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今日こそ景気の底打ちをするかするかと連日マスコミは世界同時不況を告げていた。だから当然マスコミはスカイスレッダー社とミューズソケット社との間の交渉とかそういうニュースは差し控えていた。私の中から徐々に替え玉CEОだったという意識は薄らいできていた。私は島田から話を持ちかけられた兼杉の依頼を引き受けたことにより、シンガポールに滞在するということを一切誰にも知らせずメールに送信してくるということだけを伝に兼杉による紹介だということで(兼杉はそれだけ人望のある古物商であるということがそれで判明したが)幾つかの翻訳を引き受けることとなり、金城悟時代の職能に関するアイデンティティーを取り戻しつつあった。
今回の世界同時不況は世界中のどの専門家も予言することが出来なかったということが最も深刻な事態であることを世界中の人々に自覚させた。とどのつまり専門性というものは予測のつかなさ自体を常に孕んで全てが進行している。その予測のつかないことに対して予測のつく範囲でそれ以上の悲惨を招かないような措置をとることだけが残された望みということになる。要するに最悪の事態に対してただ右往左往するだけでいることだけを避けるということが専門家やトップの人間には求められる。
しかしそういう不安が世界を覆っていた頃私は次に引き受けた翻訳の仕事が比較的経験のある方である企業内の倫理に関する経営者向けのマニュアル本一冊の翻訳だったので、須賀から再び春も酣の五月の連休に再び京都で前回のような集いを持とうという申し出に対してメールで私は再び参加する旨を伝えていた。また学生旅行的に高速バスで行って、丸々二日古都の赴きを楽しもうと思った。
しかしそんな矢先、私の携帯に久し振りに連絡が入った。山田にしか教えていなかった携帯から電話があるということで即座に私は山田からのものだと思ったが、携帯を耳に当てると、その声は明らかに山田のものではなかった。
「私はあなたに初めてご連絡申し上げる者です。」
と言った。私はいきなりのその言葉にいささか面食らって
「私は郷田守ですよ。それをご存知なのですか?」
と質問すると向こうは
「ええ、存じております。」
と言った。私は郷田守としては俳句の仲間にしかその身元を明かしていなかった。つまり金城悟として自分の携帯のアドレスを知っているのは山田と沢柳だけな筈だし、まして沢柳としての自分を知っているのは沢柳だけである。郷田守としての私の電話番号(以前の金城悟としてのマンションの電話番号)を教えているのも俳句仲間たちだけである。一体誰だと言うのか?
「私のことをさぞかしご不審かも知れないと存じますが、私はある方からあなたにお伝えしたいことがありまして、その方に申し付かってこうしてお電話差し上げているんですけれど、電話では何ですので、一度お会い出来ないでしょうか?」
といきなり切り出したので
「あなたお名前は?」
と私が聞くと向こうは
「これは失礼致しました。私は島津と申します。」
聞きなれない名前だった。しかし私の携帯アドレスを知っているのは沢柳だけの筈である。と言うことはある方とは必然的に沢柳ということになる。そこで私はただの電話ではないと察知して
「実は場所はお教え出来ませんが、私は普段日本にはいないのです。今もそうです。そこで来月京都で出る予定が御座いまして、その折にお会い致しましょうか?」
と敢えて沢柳のことを言及することを避けて提案すると向こうは
「よう御座いますよ。そう致しましょう。実は私も日本にいつもいないし、今もそうなんです。」
と言った。私は益々相手に対して抱く気持ちに心がざわついたが、こういう時におたおたしないでいるということが替え玉CEО時代以降に身につけた私の知恵だったので、私は冷静さを装って
「日時は既に決まっているので、お教えしますよ。その日の細かいスケジュールも決まっていますので、皆で取る昼食時にちょっと抜け出してお会い致しましょう。」
と私は言って、五月二日ということと俳句仲間と共に昼食を取る御苑のレストラン付近にある地下鉄の駅の改札口を指定し、正午に会おうと言った。すると向こうは
「分かりました。」
とだけ言って切った。
その日以来私の気持ちはどこか落ち着きのないものとなっていったが、沢柳のことだから、あるいはまた以前の自分の地位に戻りたい、しかしその時既に自分のポストは山田に乗っ取られているので、そのことに対する非難かとも思った。しかしあの時モンサンミッシェルにおいて私を非難することなく別れたのだから、それもよく考えるとおかしかった。そもそも彼が私に対して生きているのに死んだことにするなどという手の込んだことをしたということが端を発して私による山田の選別を招いたのだから、今更私自身が糾弾される言われはない筈だと私は自らの心の動揺を何とかして振り払おうと思念を反復した。
その時期の私はすっかり久し振りに文学的香りを味わった兼杉依頼の翻訳をしていた頃の気分をしまい込んでいた。勿論引き受けた企業内倫理のマニュアル書自体は金城悟時代に何度か引き受けたこともあったので、さほどそういった心の動揺に左右されることなく私の脳は一方でしっかりと業務を執り行う体制にあったと言ってよい。しかしそのことが逆に不安を一層駆り立てもした。
だからそろそろ四月も近づいてきていたので、向こうから連絡がある筈だと思っていた山田の声を携帯で聞いた時には少しほっとした気もした。山田が
「そろそろ私の契約期限も切れるんですが、どうしたらよいのでしょうか?」
と質問してきた時私は既に彼に全てを続行して貰いたいという気持ちを持っていたが、ではもし沢柳がカムバックしたいということが島津と名乗る男による伝言であるなら、そう軽はずみな決裁を今するわけにもいかない。私は暫く考え込んでから
「一度お会い致しましょう。」
と言って、それなら一纏めに京都行きの際に会うのがよかろうと思って、二日目である三日正午に再び須賀たちと訪れることとなっている広隆寺本堂(広隆寺の近くのレストランで広隆寺を拝観する直前に二日目の昼食を取ることになっていた)を相手に指定した。少し時間が遅れることでもあれば私の方から山田に彼の携帯に連絡する旨も伝えた。すると山田は
「分かりました。」
とだけ言って切った。
島津と名乗る男と、自分が選んだ後継の替え玉山田と会う期日が徐々に近づいてきていた。島津からはきっと沢柳のことが聞けるだろうと思ったし、日々不況風に晒され、経営陣たちが自家用ジェットで会議に出席したことや、高額なボーナスが支払われたことがアメリカ国内でも大きな社会問題と化していた時節私は果たして山田三好が巧く切り抜けていけるか実は辞めた人間であるから関係がないとは言え心配だったのだ。しかし意外と私は二人の次々と会う次回の京都行きの前に締め切りが迫っていた翻訳に打ち込めることが出来て、ようやくニセモノから本来の自分に回帰してきていることの実感を取り戻し、日々摩り替わった犯罪に加担していることから来るストレスから開放されていた。その二つの興味は私の仕事を寧ろ後押ししてくれたのだ。
しかし同時にサンタフェの夕日が懐かしくも感じられた。何故だろうと思ったが、その理由は世界が虚構めいて見えるという実感の上で砂漠も原野も林立するビルディングも全てが虚構めいたアメリカという国の持つ仕掛けであるが故の白々しさが逆に本当の自然である夕日を美しく映えさせていたからなのだ。しかし京都もまた仕掛けである。巨大な歴史という仕掛けなのだ。ただ私たちが日本人として、日本語の世界に生きるという現実がそれを仕掛けから開放しているかのように錯覚しているだけのことである。
京都行きの前日私はこの前とは違って新宿発の方の高速バスを予約して、乗り込んだ。この前は成田から東京の直行してそのまま行く積もりだったので東京駅発の便を予約したのだが、私の金城悟としてのマンションに立ち寄ることとなって寧ろ態々東京駅まで行くのが面倒だったので、今回はもう京都のマップを買う必要もないので新宿発の便にしたのだ。京都に行くのはこれで四度目だった。中学校の時の修学旅行が京都と奈良だったのと、社会人になってから建設関係の仕事で行ったことがあるからだ。しかし京都タワーは未だその頃にはなかったが、三回目の京都行き(つまり俳句の仲間に会うために行ったこの前の)において初めて目にしたのだった。京都は兎に角駅前が激変した。
そろそろ初夏の風が匂い立つ頃合の京都の早朝は未だ肌寒かったが、高速バスで早朝京都駅に到着した私は適当に駅周辺を散歩して、地下鉄の待合所のようなベンチに腰掛け、昨日買っておいた弁当を食べ、八時半に須賀をはじめこの前と同じメンバーで待ち合わせた地下鉄東西線の京都市役所前駅の改札口まで向かって皆がほどなく揃うと、今回は河原町三条に沿って歩き橋を渡って鴨川沿いを歩いた。そして北上して平安神宮、そして御苑に行った。そこで以前と同じレストランに入る前に私は予め京都に住む知人と昼食時だけ会って話がしたいと今回も発起人である須賀にメールで知らせてあったので、他の五人から中座して、そこからほどない所にある地下鉄烏丸線の丸太橋駅の改札へ向かった。約束の時間は十二時ジャストだ。
改札脇で待っていると私に接近してくる帽子を被った壮年の、しかし意外とがっしりとした体格の男がいて、その男は私を見る一目で分かった(彼が沢柳の関係の者であるならそれは当然だ)らしく私に向かって
「沢柳さんでらっしゃいますね?」
と言った。私は即座に
「私が沢柳ではないということをご存知なんでしょう?」
と返すと彼は被っていたフェルト帽を取って禿げた頭を下げ
「いやあ、そう言って頂ければ話が早い。私は本当の沢柳のボディーガードだった島津と申す者です。彼があなたに摩り替わるまでね。」
私はそれに対して
「私は本名は金城悟です。今日も今まで一緒だった俳句が趣味の集いの間では本名郷田守ということにして、俳句の名前は河野散見と称しています。」
すると島津は
「ほほう、俳句をなさっていらっしゃるんですか?」
と聞き返してきたので私は
「ええ、まあ下手の横好きですが。」
と言ってから、彼の声は小さかったが周囲の眼を気にして続けて
「どこか近くのカフェかなんかで話をしませんか?」
と言うと
「そうですね。」
と返答し、私はそこら辺にどんな店があるかは全く知らなかったが、さもよく京都のことを知っているかのような足取りで彼を後ろに歩き始めた。
地上に出ると、すぐ傍にファーストフード店が見えたので
「そこでいいですよね。」
と島津に言うと彼は首を縦に振った。
店に入ると私はフライドチキンとコーヒーを頼み、続けて島津も同じものを頼んだ。そして少し待っていると食べ物と飲み物が出され、それを持って二人は二階に足を運んだ。すると殆ど誰も座っていない窓から外の景色が眺められる席に腰掛け
「沢柳さんはどうしていらっしゃいますか?」
といきなり質問すると島津は少し眉間に皺を寄せて
「実はつい先日沢柳社長はお亡くなりになったんです。」
と言った。私はその言葉を聞いた途端、以前も同じように自分が死んだということを私に告げたが本当は生きていたので、訝るような口調で
「それって本当のことなんですか?」
とそう尋ねると島津は
「以前のことは私もあなたに謝罪致しますよ。あの時中華料理店であなたが来られることを社長に仰せつかって確認しに来たのも私なんです。」
と応えた。暫く私もまた眉間に皺を寄せて考え込んだような表情を相手に見せてから私はふと思いついたように
「全く手の込んだことをして下さいましたよ、そもそも替え玉になるっていう依頼そのものが非常識だっていうことに重ねて、本人が死ぬなんていうのも。だから亡くなったって言ったって、俄かには信じられませんね。」
と少し突放すようにそう言うと
