Thursday, November 5, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑯

                ★

 今日こそ景気の底打ちをするかするかと連日マスコミは世界同時不況を告げていた。だから当然マスコミはスカイスレッダー社とミューズソケット社との間の交渉とかそういうニュースは差し控えていた。私の中から徐々に替え玉CEОだったという意識は薄らいできていた。私は島田から話を持ちかけられた兼杉の依頼を引き受けたことにより、シンガポールに滞在するということを一切誰にも知らせずメールに送信してくるということだけを伝に兼杉による紹介だということで(兼杉はそれだけ人望のある古物商であるということがそれで判明したが)幾つかの翻訳を引き受けることとなり、金城悟時代の職能に関するアイデンティティーを取り戻しつつあった。
 今回の世界同時不況は世界中のどの専門家も予言することが出来なかったということが最も深刻な事態であることを世界中の人々に自覚させた。とどのつまり専門性というものは予測のつかなさ自体を常に孕んで全てが進行している。その予測のつかないことに対して予測のつく範囲でそれ以上の悲惨を招かないような措置をとることだけが残された望みということになる。要するに最悪の事態に対してただ右往左往するだけでいることだけを避けるということが専門家やトップの人間には求められる。
 しかしそういう不安が世界を覆っていた頃私は次に引き受けた翻訳の仕事が比較的経験のある方である企業内の倫理に関する経営者向けのマニュアル本一冊の翻訳だったので、須賀から再び春も酣の五月の連休に再び京都で前回のような集いを持とうという申し出に対してメールで私は再び参加する旨を伝えていた。また学生旅行的に高速バスで行って、丸々二日古都の赴きを楽しもうと思った。
 しかしそんな矢先、私の携帯に久し振りに連絡が入った。山田にしか教えていなかった携帯から電話があるということで即座に私は山田からのものだと思ったが、携帯を耳に当てると、その声は明らかに山田のものではなかった。
「私はあなたに初めてご連絡申し上げる者です。」
と言った。私はいきなりのその言葉にいささか面食らって
「私は郷田守ですよ。それをご存知なのですか?」
と質問すると向こうは
「ええ、存じております。」
 と言った。私は郷田守としては俳句の仲間にしかその身元を明かしていなかった。つまり金城悟として自分の携帯のアドレスを知っているのは山田と沢柳だけな筈だし、まして沢柳としての自分を知っているのは沢柳だけである。郷田守としての私の電話番号(以前の金城悟としてのマンションの電話番号)を教えているのも俳句仲間たちだけである。一体誰だと言うのか?
「私のことをさぞかしご不審かも知れないと存じますが、私はある方からあなたにお伝えしたいことがありまして、その方に申し付かってこうしてお電話差し上げているんですけれど、電話では何ですので、一度お会い出来ないでしょうか?」
といきなり切り出したので
「あなたお名前は?」
と私が聞くと向こうは
「これは失礼致しました。私は島津と申します。」
 聞きなれない名前だった。しかし私の携帯アドレスを知っているのは沢柳だけの筈である。と言うことはある方とは必然的に沢柳ということになる。そこで私はただの電話ではないと察知して
「実は場所はお教え出来ませんが、私は普段日本にはいないのです。今もそうです。そこで来月京都で出る予定が御座いまして、その折にお会い致しましょうか?」
と敢えて沢柳のことを言及することを避けて提案すると向こうは
「よう御座いますよ。そう致しましょう。実は私も日本にいつもいないし、今もそうなんです。」
 と言った。私は益々相手に対して抱く気持ちに心がざわついたが、こういう時におたおたしないでいるということが替え玉CEО時代以降に身につけた私の知恵だったので、私は冷静さを装って 
「日時は既に決まっているので、お教えしますよ。その日の細かいスケジュールも決まっていますので、皆で取る昼食時にちょっと抜け出してお会い致しましょう。」
 と私は言って、五月二日ということと俳句仲間と共に昼食を取る御苑のレストラン付近にある地下鉄の駅の改札口を指定し、正午に会おうと言った。すると向こうは
「分かりました。」
とだけ言って切った。

