にする奴などいるものか。第一翻訳家は結構偽名で行なっている作家とかもいるし、またペンネームを使用する者も多いのだ。
 しかし私はその日はそれ以上先にこなすことになる仕事に対してあれこれ想像することはよした。折角京都までやってきて、吟行をしているのだ。手元に持ったメモ帳に今日の午後する句会で発表する句を捻り出さなくてはならない。今日は既に須賀が予約している料亭で食事しながら、句会である。
 その日は小春日和だったので、皆の同意で西本願寺まで徒歩で行くことにしたのだった。そして西本願寺では皆で記念写真を撮り、次は東本願寺に向かった。到着した東本願寺では護影堂が大規模な改修工事中であり、全容を見ることが出来なかった。それは銀閣寺でも同じだった。観音殿が修復工事中だったからだ。それはこのような国宝の保存という意味では致し方ない現実ではあったが、ホンモノの文化の構造を将来に渡って維持していくということ自体が、どこかニセモノを作り替えていくことでしか維持され得ないということに存するある種の人間社会の欺瞞性を私はしみじみと感じざるを得なかった。
 そこから更にバスで当初行く予定であった三十三間堂へと皆の合意で徒歩で行くことになった。天候次第で幾らでも当初の予定を変えられるというところが観光旅行のいいところである。
 東寺からスタートして三十三間堂へと至る徒歩の旅は吟行をするには天候的にも恵まれたせいか、持って来いのものであった。三十三間堂の入り口が遠くから見えてきた時には既に十一時半になっていたが、その日のそれまでのルートは大体京都市街地を縦に貫く感じのものだった。
 前日は島田と吹上、桑原と近田という組み合わせで隣り合って歩いていたが、その日は近田がいやに吹上を年齢の近い先輩として持ち上げ、関心を持ったようだったし、島田も島田で桑原をほぼ同世代として相互に古物商とプロカメラマンという全く異なった職業であるが故の好奇心を持ち合って、話が弾んでいるように思えた。
 近田が
 「吹上さんは経営者でいらっしゃるのにどうしてそんなに俳句とか文藝的なことにも造詣が深くていらっしゃるんですか?」
吹上は前日の俳句との出会いを相互に告白し合ったとき、ただこの会合の下となっている俳人の句を俳句雑誌で見かけていいなと思ったとだけ述べていたので、もっと詳しく近田にしてみれば知りたかったのだろう。しかし吹上は厭な顔も見せず
 「元々私の父は昔大手出版社に勤めていたんですよ。その出版社が倒産して、別の出版社の一部になったんですが、その方針が少し父が編集補佐をしていた頃のものと食い違っていたし、そうなっていくことを予想出来たので、併合する社からは居残っていいと言われていたのだけれど、当時父は、父と共にその後の身の処し方に困窮していた一番親しかった同僚と共に自費出版を中心にする小さな出版社を経営しだしたんですよ。結局父はその自分たちで立ち上げた社も経営が巧いようには運ばなくなって、駄目になる寸前に会社毎知人の結構儲かっていたデザイン会社に売ったんですよ。そしてその時は僕ももう大人になっていて、後は余生を俳句でも作ろうということになって、ずっと句作三昧な生活だったんですよ、父は宿毛の生まれで少年時代に松山に祖父の事業のために松山に引っ越してきて松山高校時代に入学し、その高校で英語を教えていた先生が俳句を作っていた人で、その人に人格と才能に惹かれて、俳句作りを指南して貰っていたところ父が勤めることになって結局倒産して別の社に買い取られた出版社で編集長をしていたある句界では知られた俳人を兄弟子として知遇を得たんですよ、それが父の俳句作りをより情熱的なものにしていったんですね。つまり父の俳句の情熱は将来私にもそういう素養を持たせたいということで、私を幼少の頃から句会とかに連れて行ってくれたんですよ、それこそ小学生の頃からね。」
 吹上は前日句会になるまでは控えめだったが、近田が質問してそれに返答してから、一気に饒舌に語りだし、近田が兄貴分的に彼に慕う態度を見せていたので、そのことにも気をよくしていたようだった。
 「それにしても経営者というお立場と、俳句ってどこか全く違うようにも思いますけれど、そういう立場の人って結構趣味で俳句を作っている人は大勢いらっしゃるんですか?」
と近田が質問すると吹上は
