Friday, October 30, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑬

 私はシンガポールでの生活に慣れてきた私がダミーから退いてそれなりに悠々自適な生活をし始めてから半年くらいたった秋のある日、日本からメールが届いた。私は私の居所を誰にも告げていなかったが、私が持ち歩くパソコン上でのメールには何人かのメル友たちと繋がりがあったのだ。一つは私が俳句を作るのが昔から趣味で、その俳句を投稿する会の仲間と俳句を通してメールの遣り取りをするというのがアメリカCEО時代から日課になっていたのだ。不思議とそういう遣り取りは、現役中は頭休めという意味合いしかなかったものの、辞めた後にはどこか生き甲斐のようになっていたのだ。それ以外に私自身が私のアイデンティティー(そんなものはとっくに失っていたにもかかわらず)を示し得る部分は皆無であったために、俳句仲間との繋がりがその唯一の接点だったのだ。
 そのメールはこんな文面だった。

 俳句の広場でいつもお世話になっている元会社員の須賀です。あなたの俳句にはいつも驚かされます。俳句が巧妙な五七五の言葉のトリックであるということのいい意味での素晴らしさに覚醒させられました。私が勤めていた会社も大勢の従業員をリストラすることを決行したようです。これから先一体世界はどうなっていくのでしょうか?
 ところで今度一度京都で吟行を致しませんか?
 私が組んだスケジュールを申し上げます。

 集合場所以下徒歩 集合場所・南禅寺→永観堂→(哲学の道)法然院→銀閣寺
 そこからバスに乗り、御苑内レストランで食事、食後数箇所の美術ギャラリーを巡り、こちらで手配した会館で句会。
 夕食は各自自由、宿泊先は京都国際ホテル、
 翌日は徒歩で東寺→西本願寺→東本願寺→三十三間堂付近のうどん屋で昼食後、バスで京都駅に戻り、地下鉄と市電で広隆寺、そこから今度はタクシーで龍安寺、そして再びタクシーで妙心寺、そこからは山陰本線で京都駅へ戻り、京都内の料亭で句会、閉会後各自解散。