 その日以来私の気持ちはどこか落ち着きのないものとなっていったが、沢柳のことだから、あるいはまた以前の自分の地位に戻りたい、しかしその時既に自分のポストは山田に乗っ取られているので、そのことに対する非難かとも思った。しかしあの時モンサンミッシェルにおいて私を非難することなく別れたのだから、それもよく考えるとおかしかった。そもそも彼が私に対して生きているのに死んだことにするなどという手の込んだことをしたということが端を発して私による山田の選別を招いたのだから、今更私自身が糾弾される言われはない筈だと私は自らの心の動揺を何とかして振り払おうと思念を反復した。
 その時期の私はすっかり久し振りに文学的香りを味わった兼杉依頼の翻訳をしていた頃の気分をしまい込んでいた。勿論引き受けた企業内倫理のマニュアル書自体は金城悟時代に何度か引き受けたこともあったので、さほどそういった心の動揺に左右されることなく私の脳は一方でしっかりと業務を執り行う体制にあったと言ってよい。しかしそのことが逆に不安を一層駆り立てもした。
 だからそろそろ四月も近づいてきていたので、向こうから連絡がある筈だと思っていた山田の声を携帯で聞いた時には少しほっとした気もした。山田が
「そろそろ私の契約期限も切れるんですが、どうしたらよいのでしょうか?」
と質問してきた時私は既に彼に全てを続行して貰いたいという気持ちを持っていたが、ではもし沢柳がカムバックしたいということが島津と名乗る男による伝言であるなら、そう軽はずみな決裁を今するわけにもいかない。私は暫く考え込んでから
「一度お会い致しましょう。」
と言って、それなら一纏めに京都行きの際に会うのがよかろうと思って、二日目である三日正午に再び須賀たちと訪れることとなっている広隆寺本堂(広隆寺の近くのレストランで広隆寺を拝観する直前に二日目の昼食を取ることになっていた)を相手に指定した。少し時間が遅れることでもあれば私の方から山田に彼の携帯に連絡する旨も伝えた。すると山田は
「分かりました。」
とだけ言って切った。

 島津と名乗る男と、自分が選んだ後継の替え玉山田と会う期日が徐々に近づいてきていた。島津からはきっと沢柳のことが聞けるだろうと思ったし、日々不況風に晒され、経営陣たちが自家用ジェットで会議に出席したことや、高額なボーナスが支払われたことがアメリカ国内でも大きな社会問題と化していた時節私は果たして山田三好が巧く切り抜けていけるか実は辞めた人間であるから関係がないとは言え心配だったのだ。しかし意外と私は二人の次々と会う次回の京都行きの前に締め切りが迫っていた翻訳に打ち込めることが出来て、ようやくニセモノから本来の自分に回帰してきていることの実感を取り戻し、日々摩り替わった犯罪に加担していることから来るストレスから開放されていた。その二つの興味は私の仕事を寧ろ後押ししてくれたのだ。
 しかし同時にサンタフェの夕日が懐かしくも感じられた。何故だろうと思ったが、その理由は世界が虚構めいて見えるという実感の上で砂漠も原野も林立するビルディングも全てが虚構めいたアメリカという国の持つ仕掛けであるが故の白々しさが逆に本当の自然である夕日を美しく映えさせていたからなのだ。しかし京都もまた仕掛けである。巨大な歴史という仕掛けなのだ。ただ私たちが日本人として、日本語の世界に生きるという現実がそれを仕掛けから開放しているかのように錯覚しているだけのことである。

 京都行きの前日私はこの前とは違って新宿発の方の高速バスを予約して、乗り込んだ。この前は成田から東京の直行してそのまま行く積もりだったので東京駅発の便を予約したのだが、私の金城悟としてのマンションに立ち寄ることとなって寧ろ態々東京駅まで行くのが面倒だったので、今回はもう京都のマップを買う必要もないので新宿発の便にしたのだ。京都に行くのはこれで四度目だった。中学校の時の修学旅行が京都と奈良だったのと、社会人になってから建設関係の仕事で行ったことがあるからだ。しかし京都タワーは未だその頃にはなかったが、三回目の京都行き(つまり俳句の仲間に会うために行ったこの前の)において初めて目にしたのだった。京都は兎に角駅前が激変した。
 そろそろ初夏の風が匂い立つ頃合の京都の早朝は未だ肌寒かったが、高速バスで早朝京都駅に到着した私は適当に駅周辺を散歩して、地下鉄の待合所のようなベンチに腰掛け、昨日買っておいた弁当を食べ、八時半に須賀をはじめこの前と同じメンバーで待ち合わせた地下鉄東西線の京都市役所前駅の改札口まで向かって皆がほどなく揃うと、今回は河原町三条に沿って歩き橋を渡って鴨川沿いを歩いた。そして北上して平安神宮、そして御苑に行った。そこで以前と同じレストランに入る前に私は予め京都に住む知人と昼食時だけ会って話がしたいと今回も発起人である須賀にメールで知らせてあったので、他の五人から中座して、そこからほどない所にある地下鉄烏丸線の丸太橋駅の改札へ向かった。約束の時間は十二時ジャストだ。