 「私も先行きどうなっていくか分からないんですけれど、俳人っていうのはある意味では世間を隠遁して生きていく覚悟の人の方が多いですよね、その生き方が逆に経営者とか責任ある立場の人にとってある種の理想のように映ったり、自分がリタイアした後の人生をどう過ごすかという指針になったりするんですよ。勿論私は経営者としてはまだまだリタイア後を考えてはいけない立場の人間ですが、いつかはそういう時も来るでしょう?ほら政治家とかが文学者や書家や茶人の生き方とか、その詩や書や作法に惹かれることがあるじゃないですか。それと同じじゃないかな。」
と返した。それに対して近田は妙に納得したような表情で
 「それはいざという時の一大決心とか責任の取り方とか引き際とかにおいて政治家たちが古代の武将や文学者の生き方を参考にするような意味でですね。」
と賛同の意を示しながらそう言った。すると吹上は
 「まあ、そう格好よいものでもないですけれどね、私たちは。」
と謙遜してそう言った。
 その時須賀がもう目の前まで三十三間堂が近づいていたのに急に
 「もう後十数分で正午です。どうです。まず昼食を取ってからゆっくり見学するというのは?」
と提案した。すると桑原が
 「そうですね。僕も久し振りに大分歩いたので腹が減ったな。」
と言った。桑原は島田なんかよりはずっと世界中歩き回っているので、一番疲れないだろうに、皆を休憩させたいという須賀の申し出を無碍にしないためにそう言ったのだろうと私は思った。
 しかし吹上に熱心に話しかけていた近田も
 「いいですね、どこで食べますか?」
とさも待ってましたとばかりに嬉そうに言ったので、皆頷いて同意を示し
 「そこの店にしましょう。私も以前そこで食べて結構おいしかったんですよ。」
と言ったので、皆逆らう者も出ず、その蕎麦屋で食事することになった。皆が店に入って二つのテーブルが一緒に合わせられた格好のところに陣取っていると女将さんがやってきてメニューをテーブルの上に差し出した。それを見てめいめい注文する品を決めて、口々に少し奥の食べ物を差し出す口の傍に待機している女将に告げた。女将はそれを更に奥にいる料理人(多分夫だろう)に口早に告げた。
 十分もしない内に皆の前に注文した品が運ばれた。私は鰊蕎麦を注文した。皆が注文の品が来た順に食べだしたので、私もニ三人未だ来ていない者もいたが、構わず食べ始めた。麺が延びてしまうから早く食った方がいいというわけだ。食べると京都の出汁の取り方は薄味でコクがあった。シンガポールにもアメリカにも蕎麦を出す店はあったが、大して美味くなかった。中華料理店の方が気が利いている気がしたが、京都で食べた蕎麦は東京の蕎麦より柔らかい気が私にはした。
 店を出てすぐ眼と鼻の先である三十三間堂の構内に拝観料を払って入った時十二時半まで十二三分あった。私はこの細長い建物を見た時私が通っていた小学校の校舎を思い出した。
 この寺院は1165年に後白河上皇によって建立され、脇に聳える南大門は豊臣秀頼によって加設された。
 皆細長い廊下を歩き、一体一体見ていったが、片手に持っている俳句をメモする手帳に時々書き込んでいたのは須賀と島田と桑原の三人であり、その日はあまり若手は書き込むことに精を出していないようだったが、昨日もバスの中とかでしきりに書いていたから、その日もそうなのだろうと私は思った。時々近田が吹上にあの像が誰それに顔が似ているとか何とか囁いて二人であまり声を立てないようにこっそり笑っているところを見ると、大方私か島田か桑原か須賀に似た顔を発見していたのだろう。
 歴史趣味的な俳句を作ることなど私はなかったが、そのような趣旨に関心がありそうなのは前日の句会の時での皆の会話から古物商の島田と須賀であることだけは皆認めていたが、桑原はどうか定かではなかったものの、それほど好きではないのではないかとは彼の取った写真を見れば理解出来る気もしたが、彼はしきりと句を十一面千手千眼観世音を見ながら捻り出しているように見えた。一人言のように何かぼそぼそ呟いていたが、所々に示された解説の札の字を読んでいたのだ。
 「運慶の長男、湛慶による82歳の時の作か。」
と感慨深げに呟いていたが、八十二歳とは彼らすら未だ一回り以上生きねばその年齢にはならないのだ。