「あなたのお気持ちはよくお察しします。あの時は確かに本当にあなたが彼が築き上げた事業を継続してやって頂くには相応しい方かどうかを確認する上で非常識であることを省みず戦略的にさせて頂きました。ですからこの場をお借りしてあの時の非礼を謝罪致します。」
私は仕方なく納得するような表情を見せて
「しかし、亡くなられたっていうのはどういうことですか?私と殆ど同年齢ですから未だお亡くなりになるには少し若いんじゃないですか?」
と訝しげに聞くと
「そうです。事故だったんです。あのメールの時には嘘をついていたスキンダイヴィングを本当に社長はお始めになられて、熱中しだして、ついに先日慣れない深度のところまで潜って行って、途中で足を海草に絡み取られて、酸素ボンベの酸素も尽きてしまって亡くなられたんです。」
と私に報告した。
「あなたはそのことをどうやってお知りになられたんですか?」
と私が更に質問すると彼は
「ええ、実は私はずっと沢柳さんのご贔屓もあって、お付き合いがあったんですよ。」
「フランスにお住まいでらっしゃったということですが、フランスまで行かれたんですか?」
と私が聞くと
「ええ、社長の裁量で私も近くに住むように手配なさったんですよ。沢柳さんは話し相手がずっといなくて寂しい方でしらから、せめて自分の配下の人間で信用出来る人間を一人くらい自分の傍におきたかったんでしょう。それに・・・・」
と一気に告白した後島津が途中話を止めてしまったために私が先を促すように
「それに何ですか?」
と言うと納得したように
「私自身壮年になってから彼に仕えたんですが、人間的に沢柳さんが好きでしたので。」
と続けた。私が
「でも、僕なんかにCEОを続けさせてもし僕の方が先に死ぬようなことがあった時はどうなされるお積もりだったですか?」
と質問すると
「ええ、そういうこともあり得ないことではないけれど、そうなったなら、自分自身が死んだことになっても構わないとそう仰ってましたね。」
と明確な口調でそう返答した。島津は結論づけるような口調で
「ですから、ちょうど今から二週間くらい前に私の自宅に早朝警察が訪ねてきて∧あなたのご友人が今朝海岸に引き上げられた∨と報告してくれたんです。どうも明け方に海に出掛けたみたいなんですね。私の方はいつも朝九時くらいには彼の自宅に訪問する習慣になっているので、その日も朝七時くらいに起きて朝食の用意をしていたところに警察が来たんです。」
と言った。私はその時沢柳のことも気にかかっていたが、寧ろこの島津という人間の生き方の方に関心を持ち出していた。そしてつい
「ところで島津さんは沢柳さんよりも大分お年のようでらっしゃいますが、ご家族もおありでしょうに、どうして沢柳さんと一緒にそこかでついて行かれたんですか?」
と聞いてしまった。しかしそれを聞いて非礼だと気づいた時には既に遅かったが、しかし島津は一切厭な表情一つ見せず
「いえ、私には家族はおりません。沢柳さんと同じです。若い頃一度結婚致しましたけれど、すぐに離婚しましてそれ以来ずっと一人者を通してきましたので、沢柳さんの孤独を理解することが出来たんです。」
と言ってからややあって
「でもそれは金城さんとて同じじゃありませんか?」
といきなりこちらに聞いてきたので私は一瞬慌てふためいて
「ええ、まあそうかも知れませんね。」
とお茶を濁した。
二人は暫く沈黙した。するとその沈黙を破ってこちらから何か聞こうと思っていると向こうがそれを遮るように 「でも、人生っていうのは全て出会いも別れも偶然ですね。」
と言い出した。それに対して私が
「それは私と沢柳さんが瓜二つだっていうことですか?」
と尋ねると島津は
「ええ、それもありますけれどね。でも何か責任を追及されることがあったとしても、自分がたまたま失敗する上司についているか、それとも入社試験に落第するかでそういうことも決まりますよね。」
と言った。私がそれに妙に納得したような表情を見せると島津は 「私は色々な本を読むのが趣味なんですけれど、例えばナチスは戦後その責任が追及されましたけれど、ナチスに入党した者全員が初期悪いことをしようという気持ちではなかったみたいですし、あるいは上官の命によって収容所に派遣された者の中にはユダヤ人をガス室に送り込んで死刑を執行する役目から逃れた者もいたそうですよ。でもその人を匿っていたのも元収容所に収容されていたノルウェー人だったらしいですが、もしユダヤ人の収容者で処刑された人の子孫がその人に会ったなら、俄かに許すという気持ちになったでしょうかね?」
とやや哲学的な質問を仕掛けてきたので私はいささか面食らって
「そういう難しいことをいきなりおっしゃられてもねえ。」
と訝しげな表情を浮かべて俄かに返答出来ないことを誤魔化した。
「つまり悪い集団にたまたま属していたなら、かなり善人でもその悪い集団から酷い仕打ちを受けた被害者はその者を悪人だと思い、その者は罪の意識に責め苛まれるんですよ。逆によい集団に属している悪人は、ただ自分が属している集団の善良さによって本来なら告発されるかも知れないようなことをしていたって、周囲の人間の善良さによってその罪を免除されることだってあるっていうことですよ。」
と島津は言った。しかしその内容は確かに一理あると私は思った。
「つまり人間が立たされている状況全ては偶然的なことであり、その偶然
的なことがその人間の評価をかなりな部分決定してしまい、後はどうすることも出来ないということがあるんですよ。」
と更に続けた。そして徐々に話すスピードを落としながら
「ここにこうしてあなたと居合わせるということもまたほんの偶然的なことなのですよ。だって私が沢柳さんと知り合ったから、彼が社をアメリカに立ち上げた時に私が丁度前にしていた仕事のけりをつけるために渡米していた時ボディーガードのオーディションを受けてどういうわけか沢柳さんに気に入られて採用されたからこそ今こうしてあなたと話しているんですからね。」
そう言った。その時私はその言葉の意味を俄かには理解出来なかった。
しかし私にはその言葉とは別にどうにも解せないことがあったので、それを聞いてみることにした。
「でも島津さん、一つお聞きしたいんですけれどね、私は既に後釜に全てを託して、今は沢柳さんに頼まれたことを継続してはいないんですよ。そのことは私、既にあなたも沢柳さんからお聞きになられていると思うんですけれど、モンサンミッシェルで偶然お見かけして沢柳さんに告白しているんですけれどね。何でそれなのに私に会いに態々来られたんですか?」
すると島津は
「分かっています。モンサンミッシェルであなたとお会いしたことは伺っています。ですから仕事的な義務としてではなく友情としてですよ。」
と言った。しかし一瞬ではその意を測りかねて
「仕事的な義務ではないと仰ると?」
と聞き返すと島津は
「沢柳さんっていう方は仕事に関しては冷徹な型だったけれど、人を見る目に関しては確かなものを持ってらっしゃいましたからね。つまりあの方はあなたを人間的にとても好きで、信頼されてらっしゃったんですよ。」
と言った。
私はその言葉に嘘偽りがない様子を島津の顔色から読み取ったが、あるいは失礼かも知れないが、どうしても島津の前歴への興味を拭い去ることが出来ず聞いていた。
「前の仕事のけりって一体何ですか?」
すると厭な顔一つせず島津は
「私は若い頃プロレスラーを目指していて、実際一回はプロになったんですよ。しかし地方巡業の際に高速道路で私たちを乗せた車の運転者が脇見運転をしていた時、対向車線にカーブを曲がりきれずに、対抗する車を正面衝突をして、私はその時腕と足を痛めたんですよ。隣に座っていたもう一人の白人のレスラーはその時頭を強く打って亡くなりました。結局私は腕と足という商売道具を傷めたものですからプロを引退して、結局アメリカで射撃の練習をして、合気道とかも一応見につけたんです。勿論プロレスラーを諦めなくてはならないくらいの怪我だったので、プロとしてではなく護身用としての作法だけは身につけておきたかったんです。だってそういう世界で生きてきた人間がいきなり全く違う業種に鞍替えすることは困難ですからね、幸い反射神経とか身のこなしそのものは現役時代からのものを失っていなかったですからね。その時亡くなった白人のレスラーの奥さんが私の日本にいた頃からの知り合いの日本人の女性で、私とタッグを組んでいた相方だったものだから、独身時代に来日した時に私が彼女を紹介したんですよ。それで二人は結婚することになったんです。でも彼の亡き後彼女は日本に帰国することなくアメリカで彼と共に暮らしたテネシー州に今でも住んでいるんです。」
なかなか泣かせる話だと私は思った。しかし最初に見た時にかなりがっしりとした体格であることの理由がこれではっきりした。
最後にどうしても私は聞きたいことが二つあったので、尤も私は一切どれくらいの時間を共に語り合うかなど相手に聞いて会う約束をしていたわけではなかったが、相手にもそれ相応の時間の制限があるだろうから、一番聞きたい質問を最後に残しておこうと会う前から決めていたのだが、それを聞くことにした。
「ところで本当にお亡くなりになった沢柳さんが私を人選して実質上のリタイアをなさった理由とは一体なんだったお思いでいらっしゃしますか?」
すると暫く思案するような表情を見せて島津は
「私も完全には理解しているわけではないのですが、金城さん宛の手紙にはどう書かれてありましたか?」
と逆に聞き返してきたので私は
「いやあ、ただCEО職っていうのがプライヴェートな時間なんて全然ないからとしか書かれてありませんでしたのでね。」
と素っ気なくそう応えると島津は
「まあ、それは本音の一部でしょうけれど、結局あの方は自分で作り上げた組織が一切自分の手だけでどうすることも出来ないくらいに肥大化してしまってきていることに耐えられなかったんだと思いますけどね。だからこそ恐らくあなたにも一々指図をなさらなかったでしょう?」
と言い私に確認を求めてきたので私は
「そうですね、一切何も仰らなかったですから、結局製薬会社Kの件なんかは私の一存で決めさせて頂きましたし、シューズデザイナー社とズームアップ社との件もそうだったですね。」
すると島津は
「でも今の替え玉さんは現況の世界経済情勢も手伝っていますが、なかなか苦闘なさってらっしゃいますね。」
と言った。その時どうしてだか私も自分で自分が意外だったのだが、つい
「ところで今の替え玉さんの名前は何て仰るんですか?」
という島津の質問に私は
「山田さんです。」
と教えてしまった。そしてあろうことか
「明日、その私が選んだ替え玉と同じ京都の別の場所で会うことになっているんですよ。」
とまで告白してしまっていたのだ。しかしその時不思議とこの島津という男にはそういう立ち入ったことを話しても大丈夫だという私の直観が働いたのである(尤もそれが私の運命を決定的に変えたのだが)。しかし私は何故沢柳が会社経営のゲームから降りたかということに関して一応確認しておきたかったものの、本当は沢柳の気持ちが自分で替え玉を一年ちょっとしてみて骨身に沁みて理解出来ていたのである。つまり本当に真実だけを追い求めるのであれば、超ビッグなIT企業のCEОなどやっていられないのである。
だが次の質問はある意味ではその男島津に対しては私から彼に向けられた一番核心的質問だった。
「では何故島津さん、あなたは私に会いに態々私が指定した京都くんだりまでいらっしゃったのですか?」
すると島津は
「そうご質問なさるだろうと私も思っていました。それはね、金城さん、つまり私が一番惚れ込んだ私より若いが私など足元にも及ばない凄い方が態々お選びになった方があなたですからですよ。」
そう返答する島津の瞳はしかし決して世辞でそう言っているのではない真剣さがあった。その時私はふと山田を選んだ時私はそこまで真剣に考え抜いた末の決断だったか少し自信を失いそうだった。