 改札脇で待っていると私に接近してくる帽子を被った壮年の、しかし意外とがっしりとした体格の男がいて、その男は私を見る一目で分かった(彼が沢柳の関係の者であるならそれは当然だ)らしく私に向かって
「沢柳さんでらっしゃいますね?」
と言った。私は即座に
「私が沢柳ではないということをご存知なんでしょう?」
と返すと彼は被っていたフェルト帽を取って禿げた頭を下げ
「いやあ、そう言って頂ければ話が早い。私は本当の沢柳のボディーガードだった島津と申す者です。彼があなたに摩り替わるまでね。」
 私はそれに対して
「私は本名は金城悟です。今日も今まで一緒だった俳句が趣味の集いの間では本名郷田守ということにして、俳句の名前は河野散見と称しています。」
 すると島津は
「ほほう、俳句をなさっていらっしゃるんですか?」
と聞き返してきたので私は
「ええ、まあ下手の横好きですが。」
と言ってから、彼の声は小さかったが周囲の眼を気にして続けて
「どこか近くのカフェかなんかで話をしませんか?」
と言うと
「そうですね。」
と返答し、私はそこら辺にどんな店があるかは全く知らなかったが、さもよく京都のことを知っているかのような足取りで彼を後ろに歩き始めた。
 地上に出ると、すぐ傍にファーストフード店が見えたので 
「そこでいいですよね。」
と島津に言うと彼は首を縦に振った。

 店に入ると私はフライドチキンとコーヒーを頼み、続けて島津も同じものを頼んだ。そして少し待っていると食べ物と飲み物が出され、それを持って二人は二階に足を運んだ。すると殆ど誰も座っていない窓から外の景色が眺められる席に腰掛け
「沢柳さんはどうしていらっしゃいますか?」
 といきなり質問すると島津は少し眉間に皺を寄せて
「実はつい先日沢柳社長はお亡くなりになったんです。」
 と言った。私はその言葉を聞いた途端、以前も同じように自分が死んだということを私に告げたが本当は生きていたので、訝るような口調で
「それって本当のことなんですか?」
 とそう尋ねると島津は
「以前のことは私もあなたに謝罪致しますよ。あの時中華料理店であなたが来られることを社長に仰せつかって確認しに来たのも私なんです。」
 と応えた。暫く私もまた眉間に皺を寄せて考え込んだような表情を相手に見せてから私はふと思いついたように
「全く手の込んだことをして下さいましたよ、そもそも替え玉になるっていう依頼そのものが非常識だっていうことに重ねて、本人が死ぬなんていうのも。だから亡くなったって言ったって、俄かには信じられませんね。」
 と少し突放すようにそう言うと
「あなたのお気持ちはよくお察しします。あの時は確かに本当にあなたが彼が築き上げた事業を継続してやって頂くには相応しい方かどうかを確認する上で非常識であることを省みず戦略的にさせて頂きました。ですからこの場をお借りしてあの時の非礼を謝罪致します。」
 私は仕方なく納得するような表情を見せて
「しかし、亡くなられたっていうのはどういうことですか?私と殆ど同年齢ですから未だお亡くなりになるには少し若いんじゃないですか?」
 と訝しげに聞くと
「そうです。事故だったんです。あのメールの時には嘘をついていたスキンダイヴィングを本当に社長はお始めになられて、熱中しだして、ついに先日慣れない深度のところまで潜って行って、途中で足を海草に絡み取られて、酸素ボンベの酸素も尽きてしまって亡くなられたんです。」
 と私に報告した。
「あなたはそのことをどうやってお知りになられたんですか?」
 と私が更に質問すると彼は
「ええ、実は私はずっと沢柳さんのご贔屓もあって、お付き合いがあったんですよ。」
「フランスにお住まいでらっしゃったということですが、フランスまで行かれたんですか?」
 と私が聞くと
「ええ、社長の裁量で私も近くに住むように手配なさったんですよ。沢柳さんは話し相手がずっといなくて寂しい方でしらから、せめて自分の配下の人間で信用出来る人間を一人くらい自分の傍におきたかったんでしょう。それに・・・・」
と一気に告白した後島津が途中話を止めてしまったために私が先を促すように