とあった。その男は人生の遍路において妙味のある句を捻り出し味わい深い雰囲気を句からは漂わすガイだった。しかしその俳句の広場というブログは既に出版界、句界では著名な五十代の中堅の俳人が主催していたのだが、その中でも特に才能をその俳人に認められていた数人だけがSNSの句会に主催者の俳人から個人的に誘われ参加していたのだ。そして私もその男も主催者に誘われてそのSNSにも参加していたのである。だから句会では投稿しかそれまでしていなかったものの、始めて直に会うということはそれなりに興味が惹かれることである。それまで句作しか知らないその男、須賀紫卿と一度会うという試み自体はそう悪いことではないと私は思ったのだ。またそれだけの句をその男は快適ではあるシンガポールのマンション暮らしもそろそろ日本の風土に対する懐かしさに侵食され始めてもいたこともあった。
 私にとってシンガポールがどのような歴史で、どういう精神風土であるかということは殆ど関心さえなかった。要するにマンションの高層階で他人から干渉されることなく快適に暮らすのに、英語が通じるのと経済的な意味でも最も相応しいという以外の一切の理由など私にはなかった。私にとってどこへ行くのにも便利で安定した経済状態と治安であるということ以外の思い入れはなかった。
 麻薬関係の犯罪で刑罰が重く死刑も多いと聞いたが、私はスカイスレッダー時代から犯罪に巻き込まれることだけは殆どなかった(誰にとっても自分がしていることは犯罪ではないのだ)し、第一それほどたやすく他人を信用するタイプでもなかったために、変なかかわりに巻き込まれずに済んできたのだ。
 しかしその句会の話をメールで読んで知った時、私は自分が日本人であるということを再び強烈に思い出した。しかも京都で吟行ということが、極めてここ二年くらいの精神的には頽落した生活から好奇心を取り戻すに絶好の機会であると私は直観し、メールに返信し、参加する旨を伝えた。
 一ヶ月後私は世界的規模の金融危機であると世界中のマスコミが騒ぐ中、一旦成田に行き、そこから京成ライナーで東京に出て、午後すぐくらいの時間帯だったので、一度金城悟として生活していたマンションへと赴き、埃だらけの部屋を夕方まで掃除して、再び東京へ電車で戻り、駅に近いところにある大型書店で京都のガイドブックを買った。そして敢えて新幹線で京都へ赴くことをやめて、学生時代の安い旅行のイメージを懐かしく思い、夜行の高速バスに乗って早朝京都駅に到着するというプランを実行した。シンガポールの高層マンションで57階の自室に戻るのには急行エレベーターに乗るが、その乗り心地に私はアメリカ時代から自分の中に身につけた便利さを享受するという感覚を自覚していたが、それを敢えて久しぶりに祖国帰還において全て捨て去るという気持ちになっていたのだ。
 バス内は一人だけ年配の男性がいた他は殆どが学生くらいの年齢の若者たちが乗客だった。大阪へ直接飛行機で飛ぶことをよしたのは、一重に学生気分で旅行をしたいということだったのだ。夜行バスは五千円だった。
 十一月下旬は最も京都で紅葉が綺麗な時期である。
 私は東京駅から京都駅まで直通のバスに揺られながら、予め持参していた毛布を椅子の背を倒し、自分の身体にかけた。バスの揺れはしかし時折強烈に身体にまで響き、学生時代に戻ったような旅に、ある瞬間老いということを感じた。周囲で寝息を立てる学生たちの若さを私は今更ながらに羨ましく感じた。
 京都駅には早朝に到着し、バスから降りると、京都駅の駅員に聞いてその通りに降りた地下鉄の最寄り駅の蹴上から少し歩いた先にある明治時代風のトンネルを右折して歩いていくと、次第に東山の風景一色になっていった。私は腕時計にちらりと目をやり南禅寺に急いだ。定刻通りに南禅寺正門前の駐車場の入り口辺りに着くと、そこには数人の中高年の男性たちがいたので、声をかけたら、その中の一人が句投稿をアメリカで始めた頃より使っていた俳号である「散見さんですか?」と私に今回の吟行のメールを送ってきてくれた須賀という男が名刺を私に渡しながら、「須賀です。今日これからよろしくお願い致します。」と私に挨拶した。須加は句のイメージからするともっと若い人かと思ったが、実際は私より更に二十歳くらいは年配者だった。
 南禅寺はかつてフランシス・コッポラの娘である映画監督ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」でも撮影された。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンセンが放浪するシーンに使われている。映画ではビル・マーレーが渋い中年米国俳優を演じ、日本国内でCM撮影が行なわれるシーンではCFディレクターをダイヤモンド・ユカイが演じ、マシュー南という名でヴァラエティー番組に出演していたそのままの出で立ちで藤井隆も出演していたのが印象的だった。
 しかしその日は幾分霧雨が降り、淡い霧も発生しているそんな天候だったために、南禅寺境内にある水道橋も荘厳な雰囲気に包まれ、歩く足取りも湿った匂いを煽り立てるような空気を醸し出していた。
 須加が私の横に歩き話しかけてきた。
 「私も句作をはじめてから既に三十年くらい経つんですが、散見さんは未だお若い方の俳人さんでいらっしゃいますね。」
と親しげにそう語る口調に嘘はないようだった。
 私は本名は今は郷田守にしているが、社長時代にも、スカイスレッダーのCEОという風には勿論名乗っていなかった。適当に翻訳業務紹介業者だと名乗り、本名を尋ねてくる句作仲間なんて殆どいなかったものの、時折あまり趣味のいいことではないが人のプライヴァシーに興味を持つ奴には適当に「意外と平凡な名前なので」と適当にごまかしてきたのだ。また句作にしてもそう多く作ることも出来なかったし、ゆっくりと他人の句を鑑賞するには忙し過ぎた。だから寧ろこうして偽のリタイアをした後に退屈しないで済む方法の模索の一環として趣味に俳句作りがもってこいのことだったに過ぎない。しかしそほんの思いつきが私の人生を更に別な方向へと差し向けていっていたのである。
 私は樹木医をしているという須加の温厚な眼差しに対してそれなりの礼儀を尽くそうという気持ちから
 「そうですね、意外と翻訳業って年をとっても大変さがなかなかなくならない、つまり慣れで適当に出来ない勉強の連続なんですけれど、いつも頭を使っているということは、それだけで僕くらいの中年でも年をとっている暇がないことだけれど、須加さんのような方からご覧になれば私なども若輩者ですからね。」
 その時しかしこのような会話内容をすることなどここ二年は一切なかったことを今更ながらにと思っていた。
 「いやいや俳句に年は関係ありませんよ。」
と言って須加は快活に笑った。こういう会話をここ二年くらい一切してこなかったということは、私はそれだけ精神的余裕がなかったということである。しかし須加に咄嗟についた嘘も百パーセント嘘とも言えないことだったのだ。というのもCEО職とは言ってみれば、業務と業務の間の連関に対する対外的には投資家や株主たちに対する説明であり、対内的には従業員たちに対する説明である。それは要するに替え玉であっても、翻訳業務をプロに委託すること、つまりそのプロの力量を見抜き、クライアントの要望を満たすという意味では、従業員たちがプロの翻訳家、クライアントたちは投資家や株主と言ってもよかったからだ。しかしそれにしてもこの須加という男はまんざら信用出来ないでもないとその時私は直観した。そしてそれは決して間違いではなかった。
 須加という男はよく快活に笑い、積極的に私に色々話しかけてきた。その時に私と須加以外にも四人の男性がいた。南禅寺の正門前の駐車場で皆は一応自己紹介し合っていたのだ。たまたまその日は女性の参加者がいなかったが、年齢的には古物商を京都で営んでいる島田という六十代の男性と、サラリーマンをしている東京から来た青森出身の近田という三十代の男性、そして桑原という写真家(女性のヌードを得意とするらしい六十代)、そして吹上という名の化粧品会社の社長である私より七八歳若い四十代前半といった面子だった。近田は桑原と妙に気が合いそうで、島田と吹上は商売のことについてしきりと話題にしていたようだった。私の横には主催者の須賀が、そしてその後ろに桑原と近田が、その後ろに島田と吹上が歩いていた。
 私が京都駅に到着したのは七時前だった。そして乗り継いで降りた蹴上駅から南禅寺に到着したのは須賀のメールによる提案で八時だったので永観堂を拝観するのには未だ少し時間があったので、そこは諦め哲学の道を通って禅林寺へ立ち寄り法然院で少し長めに見学した。(安楽寺に立ち寄り銀閣寺に着いた時には十時過ぎになっていた。)
 しかし私にとって不思議だったのは、かなり日本人にとっての自然とか、日本人の心といった生活から遠ざかっていたのに、京都の道を歩いていた時には、何故かサンタフェや、モンサンミシェルやシンガポールを歩いた時にはなかった大地との密着間が感じられたのだ。そうだ、私もまた日本人なのだとその時思った。それは私がずっと長いこと感じ続けてきた世界が虚構めいて見えるということに久しぶりにあのサンタフェから見た夕焼けの色が鮮明に生命的躍動を私の肉体に呼びさましてくれたように感じさせた。しかしただサンタフェで生活する日常ではずっと歩いている時もレッドカーペットの上を歩いている感じは拭えなかったのだが、それに引き換えずっと自分との間に密着感があったその時感じた哲学の道の傍らにある小川のせせらぎを眺めいりながら歩く京都の地面での感触がカーペットではなく大地であるということそのものもまた一つの私の脳が勝手に描く幻想かも知れないと思うことも私は忘れなかった。
 しかしすぐ後ろに歩く不良壮年といった感じの桑原に対して青年的雰囲気をまだ多分に残す近田が共感を示し友好的に語りかける内容は自然と耳に入る範囲内でもさほど違和感はなかったものの、その後ろに続く島田と吹上の会話内容を聞き取る私の耳は、伊豆倉の持つあの独特の商売人特有の慇懃無礼さと、俳句に関心があるのだぞと無趣味のビジネスマンたちを蔑む態度が見え見えで嫌な過去の出来事の想起を一瞬で招いてくれるのではないかという懸念を私の心に生じさせた。
 近田は結婚を意識した女性との付き合いがあることを桑原に告白し、時々彼女の自分に対する態度から女性というものがよくわからなくなるというようなことを告白すると桑原は
 「女という生き物は僕たちとはまるで違うからね。これは運命的な役割かも知れないね。人類のね。だから僕は女性を相手に撮る時には、向こうをよく知っているという態度を一切示さずに、僕は何にもあなた方のことを知りません、だからどうかそっちのことを教えて下さいという態度と表情でシャッターを切るんだけれどね。つまりそういう風に彼女に接すれば向こうは君を信用してくれると思うよ。」
 しかし島田は吹上に対して
 「化粧品というのは女性に対しては女性が使い勝手のいい雰囲気を持っている商品を自分のペットみたいに思えることが商品戦略としては最も有効なんですかね?」
と聞くと、島田に対して吹上は
 「いやあ、それは島田さんに寧ろ私がお伺いしたいことですよ。」
と返す要するにそんな遣り取りに終始していたのである。
 私はこの種の社交辞令に対して翻訳家としての生活においても、その後急転した沢柳=佐橋のダミーとしての生活上でも一切なかった。アメリカ人は本質的に全く異なった社交辞令の仕方をしていたからだ。だからと言ってちっとも私はこの二人の遣り取りを懐かしいなんて思いもしなかった。それどころか二度と聞きたくはないタイプの会話内容だったのだ。
 その点桑原の謂いというのは年配者から青年層へ向けた回答としてはよく理解出来る、そうその時私は思った。ある意味では桑原と沢柳=佐橋=サハシーは似たタイプだった。そんなに年老いてはいないのに、私と年恰好が似ているというだけで自分の職務を放り出し死んだことにして、ひょっこり私の前に現れ、再び去って行った。
 近田は銀閣寺に到着して庭園を散策していた時、私の後ろで桑原に再びこんなことを聞いたのが私の耳にみ入ってきた。
 「桑原さんは世界中の女性のヌードをお撮りになっていらっしゃるけれど、どこの国の女性が一番情感的ですかね?」
すると桑原は
 「君はどこの国の女性が一番そうだとお思いですか?」
 近田は自己紹介の時に南禅寺の正門前で自分は大手家電メーカーの社員であると言っていたが、更に自己紹介をも兼ねて
 「私は商品開発部に属していて、一年間ロス支店にもいたことがあって、まあそこでマーケットリサーチもしていたんですね。週末には滞在先の地域コミュニティーの色々なパーティーに誘われて大勢アメリカ人女性も見てきたけれど、確かにextrovert(社交的)な女性が多いけれど、では彼女らが本当に自分の本音を曝け出しているかと言えば、決してそうではなかったというのが僕の印象です。」
と言った。すると桑原が
「僕も米国人女性は大勢フィルムに収めてきたんだけれど、君の持つ感想と共通しているとも言えますね。だけど日本人の女性も少しずつ変わってきたからね。」
と呟くようにそう言った。そして続けて
「でもね、僕の撮るヌード写真のモデルになるような女性はアメリカ人でもフランス人でもフィンランド人でも日本人でも要するに何かある程度共通性があって限定されてくるんですよ。だから逆に僕はあなたが付き合っていたり、ビジネスで知り合う女性の方がずと僕が見てきた女性よりもワイドなヴューで見ている気もするけれどね。」
と付け加えた。それを聞いて
「そういうもんなんですかね。」
と半分怪訝そうにしかし半分感心した表情で半納得の意志を近田は桑原に示した。 
 吟行をしているので、皆小さなメモ帳にボールペンや鉛筆を片手に気がついたら俳句を書き留めていたが、そうしながらも和やかな会話も挟んで移動していたのだ。
 私は近田のアメリカ滞在の話を聞いた時心の底ではいつ頃アメリカにいたのか聞きたいと思ったが、勿論聞いたりなんかしなかった。そして一瞬ヴェロニカのことを追想した。今頃山田が巧く彼女をリードしているのだろうか?彼がヴェロニカも引き継いだのだ。そして彼は私のことを沢柳であると信じている(筈だ)。
私が予め旅行の前に着替えその他を放り込んでいたショルダーバッグの中から取り出したデジカメで法然院にある砂のような小石で作られた山型のある庭をそこへ降りるようになっている上から俯瞰で写真に撮るために須賀より少し早く前方へと歩いていって須賀がカメラの視界に入らないようにして構えていると、後ろから須賀が
「散見さんの今回の句を楽しみにしておりますよ。」
と言った。私は
「そう仰る紫卿さんこそいつものような歯切れのいい爽快な句をこちらこそ楽しみにしておりますよ。」
と言うと、須賀は打ち解けた雰囲気で更に話しかけてきた。 
 「幼い頃というのは人間って奴は何を見ても新鮮な感じを受けて吸収しようとしますわね、しかし大人になっちまうと、いつの間にやらこう何ていうか、何を見ても感動しないように、前に見た何かに必ず新しいものさえ結び付けて見てしまう癖がついてきますわね。」
 そこで私が
 「ええ、そういうものですね、よく分かります。何でもかんでも感動していたら身が持たなくなりますからね、社会生活って奴は。」
と賛同の意を示すと、須賀は更ににこやかに
 「ええ、ですからこういう吟行って奴は気が利いた計画ですよ。」
と快活にそう言った。
 私はもし以前の、つまり私が郷田守として生活し始めてから知り合った他人と共にいる時に、日本で金城悟時代の知人と鉢合わせしたら、その時はその者にだけ「金城の本名は仕事では使っていないんだよ」と説明する積もりだった。私が過ごしてきた翻訳家の業界ではそういうタイプの人間も大勢いたから、そこら辺は一向に不自然ではない。私はもうかなり資産があったので、細々と金城悟として生活している辻褄合わせとして以前の住所を引き払ってもシンガポールに滞在している時にも一応確定申告の際にはきちんとした書類を作成していた。事実私は郷田守になってからも院生に金城悟としての翻訳業務の代行をさせていたのだ。だから郷田守としてのアイデンティティーとは要するに佐橋=沢柳として生活していた頃の知人と鉢合わせした時に取り繕うための新たなアイデンティティーだったのだ。しかし不思議とこういう二重性に私は既にすっかり慣れきってしまっていたのだ。
