Thursday, November 12, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑱

 京都の吟行を終えて、山田からは一切の連絡はなかった。しかし翻訳に関する注文は幾つかあった。私のした島田を通した兼杉の依頼の件での翻訳の実績が口込みで広がったからである。
 しかしそういう風に幾つかの仕事が舞い込んできた時私はふと島田の二日目の京都駅前でのバス発着所での私に対して言った言葉を思い出した。京都旅行から帰宅してから一ヶ月たった梅雨の時期のある日(シンガポールには滅多に梅雨がないらしいが、私が過ごした六月にはじめじめして雨も多かった)私は翻訳ソフトを使用して新たな依頼の仕事の最中だったのだが、一時仕事を休止して、メールチェックをすると、新しいメールが送信されていた。それはまたも島田からのものだった。
 その文面は要するに知人があなたの翻訳の仕事っぷりを見てどうしても依頼したい仕事があるという内容だった。しかし島田という男はまるで紹介屋というか、ブローカー的性格の人間だと私は思った。しかしまんざら悪い話でもなさそうだとその時思ったのも実は兼杉からの依頼で米国人古物商の自伝を翻訳した時の経験が私に予想以上の満足感を齎してくれたからだった。
 その文面には島田が直接その人間を私に紹介するから彼にとって都合のよい日時まで指定していて、こちらの都合を聞いている内容だったので、私は日程表を一応つけているのだが、それを照会すると別に何の用もないので、島田による指定は∧東京駅の八重洲口の正面辺りにあるある著名な画廊の前辺りに立っていてくれ∨ということだったのでその通りにすると即座にメールを返信した。すると向こうからまた即座に「では会いましょう。」ということになった。
 