「それに何ですか?」
と言うと納得したように
「私自身壮年になってから彼に仕えたんですが、人間的に沢柳さんが好きでしたので。」
と続けた。私が
「でも、僕なんかにCEОを続けさせてもし僕の方が先に死ぬようなことがあった時はどうなされるお積もりだったですか?」
と質問すると
「ええ、そういうこともあり得ないことではないけれど、そうなったなら、自分自身が死んだことになっても構わないとそう仰ってましたね。」
と明確な口調でそう返答した。島津は結論づけるような口調で
「ですから、ちょうど今から二週間くらい前に私の自宅に早朝警察が訪ねてきて∧あなたのご友人が今朝海岸に引き上げられた∨と報告してくれたんです。どうも明け方に海に出掛けたみたいなんですね。私の方はいつも朝九時くらいには彼の自宅に訪問する習慣になっているので、その日も朝七時くらいに起きて朝食の用意をしていたところに警察が来たんです。」
と言った。私はその時沢柳のことも気にかかっていたが、寧ろこの島津という人間の生き方の方に関心を持ち出していた。そしてつい
「ところで島津さんは沢柳さんよりも大分お年のようでらっしゃいますが、ご家族もおありでしょうに、どうして沢柳さんと一緒にそこかでついて行かれたんですか?」
と聞いてしまった。しかしそれを聞いて非礼だと気づいた時には既に遅かったが、しかし島津は一切厭な表情一つ見せず
「いえ、私には家族はおりません。沢柳さんと同じです。若い頃一度結婚致しましたけれど、すぐに離婚しましてそれ以来ずっと一人者を通してきましたので、沢柳さんの孤独を理解することが出来たんです。」
と言ってからややあって
「でもそれは金城さんとて同じじゃありませんか?」
といきなりこちらに聞いてきたので私は一瞬慌てふためいて
「ええ、まあそうかも知れませんね。」
とお茶を濁した。
 二人は暫く沈黙した。するとその沈黙を破ってこちらから何か聞こうと思っていると向こうがそれを遮るように 「でも、人生っていうのは全て出会いも別れも偶然ですね。」
と言い出した。それに対して私が
「それは私と沢柳さんが瓜二つだっていうことですか?」
と尋ねると島津は
「ええ、それもありますけれどね。でも何か責任を追及されることがあったとしても、自分がたまたま失敗する上司についているか、それとも入社試験に落第するかでそういうことも決まりますよね。」
と言った。私がそれに妙に納得したような表情を見せると島津は 「私は色々な本を読むのが趣味なんですけれど、例えばナチスは戦後その責任が追及されましたけれど、ナチスに入党した者全員が初期悪いことをしようという気持ちではなかったみたいですし、あるいは上官の命によって収容所に派遣された者の中にはユダヤ人をガス室に送り込んで死刑を執行する役目から逃れた者もいたそうですよ。でもその人を匿っていたのも元収容所に収容されていたノルウェー人だったらしいですが、もしユダヤ人の収容者で処刑された人の子孫がその人に会ったなら、俄かに許すという気持ちになったでしょうかね?」
とやや哲学的な質問を仕掛けてきたので私はいささか面食らって
「そういう難しいことをいきなりおっしゃられてもねえ。」
と訝しげな表情を浮かべて俄かに返答出来ないことを誤魔化した。
「つまり悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってあるっていうことですよ。」 
と島津は言った。しかしその内容は確かに一理あると私は思った。
「つまり人間が立たされている状況全ては偶然的なことであり、その偶然
的なことがその人間の評価をかなりな部分決定してしまい、後はどうすることも出来ないということがあるんですよ。」
と更に続けた。そして徐々に話すスピードを落としながら
「ここにこうしてあなたと居合わせるということもまたほんの偶然的なことなのですよ。だって私が沢柳さんと知り合ったから、彼が社をアメリカに立ち上げた時に私が丁度前にしていた仕事のけりをつけるために渡米していた時ボディーガードのオーディションを受けてどういうわけか沢柳さんに気に入られて採用されたからこそ今こうしてあなたと話しているんですからね。」
そう言った。その時私はその言葉の意味を俄かには理解出来なかった。
しかし私にはその言葉とは別にどうにも解せないことがあったので、それを聞いてみることにした。