 銀閣寺の庭で須賀の発案で最初は個々に次に皆で須賀の提案で記念写真を撮って、昼食をとるために京都御苑内のレストランに行くために乗るバス停まで出たらバスは出たてで、次のバスが到着するまでに二十五分くらいあったので、皆でバス停からほど近い茶屋に入って時間を潰すことにした。その時店内で三味線と琴によるまるでとってつけたような邦楽が流れていたので、咄嗟に黙っていれば
「いかにもさもありなんっていう感じのBGMですね。」
と私や桑原の顔を見て苦笑した。
その時島田が近田に
「ところで近田君は音楽も好きそうだけれど、どんな音楽を聴いているんですか?」
と質問した。すると近田は
「ええ、好きですよ。桑原さんのお撮りになっていらっしゃる写真とか見ながらロックとか聴くのも好きですね。」
と言った。するとロックと言えばエルヴィスという世代らしい島田が更に
「どんなロックですか?」
と聞いたので、近田は
「ニルヴァーナですかね。」
と言った。すると島田は
「僕はその名前知らないですね。」
と言った。近田は
「僕たち三十台中盤の世代にとっては多感な青年期に結構エキスを貰った人は多いですよ。だからヴォーカルのカート・コバーンが自殺した時はショックだったですね。」
と言った。するとその時吹上だけが頷いていた。ニルヴァーナはロメオスも好きで彼の邸宅に招待されて映画を見た時も、映画が終了した後互いにワインを飲んだ時にBGMに彼が選んでいたのがその時懐かしく思い出された。
私たちの世代にとってジョン・レノンが殺された出来事は極めて印象的であった。しかし私たちとて現役時代のビートルズをリアルタイムで聴いていたわけではない。島田と桑原と須賀はそれよりももっと上の世代だし、吹上も少しだけ近田よりは長く生きているものの大体似た音楽を聴いていたようなのだ。近田は同世代の吹上に
「吹上さんはどんなタイプの音楽をお聴きになられますか?」
と聞いたので、吹上は
「私は趣味ではあまり音楽を聴かないんですけれど、ビジネスタイムでは私の社ではアンビエント・ミュージックを聴いて皆仕事をしているんです。」
と言った。
 注文して出されたコーヒーをそそくさと飲み干すと周囲の皆は殆ど温くなってしまうまで口さえつけていなかった。私は何故か喉が渇いていたのだ。
バスが到着する五分くらい前になって皆目配せして示し合わせたように会計を済ますと、歩いて三十秒くらいのところにあるバス停に並んで待っているとバスがやってきた。
 その後私たちはバスを乗り継いで京都御苑内にある予約していたレストランの奥の和室で食事をして、ビールで取り敢えずの乾杯をしながら、各自既にしたためていたメモからある程度自信のある句だけ一句言い合うことにした。本格的に今回の吟行で作った句を発表し合うのは明日である。
 その時には既に近田と桑原、島田と吹上、私と須賀がペアを組んでいたようなことと関係なく全員が懇意な雰囲気で句を巡る様々な意見や感想が飛び交った。その時私たちは通常のレストランのテーブル席が、和室の上がり間から充分見渡せる間合いになっていたので、テーブル席の客たちが寛ぐために少し高く全体からも見られるようにして置いてあったテレビのニュースの内容が、私たちにも聞き取れたのだ。ニュースは20世紀から今日までの一世紀の間でも類例を見ない大不況の嵐がアメリカ証券業界から世界へと飛び火しているということを伝えた後、よりにもよってスカイスレッダーとミューゾソケット社との提携が暗礁に乗り上げているということが報じられたのだ。私が替え玉CEО時代にはズームアップ社とシューズデザイナー社との提携に漕ぎ着けたが、山田はどうも敵対していたミューズソケット社との提携を勘案していたようだったが、それが暗礁に乗り上げたというのである。私は当時既にスカイスレッダー社の行く末にあまり関心を示さなくなっていたのだ。だからそのニュースも私にとっては突拍子もないものだった。
 私が替え玉CEO時代以前に一度は懇意だったミューズソケット社は何度か独占禁止法違反ではないかと囁かれたり、槍玉に挙げられたりしていたこともあったが、その都度巧妙に新奇のアイデアによって乗り切ってきていた。しかしアメリカの実業界でよく見られるパターンとしてエディー・レンディーは既に経営の第一線からは退き、しかし通常の年齢からすればまだ一花咲かせることが可能だったので、慈善事業をすることに精魂を傾けていたものの、いざ提携という話になると彼だって山田=現在の沢柳との話には現在のCEОからも打診されていたに違いない。スカイスレッダーからしてみれば私の時代でのミューズソケット社に対する仕打ちは裏切り以外のものではないのだ。ロメオスがそれだけ私にとって魅力的な男だったということも実は手伝っている。
 しかし私はあの山梨の山荘で沢柳本人から
「マイケル・ストーンランドとジム・クラークは二人とも信頼出来る男であり、いざ決裁を仰ぐことを下の者から迫られたら、この二人に相談し、両方が同一意見ならそれを採用し、そうでなければいずれかあなたが自分で正しいと直観し得ることだけで流れを決定していけばよいんですよ。」
と言われたし、事実私はCEОになってからも、何度かサハシーが私にだけ密かに教えてくれていた携帯番号へかけて彼からアドヴァイスを聞きだしていたのだが、シンガポール在住になってから一度私は実は私をサハシー本人であると信じて疑わない(そうだろうと思う)山田から電話してこられたことがある。私がいざ困ったことでもあったら、自分に電話をよこすように私がサハシーから教授された山荘で、同じように彼にそう告げて、携帯番号を知らせていたからである。
 その時彼は私にこう言ったのをその時私は思い出した。
「サリーが運んでくれる私の日程表に従って私は行動すればよいのですが、では日程があまり過密ではない時はどうしたらよいのでしょうか?」
 その時私は確か次のように返答したと思う。
「CEОは意外と過密スケジュールではない時は暇なんですよ。普段は会計士も弁護士も色々スタッフが勘案してくれたことをこなせばよいから、それは丁度何かの流れに身を委ねてればよいけれど、いざ空白の時間が与えられると逆にぎょっとしてしまうものなのですが、そういう時に閃くアイデアが実はビジネスには重大な岐路の際に手助けになってくれることが多いんですよ。だからそういう時は好きな小説を読んだり、映画を見に行ったり、コンサートに行ったりして、気分転換することが意外と後でいい案が浮かんだり、困窮した時に打開してくれる道を指し示してくれるものなんですよ。」
 山田はその時以外は一回も携帯では連絡してはこなかった。そんな時間的、精神的余裕がなかったということもあるが、殆どの情報は私がその都度彼へメールで送信していたのである。
 しかし気分転換をせよとそう山田に告げた私であったが、私自身は細々したこと、例えば豪邸の庭師ロジャースらについての知識とか、豪邸の地元の人間関係についてなどは逐一メールで教えて貰ったりしたものの、精神的レスキューを私はサハシーに求めることは殆どなかった。当然ズームアップ社らとの提携の時も完全に私の一存で決めたことだったのだ。
 しかし俳句の話に花が咲いている時に、そのニュースを注目したのは私だけだと思ったら、流石化粧品会社の社長なことはある、一瞬そのニュースが流れた時そのアナウンサーの言う一言に注目した表情を私だけが恐らく見抜いていた。その鋭い視線と深く思念したような一瞬の冷徹な表情が、私自身のビル・サーストンやサリーやトムとの仄かなたった一年ちょっとではあったが、虚としての私の内心では実のある思い出に耽ろうとしていた気持ちに水を差した。たった一瞬ではあったが、俳句の季語と切字の話をしていた最中に見せた彼の経営者としての表情が一気に私の気持ちを元CEОへと立ち戻らせた。しかしそれを一切他者たちには悟られまいとして、今度は私の方から敢えて吹上に対して俳句に関しての質問をしたのだった。
「では吹上さんは一体用言止めと体言止めに関してはどのような見解をお持ちになられるんでしょうか?」
と私が言うと吹上は
「私は須賀さんや散見さんほど長く俳句作りに携わっているわけではありませんけれども、体言止めというのは何か固定させてしまうように思える一方、本家取り的な妙味にある時には活きることもありますが、一般に何と申しますかね、イメージを、つまり俳句を詠む者の表象的心理をですね、限定してしまう、つまり通り一遍の名辞というか、通念に縛り付けてしまう気さえするんですね、ですから、私は映像的に表象が明確化される用言止めの方に痛烈に惹かれるんです。それはフッサールとかサルトルといった哲学者の思念を彷彿されるんですね。」
 吹上は確か文学部出身であったが、まさか俳句の席でフッサールやサルトルの名が出てくるとは思いも拠らなかった。私自身哲学書を貪り読んだ記憶もあるが、大分昔の話である。一気に私は世界が虚構めいて見える私のヒューム的懐疑主義的青春にその一言が立ち戻らせた。私はその一言を聞いた後で、この吹上とは私を色々な時期に立ち戻らせてくれる若いがあまり軽く扱っては後で痛烈な竹箆返しを食らうことになるかも知れない、まさに見過ごせない奴だとその時確信した。それはニュースの内容に一瞬凍てついた表情を見せた男に相応しい私の下した結論だった。
 私は吹上の意見に対して
「それは私も吹上さんに完全に賛成ですね、余り巧くない詠み手が下手糞な本家取りにもならない名辞で締めくくると、句が死んでしまいますからね。」
と述べると桑原も近田も島田も須賀も納得した表情を示した。しかし暫く皆この遣り取りに納得したような表情をしていたが、思い立ったように近田が疑問を吹上にぶつけた。
「では自由律俳句の名作と言われる尾崎放哉の∧咳をしても一人∨は形式的には体言止めですが、どう考えたらよいのでしょうか?」
それに対して吹上はすかさず
「それはこう解釈すればよいでしょうね。つまり∧咳をしても一人でいる∨ということですね。これは∧一人で咳をする∨ということを言いたいのですが、そうただ言ってしまえば、面白くも何もないですね、しかし咳をしても周りには誰もいず、その咳をしたことを心配してくれる人も誰もいないということですからね。だから体言止めと言ってもね、これは限りなく用言止めに近い感覚の、つまり用言が省略された体言ですから、要するに知識とか解釈的な常套性に依拠したような体言止めのような本家取り的趣味性はないと見ていいですね。」
 吹上は吟行している時にはあまり同伴していた島田とも積極的に会話を弾ませることなく、一人メモを取っていたから、当然社交家ではないらしいということは逆に創作家としては優れていると私は思っていたが、事実彼は後で皆で一句ずつ披露した句そのものも優れていたし、解釈家としても、批評家としても優れていたことは確かだった。そしてこういう出会いとはどんなに生き馬の目を抜くようなビジネスワールドにいても、味わえない妙味であることを私はつくづく感じたが、それは世界そのものが私を存在させる前に既にかなり虚構めいて見えることそのものを、句と作る、それを集団で篩にかけるという行為によって虚構を虚構(句)によって表現することで自然に世界を非虚構にすることが出来るということを私は替え玉としての生活から足を洗った後の人生で初めて知った気がした。  
 しかしやはりそれにもかかわらず、あの時のニュースでのスカイスレッダーでの苦難とか、山田は巧くやっているのだろうかと、一度だけ私にアドヴァイスを求めてきたあの時以来一度も私の携帯にはかけてこないままでいる彼の現在の行状に関していささか憂慮めいた気持ちになっていたということ自体が、私は未だ完全には気分的にリタイアしているのではないということに気づき、私はこの句会において、誰にも気づかれないように一人で苦笑をしていたのだ。
「いやあ、今日は先生抜きで素晴らしい会合となりました。また私のところに連絡して下されば、私が句会をする場所を確保致しますので、いつでも何なりとお申し付け下さい。」
と閉めの言葉を須賀が句の批評が終ってから言った。それに対して島田が
「私たち一般庶民にとって社会で生活していくということは、個人的な創作への思いとか沈思黙考すること自体を諦めて、要するに自分というものや自分を見つめるということ自体を捨てて社会に奉仕するということです。ですから先生のような天才の方以外の私たち、と申しましても、私以外にここにいらっしゃる方は含まれませんけれども、要するにこういういい機会でもない限り、一切自分を創作を通して見つめる機会などなくただ死んでいくだけです。」
と言って、須賀に感謝の視線を注いだ。すると桑原が
「私は写真家ですから、よくあなたは自分の表現をなさる機会に恵まれていらっしゃるでしょうとか言われるんですが、写真家というのは、確かに通常の会社員の業務よりは、自分を見つめる機会に恵まれていますけれども、どうなんでしょうかね、却って近田さんのような若い会社員の方にとっての余暇の過ごし方の方が有効に自分を見つめる余裕が持てるんじゃないですかね。つまり私たちは半分は自分の写真家としてのテーマとか考えることが出来るけれど、それはあくまで社会全体が私に求めるものに対する受け答えとして設定された「私の世界」なのであって、私が社会に対して求めたり、私が社会から認定したりして貰いたいものとも微妙にずれ込んでいるのですね。」
すると、もうお開きかと思われた場が再び話に盛り上がって、それに対して近田が
「桑原先生のような方でもそうお思いになれるんだったら、要するにプロの世界ではあまり自由はないということになりますね。」
と述べた。すると桑原は
「そういうことですよ、世の中に一切認められないようなしかし本当の天才がいたとしたら、そういう人間はどこかで社会通念と対立して生きていかざるを得ないけれども、いざ自分にとっての安全地帯を見出したのなら、却って売れっ子よりももっと自由かもしれませんよ。」
と言った。するとその意見に吹上も島田も賛同するように大きく首を縦に振った。その場で全部お開きになり後はホテルで過ごすなり、土産物屋に行くなり自由時間という予定だったが、いきなりお開き前に話しが盛り上がったので須賀の咄嗟の発案で有志者のみで二次会を設け、酒を飲みながら俳句や俳句を取り巻く状況とか、それぞれにとっての俳句の出会いを語り合うということをすることになり、結局一人も参加しない者は出ず皆で祇園の居酒屋(須賀が一見ではない店があったので)に繰り出した。会費は若い近田だけ桑原の奢りということになって皆が出席した。既に御苑を出た時には夕方近くになっていたので、二次会がお開きということになり三々五々後は完全な自由時間ということで、土産物屋に寄ろうとする者もいれば、そのまま宿泊先の京都国際ホテルに向かう者もいて、ホテルのチェックインへと向かった時にはすっかり夜もふけていた。腕時計を見るとちょうど八時になっていた。近く(大津)に住む島田だけが明日また東寺で落ち合う約束を皆として、一旦自宅に戻って行った。
 御苑から祇園に行く途中でバスの中で幾つかのギャラリーを車窓から目撃したのだが、その時私は伊豆倉のことを一瞬思い出した。思えば彼によって自分の人生がある部分では急転したのだ。しかし彼のよく言っていたこと
「金城さん、画商って奴はとてもじゃないが、まともではない悪どい奴っているんですよ。贋作と知っていて平気で高額で売りつけてどろんするような奴とかね。」
を思い出したが、自分もそれと似たようなものかも知れないと思ったのだ。しかし極めて紳士的でこの替え玉詐欺が知られさえしなければ誰も傷つかないのではないかと大胆にもその時私はそう思ったのだ。