 しかし秀頼が南大門を作ったということは秀頼の時代には既にこの寺院は名所旧跡だったわけだし、東寺にしても、宮本武蔵の時代ですら古代のものだったわけだ。尤も空海が造営した後から盛んになっていったわけだが、その空海から武蔵まででもかなりの時間が経っている。五重塔も金堂も大師堂も壬生地区が湿地であるために追手を逃れて潜むのに都合がよかった武蔵にとってその地区に潜んで生活するにしても、毎日それらの建立物を眺めて生活したということにある感慨を私は抱いていた。しかし何故そんな気持ちになったかということが私にはよく自分でも分からなかった。ただ武蔵の孤独がどこか理解出来たような気があの鷲の図と竹林の図の筆跡を見た時そう思ったのだ。今の私の気持ちに似た気分で武蔵は今朝訪れた観智院を過ごしたのだ。観智とは心でものを見るという心得のことである。昼食で食べた蕎麦が大分こなれて来た時そう想起した時、私は前日の桑原の隣で髪の毛を洗いながら私に尋ねた質問、私の海外生活は他意のないものだったかも知れないと思い直したのだ。自分に疚しいところがあるとどうしても他人の一言が皮肉とか揶揄とか懐疑のように思えてくるものであると私は反省した。

 皆は南大門を前にして再び須賀の手配で記念写真を須賀と桑原のデジカメで撮って、そこから京都駅までバスで一旦戻り、そこから地下鉄と市電を乗り継いで広隆寺へと向かった。京福嵐山線の太秦広隆寺で下車すると狭い街道を横断すると眼の前は広隆寺正門である。そこを潜るとそこは鮮やかな紅葉の木々が眼に入ってきた。皆三十三間堂の時もそうだったが、しきりとデジカメで紅葉を撮影した。
 桑原はカメラマンらしくいかにも迅速でシャープな視線を被写体に走らせ、周囲を畏敬の念に包み込んだ物腰でシャッターを切っていた。彼はいかにもハイブローな趣味が似合うという感じの育ちのよい不良壮年っぽい雰囲気を湛えていた。それに対し、何をしても愚鈍な感じを醸し出す島田は同業者たちとカラオケで演歌を大声張り上げて歌い出すことがいかにも似つかわしい感じの壮年だった。
 私がロメオスと提携に踏み切ったのは彼が幼少の頃ニューメキシコ州へとメキシコからリオ・グランデ川を渡って密入国を果たしたウェットバックである固有の悲愁故に私自身の世界への懐疑の目から見ても共感出来るという私の感情からだったと思う。その意味では桑原も明らかに直観的にロメオス・タイプであることが私には察知させられた。要するにどこか教養ある家庭に育った感じがするのである。こればかりは経済的に豊かな家庭というのとは違う雰囲気を人に与える。いくら経済的に恵まれた家庭に育ってもどこか下品さを漂わす雰囲気こそ島田に似つかわしい形容だった。島田によく似たタイプというのはアメリカCEO時代には一人もいなかった。ジム・クラークもマイク・ストーンランドも皆教養ある家庭に育ち、両方ともワスプだったが、大学時代にはロックや現代アートに親しんだそういうタイプの人たちだったが、強いて島田と同類を挙げろと言われれば、それは伊豆倉の下で会い、替え玉時代にフリスコで私に声をかけてきた飯島くらいのものである。
 確かに人を類型で見てはいけない。しかし生き馬の目を抜く判断に次ぐ判断の日々において、私には一瞬で出会う人の本質を見抜く術を身に着けてきていた。しかしそれは別の角度から見れば本当に相手を見抜けずに大した者でもないのに、買被ったり、逆に本当は信頼出来る好漢であるのに訝しい思いで敬遠させてしまったりするような出会いのニアミスをしてしまうこともあるということである。
 しかし私にとって近田ややや年長の吹上は私よりは若いので、見抜く、見抜けないというレヴェルではなかった。しかしそれはあくまでも半分正しく半分そうではなかったと思う。だが広隆寺境内でのその時の二人の会話はそういうレヴェルのものではなかった。
 二人ともデジカメでしきりに周囲を撮影していたが、一旦撮影を中断し、また近田が吹上に声をかけた。
 「紅葉っていいですね。日本人の心に響くっていうか。」
すると吹上が近田に
 「近田さんはご出身はどちらですか?」
と尋ねた。すると近田は
 「成田です、千葉県の。」
と返答した。そして続けて
 「吹上さんはお父さんと同じで松山ですか?それにしては訛りがないようですね。」
と尋ねると彼は