「でも島津さん、一つお聞きしたいんですけれどね、私は既に後釜に全てを託して、今は沢柳さんに頼まれたことを継続してはいないんですよ。そのことは私、既にあなたも沢柳さんからお聞きになられていると思うんですけれど、モンサンミッシェルで偶然お見かけして沢柳さんに告白しているんですけれどね。何でそれなのに私に会いに態々来られたんですか?」
すると島津は
「分かっています。モンサンミッシェルであなたとお会いしたことは伺っています。ですから仕事的な義務としてではなく友情としてですよ。」 
と言った。しかし一瞬ではその意を測りかねて
「仕事的な義務ではないと仰ると?」
と聞き返すと島津は
「沢柳さんっていう方は仕事に関しては冷徹な型だったけれど、人を見る目に関しては確かなものを持ってらっしゃいましたからね。つまりあの方はあなたを人間的にとても好きで、信頼されてらっしゃったんですよ。」
と言った。
私はその言葉に嘘偽りがない様子を島津の顔色から読み取ったが、あるいは失礼かも知れないが、どうしても島津の前歴への興味を拭い去ることが出来ず聞いていた。
「前の仕事のけりって一体何ですか?」
すると厭な顔一つせず島津は
「私は若い頃プロレスラーを目指していて、実際一回はプロになったんですよ。しかし地方巡業の際に高速道路で私たちを乗せた車の運転者が脇見運転をしていた時、対向車線にカーブを曲がりきれずに、対抗する車を正面衝突をして、私はその時腕と足を痛めたんですよ。隣に座っていたもう一人の白人のレスラーはその時頭を強く打って亡くなりました。結局私は腕と足という商売道具を傷めたものですからプロを引退して、結局アメリカで射撃の練習をして、合気道とかも一応見につけたんです。勿論プロレスラーを諦めなくてはならないくらいの怪我だったので、プロとしてではなく護身用としての作法だけは身につけておきたかったんです。だってそういう世界で生きてきた人間がいきなり全く違う業種に鞍替えすることは困難ですからね、幸い反射神経とか身のこなしそのものは現役時代からのものを失っていなかったですからね。その時亡くなった白人のレスラーの奥さんが私の日本にいた頃からの知り合いの日本人の女性で、私とタッグを組んでいた相方だったものだから、独身時代に来日した時に私が彼女を紹介したんですよ。それで二人は結婚することになったんです。でも彼の亡き後彼女は日本に帰国することなくアメリカで彼と共に暮らしたテネシー州に今でも住んでいるんです。」
 なかなか泣かせる話だと私は思った。しかし最初に見た時にかなりがっしりとした体格であることの理由がこれではっきりした。
 最後にどうしても私は聞きたいことが二つあったので、尤も私は一切どれくらいの時間を共に語り合うかなど相手に聞いて会う約束をしていたわけではなかったが、相手にもそれ相応の時間の制限があるだろうから、一番聞きたい質問を最後に残しておこうと会う前から決めていたのだが、それを聞くことにした。
「ところで本当にお亡くなりになった沢柳さんが私を人選して実質上のリタイアをなさった理由とは一体なんだったお思いでいらっしゃしますか?」
 すると暫く思案するような表情を見せて島津は
「私も完全には理解しているわけではないのですが、金城さん宛の手紙にはどう書かれてありましたか?」
と逆に聞き返してきたので私は
「いやあ、ただCEО職っていうのがプライヴェートな時間なんて全然ないからとしか書かれてありませんでしたのでね。」
と素っ気なくそう応えると島津は
「まあ、それは本音の一部でしょうけれど、結局あの方は自分で作り上げた組織が一切自分の手だけでどうすることも出来ないくらいに肥大化してしまってきていることに耐えられなかったんだと思いますけどね。だからこそ恐らくあなたにも一々指図をなさらなかったでしょう?」
と言い私に確認を求めてきたので私は
「そうですね、一切何も仰らなかったですから、結局製薬会社Kの件なんかは私の一存で決めさせて頂きましたし、シューズデザイナー社とズームアップ社との件もそうだったですね。」
 すると島津は
「でも今の替え玉さんは現況の世界経済情勢も手伝っていますが、なかなか苦闘なさってらっしゃいますね。」
と言った。その時どうしてだか私も自分で自分が意外だったのだが、つい
「ところで今の替え玉さんの名前は何て仰るんですか?」
という島津の質問に私は
「山田さんです。」
と教えてしまった。そしてあろうことか
「明日、その私が選んだ替え玉と同じ京都の別の場所で会うことになっているんですよ。」