しかしそれもある程度翌日に彼と会うこととなっているのだから理解することが出来よう、そう思った。
私はつい島津の生き方がそのまま滲み出るような話し振り、語り口に引き込まれ、時間が経つのを忘れていたが、既に一時間近く経っていた。そこで最後に幾つか好奇心から
「島津さんは今はどのように生活なさっていらっしゃるんですか?」
と尋ねると
「私はあなたが引き継いだ時点でボディーガードを退職していたんです。と言うより私だけ彼があなたになった役を選ぶということを聞かせられていたんです。唯一ね。私は今退職金と沢柳さんの心づけで何とか不足することなくフランスの片田舎で生活させて頂いております。あなたにもボディーガードがいらっしゃったでしょう?」
と島津が聞いてきた。私にはボディーガードは特にいなかった。と言うのも車に乗る時にはトムが、飛行機の時にはビルがその代わりをしていたからだ。そう言えば一度沢柳に報告したいことがあって連絡した時向こうが私にボディーガードは要らないかと聞いてきた時私はあまり一人で町に繰り出すのが好きではないタイプなので、もしそういうことがある場合には自費で雇うと言って向こうが手配してあげようかという誘いを断ったことがあったが、事実植物園くらいしか外出しなかった(ヴェロニカとの逢瀬以外では)ことが正解だと思っていた。と言うのも私はあくまで替え玉なので自由に行動することから慎まねばと思っていたからである。そこで
「ええ、私はあまり自由行動すること自体を慎んでいましたものですから、一切運転手と自社用ジェットのパイロット以外では飛行機で日本に帰国する時以外でつけていなかったですね。SPは。尤も経済国際会議の時には飛行機の時のSPがいつもついて来てくれましたけれどね。」
そう言うと島津は
「まさにあなたを沢柳さんが選んだ理由がはっきり今分かりましたよ。」
そして少し間を置いて
「ヴェロニカさんやサリーさんたちもあなたなら不自然に思わず、社長と信じてついて来られたんじゃないですか?」
と言った。私はそれに対して
「そうでしょうか?そうだと私もほっとしますが。」
と言った。そしてついでに
「今日は態々私にお会いしてきて頂いて実に恐縮です。もしこちらから連絡差し上げるとするとどちらに連絡すればよいのでしょう。」
と聞くと彼は自分でペンを使って書いた名刺を私に渡し、そこに書かれてあるメールアドレスと電話番号を指しながら
「何か御座いましたらこちらまでよろしくお願いします。」
と言った。私は島津に俳句仲間にも、替え玉CEО時代の側近にもない、ある独特の親しみを覚えていた。と言うのも彼は沢柳の影という意味では私の場合と全く違った意味でかなりの共通性があったからだ。そしてそのことに対して島津の方も理解していたことだろうと思う。
その日私は島津を地下鉄の駅の改札口まで送って行き、別れの挨拶をしてからレストランに戻ると五人の俳句仲間が首を長くして私が戻ってくるのを待っていた。私は時計を見ると昼食と昼食後の俳句の談話に須賀が当てていた時間を十分くらい超過していたことに気づき、皆に頭を下げ深く謝ると、近田が
「今日の句会後の二次会は散見さんの奢りですからね。」
と屈託なく笑いながら他の皆と目配せした。
Thursday, November 5, 2009
Tuesday, November 3, 2009
<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑮
連日ニュースでは世界同時不況の煽りを食らった日経平均株価の暴落を告げていた。私はしかし京都旅行から四日くらいたった日の午後、シンガポールの自宅の書斎に置かれてあるパソコンに島田から送信されてきた島田の知人が依頼してきた翻訳原稿を見て、即座に翻訳をし始めていた。島田がスキャンでコピーしたものを私に送ってきたのだ。
それは一冊分の本くらいに相当する長さの取材物だった。それは長く古物商を営んできた米国人の男性による古物そのものとの出会いと、ニセモノを掴まされた経験などを語った自伝的要素と、苦境に陥った時に巧く難を逃れるハウツーものの要素が絡まりあった内容のものだった。
その翻訳をし始めてから、私は依然埼玉県に住んでいた頃よく立ち寄ったギャラリーのオーナーでアートディーラーの伊豆倉のことが懐かしく思い出された。私は独身だったし、両親も既に数年前に母親が死去してから、それより十数年前に死去していた父と共に私は天涯孤独だったので、もう金城悟の名を知る知人は伊豆倉と、飯島だけだったのだ。
しかしその時期私は久し振りに纏まった本業に身を入れていて、替え玉、ダミーとしての生活で味わったストレスから開放された気分でいた。基本的に翻訳上で必要なデータとか業界の知識とかはインターネットで検索したり、そこで登場した本をネットショッピングで仕入れて読んで調べたりした。図書館にはなるべく行かないようにしたが、時折古書とか廃刊となった本を調べる必要のある時だけ出掛けた。シンガポールでは私は一切寺院を訪れることはなかった。日本人だけの寺社の方が私には落ち着いたのだ。そういう風に頑なにしていったのには、私の京都行きが手伝っていたかも知れない。
しかし私が手掛けた翻訳の原書本は実にいいことも沢山書いてあった。例えば次のようなものがそうである。
<人間は若い頃には正義を信じ、行動の原理をそれなり形作っていく。しかし往々にして若さとは正しいことというのが一つであるように全てにおいて一つの正解を求める。勿論概ねその都度正しいことというのは一つである場合も多い。しかしその一つに辿り着くための経路は様々である。だから正しいことをするのには一種類だけの仕方しかあるわけではない。
対抗意識とか敵対意識とは、ある意味ではかなりの部分で自己内にあるその者との近親性に根差している。つまり相手に対する近親憎悪こそが敵対意識とか対抗意識を育んでいる。と言うことは相手を批判するということを通して私たちは批判する相手と最も近接した立場であり、性格である自分を見出さずにはいないということだ。
その意味でも批判する前にまず相手の立場を自分の立場と比較して検討してみる必要がある。相手を批判する前にまず自分の批判的な眼差しで見つめる必要がある。
だからこそ商売の基本とは出来得る限り対立とか抗争を避けるということに尽きる。そうするには危険な橋は渡らないということである。そのためにはいい意味で責任転嫁と、責任回避をすることである。
つまり権威ある別の人に対して敵対することを避けるには権威ある人の商売上での戦略に乗せられないように、「知らないこと」、「出来ること」、「責任を持てること」を限定し、そのことを顧客に明示することである。価値あるかどうか分からないものを高くは売らないということ、あるいはニセモノである(贋作)とかそういう危険のあるものを扱わないことである。それは権威ある人から薦められた商品に関しても該当し、しかしその権威ある人の信用を傷つけないような仕方で丁重に勧誘を退けることである。要するに今現在そのような経済的余裕がないことを明示すればよいのである。>
翻訳をし始めてから二十日くらいたった頃島田から私が南禅寺で彼に渡した名刺を見て彼が私にかけてきた電話があった。
「翻訳の調子はどうですか?」
と電話の向こうで彼はそういきなり私に尋ねてきた。
私は半分くらいの量をざっと翻訳したことを告げた。しかしこれから丁寧に本などの資料を調べてチェックして兎に角半分だけでも仕上げなければならないと彼に語った。
すると島田は慇懃無礼な口調で
「散見先生はスピーディーに仕事をされる方ですか?大体どれくらいで出来そうですか?」
と質問してきたので、私は
「そうですね。ものにも拠りますけれど、今回のようなものは、技術翻訳的なものとも少し違うからマニュアルが予めあるようなのと違うので、自分で調べなければいけないこともあるので、そうですね、急ぐのでないのなら、二ヶ月くらいは頂きたいですね。」
と告げると島田は
「分かりました。では先方の兼杉にもそう伝えておきましょう。」
と言った。
島田に対して私は郷田守として接している。それは京都で出会った俳句仲間全員に対してもそうである。しかし私はそこでしている仕事を全て金城悟として税務署に申告するためにしている。では何故私が日本のマンションに帰宅することをしないのかと言えば、私の金城悟として生活してきていたマンションが所沢にも近く、あるいはフリスコで飯島とばったり出くわしたような形でいつ何時スカイスレッダーの日本支社長である川上やマンションでの雑事をしてくれていた相川や料理人の友部、あるいはホテルとかに行く際の手配の付き人である島村らと出くわさないとも限らない。そこで私は日本に来た時のみ埼玉県のマンションに赴くことにしていたのだ。だから京都旅行の直前にも私はかつての住処に赴いていたのだ。
島田は俳句の吟行において最も俗物であり、作る句にも魅力に欠けたが、私が経済的には悠々自適であるにもかかわらず、空虚感を持っていたおり、ひょんなことから私に再び翻訳業務に赴かせてくれた貴重な出会いであったとも今なら言える。
私が世界が虚構めいて見えるという世界観を拭い去れないこと自体を否定的に捉えれば、ある意味では何故翻訳家として生活してきたかということの理由も説明出来る。翻訳の彼方にあるものとは端的に他者の考えであり、その他者の考えをその他者以外の全ての他者に伝えるための橋渡しとするのが私の役割であり、それは原テクストの著述者にとっての「私」の解放を、一人では出来ないから、手助けすることでもある。それは私自身にとって世界が虚構めいて見えることの脅迫観念から一時開放してくれる、著述者によって作られた虚構の「現実性」を私が彼らに代わって成し遂げることが出来るか否かが私の翻訳家としての技量次第だからだ。
しかしスカイスレッダー時代には生活自体が虚構だった。虚構を通して現実を仄見えるものとして認識する猶予さえない毎日では、私はただ自分の行動を世界に対峙し得る唯一の道具として、行動をこそ虚構とすることで、内心だけは自分であり現実であるという生活を生きた。しかし山田は一体巧くこの経済不況に難関を突破し得るのだろうか?考えてみれば彼こそ最も不運な男であるとも言えた。
私に仕事を依頼した兼杉という男は後で私に謝意を伝えるために電話で連絡してきた。島田からの電話のあった四日後くらいである。その男は島田の若い頃からの友人で、島田が事業をすることとなった時資金も工面するのを手伝ったらしい。今では彼も島田に一足遅れて古物商もしているということだった。私はそれ以上その男に関心も持たなければ興味も沸かなかった。しかし彼は私にこう言った。
「こういう不確実な時代に相応しい内容じゃないかと思ったんですけれど、先生は今お訳しになっておられて、そうお思いではないでしょうか?」
もう内容を全部読んで把握しているかのような口ぶりだ。尤も英文を読むことが出来ても、翻訳してそれを日本語で読ませるということはまた別のことなので、もし彼が既に内容を把握していても全く不思議ではない。しかしそれにしてもまるで自分の能力を試しているかのようなその口ぶりに私は一瞬沢柳からCEО職を引き継いだばかりの頃の私の周囲のスタッフの視線を意識して常に構えていた頃のことを思い出した。
ただ翻訳をすることとなって、久し振りにCEО替え玉時代に金城悟として申告する分だけはこなしてきた雑翻訳と違って、島田の友人によるそのテクストはかなりためになる内容でもあった。