Tuesday, October 27, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑫

 私は山田のことをすっかり沢柳に後釜のことを聞かれるまで忘れていた。しかし山田に全てを託し、もうあの翻訳業務をしていた頃のように二度と今度はどんな仕事が来るのかと半分不安、半分期待が入り混じった感情でその都度迎えるというようなことなどないだろう。何故なら私は既にもう一生働かなくてもいいくらいの財産があった。しかしそれは決して真っ当な仕事によって得たものではないし、また世間に公表し得るものでもない。つまり私は生涯、楽な生活をすることが出来るが、同時に生涯、翻訳をしていた頃のようには、世間に胸を張って生きていくことは出来ない。勿論私は翻訳をしていた頃からとりたてて、人生の充実感とか、生き甲斐といったものを信じる方ではなかった。しかしあの得体の知れない沢柳による試用期間において、不安を入り混じらせながらも、必死で採用されることを考えていた頃には、それなりに精神的な充実感はあった。つまり何らかの生き甲斐とはこんなものではなかろうかというような感じは確かにあったのだ。つまりそういうことというのは後になってから、そうだ、あれが幸福という感情だったに違いないと分かるものなのかも知れない。
 しかし実際にCEОとしての仕事をこなし、それを替え玉としてではなく本当に自分の意志でし始めた頃まではある意味では最初の緊張感からの延長だった。しかしある時点から、つまり自分自身で替え玉としてではなく、いつしか最初から自分がCEОだったのではないかと錯覚するくらいに慣れていった頃から私は確かに完全に後戻りすることすら出来ず、またそれを一方では確かに決して望んではいなかったものの、未だ試用期間中なら、全く異なった場所で仮に誰かと居酒屋辺りで会話するにしても、どこか胸を張って会話することが出来たろう。しかし私自身が最初からCEОだったのではないかと錯覚するくらいに沢柳が死んだという事実自体に慣れていった頃、私は既に引き返すことの不能な地点に来ていたのだ。そしてその時点から私は居酒屋などで見知らぬ人たちと会話することなど最早する余地さえない地点に来ていたのだ。またそういう気持ちにすらならないようになっていた。そのことはその日、生きていた沢柳の笑顔を見てそう思った。つまりサハシーも今の私同様の気持ちを、私に全ての業務を明け渡した時点で味わっていたのに違いないのである。
 だから私は本来だったならもっと沢柳の生存に対して驚くべきところが、意外にも、私に任せて辞めていったサハシーの気持ちがよく理解出来るという感じだったことの方に私は驚いていた。それは私もまた今のサハシーと同じ身分になっているということからくる感じだったのだろう。

 私はモンサンミッシェルの風情もそこそこに、脳裏には殆ど沢柳が私に明け渡し、私が山田に明け渡した業務と、その業務に向かう人々といった関係についてどこか哲学的に思惟を働かせていた。社会そのものの運営ということが、自分の思惑とは全く違う部分で展開しているという感じは誰でも抱く感慨だろうが、それがこういう世界遺産のような観光地に訪れている時にも、いやそういう場所だからこそ脳裏を掠めるということは、私たちがいかに人間関係の渦に常に飲み込まれているかということを表している。が、私はそういうことを思い巡らしながらも、この先どのように生活していくべきか、おぼろげながら辞める前に考えていたが、既に私が抜ける前に購入していたシンガポールの高層マンションに移り住むことを実行に移そうと考えていた。既にフランスからシンガポールにまで行く飛行機の手筈は整えていた。そして再びパリへ列車で戻り、夕方には到着するから、それから予約しておいたホテルにチェックインし、翌日オルセー、オランジェリー、ルーブルといった美術館を見てから、夕方発の飛行機に乗る予定だった。ピカソ美術館も時間があれば見ようと思っていたが、翌日最初の二つの美術館をざっと見て回っただけで殆ど時間的にも体力的にもそれ以上一日で見て回ることが出来ないということを察知し、ルーブルとピカソは諦めて、私は空港へ搭乗時刻からすれば少し早いが、出向き、そこで新聞を買って椅子に腰掛けリタイア後に時々吸うようになっていた煙草を取り出し吸い出した。サンジェルマンをタクシーで通りかかった時、タクシーを停めて最寄りの店で購入したル・ジタンだった。
 その時フランス国営テレビのニュースが世界的規模での株の大暴落について告げた。私が職に就いている間はこんなことは一度もなかった。アメリカ国内でのサブプライムローンが契機となった今回の世界的金融危機は百年に一度であると報じられた。その時久しぶりに私は咄嗟に日本のことを考えた。日本での生活はどうなっていくのかということを、最早日本に戻り生活することを断念していたのにもかかわらず考えたのだ。そしてその時山田はこれからどう采配を振るっていくのだろうとも考えたが、それ以上に彼の心配をすることはなかった。

Saturday, October 24, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑪

 しかし私はタヒチでも長居はしなかった。即座にフランスのモンサンミッシェルに飛ぶことにしたのだ。と言うより予めそう決めていた。タヒチの海岸で飲んだトロピカル・ジュースの味が未だ舌に残っている間に既に飛行機は韓国ソウル、そして中国北京へと着陸していた。更にそこからロシア上空を飛び、モスクワで一度着陸し、再び今度はパリに向かって一路飛行機は飛び立った。
結局私が替え玉としての生活に区切りをつけたものの元通りの自分には終ぞ戻ることの出来ない地点に来てしまったということをまざまざと見せつけられたのは、実はハイウエーを建設してからというもの、前のような細い海岸だけが引き潮の際だけ残されているからこそ「あそこに行く前に遺書を書け」とまで言われた両際から打ち寄せる波によって辛うじて残っている風情がすっかりぶち壊しになり、ハイウエー沿いに泥土が打ち寄せられてすっかり様変わりしてしまい、元の風情を人工的に取り戻そうとハイウエーを撤去した後、橋を代わりにかけるために工事がしきりに行われている最中のモンサンミッシェルに到着した後に起きた出来事によってであった。

 内部にある礼拝堂の椅子に腰掛けていた時、私は最初ずっと天井の方ばかり気を取られていた。しかし内部に差し込む光の具合が、次第に外部の天候が曇っていくことを示すに従って光の差し込み具合による堂内の陰影が微妙に変化することに対して様々な国籍の観光客の静かなざわめきの方へと注意を以降させていった時、私は一人の男の後姿に目が釘付けになったのだ。それはまさに自分自身見紛うくらいの瓜二つであるあの沢柳にとてもよく似ていた。しかしその男はざわざわ数十人くらいいる白人や黒人やアラブ系の観光客が多かったその時の人垣の前を椅子から立ち上がって、ゆっくり歩き始めた。そこで私は人垣を潜って、その男の後をつけて行った。
 男は中庭の見える回廊に向かった。上部にあるその庭が見える回廊に到着すると、少し前に階段を昇って行ったその男の後姿が再び確認出来た。
その時曇った空がごろごろと音を立て、一気に土砂降りになった。中庭に叩きつける雨の音と、そのシャワーの縦に叩きつける様を見とれていたその男は、その雨の雫が自分の方にかかってしまったらしく、それまでは中庭の遠方を見ていたが、ふと回廊の内部の方へと視線を移した。その時だった。私はその男がまさにあの死んだ筈のサハシーであることを悟ったのだ。
 私はそそくさと彼の方へと近づいて行くと、彼はこちらを振り返った。そして私の顔を認めると
「やあ、金城さんですね。」
と一言そう私に告げた。私はあまりの展開に自分でも即座の対応としてどのような言葉をかけたらいいか判断つきかねていながらも、口からは意外なほどすらすら言葉がついて出てきた。
「あなた、お亡くなりになった筈じゃなかったんですか?」
すると沢柳は
「いやあ、あなたがどれくらい私なしで仕事をこなしていけるか試したくってね、まあ人が悪いかも知れないけれど、私は死んだことにさせて頂きましたよ。尤も私は二度とあのCEОの職には復帰致しませんから、結局それは死んだということと同じことなんですけれどね。」
私は抜け抜けとそう語るサハシーの態度に一気に怒りが込み上げ
「それにしても、一体なんでそんな手を込んだことをなさったんですか?」
すると悪びれもせず沢柳は
「だって、その方があなただってやりやすかったでしょう?」
と私に告げたので、私は対応に困って
「そう言われたって。」
とだけ言ってそれ以上は口を噤んでしまった。すると静かにサハシーは
「こんなところにいらっしゃるということは、あなたも既に自分の身代わりを立てて、自分が退かれたということですな?」
と私に問い質した。
「そうですよ、当然ですよ。あんな立場にいつまでも平気でいられるほど私はあなたほど図太くないですからね。」
と私が返すと、沢柳は続けた私に問いかけた。
「別に私はもう死んだことになっていたのだから、あなたさえよければずっとあのポストにあなたが居座り続けてもよかったんですけれどね。でも何で私があなたを私の身代わりに決めたからお分かりになられますか?」
 私は即座に返答出来なかったが
 「そりゃ、風貌が私とあなたはそっくりではないですか?それが理由でしょう?」
 するとサハシーこと沢柳は
 「そりゃ、似ているという意味ではあなたと私は勿論瓜二つです。しかしそれだけではないですね、そんなにそっくりというだけでは世界にはあなた以外にも三人くらいはいます。どこの国の首脳もそういう影武者を用意しているものですよ。ただ囮という意味だけでならね。でもあなたをただの囮ではなく、本当の私ということで代行どころか、私になって貰ったのはわけがあるんです。」
 と私に真摯な態度でそう告げたので、私は
 「一体それは何故ですか?」
 と聞き返した。するとサハシーは
 「それは、あなたが一番重要なことで窮したり、二進も三進も行かなくなった時に、誰かに相談したりするようなタイプではないと私が踏んだからですよ。」
 と述べた。私が
 「それはどういうことですか?」
 と尋ねると、沢柳は
 「つまり、ああいう重要なポジションにいる人間というのは、ある面では凄く弱気になっていくようなこともしばしばあるんです。でもあなたは少なくとも、些細なことでは周囲の人間によく相談するタイプだけれど、いざとなったなら、一切誰にも相談しないようなタイプだと私は見抜いたのです。違いますか?」
 と私の目を凝視してそう言った。
 「まあ、当たっていないということではないですね。」
 と私は沢柳の凝視する目にそう返答した。
 私たちが話している間に一時叩きつけていた土砂降りは嘘のように引いて、再び昼時の太陽の光が差し戻っていた。暫く私たち二人は押し黙ったまま、中庭に目をやっていたが、我に返るように、私は沢柳に尋ねていた。
 「今は結局どちらに落ち着かれているんですか?」
 するとサハシーは
 「まあ世界中今のあなたのように暫くは旅行していましんですけれどね、今はフランスの片田舎に引っ込んで、毎日釣りをしているところです。」
 と言った。私は再びサハシーに聞いた。
 「それでこれからもその生活をお続けになられるんですか?」
 すると沢柳は
 「そう仰るあなたこそこれからどうされるお積もりですか?それにあなたの代わりになった人は放っておいても大丈夫な人なんですか?」
 と逆に私に問い質してきた。私はそれに対して
 「さあ、それも少し時間を置いてみないと、分かりませんが。でも何とかやってくれるんじゃないかと思うんですけれどね。」
 と私は沢柳に頼りなげにそう答えた。
 沢柳は
 「あなたも私の代わりを勤めて、世の中の仕組みというものを大分ご理解なされたでしょう?」
 と私に聞いた。私は即座には返答せず、暫く間を置いてから
 「いや、これから少しずつ理解していくことでしょうね。寧ろ辞めた後になったばかりだからこれからね。」
 するとサハシーは
 「なるほどね、実感が篭ってらっしゃいますね。」
 と言って微笑んだ。そして私にパリに行った時に購入したという高級チョコレートを私に差し出してから
 「まあ、これでも私の思い出に食べて下さいよ。まあ、もう私たちは再びお会いすることもないでしょうけれどね。」
 と言って、沢柳は私に手を振って、先に階段をそそくさと下りて行った。私はどうしても聞いておきたいことがあって、沢柳を呼び止めた。
 「ところでどうしてまたもう一度自分で仕事をなさるように私の代わりにポジションにお就きになられるお気持ちがないのですか?」
 すると沢柳はくるりと振り返って
「それはあの時最後にあなたが返信してきたあなたの回答を見て、なるほどなって思ったからですよ。」
 と言った。私はあのクイズ形式の最後の質問も、それに対してどんなことを返答して返信したかも忘れていた。そこで
「私どんなことを書き込みましたっけ?」
と沢柳に尋ねた。すると彼は
 「あなたはあの時こんなことをお書きになられたんですよ。孤独を感じることは孤独という言葉を我々が知っているからだと言うことを書いた後で言葉がないのにその孤独という言葉を作ることをあなたは突拍子もない偶然と表現なさったんですよ。そして∧その突拍子もない偶然に対して私はそれが偶然であると思わないで私の気持ちであると感じるだろう。もしそうであるなら私は言語の創造者であるということになるが、それが偉大であるとも感じないままでいることだろう∨ってね。その突拍子もない偶然っていう奴で人間は言葉を持ったんですよ。それが∧アダムが蛇から貰った林檎∨だったのかも知れませんね。でも孤独という言葉を知っている私はその孤独を打ち勝つことが出来ます。ならばその打ち勝つことをあなたにもして頂きたかったんですよ。一人くらい私の孤独を理解してくれる人がいれば私はこれから先もそれほど寂しくはない。それが唯一私が私の孤独を打ち勝つ方法だったからあなたに依頼したのです。あなたのお辞めになられた後あなたの後釜に納まるくらいなら私は辞めたままでいたいですよ。何故って態々あなたを選んだ私の決断が正しくなかったことになるからです。」
 それだけ言うと彼はまたくるりと踵を返すようにしてそのまま私の方を二度と振り返らずに立ち去った。