 「私は父が上京してから生まれたので、東京の近郊出身です。仮に松山で生まれたとしても、恐らく父自身が宿毛生まれで、思春期になって松山に引越してきたので、それほど訛りはなかったでしょうね。松山弁の方が遥かに愛媛県の他の場所、例えば宇和島とかよりも関西弁に近いですね。」
と返答した。それに対して近田は
 「僕や僕の両親の田舎は私の人生と共に激変しましたからね。昔は結構訛りがあったみたいだけれど、今の若者はさほどではないですよね、東京からも大勢人がやってきますからね。勿論田舎の人同士ではそっちの言葉も使えるだろうけれどね。」
と言ってから更に
 「でも吹上さん、化粧品って男性と女性とでは戦略が違うんでしょう?」
と言った。すると吹上は
 「そうですね。基本的にデザインも変えなくてはならないですね。僕は元々心理学専攻でその知識を買われて入社したんで、そこら辺は神経使って今でも作らせています。」
と応えた。すると近田は更に興味を掻き立てられるように
 「女性と男性とではどのように化粧する心理が違うんでしょうね?」
と追求していくと、吹上は
 「要するに女性の場合自分の好きな男性にどう見られるかといことと、同性からどう評価されるかということが男性の比ではなく大きいですからね。」
と言った。それに対して近田は
 「何か雑誌で読んだことがあるんですけど、女性化粧品の容器のデザインって、女性が無意識に男性器を連想するようにしてあるって本当ですか?」
と聞いた。それに対して吹上は
 「ええ、それもありますね。要するに女性は男性よりも触れられ、触り返すということで愛情を確認していますからね。それは男性よりも大きいことです。だから女性は男性の手をまず見て自分がどう触れられるかということを一眼で見抜くんです。それと男性に囁きかけられるために男性の声質に拘るんですね。」
 特に島田のようなタイプの人間にとって、およそ俳句を作る従来のイメージとこの二人の会話は次元を異にするものであったろうが、若い世代にとって季語とかも俳題にしてもどんどん変化してきているので、この二人の会話はそれなりに彼らの世代の俳句を作るモティベーションを象徴してもいた。
本堂に設えられた弥勒菩薩半跏思惟像は表面の木目が艶っぽい表情を際立たせていた。本堂に入る前に更に別の拝観料を支払い皆で見てきた国宝桂宮院本堂の後で拝観したこの像は、桂宮院本堂に到着する道すがら交わした若い世代の二人の会話内容を重ね合わせて眺めると男性と女性の触覚的邂逅を超越したエロティシズムを私に感じさせた。それは世界が虚構めいて見えるのに、世界そのものに白けた印象を私に抱かせるのではなく、その虚構めいたこと自体が生々しいリアリティーを現出させるような感じだったのだ。つまりそれは女性が愛しいものを愛撫した後で示す愉悦の表情のようにも見えたが、愛しい女性に愛撫された美少年が示す愉悦の表情のようにも見えたからである。しかしそれは仕掛け的な美でもなかった。
 その虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺に次いで訪れた最も他の名所旧跡以上に外国人観光客が多く訪れていた名寺龍安寺で確固としたものとなった。虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺正門で掴まえたタクシー二台に先に発車した方に近田と吹上と桑田が、そして後続に私と須賀と島田が乗って太秦撮影所を通り過ぎ、仁和寺をも通り過ぎて到着した臨済宗妙心寺派の名寺龍安寺の石庭に池沿いに歩いて到着した時により説明しやすい形で私に迫ってきた。
 龍安寺の石庭が見られる縁側より手前に視覚障害者のために触ることが出来る石庭のミニアチュールが置かれていて、そのミニアチュールの配置と現実の石庭の配置が相似配置であることが、私に虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーが理窟っぽくはないものの説明しやすい感じの美として私に迫ってきたのだ。私にとって世界そのものが虚構めいて見えることに神経質であった二十代にはそれらはそう感じさせなかったかも知れない。率直にそれが仕掛けられてはいるものの自然的美と映ったことだろう。しかしその時の私にはそれは説明しやすい構成美と映ったのだ。勿論それは否定的な意味でではない。しかし自然に感動するというよりは自然に理解出来るという感じだったのだ。まさにその私の気持ちを代弁してくれるように石庭を目にした瞬間島田が