テクストの著者はニュージャージー州のトレントン出身の人間で、父親の家業が家具屋だったということも手伝って、商売の基本は父親の生き方から学んだが、美術や陶芸が好きで、結局ニューヨークのアートスクールに学び、卒業後古物商の見習いをして、世界中を回り、ヨーロッパからアメリカ、日本、韓国、中国の陶芸家の作品も見て研究し、例えば日本のものでは北大路魯山人、荒川豊蔵、石田破山、加藤唐九郎といった巨匠のものも取り扱い、且つバーナード・リーチやガンサー・ステント、ルース・ベネディクトといった文献も広く読み漁っている様子が明確に文体、内容、引用文献などから推し量られた。そればかりは古い文献ではバウムガルテン、クローチェ、ジョルジェ・ルカーチ、あるいは哲学者からはディルタイ、ジンメル、文学ではゲーテやアーサー・シモンズはもとより、日本からは青山二郎、白州正子といった文献も読みこなしてきている節があった。私もそれら全てを読みこなしているわけではないが、それだけのものを通過してきている者のみが持ち得るような自信がそのテクストの文体には表されていたのだ。
私はスカイスレッダーにおいて職務を代行していた時にも、空いた時間にはギャラリーやミューゼアムを見ていたが、こんな凄い古物商がいたということは勿論知らなかった。いたとしても会う機会などなかっただろう。
しかし私が翻訳業務をしていた頃注文を受ける文章とは殆どがアメリカにおける組合の仕組みに関する解説とか、大企業のイントラネットに関する技術書とかそういう類の技術翻訳だった。そしてそれらは世界が虚構めいて見える自分の資質から必然的に文学への関心が芽生えていった思春期から学生時代までと基本的に異なっていることとは、そもそも文章とは文学であれ、とどのつまり仕組み以外のものではなく、詩であれ、小説であれそれらは虚構的技術によって顕現されているということだった。だから素晴らしい内容であったなら自伝で指南書でもある兼杉の依頼してきたテクストは彼の資金によって知人筋にだけ配布するために自費出版することになる筈だったが、私は兼杉が読んだなら必ずそう決意するだろうと翻訳しながらそう思ったのだ。
私は島田から兼杉に依頼されたこととして引き受けた翻訳を約三ヶ月かけて完成させ、島田からの電話の際にも言われていたことだが、兼杉に直接メールで添付送信した。数十万円の報酬は私がメールで指定した口座に一週間後くらいに振り込まれた。兼杉は日本語の本を読むのは早いようだ。その後彼から丁寧な謝意を告げた手紙も届いた。勿論シンガポールのマンション宛ではない。私が確定申告に日本に戻った時に寄ったかつての住処の方にである。島田も私が日本にいると思っている。私は全部日本のマンションにある電話からシンガポールの自宅に転送されることになっている。尤も島田も後で請求される電話料金の明細を見れば私が日本にいないことを察するかも知れないが、そうなってもそれがどうしたの言うのか。
山田からは彼が就任して一瞬間くらいの時期に私の携帯にあった電話以来一切梨の礫であった。しかしそれはそれでよいことである。しかし問題なのは私が彼に委託した期間は沢柳が私に委託した期間と同じ一年であり、そろそろ今後も契約を更新すべきか否かを向こうから尋ねてくることだろうし、それに対して私もそれなりの回答を彼に出さねばならないということである。
しかし基本的に私は一切彼山田が契約の一年過ぎて以後もう一度返り咲くというようなことは考えていなかったし、事実山田が私からの要請という意識を捨てて一切の決裁を自分で執り行い縦横無尽に職務に邁進してくれることこそが私が彼に望むことだった。
しかし始末の悪いことに私はCEОの替え玉時代そのものは懐かしくもなっていたのだ。それはビルやトムや総務のヒーリーや庭師のロジャース、秘書のサリーたちが仲間であるという意識では他の全ての面子とも違う生活を常に共にするという経験自体が私にとってはそれまでと違った体験だったことにも根差す。
例えばスカイスレッダー社の日系人レオナルド・岸田、製薬会社Kのネルソンやリッチモンド、あるいはズームアップ社のサム・ジャクソン、シューズデザイナー社の腹心たちであるスーザン・リンドバーグ、弁護士であるレオン・ソダーバーグ、シューズデザイナー社のエンジニアであるマーヴィン・ブラックモアといった人たちは全てまず名前を覚えることが第一であり、その人格的な背景をなす育ちといったことをあれこれ想像することに意味がないくらいのエリートたちである。しかしやはりエリートという機能によって命脈を保つ偉大なる部品でしかない。その意味では同じ日本人でも川上、相川、友部、島村は皆そのタイプに属す。
それに対して島田のようなタイプの男は絶対アメリカにはいないタイプである。確かに島田は飯島同様俗物である。別に古物商という人たちが俗物だというのではない。たまたま私が出会った古物商たちに俗物が多かったというだけのことである。それは私が翻訳業務をしていた頃にもクライアントとしてもあまり見ないタイプだった。私に翻訳を依頼してくる人たちは全て忙しくてしかも英語があまり得意ではないタイプの人たちなのである。だからそれはアメリカのビジネスマンタイプでもなければ島田タイプでもなかったのだ。
伊豆倉はアメリカのビジネスマンたちとも島田とも異なったタイプだったが、もし敢えてどちらかに属すると定義するとすればそれは完全にアメリカのビジネスマンたちの部類である。つまり私は伊豆倉のようなタイプの人間の存在によって逆にアメリカでも、島田的な存在であるサンタフェの地元のアメリカ人に対しても、あるいは日本でも日本にはあまりいないアメリカのビジネスマンタイプの人に対しても、アメリカにはいないタイプの島田のようなタイプの商売人に対してもさほど一々その差異に驚愕する必要がなく接することが出来たのだ。そういう意味では伊豆倉もまた懐かしき知人のデータベース上での存在となっていた。あるいは京都で出会った須賀もまた伊豆倉以降知り合った者の中では最も伊豆倉に近い中間タイプだったが、一度も会ったことのないタイプであった桑原に対しても既に私は心の動揺をあの風呂での一言を除いてあまり感じることないままにやり過ごせたのだ。因みに近田と吹上に対しても敢えて定義すればアメリカのビジネスマンなのだなと勝手に同類という風にカテゴライズして出会い自体にたじろぐ必要がなかったのだ。
そのように他人をカテゴライズすることはあまり倫理的にはいいことではないだろう。しかし仕事をして生活するということとなるとそのようにカテゴライズすることを全く怠ると精神的にはとてもやりきれなさが残るものだ。それは喩えれば大病院の医師が一々死んでいく患者に感情移入し過ぎていては職務が務まらないというのと同じである。医師にとって必要なのは技術であり、患者は壊れた機械である。私はある意味では翻訳業にしても、急激な変化をきたした替え玉CEОにしても、そのように接する時に他人毎に即座にカテゴライズすることが巧みだったからこそ全てを切り抜けてこられたのだ。つまり仕事上では他人は全て何らかの機能を持った役割を与えられた存在でしかない。だからある機能に支障をきたせば、それを補修する係りが代えをすぐさま用意するだけのことだ。代えられた部品に一々未練を持ってなどいられない。
とその頃はそう思っていた。しかしその後の私の人生を考えると若い日々に憧れた文学の香りをも感じることの出来た米国人古物商の自伝兼指南書の翻訳をしたことの意味は後から考えると大きなものだったのだが、それと同じくらいにその後の私の人生にとって大きな意味を持つ、まさに私にとってもう一人の私であるが故に一切のカテゴライズを拒み続ける、その典型の一人である沢柳とはまた別の意味で、つまり私と風貌は一切似ていないものの、私と立場上では最も隣接したある影法師のような男との出会いがその直後くらいに私を待ち構えていたのである。
私は社会ゲームにおいてある役割を与えられ、それから自ら降りた。降りることは自由だが、降りた者を一々気にして生活する者などいない。すぐ忘れられる。しかし降りた者は降りたゲームをいつまでも覚えている。与えられるのではなく自らに与えるゲームを作っていくという気持ちに目覚めたのがこの頃の私だったのかも知れない。
それは一冊分の本くらいに相当する長さの取材物だった。それは長く古物商を営んできた米国人の男性による古物そのものとの出会いと、ニセモノを掴まされた経験などを語った自伝的要素と、苦境に陥った時に巧く難を逃れるハウツーものの要素が絡まりあった内容のものだった。
その翻訳をし始めてから、私は依然埼玉県に住んでいた頃よく立ち寄ったギャラリーのオーナーでアートディーラーの伊豆倉のことが懐かしく思い出された。私は独身だったし、両親も既に数年前に母親が死去してから、それより十数年前に死去していた父と共に私は天涯孤独だったので、もう金城悟の名を知る知人は伊豆倉と、飯島だけだったのだ。
しかしその時期私は久し振りに纏まった本業に身を入れていて、替え玉、ダミーとしての生活で味わったストレスから開放された気分でいた。基本的に翻訳上で必要なデータとか業界の知識とかはインターネットで検索したり、そこで登場した本をネットショッピングで仕入れて読んで調べたりした。図書館にはなるべく行かないようにしたが、時折古書とか廃刊となった本を調べる必要のある時だけ出掛けた。シンガポールでは私は一切寺院を訪れることはなかった。日本人だけの寺社の方が私には落ち着いたのだ。そういう風に頑なにしていったのには、私の京都行きが手伝っていたかも知れない。
しかし私が手掛けた翻訳の原書本は実にいいことも沢山書いてあった。例えば次のようなものがそうである。
<人間は若い頃には正義を信じ、行動の原理をそれなり形作っていく。しかし往々にして若さとは正しいことというのが一つであるように全てにおいて一つの正解を求める。勿論概ねその都度正しいことというのは一つである場合も多い。しかしその一つに辿り着くための経路は様々である。だから正しいことをするのには一種類だけの仕方しかあるわけではない。
対抗意識とか敵対意識とは、ある意味ではかなりの部分で自己内にあるその者との近親性に根差している。つまり相手に対する近親憎悪こそが敵対意識とか対抗意識を育んでいる。と言うことは相手を批判するということを通して私たちは批判する相手と最も近接した立場であり、性格である自分を見出さずにはいないということだ。
その意味でも批判する前にまず相手の立場を自分の立場と比較して検討してみる必要がある。相手を批判する前にまず自分の批判的な眼差しで見つめる必要がある。
だからこそ商売の基本とは出来得る限り対立とか抗争を避けるということに尽きる。そうするには危険な橋は渡らないということである。そのためにはいい意味で責任転嫁と、責任回避をすることである。
つまり権威ある別の人に対して敵対することを避けるには権威ある人の商売上での戦略に乗せられないように、「知らないこと」、「出来ること」、「責任を持てること」を限定し、そのことを顧客に明示することである。価値あるかどうか分からないものを高くは売らないということ、あるいはニセモノである(贋作)とかそういう危険のあるものを扱わないことである。それは権威ある人から薦められた商品に関しても該当し、しかしその権威ある人の信用を傷つけないような仕方で丁重に勧誘を退けることである。要するに今現在そのような経済的余裕がないことを明示すればよいのである。>
翻訳をし始めてから二十日くらいたった頃島田から私が南禅寺で彼に渡した名刺を見て彼が私にかけてきた電話があった。
「翻訳の調子はどうですか?」
と電話の向こうで彼はそういきなり私に尋ねてきた。
私は半分くらいの量をざっと翻訳したことを告げた。しかしこれから丁寧に本などの資料を調べてチェックして兎に角半分だけでも仕上げなければならないと彼に語った。
すると島田は慇懃無礼な口調で
「散見先生はスピーディーに仕事をされる方ですか?大体どれくらいで出来そうですか?」
と質問してきたので、私は