Thursday, October 22, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑩

 私が山田と入れ替わるように手筈していた日がやってきて、私は予め山田と申し合わせの通りに、明け方に予め借りていたレンタカー(車は社長専用米国内vIP用豪邸の十数台もの車が駐車出来るガレージに密かに数日前の深夜に停めて置いた)で密かにフリスコまで運転して行ってそこで乗り捨てた。そして空港からそのままバリ島に向けて飛び立った。バリ島で数日過ごした後、次はタヒチに、そして続いてモンサンミッシェルに飛ぶ予定を立てていた。私はその際に勿論金城悟でも沢柳でもなく別名、郷田守を使用した。山田は私が明け方に出てから、一時間後にやはり彼の運転する私がフリスコの空港付近で乗れるように用意していたレンタカーで豪邸に到着することになっている。あの山荘で予め詳しく豪邸の地図は彼に手渡し、カーナビも装備しているレンタカーを用意していたので、万事巧くいくことになっている。
 私は沢柳という存在から解放されたのだから、金城に戻ることも出来た。しかし私の意図とは裏腹に私の稼いだ収入は、金城のままでは到底不可能なレヴェルへと一挙に到達していたのだ。つまり私は今後沢柳になりすました後で行ったあらゆる場所にも二度と訪れることは出来ない(それは既に山田の行く先になっているのだから)のに加えて、金城に戻ることすら不自然で出来ないのである。つまり金城のあれからの生活全般ではどう転んでも今の経済的能力を捻出することなど不可能なのだから、私は金城のままではいつまでたっても、今まで一年以上沢柳になりすまして得た収入を糧に派手な生活をすることなど出来ない。と言って同時に沢柳のままでもいられないのだから、私はある意味では不自由なことにも私本来の金城でも、なりすましてきた沢柳でもない全く架空の人間の生を生き続けなくてはならない。しかもひっそりと。そして同時に私は金城として知り合った飯島のような人間との偶然の出会いを恐れ、それに加えて沢柳時代に知り合った大勢の人間との出会いも避けて暮らさなくてはならない。最も恐れるべき事態とは、金城としての私の知り合いと出会った時そこに同時に沢柳として私が出会った知り合いとも出会うというある意味ではかなり蓋然性としては小さいにも関わらず、全く可能性ゼロではないそういう偶然に遭遇することである。勿論山田と出会うということも最も避けねばならない。また極めてリッチな生活をしていると、いつ何時山田と私が邂逅する機会が訪れないでもないのである。そういう意味では沢柳があの世に行ってくれたのは彼にはすまないが、天の恵みであるとも言える。三人が一同に会することだけは避けられるのだから。
 私はバリ島へ向かう飛行機の中でこれから第三の人生に突入していくことの実感を噛み締めた。これからは郷田守としてのんびりと老後に向けて人生そのものを味わい尽くすのだ。もうあまり金銭的なことは勿論、何か業績を上げたいというような野心さえ抱く気持ちにもなれなかった。だからと言って放心状態であるわけでもなく、ただほっとしたという気分だった。しかしそのほっとしたという感じは晴れ晴れとしたものではなかったものの、と言っていつまでも緊張が解けないというのでもなかった。と言うのも私はいつからか緊張と、そこからの解放という程よい起伏そのものから遠ざかり、何らかの感情が別の感情によってコントロールされること自体に驚くこともなく、内的に動揺したりするような内的な葛藤さえもが、他人事のように思えるそんな風だったのだから。そもそも私は嘘と本当のことの違いという奴さえ然程切実なものとして私の中では存在していなかった。だから沢柳になりすました瞬間から寧ろ本来の自分に向いた生活を手中に収めたとも言えた。
 私がここ二年くらいの間特殊な経験をしたからでもあるが、それ以前から抱いていた現実が虚構めいて見えるということの延長としてもそういう感覚が最早決して特殊なものではなくなっていたという意味では本来の私になれたということなのかも知れない。しかし不思議なことにも、ではだからと言ってそういう感覚にすっかり慣れきっていたという風かと言えば、それもまた違うというのが本当のところだった。しかし私はいつもそう感じる度に、「いや、人生などと言うものは所詮こういうものなのだ。」とただ勝手にそう納得しているその繰り返しだった。
それは人生に理想とか大いなる願望を持つことを諦めた方がそれに向かって努力してそれが報われない時に味わう失望感を予め招聘せずに済むという意味で気が楽だということだけである。だから思い出してみてもサハシーになっていた時期も私は水を得た魚という心境でもなかったのだ。空虚だけれど、その空虚をとりたてて払拭しようという意気込みを一切感じないまま過ごすという心の奇妙な平安がバリ島へと向かう飛行機上で私を支配していた。ファーストクラスに乗って隣に座るご婦人は私と恐らくこのフライトの間だけ私とかかわり、今後彼女と私が死ぬまで一度も再会することなく過ごすだろう。つまり人との出会いもそういうタイプの出会いの方がずっと都会を中心とする生活では多く、だからと言ってその事実に真剣に悩む人はいない。だから私が何とか一年以上やりおおせた沢柳=佐橋の役を終えて、今ほっと一息ついているということの内には、二度と会うことなく終わる隣のご婦人との出会い(勿論出会いと言っても語り合うわけではなく、ただそこに座っているということを知っているということだけのことなのだが)と似たような出会いをここ一年ちょっとの間してきて、マイク・ストーンランド、ジム・クラーク、サリー、ビル、トム、スコット・ヒーリー、エディー・レンディー、ロメオスといった人たちが、公私に渡って私の生活を支配していたが、もう二度と彼らと会うことなどないわけだから、それこそ彼らの中の只の一人として隣のご婦人以上の存在理由を持つ他者は私にとっては存在しなかったし、恐らくこれからも存在しないだろう。
 私が一切の成り済ましビジネスから手を引いたことによって、本質的にスカイスレッダーのCEОとしてではなく、私人である郷田守、しかも謎の資産家としてバリ島への赴くジェットの中であれこれ思い浮かんだことと言えば、何か役職を辞めた時に感じる固有の心境だった。それはこういうことである。他の人がどんどん去っていくことを目撃するということは、例えばオリンピックで競技を決勝戦にまで進めることの出来る選手たちに共通する体験である。しかし会社ではそのようなことを目撃しても、オリンピックと違って、世界のトップというお墨付きを我が社で貰えるとは限らないので、必然的にただ我が社で脱落して辞めて行く成員に対して、負け犬というレッテルを必ずしも貼れるものでもない。つまり辞めた奴の方が正解である場合も往々にしてあるわけだから、いつまでも自分のように一箇所に留まっているという決意と、行為の持続は、そのようにしながらもどこかで「あの時辞めて行った奴の決断の方が正解だったのかも知れない」という思念との葛藤が絶えず付き纏う。そして辞めた直後に回想することと言えば、自分が辞める直前まで行動を共にしたメンバーよりも、自分がその職に就いてからほどなく辞めていったメンバーたちの笑顔とか、話し振りの方なのだ。結局自分もこうしてあの場を去ることとなってしまったのだから、自分よりも早くその場を去った者の決断がより今辞めたばかりの自分にとっては正しい判断のように思えるからである。「俺もすっかりあそこに長くいたが、俺よりももっと早くあの場を立ち去った者たちの選択の方が正しかったかも知れない」という思いは必ず湧き上がる。
 しかしそれと特筆すべきことは、同時に新たな人生の幕開けを飾る旅行の最中で特に空港での待ち時間などに読む売店で買う新聞を開いてつい目が行ってしまうことというのは、それまで自分が属していた社の株の状況とか、社自体の業界における価値評定とか時価相場とかそんなことばかりだということである。もうそんなこと一切気にしなくてもいいのに、身体が自然にそういうことに対する注目をするように慣れてしまっているということに我ながら苦笑してしまう。「そうだ。俺はもう沢柳=佐橋社長ではないんだ。郷田守としてひっそりとしかしそんなに苦労することなく世界中のホテルとかに泊まり歩いて生活するくらいのことなら出来るんだ。」とそう言い聞かせた。
私はそれから一年くらいそういう生活をしてどこかスペインかカナダかそれは未だ決めていなかったが、田舎の奥まったいい景色で、あまり人の多く住まない邸宅を購入して生活したいと考えていた。そして今更ながらにかつてサンタフェの豪邸に最初に着いた時、居間のラウンジから書斎へと赴く時、あまりにも複雑で迷路のような行き順だった(佐橋が誰かに狙われることを未然に防止した措置だったのだろう)私は特注して購入し送って貰っていた一キロ近い長さのストランド・ロープを、一切邸宅に勤務する者が引き払った休日に密かに私が山荘で佐橋から貰った邸宅内の地図を頼りに書斎へと行き順を探り探りして辿り着こうとしていた時、足元に置いて、再びラウンジに戻る時にはそのロープを頼りに歩いて行ったことを思い出していた。しかしこれからはそんな複雑でただ広い豪邸に住むことなどないだろうと私は思った。すると急に肩の荷を降ろした気持ちにもなっていた。確かに完全に清清しい気持ちというのにはほど遠かったが、それでも一年以上も替え玉をやり終えたという達成感だけはあったのだ。
 私はハワイ経由でバリ島へ向かい、現地に着いてからは、一度泊まるホテルへと向かい、そこで簡単な荷物(あまり多くの荷物はなかった。と言うのも山田に後は全て任せていたので、佐橋としての所有物の殆どをサンタフェに残してきたのだ。そうしなければ怪しまれる。だから後は預金だけを頼りに生活していく積もりだった)だけだったので、その荷物を置くとすぐ帰ろうとしていたホテルで荷物を運んでくれた現地人のポーターにチップを払う時、彼は未だ二十代の青年だったので、久し振りに若者と話すいい機会だと思って話してみると、そのホテルは日本人が経営するホテルだったのだが、彼は現地では豪邸に住まうアメリカ人、中国人、日本人のどの人たちの下で働くのがいいかと言うと、大抵の現地人は人使いの丁重な日本人が最も人気があるということだった。そのホテルと懇意のやはり現地人ガイドと共に民族音楽のケチャを聴きに行き、そこで暫くワインを飲んでから、海岸に行き、予めガイドに運ばせていた折り畳み式のビーチチェアに寝そべり暫く転寝した。
 再びホテルに戻ると、そこでテレビをつけ、株式市況に関するニュースを見て、スカイスレッダーの行く末を見守った。しかし考えてみれば一年以上前にはそんなことどうでもいいことだったのに、その時にはすっかり「私のいなくなった後の社」という発想で全てを見ている自分に我ながらかつての地味な翻訳家としての人生から百八十度転換してしまったことに対して不思議な気持ちになっていた。
 しかしバリ島にはあまり長く滞在せず、翌日にはすぐにタヒチに飛んだ。タヒチではゴーギャンの記念館で彼の絵を見ることだけを予定に組んでいた。しかしゴーギャンはその時の私がなっていた年齢までは生きておらず既に死んでいたのだ。そう長くはない人生を華々しく絵画制作に明け暮れて過ごした人生は長さではなく濃密な生の苦悩によってその命脈を保っている。そういう息遣いだけを絵画から感じることが出来ればそれでいいと思った。私は絵を見るのが昔から好きで、だからこそ伊豆倉のギャラリーによく訪ねたのだ。しかしギャラリーというところはある意味では定評のアーティストの安価な作品だけを置き、作品を物として捌くことが目的の場所であり、純粋に絵画を鑑賞する目的の場所ではない。要するにそれは鑑賞目的であれ、投機的目的であれその時に必要とされる絵画作品という商品を陳列する場所なのである。商品を陳列するということは、多分にそういう信頼出来る偽者ではない本当の作品を陳列することが可能であるというディーラーの手腕に対する誇示という側面もあるから、その信頼ある市場価値ある商品を購入することの出来る購入者の経済力の誇示との鬩ぎ合いの場所でもある。しかし美術館は違う。そこでは商品としての絵画を購入する目的で鑑賞者たちは訪れているのではない。だから逆に翻訳家としてつましい生活に甘んじていた頃の私は自らの経済力の誇示をどこかで充足するためによく訪れた伊豆倉のギャラリーのような空間よりは、かなり経済力を身につけた後のその時には寧ろ鑑賞することだけが目的の美術館に憩いを見出していたのである。
 意外とその美術館は内部が暗かった。そもそもアートの作品は強烈な灯りに弱いので、室内は暗く作品保存のために設定されている。しかし恐らく私が感じ取っていたゴーギャンの作品の数々に描かれた内容が私にある種の内的な暗さを私の心に呼び覚ましていたのだろう。そして外部に展開する海岸沿いの自然の底抜けに明るい空気感が、逆にゴーギャンの絵の内的な荘厳さとか精神的深度のある暗さを彷彿させたのだ。外気の肯定性が内的世界の否定性を際立たすということがあるのかも知れない。私はいつの間には彼の絵画の前で私自身の人生をゴーギャンのそれと重ね合わせていた。