 その日がやってきた。その日は珍しく晴天だった。私は島田の指定通り初夏の東京駅八重洲口に翻訳家の郷田守としてシンガポールから成田、成田から成田エクスプレスで東京までやって来た。夕方の五時に待ち合わせたので、もう日も長くなっていたので、充分人通りで人の顔を見分けることは出来た。しかし約束の時間に島田は来なかった。しかし誰か人を探している風の男がいたのでちょっとその男の顔を見たら私は驚愕した。伊豆倉の知人でギャラリーで一度会い、その後替え玉CEОになってフリスコにサリーの娘のためにコンサートのチケットと日本に帰国する飛行機のチケットを買いに出掛けた時にばったり出くわした飯島ではないか。
 だから私は即座に顔を背けたのだが、その仕草が彼には却って目立ってしまったのだ。飯島は
「おや、金城さん。」
 私は矢庭に返答渋って
「ああ、お久し振りですね。」
と言うと向こうは
「アメリカのサンフランシスコでもお会いしましたよね。」
と言った。私はその質問に対し
「それは私じゃありませんね。私は一度もサンフランシスコには行ったことがないんですから。」
と白を切った。しかしどうしても信じられないという風な様子で
「そうですかね、私にはあの時の人がどうしてもあなたとしか思えないんですがね。」
と飯島が言うものだから私は話題を逸らすように
「ところでこんなところで飯島さんこそ何をなさっているんですか?」
と聞くと飯島はけろっとした顔で
「いやあ、私実はここである知り合いに頼んで人を紹介して貰おうと思って来たんですけれど、その紹介してくれた人が急にインフルエンザに罹ってしまって酷い腹痛で来られなくなって、その人が既に私を引き合わせる手筈を整えているって言うもんですから、急に来られなくなったことを携帯で私に知らせてきてくれたんで、私だけでも約束の場所に来ようと思ったんですよ。そしてその人にお詫び方々仕事をお頼みしようと思いましてね。」
 と言ったのだ。私は相手が飯島で私のことを金城として知っているので、咄嗟に白を切ろうかと思ったが、思い直して思い切って聞いた。
「その方のお名前は何とおっしゃいますか?」
 すると飯島は
「島田さんと仰いまして古物商の方なんです。」
と言った。やはりである。私は最早観念して
「いや、私が島田さんに紹介して貰う筈だったんですよ。」 
と言ったら飯島が怪訝な顔で 
「でも、飯島さんは確か郷田さんとか仰っていましたけれど。」
と言うと、私は咄嗟に作り笑顔で
「実は私は翻訳業をしている時にはペンネームで通しているんです。そしてそれが本名だと思われているんですよ。いやあそのことを私特に誰にも告げていませんでして、ですからそれを私の本名だって思ってらっしゃるんですよ。でも我々の業界ではそういう風にペンネームで通している人間もかなり大勢いるんですよ。」
と言った。すると飯島は妙に納得した表情の笑顔を浮かべて
「そうだったんですか。金城さんでしたなら話が早い。ではお話をさせて頂きます。」
と言って、飯島は私をすぐ目の前にある喫茶店に誘った。
 飯島は最初伊豆倉のギャラリーに一つ大きな翻訳の仕事をし終えた後訪れた時、私より先にギャラリーで伊豆倉と談話しており、その時伊豆倉が私に紹介してくれた。伊豆倉は私のことを飯島に文筆業とだけ言って翻訳家とは言わなかった。伊豆倉は飯島を骨董店を経営しているとだけ言っていた。最初彼を見た時粘着質な人に対する接し方だと直観的に思ったが、それはアメリカでこともあろうに私がCEOとしてスカイスレッダーを切り盛りしている時に声をかけてきたし、今またこうして私の人生の岐路に立ち塞がっているのだ。そしてなかなかこちらの相手に対してあまり好意を持っていないという真意を汲み取ってくれないそういうタイプである。
 飯島はウエイトレスが水を運んできた時
「ブレンドコーヒー。」
と素っ気ない態度で言った。私もそれにつられて
「私も。」
と言った。すると飯島は
「実は私の経営する骨董店のある重要なご贔屓さんがね、製粉会社の社長さんでいらっしゃるんですが、彼がもうすぐ年齢的なことがあってリタイアされることになって、息子さんに継がせられるんですが、実は息子さんはそれ以前に既に自分でウェブデザインの制作会社を立ち上げて成功していたので、この二つの会社を合併して一つの事業をすることにしたんです。その際に新企業立ち上げということのアピールのために何かしようということになって、そこで息子さんの大学時代の学友が出版事業を行なっていて、その人の協力の下でインタビューと取材雑誌を発行しようということになったんです。そしてその息子さんが憧れていらっしゃるエディー・レンディー、あのIT業界の立役者にして、五十少しの年齢でリタイアされて、今は悠々自適かと思いきや、慈善事業をされていますよね。」
 私は
「そうですね。」
と頷いた。飯島は続けた。
「息子さんはそのレンディーが今度アフリカの殆ど文明的に未開な地に教会を設立することになって、その記念式典をすることになったんです。そして息子さんはその取材を他に先駆けてしようということを決定されたわけです。私はお父さんの社長さんが息子のために誰かいい取材能力のある人材はいないかと探しているのだがと声をかけられたってわけですよ。その息子さんの知人で私の知人でもある古物商の方が息子さんの願いを代行して伝えたいということなんです。息子さんはお忙しいのでね。」
と一気に話した。私が
「で、それを私にしろというわけですね。」
と私は確認を取った。
「ええ。」
と飯島は返答した。
 しかしエディー・レンディーの名前がここで出てくるとは思いも寄らなかった。しかしもしレンディーがその記念式典に出席するのだろうか?もしそうだとしたら、私は何度か経済会議でレンディーと会ったことがあり、私がのこのこ式典に出席するわけにもいかないと思った。そこで
「レンディーもその式典に出席するんですか?」
と聞くと
「そうです。」
と答えた。私はどういう風に断ろうかそればかりを考えていた。しかし飯島はそんなことはお構いなく勝手に言い続けた。
「どうですか?金城さんなら打ってつけだと思うんですけれど。」
と言った。私は何も今更アフリカくんだりまで出掛けて行って自分の語学力と取材力を試したいとも思わなかったし、ただどうやって断ろうかとそればかり考えていて、お座なりな返答をした。
「まあ、スケジュールとか調整して検討させて頂きますよ。」
 通常日本社会では前向きに検討するということは婉曲な断りの文句である。しかし前向きをつけ加えなかったから、まああまり乗り気ではないが、無碍に断れないということにもなる。
 飯島は
「今日店に戻ったら、詳細に記述した文面をメールでお送りしますよ。」
と言った。そしてそそくさと
「まあ、用件はそれだけなんです。お忙しいところをご足労下さり有難う御座います。」
と言って、私がレシートを取り上げようとすると私を制して
「私が出します。」
と言って立ち上がった。
 私たちはそのまま店を出て別れた。飯島は別れしなにもしつこく
「でも確かにあの時にシスコで見かけた人は金城さんだったんだけれどなあ。」
と独り言を繰り返し、首を傾げながら去って行った。

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