「そうですね。ものにも拠りますけれど、今回のようなものは、技術翻訳的なものとも少し違うからマニュアルが予めあるようなのと違うので、自分で調べなければいけないこともあるので、そうですね、急ぐのでないのなら、二ヶ月くらいは頂きたいですね。」
と告げると島田は
「分かりました。では先方の兼杉にもそう伝えておきましょう。」
と言った。
島田に対して私は郷田守として接している。それは京都で出会った俳句仲間全員に対してもそうである。しかし私はそこでしている仕事を全て金城悟として税務署に申告するためにしている。では何故私が日本のマンションに帰宅することをしないのかと言えば、私の金城悟として生活してきていたマンションが所沢にも近く、あるいはフリスコで飯島とばったり出くわしたような形でいつ何時スカイスレッダーの日本支社長である川上やマンションでの雑事をしてくれていた相川や料理人の友部、あるいはホテルとかに行く際の手配の付き人である島村らと出くわさないとも限らない。そこで私は日本に来た時のみ埼玉県のマンションに赴くことにしていたのだ。だから京都旅行の直前にも私はかつての住処に赴いていたのだ。
島田は俳句の吟行において最も俗物であり、作る句にも魅力に欠けたが、私が経済的には悠々自適であるにもかかわらず、空虚感を持っていたおり、ひょんなことから私に再び翻訳業務に赴かせてくれた貴重な出会いであったとも今なら言える。
私が世界が虚構めいて見えるという世界観を拭い去れないこと自体を否定的に捉えれば、ある意味では何故翻訳家として生活してきたかということの理由も説明出来る。翻訳の彼方にあるものとは端的に他者の考えであり、その他者の考えをその他者以外の全ての他者に伝えるための橋渡しとするのが私の役割であり、それは原テクストの著述者にとっての「私」の解放を、一人では出来ないから、手助けすることでもある。それは私自身にとって世界が虚構めいて見えることの脅迫観念から一時開放してくれる、著述者によって作られた虚構の「現実性」を私が彼らに代わって成し遂げることが出来るか否かが私の翻訳家としての技量次第だからだ。
しかしスカイスレッダー時代には生活自体が虚構だった。虚構を通して現実を仄見えるものとして認識する猶予さえない毎日では、私はただ自分の行動を世界に対峙し得る唯一の道具として、行動をこそ虚構とすることで、内心だけは自分であり現実であるという生活を生きた。しかし山田は一体巧くこの経済不況に難関を突破し得るのだろうか?考えてみれば彼こそ最も不運な男であるとも言えた。
私に仕事を依頼した兼杉という男は後で私に謝意を伝えるために電話で連絡してきた。島田からの電話のあった四日後くらいである。その男は島田の若い頃からの友人で、島田が事業をすることとなった時資金も工面するのを手伝ったらしい。今では彼も島田に一足遅れて古物商もしているということだった。私はそれ以上その男に関心も持たなければ興味も沸かなかった。しかし彼は私にこう言った。
「こういう不確実な時代に相応しい内容じゃないかと思ったんですけれど、先生は今お訳しになっておられて、そうお思いではないでしょうか?」
もう内容を全部読んで把握しているかのような口ぶりだ。尤も英文を読むことが出来ても、翻訳してそれを日本語で読ませるということはまた別のことなので、もし彼が既に内容を把握していても全く不思議ではない。しかしそれにしてもまるで自分の能力を試しているかのようなその口ぶりに私は一瞬沢柳からCEО職を引き継いだばかりの頃の私の周囲のスタッフの視線を意識して常に構えていた頃のことを思い出した。
ただ翻訳をすることとなって、久し振りにCEО替え玉時代に金城悟として申告する分だけはこなしてきた雑翻訳と違って、島田の友人によるそのテクストはかなりためになる内容でもあった。
テクストの著者はニュージャージー州のトレントン出身の人間で、父親の家業が家具屋だったということも手伝って、商売の基本は父親の生き方から学んだが、美術や陶芸が好きで、結局ニューヨークのアートスクールに学び、卒業後古物商の見習いをして、世界中を回り、ヨーロッパからアメリカ、日本、韓国、中国の陶芸家の作品も見て研究し、例えば日本のものでは北大路魯山人、荒川豊蔵、石田破山、加藤唐九郎といった巨匠のものも取り扱い、且つバーナード・リーチやガンサー・ステント、ルース・ベネディクトといった文献も広く読み漁っている様子が明確に文体、内容、引用文献などから推し量られた。そればかりは古い文献ではバウムガルテン、クローチェ、ジョルジェ・ルカーチ、あるいは哲学者からはディルタイ、ジンメル、文学ではゲーテやアーサー・シモンズはもとより、日本からは青山二郎、白州正子といった文献も読みこなしてきている節があった。私もそれら全てを読みこなしているわけではないが、それだけのものを通過してきている者のみが持ち得るような自信がそのテクストの文体には表されていたのだ。
私はスカイスレッダーにおいて職務を代行していた時にも、空いた時間にはギャラリーやミューゼアムを見ていたが、こんな凄い古物商がいたということは勿論知らなかった。いたとしても会う機会などなかっただろう。
しかし私が翻訳業務をしていた頃注文を受ける文章とは殆どがアメリカにおける組合の仕組みに関する解説とか、大企業のイントラネットに関する技術書とかそういう類の技術翻訳だった。そしてそれらは世界が虚構めいて見える自分の資質から必然的に文学への関心が芽生えていった思春期から学生時代までと基本的に異なっていることとは、そもそも文章とは文学であれ、とどのつまり仕組み以外のものではなく、詩であれ、小説であれそれらは虚構的技術によって顕現されているということだった。だから素晴らしい内容であったなら自伝で指南書でもある兼杉の依頼してきたテクストは彼の資金によって知人筋にだけ配布するために自費出版することになる筈だったが、私は兼杉が読んだなら必ずそう決意するだろうと翻訳しながらそう思ったのだ。
私は島田から兼杉に依頼されたこととして引き受けた翻訳を約三ヶ月かけて完成させ、島田からの電話の際にも言われていたことだが、兼杉に直接メールで添付送信した。数十万円の報酬は私がメールで指定した口座に一週間後くらいに振り込まれた。兼杉は日本語の本を読むのは早いようだ。その後彼から丁寧な謝意を告げた手紙も届いた。勿論シンガポールのマンション宛ではない。私が確定申告に日本に戻った時に寄ったかつての住処の方にである。島田も私が日本にいると思っている。私は全部日本のマンションにある電話からシンガポールの自宅に転送されることになっている。尤も島田も後で請求される電話料金の明細を見れば私が日本にいないことを察するかも知れないが、そうなってもそれがどうしたの言うのか。
山田からは彼が就任して一瞬間くらいの時期に私の携帯にあった電話以来一切梨の礫であった。しかしそれはそれでよいことである。しかし問題なのは私が彼に委託した期間は沢柳が私に委託した期間と同じ一年であり、そろそろ今後も契約を更新すべきか否かを向こうから尋ねてくることだろうし、それに対して私もそれなりの回答を彼に出さねばならないということである。
しかし基本的に私は一切彼山田が契約の一年過ぎて以後もう一度返り咲くというようなことは考えていなかったし、事実山田が私からの要請という意識を捨てて一切の決裁を自分で執り行い縦横無尽に職務に邁進してくれることこそが私が彼に望むことだった。
しかし始末の悪いことに私はCEОの替え玉時代そのものは懐かしくもなっていたのだ。それはビルやトムや総務のヒーリーや庭師のロジャース、秘書のサリーたちが仲間であるという意識では他の全ての面子とも違う生活を常に共にするという経験自体が私にとってはそれまでと違った体験だったことにも根差す。
例えばスカイスレッダー社の日系人レオナルド・岸田、製薬会社Kのネルソンやリッチモンド、あるいはズームアップ社のサム・ジャクソン、シューズデザイナー社の腹心たちであるスーザン・リンドバーグ、弁護士であるレオン・ソダーバーグ、シューズデザイナー社のエンジニアであるマーヴィン・ブラックモアといった人たちは全てまず名前を覚えることが第一であり、その人格的な背景をなす育ちといったことをあれこれ想像することに意味がないくらいのエリートたちである。しかしやはりエリートという機能によって命脈を保つ偉大なる部品でしかない。その意味では同じ日本人でも川上、相川、友部、島村は皆そのタイプに属す。
それに対して島田のようなタイプの男は絶対アメリカにはいないタイプである。確かに島田は飯島同様俗物である。別に古物商という人たちが俗物だというのではない。たまたま私が出会った古物商たちに俗物が多かったというだけのことである。それは私が翻訳業務をしていた頃にもクライアントとしてもあまり見ないタイプだった。私に翻訳を依頼してくる人たちは全て忙しくてしかも英語があまり得意ではないタイプの人たちなのである。だからそれはアメリカのビジネスマンタイプでもなければ島田タイプでもなかったのだ。
伊豆倉はアメリカのビジネスマンたちとも島田とも異なったタイプだったが、もし敢えてどちらかに属すると定義するとすればそれは完全にアメリカのビジネスマンたちの部類である。つまり私は伊豆倉のようなタイプの人間の存在によって逆にアメリカでも、島田的な存在であるサンタフェの地元のアメリカ人に対しても、あるいは日本でも日本にはあまりいないアメリカのビジネスマンタイプの人に対しても、アメリカにはいないタイプの島田のようなタイプの商売人に対してもさほど一々その差異に驚愕する必要がなく接することが出来たのだ。そういう意味では伊豆倉もまた懐かしき知人のデータベース上での存在となっていた。あるいは京都で出会った須賀もまた伊豆倉以降知り合った者の中では最も伊豆倉に近い中間タイプだったが、一度も会ったことのないタイプであった桑原に対しても既に私は心の動揺をあの風呂での一言を除いてあまり感じることないままにやり過ごせたのだ。因みに近田と吹上に対しても敢えて定義すればアメリカのビジネスマンなのだなと勝手に同類という風にカテゴライズして出会い自体にたじろぐ必要がなかったのだ。
そのように他人をカテゴライズすることはあまり倫理的にはいいことではないだろう。しかし仕事をして生活するということとなるとそのようにカテゴライズすることを全く怠ると精神的にはとてもやりきれなさが残るものだ。それは喩えれば大病院の医師が一々死んでいく患者に感情移入し過ぎていては職務が務まらないというのと同じである。医師にとって必要なのは技術であり、患者は壊れた機械である。私はある意味では翻訳業にしても、急激な変化をきたした替え玉CEОにしても、そのように接する時に他人毎に即座にカテゴライズすることが巧みだったからこそ全てを切り抜けてこられたのだ。つまり仕事上では他人は全て何らかの機能を持った役割を与えられた存在でしかない。だからある機能に支障をきたせば、それを補修する係りが代えをすぐさま用意するだけのことだ。代えられた部品に一々未練を持ってなどいられない。
とその頃はそう思っていた。しかしその後の私の人生を考えると若い日々に憧れた文学の香りをも感じることの出来た米国人古物商の自伝兼指南書の翻訳をしたことの意味は後から考えると大きなものだったのだが、それと同じくらいにその後の私の人生にとって大きな意味を持つ、まさに私にとってもう一人の私であるが故に一切のカテゴライズを拒み続ける、その典型の一人である沢柳とはまた別の意味で、つまり私と風貌は一切似ていないものの、私と立場上では最も隣接したある影法師のような男との出会いがその直後くらいに私を待ち構えていたのである。
私は社会ゲームにおいてある役割を与えられ、それから自ら降りた。降りることは自由だが、降りた者を一々気にして生活する者などいない。すぐ忘れられる。しかし降りた者は降りたゲームをいつまでも覚えている。与えられるのではなく自らに与えるゲームを作っていくという気持ちに目覚めたのがこの頃の私だったのかも知れない。