 「巧い配置だな。」
と誰にも悟られないような小声で呟いたのを、しかし私だけは聞き逃さなかった。
 二十分くらい石庭を縁側から眺め、ぼんやりと深呼吸をしてから石庭に配置された石を交互に凝視しながら過去を追想していた時私以外の五人がどんなことを考えていたか、それは彼らが私を含めた五人がどんなことを考えていたかを想像するのとそんなに変わりないだろうが、そのほぼ同じだろうという考えが六人皆に思い巡らされていたかも知れないという終ぞ確認し得ないにもかかわらずそうに違いないという思い込みが私の中で飽和状態に達してきた頃私以外の五人もまるで私と同じように考えていたかのように私たちは示し合うかのように最終訪問地である妙心寺派の本山である妙心寺に向けて竜安寺の入り口脇に待機していたタクシーに乗って向かった。
 二台のタクシーの先発に私と吹上と近田が、後発に須賀、島田、桑原が乗った。近田が吹上の会社に興味を持ち、色々な質問をしていた。
 「今経営なさっている吹上さんの会社の創業者はどなたなんですか?」
すると吹上は
 「私が二代目で、先代は今別の香水のメーカーを経営なさっているんですが、その人が一代で作り上げた会社を私が引き継いだ形ですね。」
と言った。
 タクシーは円町駅の前を通り過ぎ、右折してさっきまでよりは少し細い路地に入り込み、暫く直進すると妙心寺が見えてきた。妙心寺のような中道の集合寺は林下と呼ばれる。その他にも京都では大徳寺などがそうである。広隆寺よりは新しいが、龍安寺よりは古く、花園天皇が建立し、関山慧玄が初代住職である。竜安寺もこの本山に属する寺である。妙心寺は権力者の側にも大衆の側にも阿ることのない中道を貫いてきた宗派として知られている。
 そういう意味では私は翻訳業を通して、経営者の考えというものを多く伝えてきたし、翻訳されたものを読む側は大衆であることが多かった。しかしある日突然私は経営者に成りすますことを強いられた。希望すれば断ることも出来た筈だ。しかし報酬の高さに私は惹かれたのだ。そして経営権という権力の旨みに酔いしれたかったのだ。そう思っていると吹上に対して先ほどからの会話の続きで近田が
 「私もいつか吹上さんのように自分の手で会社とかを動かしてみたいですよ。」
と言うとすかさず吹上が
 「私も前の社長が私に新しい事業をするために今までの自分の社を引き継いでくれないかと頼まれた時、経営が楽しいものだとかなり期待していたんですけれど、今はちっとも自由なんてないということを充分理解出来ますね。社会の中でのわが社の一定のヴァリューとか要望とかによって自分たちの社の存在理由が生じているわけだから、自由気侭というのとは本質的に最もかけ離れているんですよ。寧ろあまりしたくはないようなビジネス上の雑事に追われているそんな感じなんです。それはそれまで期待していたようなほんわかとした期待を打ち砕くに充分なものだったですね。楽しいというのとは程遠く、辞めたくなることも多いのにもかかわらず、自分個人の主観的意見なんて一切言えない。それどころか自信がなくなっても簡単に辞めたくても辞められないという雁字搦めの状況に常に身を置いているって感じなんですよ。憧れるようなタイプの立場じゃ全くないですね。」
 とほとほと経営者の辛さを痛感したような心持の謂いを近田に返した。それに対して近田は
 「そんなものなんですかね、まあそれは言えるかも知れないですね。私くらいの生活が一番気楽かも知れないですね。」
と言ったが、それに対して吹上は格別の反応を示さなかった。
 その時の二人の意見を私は理解出来る気もしたが、現在している生活の経済的基盤とは偽者としての活動によって得たものであり、実際は島田が前日に私に依頼してきて承諾したものの、それまでは皆に今していると公言した仕事というのは全部偽りである。確かに再び纏まった翻訳業務を勤しむことが出来ること自体にはある期待感があったが、吹上の気持ちを理解出来る風を誰に対しても示してはいけないと思った。それに自分は山田に全てを委任して降りてきたことなのだ。