Tuesday, October 20, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑨

 最後の一ヶ月間というもの、これで全てアメリカでの自分の責任は果たし、後は山田に任せると思うと、全てのアメリカでの生活がたった一年とちょっとだったにもかかわらず、懐かしく思えた。しかしいつものように過ごす必要があったので、私は一年ちょっと過ごした広大な邸宅の庭をいつもより慈しむようには眺めたり、手入れしたりすることもなかった。そもそも最初からプロの庭師を何人も雇っていた沢柳の仕方を引き継いだだけなのである。第一彼がそこに住んでいた当時どれだけ邸宅の庭を散策することを好んだかなどということまでは私は彼からは聞かなかった。散歩することもあっただろうし、終日書斎に閉じ篭っていたこともあるだろうとだけは想像し得た。
 しかし私は奇妙なことにもと言うべきか、それともやはりと言うべきかは分からないが、この二年とちょっとで私は自分自身の人生が極度に変わってしまったさえ思えなかったのだ。つまりこれはある程度人生というものに付き物の予定調和的な、想定された事態でもあるとさえ言えた。何故なら人生とは一度として同一の反復が出来事的にも、心理的にもないものだからである。次から次へと違う出来事と、違うその時々の、しかも二度と出会うことのない私の感情との出会いそのものが私の人生なのである。だから私がもしこのように経済的にはとんとん拍子で進行しない、例えば突如ホームレス生活を余儀無くされることがあったとしても尚私は人生とはそういうものだったのだと受けとめていたかも知れないとさえ思えた。私は恐らく二度と金城悟としての日常に未練を抱くことさえないだろう。と言うのもそもそもあの当時の私は生きても死んでもいなかったと言ってよい。しかし少なくともその後沢柳と出会い、一年後、アメリカで彼になりすましてからは、詐欺師として私は「生きてきた」ことだけは確かなのである。それは偽りの生き甲斐であり、偽りの活躍である。しかしそれ以前には体験することさえなかった毎日の張り詰めたあの緊張感とは一体何だったのだろうか?一人でするきつい業務である翻訳家にはない全く別の性質がCEO業務にはあった。それは集団内で自己の立ち位置を認識する必要を常に求められ、しかも自分自身でも確認する必要に追いまくられる日々だった。その心理的緊張とは、生きているとはどういうことなのだろうか、などと考える余裕を一瞬たりとも私には与えはしなかった。であるが故にいざその職から離れるとなると途端に私にはその日々とは一体何だったのかということを自問せざるを得なくなるのだった。

 私は誰にも悟られないように私が辞めた後のことを考え、今の内にしておけることはしておこうと決意し始めた。
その間に不思議なことに私の胸中に去来した最も懐かしい出来事と言えば、自分を本来の金城悟として認識したあの男古物商の飯島のことだったが(またあの男と会うことがあるだろうか?)、山田に引き継ぐことが決まっているその日が近づくにつれ沢柳本人に偽装した演技者として最後にし残しておくことが片付いていくに従って私の胸中に去来した最も懐かしい出来事とは沢柳に自分が採用される経緯であり、亡くなって結局私が全て采配を揮うしか方法がなくなってしまった当の本人沢柳という男そのものだったのだ。これはある意味では首相官邸や公邸を去る段となった首相が初めて自分が首相になった時に辞職していった前の首相の気持ちが理解出来るのと似たような気分だったのだろう。
 私は一つだけアメリカでの生活の最後の思い出としてそれまで一度もしてこなかったことを一ヶ月の間にした。それはサリーにだけ私が大切に作り込んできた盆栽を見せることだった。サリーにそれを見せたいと携帯でそう告げると、電話の向こうの彼女はひどく喜んで
「社長、今までそんなことまで気遣ってくれたことありませんでしたのに、どうなさったんですか?」
と不思議そうにそう聞いてきたが、その質問には他意などなさそうだった。
それにしても更に不思議だったのは、いよいよ山田と引き継ぐという段になって、最も自分が退いて後に残すものとして未練が残ったものはビジネスそのものでもなければ、サハシーが愛し、私に引き継いだヴェロニカでさえなかったことだ。勿論ヴェロニカとも最後の逢瀬を私は私自身最後のスケジュールの中に組み込んだ。だがそれとて私が全くひょんなことから沢柳から受け継いだものであり、私自身の意志によって望んで受け継いだものでもなかったのだ。勿論彼女とも楽しい思い出もあった。しかしやはりどこか私にとっては窮屈な思いも全く彼女との時間においては、拭い去ることなど出来なかったのだ。何しろ私はただの引継ぎなのだ。私は人の女を寝取って平気でいられるほど悪党ではなかったのだ。だから私にとって最も私が辞めた後どうなるだろうと心残りだったものとは、実は私が彼の業務一切を引き継いだ頃サハシーが何らかの思いつきによって始めたばかりだった盆栽で、私は勝手に彼沢柳の未練を斟酌して、それは豪邸の中に設えられた植物園の一画の棚に無造作に置かれていたものだったのだが、私が勝手に佐橋が考えていた当初のアイデアよりももっと手の込んだ一級品に仕立て上げてきたその作品だったのだ。私はビジネスがオフの時いつかエディー・レンディーを招いた時などに自慢しようと(結局、レンディーはおろかロメオスさえも招く機会を得ることを失したが)密かに手塩にかけて作りこんできたのだった。だからそれを最後に(勿論私がサハシーを演じるという意味で最後という意味だが)最も日頃からお世話になってきていたサリーにそれを自慢するという思いつきは私のこの二年間のサハシーとしての日々の決着としては自分でも幾分悦に浸れるものだった。
 サリーに私はある日夕食に招待したいと言い、彼女を私が作る料理で二人に共通の休日に招待した時にその場に連れて行って見せた。少し前にあった彼女の誕生日には実は彼女に私はバースデイプレゼントを渡していた。(と言うのも一年前のバースデイには沢柳に山荘で指南を受けていて、何か渡すどころではなかったからだ)プレゼントの内容は日本の博多人形だった。彼女は日本の風物とか文化に大変関心の強い女性だったので、それを彼女が私から渡されてつつみを解き中を見ると凄く喜んだ。だから私がアメリカを去る私にとっての最後の(しかし彼女らにとってはそうではない)サリーに対する奉公として私がその盆栽を見せた時もとても感心していた。サリーも私の日頃からの行動の逐一に世話をしてくれていたが、それはあくまでビジネスに限るものであって、勿論彼女は秘書なのだから、豪邸内の執事とか全ての関係者たち全員が休暇中に私がプールに水を入れっぱなしにしたまま、突然の電話やメールによって移動してしまい、水を出しっぱなしにしてしまったことを後で思い出した時とか、台所のガスの元栓を締めないまま出掛けたり、大広間の電気をつけっ放しにしたまま出掛けたりした時などに車で豪邸へと直行して貰い後始末をして貰うこともあるにはあったが、豪邸の一画にある植物園の中のましてや一画に設えられた棚に置かれた盆栽にまで見入ることなどは殆どなかったのだ。