Sunday, November 1, 2009
<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑭
句会以後の二次会によって私たちは相互の家庭の事情も、俳句との出会いに関する個人的なことに関する報告と共になされたので、取り敢えず島田と桑原と須賀が妻帯者であり、近田と吹上と私が独身であるということだけは判明した。本名も一応言い合ったが、近田と吹上と島田と桑原は本名で、須賀だけが俳号が下の名前だがいかにも作り名のようだがそちらの方が本名で、苗字は本名では金井と言うと告白した。私の俳号は河野散見だが、本名は郷田守ということにしておいた。私だけが嘘をついているということになるかも知れない。(尤もそれは私以外の皆が偽りなく皆の前で申告しているとしてだが)
しかしそのように申告し合うという対話状況とは、実際ビジネスでは殆ど見られないことである。尤も翻訳家でいた頃には、プライヴェートな報告をし合うということもないことはなかったが、やはり大半が翻訳する必要に迫られるものとはビジネス上での形式的な遣り取りだった。だから本音のぶつけ合いと言っても、実はビジネス上と、オフの時間とでは同じ集団と言っても、全く性格が異なってくるということは極めてその当時の私にとっての興味深いことだった。しかしもっと重要なこととは、私たちはあくまで他者と接する時には、それがビジネスであれ、オフの時間であれ、完全にプライヴェートになることも出来なければ、自己本位を百パーセント曝け出すということもあり得ないということである。
いやそれどころか私にとってであるが、一人でいる時でさえ私は常に私の中の他者の存在に「私自身」が晒されていることに自覚的ではない時間など生まれてから一度もなかったと言ってよい。それは私に固有の感じ方なのか、それとも誰しもそう思うものなのかということは、たとえ報告し合っても本当には確認し合うことが出来ない。
ホテルそのものはバスで京都駅まで行ってそこから徒歩で到着してチェックインしたのだが、かなり立派でそう安価ではない宿泊費から言っても充分宿泊客の要望に答えるものだった。一緒にホテル内にある温泉に入ったが、その時一緒にいた桑原と須賀と近田と吹上という島田を除く野郎の宿泊客同士の会話は他愛無いものだった。しかしそんな会話をする心の余裕も実際スカイスレッダーCEО替え玉時代には全く持つことが出来なかった。しかしこの心の緩みは気をつけねばならないとも思ったが、私は既にサハシー本人になりすますこと自体の方に慣れ、却って素の自分でいるということの方にどこか心の落ち着かなさを感じ取っていたのだ。だから逆に俳句を作る者同士という関係が意外といい息抜きになったことも確かだ。つまり五七五という句形式を通して虚構的世界を構築すること自体が、素でいる自分があるかも知れないという恐怖に対する予防線となっていることが俳句仲間同士の会話自体から理解することが出来たからである。
しかし私の隣の椅子に座り、頭にシャンプーをつけて掻き回してからお湯をかぶって話しかけてきたのが桑原だった。
「河野散見さんは外国生活経験が結構豊富なんですか?」
そう桑原は言った。桑原は自身著名な写真家で、世界中を飛び回っている。その男が私にそう言ったのだ。私はそれまで須賀以外には会話をあまりしていなかったが、その一言は一気に私に構える態度を作らせた。そういう風に申告したこと以外の会話をするということはある程度一日行動を共にした者同士の必然であったが、いざそう切り出されると私は内心たじろがざるを得なかった。
「どうしてそう思われるんですか?」
そう私が白を切ると
「だって、河野さんは、いや郷田さんでしたか、翻訳家に仕事を依頼する仕事なさってらっしゃるんでしょう?」
そう桑原は切り込んできたので私は
「まあ、そうですが、日本での仕事が殆どなので。」
と誤魔化した。それは二年前までは本当のことだった。確かに私はサハシーの替え玉になって以来各国を飛び回り、リタイア後もタヒチ、フランス、シンガポールと飛び回った。しかし翻訳家業務時代にはただ一度オーストラリアを業界の親しいクライアントと観光旅行をしたことがあるだけだった。私は必死にその頃の自分に気持ちから戻ろうと試みた。しかし桑原は世界中を飛び回る仕事人としての嗅覚から私のここ二年くらいの間に生活を直観的に嗅ぎ取ったようなのだ。しかし幸いそれ以上桑原は私のことを追及してくることはなくただ
「そうですか。」
とだけ言った。
後ろでは句会のお開き前に質問したことがきっかけで一番若い近田が少し年長の吹上に取り入るように色々質問していた。
「新入社員なんかの選別基準はどうなさっておられるんですか?」
すると吹上は
「まあ、化粧品のメーカーですから、ケミカル関係の技術者を大卒、院卒とか色々推薦も含めて採用致しますね、それに選別に気を遣うのは開発部だけでなく営業部や販売促進部なんかでは経済学、経営学だけでなく心理学の修士とかも採用していますね。販売戦略的に女性相手の場合には独身女性の心理とか既婚者の心理とかを予めリサーチした上で色々デザイナーやコピーライターたちと協同で作業しなくてはならないですからね。大学の四年だけの奴は一流大卒の連中でも使い物にならないですからね。」
私たちはその日は私と須賀が二人部屋に、近田と吹上、桑原が三人部屋にそれぞれ宿泊した。
翌日、私たちは正門が開く時間八時半に東寺正門で待ち合わせ、ホテルのチェックアウトを各自勝手に済ませ、一人で行くも、誰かと一緒に行くも自由とした。前日のお開きの際にそういうことにしていたのだ。島田のように自宅に一旦戻った者もいたからである。
私は誰とも一緒にはチェックアウトせずに一人京都駅から近鉄電車で一駅目の東寺迄乗り、後は徒歩で東寺正門へと向かった。
須賀はホテルのロビー脇に設えられていたラウンジで桑原と何やら話し込んでいたので、私は一切両人との挨拶せずにホテルを出たが、先にホテルを出たので私の方が先に東寺に到着するかと思っていたら、私が正門に到着した時桑原と須賀は既に先に到着していた。きっと二人でタクシーに乗ってそこまで来たのだろうと私は思った。
私は電車に乗っている時も、徒歩の時も妙に昨日の温泉での桑原からかけられた一言のことが気にかかって、何故彼はあんな質問を私に突然投げかけたのだとうとそればかりずっと考えていた。
桑原が披露した句は流石プロ写真家なだけあって、一瞬のシャッターチャンスを狙ったかのような歯切れのよい、切れ字を巧みに利用した句だったと私は彼のこと共に思い出していた。
私が到着してから三四分くらいしてからほどなく近田と吹上が共に到着した。島田だけ七分くらい他の皆から遅れて到着した。
「申し訳ありません、ちょっと遅れてしまって。」
と頭を下げて彼は走って正門の方へやって来た。
皆が揃ったので拝観料を支払い、内部の庭園が見える敷地に入った。そして五重塔、金堂、講堂、大師堂などを順次観て回り、最後に敷地から出て直のところにある観智院を拝観した。中には五大の庭と呼ばれる石庭が敷き詰めてあり、唐から恵運が請来した五大虚空菩薩像や江戸期の愛染明王像などが壮麗な雰囲気を醸していたが、それ以上に皆の眼を釘付けにしたのは宮本武蔵が逗留して描いたと言われる襖絵、「竹林の図」、そして床の間にある「鷲の図」であった。大分掠れてしまっていて元通りの図のイメージはある程度想像するしかなかったものの、一乗寺下がり松の決闘で敵方の子どもの大将を殺して、追手を逃れて過ごしていたそこで、一体武蔵はどういうことを考えてその図を描いたのかと私は思った。武蔵の気持ちが少し理解出来る気がしたのだ。勿論ただの錯覚かも知れない。しかし追手は今のところないがと私は思ったが、武蔵の孤独の意味は理解出来る気がしたのだ。武蔵は五大の庭の亀や龍を象った石の配列を眺めながら、図を描いていただろうか?そう思って武蔵の絵から石庭へと視線を移動していた時隣で武蔵の絵を見入っていた島田が私に話しかけてきた。
「河野さんはプロの翻訳家の斡旋をされているのでしたら、ご自分でも翻訳をなさるんでしょう?」
突然のプライヴェートな質問にいささか面食らいながらも私は真摯に返答した。
「ええ、以前は一人で翻訳業務をこなしていましたから。」
するとそれに応じるように島田は
「実は私同業者の古物商の知人から長文の英文を翻訳してくれる人を探していると言われて、実は私その人には昔仕事関係で世話になったこともあって、もしよかったらその人から誰かいい翻訳家いないかという件をお引き受け下さらないでしょうか?」
と私に問いかけてきた。私はシンガポールでの何も特に仕事をしない日々に少し飽きてきていたので、その質問に対して
「別に構わないですが、どれくらいの量の仕事なんでしょうか?」
と島田に聞き返すと島田は
「ええ、何でもそれほど厚くない単行本一冊文くらいだそうです。よろしかったら、その本をスキャンでコピーして河野散見さんへメールで添付送信して貰うように言っておきますが。」
と返答した。それに対して私は久しぶりに纏まった翻訳を出来るのはそれなりにわくわくしもしたので、一も二もなく即座に
「ええ、是非そうして下されば、後はいつまでに仕上げて提出すればよいかだけですが。」
と返すと島田は
「そうですね、ではその旨も先方に伝えておきましょう。」
と私の要望に応えるようにそう言った。
私はそろそろ半年くらい替え玉CEОから降りてたつ当時仕事を何もせずに過ごす日々にシンガポールのマンションで過ごしながらも固有の退屈さを持ち始めていたのだ。私がアメリカで過ごした期間に稼いだ報酬は全てスイスやケーマンに預金していた(沢柳には一銭も支払われていなかったし、それは私との間での彼との約束だった。彼は既にその当時以上の報酬を要求していなかったのだ。そして彼自身の口座以外に私のための口座を私が着任した時に拵えたのだ)し、そのことを敢えて日本の税務署は問い質すことはないだろう。そもそも私はその当時もずっと金城悟として申告していたのだから。
しかし殆ど以前住んでいたマンションには戻っていなかったし、そのことを不振に思う者もいただろうが、年に一回だけ確定申告で税務署を訪れればそれでよい。アメリカ時代にもそういう風にして年に何回か纏まった大きな翻訳の仕事をサンタフェの豪邸の書斎でこなしてメールで完成する都度クライアントに送っていたのだ。例の部屋で一日何もせずに過ごす一年が過ぎた頃私は一度確定申告をし、その後、日本にCEОとして日本に滞在時に確定申告のため一日だけオフにして貰いこっそりかつてのマンションにも行き、そこで書類を作成して税務署にも行った。そして再び日本滞在時に過ごすマンションに戻っていたのだ。
そして金城悟として久し振りにする仕事を得たというわけだ。シンガポール在住のビジネスマンという郷田守として頼まれた仕事をしてそれを金城悟として申告すればよいのだ。一々そんな細かいことまで気にする奴などいるものか。第一翻訳家は結構偽名で行なっている作家とかもいるし、またペンネームを使用する者も多いのだ。
しかし私はその日はそれ以上先にこなすことになる仕事に対してあれこれ想像することはよした。折角京都までやってきて、吟行をしているのだ。手元に持ったメモ帳に今日の午後する句会で発表する句を捻り出さなくてはならない。今日は既に須賀が予約している料亭で食事しながら、句会である。
その日は小春日和だったので、皆の同意で西本願寺まで徒歩で行くことにしたのだった。そして西本願寺では皆で記念写真を撮り、次は東本願寺に向かった。到着した東本願寺では護影堂が大規模な改修工事中であり、全容を見ることが出来なかった。それは銀閣寺でも同じだった。観音殿が修復工事中だったからだ。それはこのような国宝の保存という意味では致し方ない現実ではあったが、ホンモノの文化の構造を将来に渡って維持していくということ自体が、どこかニセモノを作り替えていくことでしか維持され得ないということに存するある種の人間社会の欺瞞性を私はしみじみと感じざるを得なかった。