 アメリカではまだ成功していない人たちがバーなどで自由に自分の夢を語ることがそれほど不自然ではない国民性である。しかし日本人は最近では大分そういうこともなくなってきたとも言えるが、依然夢を語るにしても大それたことを語ることを憚るということが美徳である。あるいはあまり大それた欲望を持たないということがそもそも慎みと受け取られることを知っている。そこがアメリカ人と違う。しかし権力を真に持っている人たちはノブレス・オブリッジがあり、奇想天外なことを語ることが憚られている。だからそういう人たちが真に心の奥底の欲求を語り合えるのは趣味の集いとか、地域社会での社会人同士のコミュニティーであろう。日本人も大多数の人々は趣味の集いでは真意を告白し合えるだろう。尤もそういう場合でも夢を大胆に語るよりは諦め的気分を告白するということの方が庶民は多いかも知れない。そしてその時私は趣味の集いにいる自分を振り返りながら、しかし少なくともこういう場所での人間の会話というものは、アメリカ人と日本人の間でも然程の違いはないだろうとそうも思った。
 妙心寺も東寺や広隆寺と同じで、各棟に入る度に拝観料を別料金として取られた。その拝観料を皆と一緒に払いながら、私は沢柳と共犯関係にあるということをつくづく思った。そうなのである。私はある程度大それた犯罪をしてきたのだが、それは沢柳がかなりの悪党であり、自分の策謀を知って断る私に対する報復に対する私の側の恐怖が彼に協力させたと弁解する私にとっての余地をあまり説得力のないものにするくらい私の側にも好奇心があることを何よりも私自身が知っていた。私は一回くらいはそういう立場に身を置いてみたいと思っていたからこそ、あんな大それた摩り替わるということを承諾したのだ。それは山田にしても同じだろう。そう考えながら、吹上が自分の替え玉を心の中では探しているかも知れないと思ったり、もっとそれが発展して、いやそこにいた吹上自身が既に本当は誰か違う人物であり、吹上の替え玉かも知れないではないかとさえ考えたりした。しかしそれは次の瞬間自分たちほど大それたことをした者の行動を基準に全てを判断してはいけないという反省になり変わった。
 私たちは本堂で雲龍図(狩野探幽作の天井画)と妙心寺鐘を寺の女性の解説つきで鑑賞したが、鐘の方が国宝で、その後鑑賞した浴室(明智風呂)と探幽の画は重要文化財であるが、鐘はただ床の奥に置かれてあって、鐘の音を録音したテープを聴くことが出来るだけであり、どちらかと言えば重要文化財の方に感動した。とりわけ雲龍図は見る角度によって表情を一変させる龍に込められた探幽の絵師としての執念を感じた。同じ敷地内にある退蔵院で如拙の画となる瓢鮎図と元信の庭を鑑賞してから、大心院で阿吽庭を鑑賞すると、日がとっぷりと暮れかけてきた。大心院では大柄な虎の猫がいたが、人に対する警戒心を捨て切っていなかった。大心院周辺の白壁で隔てられた歩道の赴きはまるで忍者映画のロケに相応しいという感じだった。
 しかし私の心はこういう日本最大の禅寺でさえ自分が禅を組むことなど一生ないだろうということだった。
 私たち皆は正門(南総門)を潜ると、ややあってJRの花園駅に到着し、山陰本線の普通電車に乗り、京都駅に戻り、そこから徒歩で十分くらいの予約してあった料亭に赴いた。
 皆は五句ずつ無記名で投句し、六人全員の三十句の中から選りすぐった句を各自四句ずつ発表し合うという形式で行なわれた。
 近田と吹上は若い世代に特徴的なこととして、観念的な句を作ったし(無記名なので最初は分からなかったものの、後で案の定観念的な句はこの二人のものと判明した)、他の全員の句からもそういう傾向のものを選抜していた。それに対して須賀と島田は古風な自然観察的な句をより選抜していた。桑原と私はそのどちらでもない寧ろ題材も使用語句も素朴なものを選抜する傾向だった。六時半から始まって二時間半後の九時にお開きということとなった。皆は料亭を出てそこで各自勝手に帰宅した。大半はお開きになってからは各自新幹線に乗るなりして帰宅したが、私だけは十一時ちょっと前くらいに京都駅を出発する高速バスに乗るために暫く時間を潰すために大津まで一旦電車で乗って行き、駅近くの24時間のファミレスで時間を潰してから再び京都駅に戻り、バスに乗って東京駅まで行き、そこから朝一で成田エクスプレスに乗り、正午前の飛行機でシンガポールのマンションへと戻り三泊二日の学生的な京都旅行を終えた。