Sunday, October 18, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑧

 ビルにだけは帰りの時間だけを告げ、それまではホテルで待機して貰うようにして、それ以外の一切のスケジュールは、予め日本支社での用向き以外は、誰にも知らせずに私は行動した。日本支社でのスケジュールなど小一時間くらいのものである。それ以外は誰も私の行動を監視する者はいない。そして支社での簡単な用を済ますと、ビルに乗せて貰って最後のアメリカでの仕事をするために戻るまで一日空いていたので、その間に山田の携帯に一年ちょっと前に私の車が来るのを沢柳が私を拾った同じ場所で彼を乗せて例の山荘へ赴くことにした。山田がどんなタイプの性格の奴か勿論関心はあった。私が全業務を引き継ぐことになる後釜である。要するに私以上に沢柳らしく振舞ってくれればよいのだ。私が辞めた後、昔の彼にまた戻ったねとさえ周囲に言って貰えればよいのだ。私も私なりにこの一年結構巧くサハシーになりすましてきたし、昔の彼と変わったねとは周囲から囁かれずに済んだ(少なくとも私の知り限りではだが)。だからそのように、あるいはもっと私以上に沢柳に似ていてくれる、似て行動してくれることが望ましいのだ。だからと言って私と巧く引き継ぐことが出来るくらいには私にも似ていてくれることが山田には求められている。
 果たして山田はそんなに不遜な態度の男ではなかった。私が車の中からあの時の沢柳のようにサングラスをして周囲に歩いている人たちに私と彼の顔が似ていることを気づかれないようにして見た彼の顔は、沢柳本人と言ってもいいくらいの出来(?)の顔の男だったし、礼節を弁えた態度で常に私に臨む男だった。私はサハシーが私にしてくれたのと同じことを山荘で、色々な資料を持って彼に話して説明した。特にサリーやビルたちのことを詳しく性格から癖まで説明して、彼らとは巧くやるように言いくるめることを忘れなかった。しかし私に対して沢柳がしたことで唯一違うこととは、山荘に行く時私と彼は既に何度目に会った時だったということである。私はいきなり全ての計画を前提に山田とその日に落ち合い、そのまま計画の詳細を告げるためにそのまま山荘に連れて行ったのである。その違いが私にとってどういうことを後に結果するかはその時には知る由もなかったが、全てを誰にも相談することなく決めることに意味があるようにその時の私には思えたのである。そうなのだ、もし沢柳が生きていれば、相談していただろう。しかし彼は最早この世の人ではない。だから却って私の独断が彼のやり方と違うということが彼に対する礼儀にもなるとその時の私は思っていた。
 山荘に山田を連れて行った四駆の車は沢柳が使っていたもの(それは恐らく彼が私と摩り替る以前から業務外の私的なことに使用していて、その使用をあまり多くの人は知らなかったのに違いない。だからこそ私を連れて山荘に行く時に使用したのだ。だから死ぬまでそれは私用で使用していたことだろう)と似たものを日本で密かに購入していたのだ。
 そしてその車から山田を降ろすと、私は彼を山荘の鍵をポケットから取り出し山荘の中に招き入れるや否や沢柳からかつて自分も今彼にしているのと同じようにここに連れて来られ、説明を受けたことを彼には気づかれないように心の中だけで懐かしんだ。しかし其の時の私の懐かしさに伴ってこぼれた笑みに山田はそこまで最初から自分の信用してくれているということと受け取ったことを私が説明する顔を眺め、喜びを表す笑みを浮かべて私に示した。彼は私にこう言ったものだ。
「沢柳社長、あなたの替え玉を演じられているなんて思いもよりませんでした。でもそんな光栄な役割を私如きが仰せつかうなんて今でも信じられません。」
 しかし私はその言葉を聴いた時今までの生活を捨てるということは、一年とちょっと金城悟としての生活を捨て他人になりすましたわけだが、事実上これからは、この山田にその業務と人間関係の一切を委ねて今度は再び金城の生活に戻り、その一年ちょっとの間に一切金城としての人間関係など築いていなかったし、仮に本当の自分に戻らなかったからといって誰も怪しみはしないだろうと思った。そして辞めた後もこれまでの収入だけでも十分暮らしていけるので、どうやら私は再びあの貧乏な翻訳家人生にまた戻る必要などなさそうだとも思い、もう金城として生きることを止めてどこか暮らしやすいいい外国で生活することをすることを考えていた。そう思うと、今度は再びこれからも他者を偽って生きていくということを引き受けるのだとぞくぞくした気分になるのだった。ひょっとしたら昔の知人とあのフリスコでばったり日本の伊豆倉の経営するギャラリーで知り合った古物商の男飯島と出会った時のように出会うかも知れないし、それだけではない、今度は私が沢柳として生活していた時に知り合った大勢の人の一人くらいと合うかも知れない。するとその時どのように今目の前にしている山田と自分の関係を誤魔化したらよいのか色々と考えあぐねだしていた。つまり私はこれからも最早あの頃と違って、全部を金城として生きることすら最早出来なくっているのであった。しかも沢柳が死去したことを知る者は私以外にもう一人いる、それが私に手紙を送ってよこした謎の男である。私はあの時私の背後にいて顔さえよく確かめられなかった男と奇妙な共犯意識を抱いてきていた。その共犯意識は、山田が今後私が彼にしたように彼独自にまた別の替え玉を用意しても尚、二人の間ではずっとどちらかが死ぬまで続くのである。沢柳が死んだ時私が全てを一人で決めることが出来るようになったのだが、それまではずっと沢柳がどう思うか気になっていたように。
 そして山田が私と同じ選択をするとしてもその時最早彼は私からの指導から一人だちして既に私からの指示なしに全てを決裁していることだろう。引き継ぎとはそのようなことを意味するのである。それは沢柳も一度は味わったのだ。そして山田は果たして私が沢柳になりかわってヴェロニカを愛したように巧くやりおおせるだろうか、そのことだけが気がかりだったが、ヴェロニカのことだけは最後に彼に告げようと、最後まで私は黙っていた。
 山田の履歴を調べて私は彼が独身であることを知っていたが、彼がそういう手管に通じているかどうかまで私は見抜く力はなかったが、もし彼が億劫に思えばヴェロニカに手切れ金だけを渡して私がずうずうしくも沢柳から女まで引き継いだようにする必要が絶対あるわけではない、それは山田が自分の判断で決めることである。
 つまり私はそのように彼を勝手に私の決裁を仰ぐことなくしてゆく可能性として選んだのである。そしてそれはある意味では決して間違いではなかった。私は一通り業務と、ビジネス関係のクライアントから、交渉の状況全てを彼に噛み砕いて説明して、彼が利発にも一を聞いて、十を知るような態度と反応であったことを悟り、予め彼に試用期間である旨を伝えてある一ヶ月の間私が沢柳から受けた一人で何も置かれていない部屋で数時間を過ごすだけの業務をこなして貰い、その後指定した日に私と彼に入れ替わって貰う手筈なのだが、それまでの一ヶ月つまり私にとって丁度一年三ヶ月の私の業務が終了する日まで、私は最後の仕事をしに再びアメリカに帰るのだ。しかし周囲にはその一ヶ月間の私の過ごし方が最後の一ヶ月であると悟られないようにしなくてはならない。私はあくまでいつもの通りの一ヶ月をサンタフェ等で過ごすのだ。私は山田には米国行きのチケットを予めインターネットで用意していたので、それを試用期間終了後に国際便で郵送し渡し、いよいよ、全てを彼とバトンタッチする積もりだった。そのような手筈が整ったので、彼を乗せた場所(あの沢柳が私を乗せた場所である。本来なら瓜二つの風貌の人間同士が四回もそこで乗り降りするのは不審かも知れないが、幸いそこら辺は一々そんなことを注視する人間などいない閑散としたエリアだったのだ。私はサハシーの遣り方を踏襲することで験担ぎをしたのだ)まで四駆に乗せてそこで下ろすと今度は私自身がビジネスから身を引き、金城悟としてでも、沢柳としてでもない無名の日本人として(未だ名乗る名前は考えてすらいなかったが)スカイスレッダーでの収益の一部によってリタイア後の私に当てられた報酬として生活するもう後一ヶ月という身近に迫った将来のことをビルのジェットに乗り込んだ私は想像していた。
 私はこの一年と少しもうこれ以上一生働かなくても通常人としては十分過ぎるくらいの収入を得ていた。それ以前の試用期間に何もしないでいたのに一年間高額の収入を得ていたことも合わせると多忙な翻訳家生活においては想像だにしていなかったが私は最早経済的な心配を地道にする必要などなかったのだ。だから少なくとも目立った行動だけを控えるのなら(沢柳を演じていた頃の私を個人的に知るビジネス外の人たち数人と私がどこかであのフリスコでのギャラリーで会った人とばったり会った時のようにいつ何時出会うとも限らない)十分生活は確保してゆくことが出来たのだ。だから私はいっそ日本を離れ、タヒチにでも住もうと考えていた。しかしその前に一度未だ一度も訪ねたことのないヨーロッパの名所・旧跡を訪ねるということも悪くはないとも考えていた。あの何もないオフィスビルで奇妙な試用期間を経た後、疾風怒濤の如きビジネスの日々を過ごしてきた私自身に対する労いの意味をも込めてヨーロッパの名所・旧跡でバカンスを過ごすのだ。
 調布の飛行場まで乗ってきてビルと約束の時間にビルと落ち合った後、その四駆は、近くの月極め駐車場に予め停めておき、再び今度は沢柳としてではなく、あくまでリタイアした替え玉として戻ってくる一ヶ月後には、私はそれで成田まで飛ばし、その無料駐車場に乗り捨てて、そのままヨーロッパに飛ぶ積もりだった。チケットは日本に戻る前に既にアメリカで手に入れておくのだ。
 彼を降ろして彼が一人で私とは別行動で例の部屋(沢柳に山荘で説明を受けた時、その部屋のあるビルも私は譲り受けていた)で何もしない試用期間を過ごすために一度自宅に戻る姿を認めた時のことを成田に向かうために私はそのまま彼とは別れた後で想起したものだったが、山田の表情は意気揚々としいていたようにその時の私にはそう思えた。そしてその時私は私に業務全部を引き継がせる時、故沢柳もまたそういう心持でいたのだろうかともふと思った。引き継がせ全てを辞して出て行く者の気持ちを私は初めて理解した。