そこから更にバスで当初行く予定であった三十三間堂へと皆の合意で徒歩で行くことになった。天候次第で幾らでも当初の予定を変えられるというところが観光旅行のいいところである。
東寺からスタートして三十三間堂へと至る徒歩の旅は吟行をするには天候的にも恵まれたせいか、持って来いのものであった。三十三間堂の入り口が遠くから見えてきた時には既に十一時半になっていたが、その日のそれまでのルートは大体京都市街地を縦に貫く感じのものだった。
前日は島田と吹上、桑原と近田という組み合わせで隣り合って歩いていたが、その日は近田がいやに吹上を年齢の近い先輩として持ち上げ、関心を持ったようだったし、島田も島田で桑原をほぼ同世代として相互に古物商とプロカメラマンという全く異なった職業であるが故の好奇心を持ち合って、話が弾んでいるように思えた。
近田が
「吹上さんは経営者でいらっしゃるのにどうしてそんなに俳句とか文藝的なことにも造詣が深くていらっしゃるんですか?」
吹上は前日の俳句との出会いを相互に告白し合ったとき、ただこの会合の下となっている俳人の句を俳句雑誌で見かけていいなと思ったとだけ述べていたので、もっと詳しく近田にしてみれば知りたかったのだろう。しかし吹上は厭な顔も見せず
「元々私の父は昔大手出版社に勤めていたんですよ。その出版社が倒産して、別の出版社の一部になったんですが、その方針が少し父が編集補佐をしていた頃のものと食い違っていたし、そうなっていくことを予想出来たので、併合する社からは居残っていいと言われていたのだけれど、当時父は、父と共にその後の身の処し方に困窮していた一番親しかった同僚と共に自費出版を中心にする小さな出版社を経営しだしたんですよ。結局父はその自分たちで立ち上げた社も経営が巧いようには運ばなくなって、駄目になる寸前に会社毎知人の結構儲かっていたデザイン会社に売ったんですよ。そしてその時は僕ももう大人になっていて、後は余生を俳句でも作ろうということになって、ずっと句作三昧な生活だったんですよ、父は宿毛の生まれで少年時代に松山に祖父の事業のために松山に引っ越してきて松山高校時代に入学し、その高校で英語を教えていた先生が俳句を作っていた人で、その人に人格と才能に惹かれて、俳句作りを指南して貰っていたところ父が勤めることになって結局倒産して別の社に買い取られた出版社で編集長をしていたある句界では知られた俳人を兄弟子として知遇を得たんですよ、それが父の俳句作りをより情熱的なものにしていったんですね。つまり父の俳句の情熱は将来私にもそういう素養を持たせたいということで、私を幼少の頃から句会とかに連れて行ってくれたんですよ、それこそ小学生の頃からね。」
吹上は前日句会になるまでは控えめだったが、近田が質問してそれに返答してから、一気に饒舌に語りだし、近田が兄貴分的に彼に慕う態度を見せていたので、そのことにも気をよくしていたようだった。
「それにしても経営者というお立場と、俳句ってどこか全く違うようにも思いますけれど、そういう立場の人って結構趣味で俳句を作っている人は大勢いらっしゃるんですか?」
と近田が質問すると吹上は
「私も先行きどうなっていくか分からないんですけれど、俳人っていうのはある意味では世間を隠遁して生きていく覚悟の人の方が多いですよね、その生き方が逆に経営者とか責任ある立場の人にとってある種の理想のように映ったり、自分がリタイアした後の人生をどう過ごすかという指針になったりするんですよ。勿論私は経営者としてはまだまだリタイア後を考えてはいけない立場の人間ですが、いつかはそういう時も来るでしょう?ほら政治家とかが文学者や書家や茶人の生き方とか、その詩や書や作法に惹かれることがあるじゃないですか。それと同じじゃないかな。」
と返した。それに対して近田は妙に納得したような表情で
「それはいざという時の一大決心とか責任の取り方とか引き際とかにおいて政治家たちが古代の武将や文学者の生き方を参考にするような意味でですね。」
と賛同の意を示しながらそう言った。すると吹上は
「まあ、そう格好よいものでもないですけれどね、私たちは。」
と謙遜してそう言った。
その時須賀がもう目の前まで三十三間堂が近づいていたのに急に
「もう後十数分で正午です。どうです。まず昼食を取ってからゆっくり見学するというのは?」
と提案した。すると桑原が
「そうですね。僕も久し振りに大分歩いたので腹が減ったな。」
と言った。桑原は島田なんかよりはずっと世界中歩き回っているので、一番疲れないだろうに、皆を休憩させたいという須賀の申し出を無碍にしないためにそう言ったのだろうと私は思った。
しかし吹上に熱心に話しかけていた近田も
「いいですね、どこで食べますか?」
とさも待ってましたとばかりに嬉そうに言ったので、皆頷いて同意を示し
「そこの店にしましょう。私も以前そこで食べて結構おいしかったんですよ。」
と言ったので、皆逆らう者も出ず、その蕎麦屋で食事することになった。皆が店に入って二つのテーブルが一緒に合わせられた格好のところに陣取っていると女将さんがやってきてメニューをテーブルの上に差し出した。それを見てめいめい注文する品を決めて、口々に少し奥の食べ物を差し出す口の傍に待機している女将に告げた。女将はそれを更に奥にいる料理人(多分夫だろう)に口早に告げた。
十分もしない内に皆の前に注文した品が運ばれた。私は鰊蕎麦を注文した。皆が注文の品が来た順に食べだしたので、私もニ三人未だ来ていない者もいたが、構わず食べ始めた。麺が延びてしまうから早く食った方がいいというわけだ。食べると京都の出汁の取り方は薄味でコクがあった。シンガポールにもアメリカにも蕎麦を出す店はあったが、大して美味くなかった。中華料理店の方が気が利いている気がしたが、京都で食べた蕎麦は東京の蕎麦より柔らかい気が私にはした。
店を出てすぐ眼と鼻の先である三十三間堂の構内に拝観料を払って入った時十二時半まで十二三分あった。私はこの細長い建物を見た時私が通っていた小学校の校舎を思い出した。
この寺院は1165年に後白河上皇によって建立され、脇に聳える南大門は豊臣秀頼によって加設された。
皆細長い廊下を歩き、一体一体見ていったが、片手に持っている俳句をメモする手帳に時々書き込んでいたのは須賀と島田と桑原の三人であり、その日はあまり若手は書き込むことに精を出していないようだったが、昨日もバスの中とかでしきりに書いていたから、その日もそうなのだろうと私は思った。時々近田が吹上にあの像が誰それに顔が似ているとか何とか囁いて二人であまり声を立てないようにこっそり笑っているところを見ると、大方私か島田か桑原か須賀に似た顔を発見していたのだろう。
歴史趣味的な俳句を作ることなど私はなかったが、そのような趣旨に関心がありそうなのは前日の句会の時での皆の会話から古物商の島田と須賀であることだけは皆認めていたが、桑原はどうか定かではなかったものの、それほど好きではないのではないかとは彼の取った写真を見れば理解出来る気もしたが、彼はしきりと句を十一面千手千眼観世音を見ながら捻り出しているように見えた。一人言のように何かぼそぼそ呟いていたが、所々に示された解説の札の字を読んでいたのだ。
「運慶の長男、湛慶による82歳の時の作か。」
と感慨深げに呟いていたが、八十二歳とは彼らすら未だ一回り以上生きねばその年齢にはならないのだ。
しかし秀頼が南大門を作ったということは秀頼の時代には既にこの寺院は名所旧跡だったわけだし、東寺にしても、宮本武蔵の時代ですら古代のものだったわけだ。尤も空海が造営した後から盛んになっていったわけだが、その空海から武蔵まででもかなりの時間が経っている。五重塔も金堂も大師堂も壬生地区が湿地であるために追手を逃れて潜むのに都合がよかった武蔵にとってその地区に潜んで生活するにしても、毎日それらの建立物を眺めて生活したということにある感慨を私は抱いていた。しかし何故そんな気持ちになったかということが私にはよく自分でも分からなかった。ただ武蔵の孤独がどこか理解出来たような気があの鷲の図と竹林の図の筆跡を見た時そう思ったのだ。今の私の気持ちに似た気分で武蔵は今朝訪れた観智院を過ごしたのだ。観智とは心でものを見るという心得のことである。昼食で食べた蕎麦が大分こなれて来た時そう想起した時、私は前日の桑原の隣で髪の毛を洗いながら私に尋ねた質問、私の海外生活は他意のないものだったかも知れないと思い直したのだ。自分に疚しいところがあるとどうしても他人の一言が皮肉とか揶揄とか懐疑のように思えてくるものであると私は反省した。
皆は南大門を前にして再び須賀の手配で記念写真を須賀と桑原のデジカメで撮って、そこから京都駅までバスで一旦戻り、そこから地下鉄と市電を乗り継いで広隆寺へと向かった。京福嵐山線の太秦広隆寺で下車すると狭い街道を横断すると眼の前は広隆寺正門である。そこを潜るとそこは鮮やかな紅葉の木々が眼に入ってきた。皆三十三間堂の時もそうだったが、しきりとデジカメで紅葉を撮影した。
桑原はカメラマンらしくいかにも迅速でシャープな視線を被写体に走らせ、周囲を畏敬の念に包み込んだ物腰でシャッターを切っていた。彼はいかにもハイブローな趣味が似合うという感じの育ちのよい不良壮年っぽい雰囲気を湛えていた。それに対し、何をしても愚鈍な感じを醸し出す島田は同業者たちとカラオケで演歌を大声張り上げて歌い出すことがいかにも似つかわしい感じの壮年だった。
私がロメオスと提携に踏み切ったのは彼が幼少の頃ニューメキシコ州へとメキシコからリオ・グランデ川を渡って密入国を果たしたウェットバックである固有の悲愁故に私自身の世界への懐疑の目から見ても共感出来るという私の感情からだったと思う。その意味では桑原も明らかに直観的にロメオス・タイプであることが私には察知させられた。要するにどこか教養ある家庭に育った感じがするのである。こればかりは経済的に豊かな家庭というのとは違う雰囲気を人に与える。いくら経済的に恵まれた家庭に育ってもどこか下品さを漂わす雰囲気こそ島田に似つかわしい形容だった。島田によく似たタイプというのはアメリカCEO時代には一人もいなかった。ジム・クラークもマイク・ストーンランドも皆教養ある家庭に育ち、両方ともワスプだったが、大学時代にはロックや現代アートに親しんだそういうタイプの人たちだったが、強いて島田と同類を挙げろと言われれば、それは伊豆倉の下で会い、替え玉時代にフリスコで私に声をかけてきた飯島くらいのものである。
確かに人を類型で見てはいけない。しかし生き馬の目を抜く判断に次ぐ判断の日々において、私には一瞬で出会う人の本質を見抜く術を身に着けてきていた。しかしそれは別の角度から見れば本当に相手を見抜けずに大した者でもないのに、買被ったり、逆に本当は信頼出来る好漢であるのに訝しい思いで敬遠させてしまったりするような出会いのニアミスをしてしまうこともあるということである。
しかし私にとって近田ややや年長の吹上は私よりは若いので、見抜く、見抜けないというレヴェルではなかった。しかしそれはあくまでも半分正しく半分そうではなかったと思う。だが広隆寺境内でのその時の二人の会話はそういうレヴェルのものではなかった。
二人ともデジカメでしきりに周囲を撮影していたが、一旦撮影を中断し、また近田が吹上に声をかけた。
「紅葉っていいですね。日本人の心に響くっていうか。」
すると吹上が近田に
「近田さんはご出身はどちらですか?」
と尋ねた。すると近田は
「成田です、千葉県の。」