とまで告白してしまっていたのだ。しかしその時不思議とこの島津という男にはそういう立ち入ったことを話しても大丈夫だという私の直観が働いたのである(尤もそれが私の運命を決定的に変えたのだが)。しかし私は何故沢柳が会社経営のゲームから降りたかということに関して一応確認しておきたかったものの、本当は沢柳の気持ちが自分で替え玉を一年ちょっとしてみて骨身に沁みて理解出来ていたのである。つまり本当に真実だけを追い求めるのであれば、超ビッグなIT企業のCEОなどやっていられないのである。
 だが次の質問はある意味ではその男島津に対しては私から彼に向けられた一番核心的質問だった。
「では何故島津さん、あなたは私に会いに態々私が指定した京都くんだりまでいらっしゃったのですか?」
すると島津は
「そうご質問なさるだろうと私も思っていました。それはね、金城さん、つまり私が一番惚れ込んだ私より若いが私など足元にも及ばない凄い方が態々お選びになった方があなたですからですよ。」
 そう返答する島津の瞳はしかし決して世辞でそう言っているのではない真剣さがあった。その時私はふと山田を選んだ時私はそこまで真剣に考え抜いた末の決断だったか少し自信を失いそうだった。
 しかしそれもある程度翌日に彼と会うこととなっているのだから理解することが出来よう、そう思った。
 私はつい島津の生き方がそのまま滲み出るような話し振り、語り口に引き込まれ、時間が経つのを忘れていたが、既に一時間近く経っていた。そこで最後に幾つか好奇心から
「島津さんは今はどのように生活なさっていらっしゃるんですか?」
と尋ねると
「私はあなたが引き継いだ時点でボディーガードを退職していたんです。と言うより私だけ彼があなたになった役を選ぶということを聞かせられていたんです。唯一ね。私は今退職金と沢柳さんの心づけで何とか不足することなくフランスの片田舎で生活させて頂いております。あなたにもボディーガードがいらっしゃったでしょう?」
と島津が聞いてきた。私にはボディーガードは特にいなかった。と言うのも車に乗る時にはトムが、飛行機の時にはビルがその代わりをしていたからだ。そう言えば一度沢柳に報告したいことがあって連絡した時向こうが私にボディーガードは要らないかと聞いてきた時私はあまり一人で町に繰り出すのが好きではないタイプなので、もしそういうことがある場合には自費で雇うと言って向こうが手配してあげようかという誘いを断ったことがあったが、事実植物園くらいしか外出しなかった(ヴェロニカとの逢瀬以外では)ことが正解だと思っていた。と言うのも私はあくまで替え玉なので自由に行動することから慎まねばと思っていたからである。そこで
「ええ、私はあまり自由行動すること自体を慎んでいましたものですから、一切運転手と自社用ジェットのパイロット以外では飛行機で日本に帰国する時以外でつけていなかったですね。SPは。尤も経済国際会議の時には飛行機の時のSPがいつもついて来てくれましたけれどね。」
そう言うと島津は
「まさにあなたを沢柳さんが選んだ理由がはっきり今分かりましたよ。」
 そして少し間を置いて
「ヴェロニカさんやサリーさんたちもあなたなら不自然に思わず、社長と信じてついて来られたんじゃないですか?」
と言った。私はそれに対して
「そうでしょうか?そうだと私もほっとしますが。」
と言った。そしてついでに
「今日は態々私にお会いしてきて頂いて実に恐縮です。もしこちらから連絡差し上げるとするとどちらに連絡すればよいのでしょう。」
と聞くと彼は自分でペンを使って書いた名刺を私に渡し、そこに書かれてあるメールアドレスと電話番号を指しながら 
「何か御座いましたらこちらまでよろしくお願いします。」
と言った。私は島津に俳句仲間にも、替え玉CEО時代の側近にもない、ある独特の親しみを覚えていた。と言うのも彼は沢柳の影という意味では私の場合と全く違った意味でかなりの共通性があったからだ。そしてそのことに対して島津の方も理解していたことだろうと思う。
 その日私は島津を地下鉄の駅の改札口まで送って行き、別れの挨拶をしてからレストランに戻ると五人の俳句仲間が首を長くして私が戻ってくるのを待っていた。私は時計を見ると昼食と昼食後の俳句の談話に須賀が当てていた時間を十分くらい超過していたことに気づき、皆に頭を下げ深く謝ると、近田が
「今日の句会後の二次会は散見さんの奢りですからね。」
 と屈託なく笑いながら他の皆と目配せした。

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