Thursday, October 15, 2009

<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑦

 ネルソンとリッチモンドが率いる製薬会社Kとの広告戦略における提携と、今回のズームアップ社との提携だけは完全なる私の裁量によるものだった。勿論そのゴーサインを、つまり私の裁量を許可してくれたのは今は亡き沢柳である。しかしこれからはずっと許可なく私による裁量だけで全てが決定される。だから当然ヘマをすれば、大勢いる株主たちから突き上げられるだけである。
 案の定、ロメオスと私の目測通り、エディー・レンディーが数ヶ月前に一線を退き、しかし院政を敷いているところのミューズソケット社は追い詰められて、とうとうそれまで公開してこなかった企業秘密である広告制作ソフトの製造方法を世界に対して自由検索するように決定し、何とか一命を取り留めた。ここ数年ずっとエディーが世界一の資産家であったものの、後一歩というところでシューズデザイナー社のロメオスやズームアップ社のサム・ジャクソンたちによって追い上げられてきているというのも事実だった。それに加えて中国のIT企業である孫分がそれらに対抗すべく接近していた。ジャクソンと私とロメオスは私が沢柳当人の死の知らせを私が受け取ってからほどなくして会見し、合議し、三社分配方式による新企業設立という形で合意した。
 ミューズソケット社からの今後の報復だけは油断してはならないことの一つだったとは言え、それまでネックになっていた企業規模拡大と、収益に関する目下の悩みはロメオスを軸とする私たちとジャクソンたちとで合弁する新たな企業設立によって三分配方式による元の企業、つまりズームアップ、スカイスレッダー、シューズデザイナーに対して等価収益を上げることが決定されたことで、各々の企業カラーを失うことなく、それでいて新基軸によって個々が刺激を得ることが出来るという理想的な形で落着した。
 ビジネスというものは不思議な代物だ。いったん巧くことが運んだ時には、まるで最初からそういう風に決まっていたかのように誰もが信用するし、私の手腕を絶賛する。しかしいったんそれが破綻すると、どんなに努力してきても、どこか手腕そのものが振るわなかったのだと決め付けられる。だから私は巧く行っている時には、サリーもビルもトムも、マイクもヒーリーも全員私の周囲にいる面子の全てが私に対して協力的であるように思える。しかしそれは巧く行っているということが齎す偶然的な恩恵でしかないのだ。だから却って巧く行き過ぎると誰も私の相談を真に受けてくれるような人はいなくなる。そういう時にもし私が何か相談を持ちかけて真摯に受け答えしてくれる人がいるとしたら、そういう人は稀有な人だ。だがそういう人が苦境に陥った時に助けてくれるとも限らない。だからと言って私は全ての人に疑いの眼を向けることも出来なければ、全ての人を信用することも出来ないできている。要するに他人を当てにすることは憚らねばならないが、他人なしに事業を推進することは出来ない。しかし私はニセモノなのだ。だから引き際を常に考えてきていた。要するに辞め方である。しかし辞め方も沢柳が生きていれば彼に相談することも出来たし、彼が望むのなら人手に社全体を渡すことすら選択肢としてあっただろう。しかしいざ彼がこの世からいなくなったのだとしたなら、私は私の裁量でそういうことをしてもいいのだろうか、と考えるようになった。私のこの社での最後は彼の最後として記録されてしまうのである。つまり私が彼から引き継いだからこそ彼は死んだのかも知れない。ならば私が今のこの身分がうんざりして辞めたいと思っても尚、私が彼の替え玉であることは死んだ沢柳と自分しか知らないのだから、私が彼と入れ替わらなかったというケースで最もあり得る展開としては、沢柳本人は許す限りいつまでも生きて今まで通り経営を続行するという世間に対する認知の持続である。
 ボードミーティングや株主総会といった全てをここ一年私は恙無くこなしてきた。しかしそれは世間で通っている沢柳静雄、サハシーによるものであって、私の采配ではない。世間の認知自体を例えば私がリタイアするというようなことをもって勝手に変更することというのは、これまで彼による計らいで私が恩恵を受けてきたことに対する一種の裏切りに他ならない。だから私は私が辞めたい時には私と沢柳にそっくりなもう一人の替え玉を用意することを大分前から考えていた。ただ私にもこの業務に邁進するようになってからの私、つまり金城悟としての未練というものも多少はあった。だからそれだけは残さずに次の奴にバトンタッチしたいとこその頃ずっと考えていたのだ。
 結局私はなりすまして二年目に突入してから、次に自分の業務を引き継げることの可能な私と沢柳と瓜二つの男性を探すことを終日考えるようになっていた。そして私と沢柳の契約にとって、私が彼の替え玉を適切に選びバトンタッチすることこそが彼に対する報いであり義務であると考え、ある日、ある困難な英文の中にラテン語やギリシャ語がしばしば登場する10行くらいの英文をブログに載せ、適切な回答をした者だけがクリックして進むことの出来る広告を私は作り出した。勿論クリックした者の中で私が提示した一ヶ月何もない部屋で何もしない業務をすることを示し、東洋人に限るという触れ込みで使用期間就職希望者は上半身写真を添え、身長と体重、そして経歴とメールアドレスも明記するように指示するように目論んで作ってネットに乗せた。
 すると一週間後に千人くらいの正解回答者がいて、その回答者の中から更に私に似た風貌の者を百人厳選し、その中から更にその者の性格を判断するために選ばれた百人に新たな問題を課した。それは孤独に強いことが証明出来るような「もし~が起きたら自分はどうするか」とい質問に対する簡単な作文だった。私はその百人の中から特に私が関心を抱いた回答者で私と沢柳と風貌のそっくりな者三人の中から(当初別に日本人でなくても仕事はアメリカでするのだから東洋人であればよかったのだが、結局全て日本人だけに絞られた)、最も孤独に強そうな文章を書いてきた者一人に面接しようと思い、その旨メールで知らせた。私が指定した日は翌週の日曜日であった。勿論アメリカでは会わず、サハシーから引き継いでいた日本の山梨県の山荘(私はその課題を出す時に、沢柳と同じ遣り方をするつもりだったのだ)で会う約束をした。その男は風貌は私そっくり(と言うよりサハシーそっくり)だったし、何より英語の堪能さはオーストラリアの外資系商社勤めだったことで保証つきだった。
 私は日本へ行く用を作った。それはもう予め決定している事項についてではなく、新たな私の後任の替え玉が仕事しやすいような手筈を整えるために、敢えて全くサリーにもヴェロニカ(尤も彼女とは肉体関係があったので、そう簡単に私は引継ぎをするという心持ではなかったが、沢柳さえ私に彼女との関係さえ譲ったのだ。私とてそうしないなんて全く潔くないと思った)にも、その他トムにも一切私が辞め、他の引継ぎが継続して業務を遂行するという感じを持たせないように配慮して、いつものように振舞ったし、今回の日本行きは私用であるということで、沢柳も一年の間に数度そのようなお忍びの帰国をしていたようだから、私もそれに習ってビルに彼との最後のフライトをさせた。要するに、引継ぎに円滑に私の業務を行えるように私が一年してきた業務内容と、後任者が私の辞めた後、即座に人間関係を滞りなく捌いていけるような資料作成と、彼自身に会うたの帰国だった。
 私はビルのフライト一昼夜自家用ジェットで飛び、調布の飛行場で降り、そこでビルにホテルで待機しているように指示し、近くで借りた乗り捨てレンタカーで私を沢柳が乗せた場所に赴いた。今回は私と沢柳が最初に会ったレストランでの会見という面倒くさいことを一切省くために、私は採用することにした男にだけ最初から沢柳と違って、最終的に自分の替え玉になる、ただ自分もまた以前の本当の彼から業務を引き継いだ偽者であることだけは隠蔽し告げず、影武者同士の引き継ぎということだけは隠して自分「沢柳」からの引継ぎという目的を予め採用者の彼に告げ、忍耐力を通して偽者としてなりすます適性を試すために何もしないで部屋にいる仕事を一ヶ月に縮小して行わせることまで告げて全てを形式的にあまり時間をかけずに引き継ぎをすることにした。それが故・沢柳に報いる恩だと私は思った。(しかし結局それが裏目に出ることとなったのだが)一ヶ月後とは、私が着任してから丁度一年と三ヶ月後の期日だった。それから後私は私自身の采配によってその後私が一切働かなくても十分飯だけは食っていける晩年の本人サハシーのような余裕ある老後を送ることが出来るのだ。私は日本に赴く前に既にその例の部屋での何もしないで過ごす試用期間からその後のスケジュールまで全て細かく事情を説明したメールをパソコンで送っていた。相手はいささか面食らったと言ってそれでも引き受けるというメールを私はその男からその後受け取った。男の名前は山田三好といった。でも私は彼に試用期間前に一度は会っておく必要があると思って、沢柳が私に細かく指示するために使用した例の山荘を使うことにした。(私はその山荘をあの時彼からプライヴェートな使用のためのものとして引き継いでいたのだ。)
 つまりあの時と今回との違いとは、要するに最初に沢柳が私を試してその後で色々細かいそれまで試してきた理由と今後の対策を私に話し指示したのと違って、完全に最初からこちらの意図を全て包み隠さず告げてから、試用期間に突入させるという私流のやり方だった。しかも試用期間中の彼の何もない部屋での振舞いを私は一切ヴィデオでチェックすることもしないことにした。(これも全く私の独自の判断だった)つまりその業務が終わったら、自動的に私の後任者がそのままサンタフェの本社で勤務出来るような手筈を既に私は整えていた。
 私が何故そういうやり方にしたかと言うと、長期間変梃りんな業務をさせて、しかも高額の報酬を彼に与える時間的余裕、つまり私がその間気長に私の後任に相応しいガイであるかどうかという判定をする間、私は沢柳の替え玉として私の後任にとっては沢柳として依然以前のように振る舞い続ける必要があったわけだが、そのようなことは精神的に耐えられない気がしたからである。私は私が本当のサハシーであることを山田に信じ込ませるだけで精一杯だったのだ。
 沢柳は自分の替え玉を見つければよかった。だからあのように私を妙な業務に一年間もつかせ、万全を期すということには意味があったろう。しかし私は違う。何せ、私は私の替え玉ではなく、沢柳の替え玉を見つけるためにそれをしてきたのだ。私は私を選んだ故・沢柳と違ってオリジナルではない。コピーがコピーを選ぶ場合オリジナルに忠実でなければならないから、私は私にではなく故・沢柳に最も似たと思われるタイプの者の中から厳選して後任のサハシーの替え玉を決定した積もりだった。私は私らしさを替え玉としてやり切る後任者ではなく、あくまで私が替え玉を演じ続けた当の故・沢柳(勿論私にとってだけであるが)の替え玉を辞めていく会社に宛がって行く必要があったからだ。もしそれが功を奏せば、周囲は沢柳を中心に私が演じた頃のサハシーと私の後任の替え玉が演じた頃のサハシーを勝手に脳内で結び付けてくれるだろう。しかし私によく似ているガイを私が選べば、きっとサハシーそのもののイメージは徐々に変化していき、本当のサハシーが業務をしていた頃と私の後任の替え玉が業務をこなすこれからを同一性としては認識出来なくなるだろう。しかも私は私としてではなくあくまで沢柳としてその山田に会う必要があったのだ。だからこそ沢柳が私に施した悠長な試用期間を私が同じように耐えるということは私の精神的忍耐の限界としてあり得なかったのだ。(しかしそのことが結局私の首を後で絞めることとなったのだが)つまり私にとってその山田という男との秘密の会合とは私にとって最後の沢柳としての演技が試される場だったのである。