と返答した。そして続けて
「吹上さんはお父さんと同じで松山ですか?それにしては訛りがないようですね。」
と尋ねると彼は
「私は父が上京してから生まれたので、東京の近郊出身です。仮に松山で生まれたとしても、恐らく父自身が宿毛生まれで、思春期になって松山に引越してきたので、それほど訛りはなかったでしょうね。松山弁の方が遥かに愛媛県の他の場所、例えば宇和島とかよりも関西弁に近いですね。」
と返答した。それに対して近田は
「僕や僕の両親の田舎は私の人生と共に激変しましたからね。昔は結構訛りがあったみたいだけれど、今の若者はさほどではないですよね、東京からも大勢人がやってきますからね。勿論田舎の人同士ではそっちの言葉も使えるだろうけれどね。」
と言ってから更に
「でも吹上さん、化粧品って男性と女性とでは戦略が違うんでしょう?」
と言った。すると吹上は
「そうですね。基本的にデザインも変えなくてはならないですね。僕は元々心理学専攻でその知識を買われて入社したんで、そこら辺は神経使って今でも作らせています。」
と応えた。すると近田は更に興味を掻き立てられるように
「女性と男性とではどのように化粧する心理が違うんでしょうね?」
と追求していくと、吹上は
「要するに女性の場合自分の好きな男性にどう見られるかといことと、同性からどう評価されるかということが男性の比ではなく大きいですからね。」
と言った。それに対して近田は
「何か雑誌で読んだことがあるんですけど、女性化粧品の容器のデザインって、女性が無意識に男性器を連想するようにしてあるって本当ですか?」
と聞いた。それに対して吹上は
「ええ、それもありますね。要するに女性は男性よりも触れられ、触り返すということで愛情を確認していますからね。それは男性よりも大きいことです。だから女性は男性の手をまず見て自分がどう触れられるかということを一眼で見抜くんです。それと男性に囁きかけられるために男性の声質に拘るんですね。」
特に島田のようなタイプの人間にとって、およそ俳句を作る従来のイメージとこの二人の会話は次元を異にするものであったろうが、若い世代にとって季語とかも俳題にしてもどんどん変化してきているので、この二人の会話はそれなりに彼らの世代の俳句を作るモティベーションを象徴してもいた。
本堂に設えられた弥勒菩薩半跏思惟像は表面の木目が艶っぽい表情を際立たせていた。本堂に入る前に更に別の拝観料を支払い皆で見てきた国宝桂宮院本堂の後で拝観したこの像は、桂宮院本堂に到着する道すがら交わした若い世代の二人の会話内容を重ね合わせて眺めると男性と女性の触覚的邂逅を超越したエロティシズムを私に感じさせた。それは世界が虚構めいて見えるのに、世界そのものに白けた印象を私に抱かせるのではなく、その虚構めいたこと自体が生々しいリアリティーを現出させるような感じだったのだ。つまりそれは女性が愛しいものを愛撫した後で示す愉悦の表情のようにも見えたが、愛しい女性に愛撫された美少年が示す愉悦の表情のようにも見えたからである。しかしそれは仕掛け的な美でもなかった。
その虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺に次いで訪れた最も他の名所旧跡以上に外国人観光客が多く訪れていた名寺龍安寺で確固としたものとなった。虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺正門で掴まえたタクシー二台に先に発車した方に近田と吹上と桑田が、そして後続に私と須賀と島田が乗って太秦撮影所を通り過ぎ、仁和寺をも通り過ぎて到着した臨済宗妙心寺派の名寺龍安寺の石庭に池沿いに歩いて到着した時により説明しやすい形で私に迫ってきた。
龍安寺の石庭が見られる縁側より手前に視覚障害者のために触ることが出来る石庭のミニアチュールが置かれていて、そのミニアチュールの配置と現実の石庭の配置が相似配置であることが、私に虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーが理窟っぽくはないものの説明しやすい感じの美として私に迫ってきたのだ。私にとって世界そのものが虚構めいて見えることに神経質であった二十代にはそれらはそう感じさせなかったかも知れない。率直にそれが仕掛けられてはいるものの自然的美と映ったことだろう。しかしその時の私にはそれは説明しやすい構成美と映ったのだ。勿論それは否定的な意味でではない。しかし自然に感動するというよりは自然に理解出来るという感じだったのだ。まさにその私の気持ちを代弁してくれるように石庭を目にした瞬間島田が
「巧い配置だな。」
と誰にも悟られないような小声で呟いたのを、しかし私だけは聞き逃さなかった。
二十分くらい石庭を縁側から眺め、ぼんやりと深呼吸をしてから石庭に配置された石を交互に凝視しながら過去を追想していた時私以外の五人がどんなことを考えていたか、それは彼らが私を含めた五人がどんなことを考えていたかを想像するのとそんなに変わりないだろうが、そのほぼ同じだろうという考えが六人皆に思い巡らされていたかも知れないという終ぞ確認し得ないにもかかわらずそうに違いないという思い込みが私の中で飽和状態に達してきた頃私以外の五人もまるで私と同じように考えていたかのように私たちは示し合うかのように最終訪問地である妙心寺派の本山である妙心寺に向けて竜安寺の入り口脇に待機していたタクシーに乗って向かった。
二台のタクシーの先発に私と吹上と近田が、後発に須賀、島田、桑原が乗った。近田が吹上の会社に興味を持ち、色々な質問をしていた。
「今経営なさっている吹上さんの会社の創業者はどなたなんですか?」
すると吹上は
「私が二代目で、先代は今別の香水のメーカーを経営なさっているんですが、その人が一代で作り上げた会社を私が引き継いだ形ですね。」
と言った。
タクシーは円町駅の前を通り過ぎ、右折してさっきまでよりは少し細い路地に入り込み、暫く直進すると妙心寺が見えてきた。妙心寺のような中道の集合寺は林下と呼ばれる。その他にも京都では大徳寺などがそうである。広隆寺よりは新しいが、龍安寺よりは古く、花園天皇が建立し、関山慧玄が初代住職である。竜安寺もこの本山に属する寺である。妙心寺は権力者の側にも大衆の側にも阿ることのない中道を貫いてきた宗派として知られている。
そういう意味では私は翻訳業を通して、経営者の考えというものを多く伝えてきたし、翻訳されたものを読む側は大衆であることが多かった。しかしある日突然私は経営者に成りすますことを強いられた。希望すれば断ることも出来た筈だ。しかし報酬の高さに私は惹かれたのだ。そして経営権という権力の旨みに酔いしれたかったのだ。そう思っていると吹上に対して先ほどからの会話の続きで近田が
「私もいつか吹上さんのように自分の手で会社とかを動かしてみたいですよ。」
と言うとすかさず吹上が
「私も前の社長が私に新しい事業をするために今までの自分の社を引き継いでくれないかと頼まれた時、経営が楽しいものだとかなり期待していたんですけれど、今はちっとも自由なんてないということを充分理解出来ますね。社会の中でのわが社の一定のヴァリューとか要望とかによって自分たちの社の存在理由が生じているわけだから、自由気侭というのとは本質的に最もかけ離れているんですよ。寧ろあまりしたくはないようなビジネス上の雑事に追われているそんな感じなんです。それはそれまで期待していたようなほんわかとした期待を打ち砕くに充分なものだったですね。楽しいというのとは程遠く、辞めたくなることも多いのにもかかわらず、自分個人の主観的意見なんて一切言えない。それどころか自信がなくなっても簡単に辞めたくても辞められないという雁字搦めの状況に常に身を置いているって感じなんですよ。憧れるようなタイプの立場じゃ全くないですね。」
とほとほと経営者の辛さを痛感したような心持の謂いを近田に返した。それに対して近田は
「そんなものなんですかね、まあそれは言えるかも知れないですね。私くらいの生活が一番気楽かも知れないですね。」
と言ったが、それに対して吹上は格別の反応を示さなかった。
その時の二人の意見を私は理解出来る気もしたが、現在している生活の経済的基盤とは偽者としての活動によって得たものであり、実際は島田が前日に私に依頼してきて承諾したものの、それまでは皆に今していると公言した仕事というのは全部偽りである。確かに再び纏まった翻訳業務を勤しむことが出来ること自体にはある期待感があったが、吹上の気持ちを理解出来る風を誰に対しても示してはいけないと思った。それに自分は山田に全てを委任して降りてきたことなのだ。
アメリカではまだ成功していない人たちがバーなどで自由に自分の夢を語ることがそれほど不自然ではない国民性である。しかし日本人は最近では大分そういうこともなくなってきたとも言えるが、依然夢を語るにしても大それたことを語ることを憚るということが美徳である。あるいはあまり大それた欲望を持たないということがそもそも慎みと受け取られることを知っている。そこがアメリカ人と違う。しかし権力を真に持っている人たちはノブレス・オブリッジがあり、奇想天外なことを語ることが憚られている。だからそういう人たちが真に心の奥底の欲求を語り合えるのは趣味の集いとか、地域社会での社会人同士のコミュニティーであろう。日本人も大多数の人々は趣味の集いでは真意を告白し合えるだろう。尤もそういう場合でも夢を大胆に語るよりは諦め的気分を告白するということの方が庶民は多いかも知れない。そしてその時私は趣味の集いにいる自分を振り返りながら、しかし少なくともこういう場所での人間の会話というものは、アメリカ人と日本人の間でも然程の違いはないだろうとそうも思った。
妙心寺も東寺や広隆寺と同じで、各棟に入る度に拝観料を別料金として取られた。その拝観料を皆と一緒に払いながら、私は沢柳と共犯関係にあるということをつくづく思った。そうなのである。私はある程度大それた犯罪をしてきたのだが、それは沢柳がかなりの悪党であり、自分の策謀を知って断る私に対する報復に対する私の側の恐怖が彼に協力させたと弁解する私にとっての余地をあまり説得力のないものにするくらい私の側にも好奇心があることを何よりも私自身が知っていた。私は一回くらいはそういう立場に身を置いてみたいと思っていたからこそ、あんな大それた摩り替わるということを承諾したのだ。それは山田にしても同じだろう。そう考えながら、吹上が自分の替え玉を心の中では探しているかも知れないと思ったり、もっとそれが発展して、いやそこにいた吹上自身が既に本当は誰か違う人物であり、吹上の替え玉かも知れないではないかとさえ考えたりした。しかしそれは次の瞬間自分たちほど大それたことをした者の行動を基準に全てを判断してはいけないという反省になり変わった。
私たちは本堂で雲龍図(狩野探幽作の天井画)と妙心寺鐘を寺の女性の解説つきで鑑賞したが、鐘の方が国宝で、その後鑑賞した浴室(明智風呂)と探幽の画は重要文化財であるが、鐘はただ床の奥に置かれてあって、鐘の音を録音したテープを聴くことが出来るだけであり、どちらかと言えば重要文化財の方に感動した。とりわけ雲龍図は見る角度によって表情を一変させる龍に込められた探幽の絵師としての執念を感じた。同じ敷地内にある退蔵院で如拙の画となる瓢鮎図と元信の庭を鑑賞してから、大心院で阿吽庭を鑑賞すると、日がとっぷりと暮れかけてきた。大心院では大柄な虎の猫がいたが、人に対する警戒心を捨て切っていなかった。大心院周辺の白壁で隔てられた歩道の赴きはまるで忍者映画のロケに相応しいという感じだった。
しかし私の心はこういう日本最大の禅寺でさえ自分が禅を組むことなど一生ないだろうということだった。
私たち皆は正門(南総門)を潜ると、ややあってJRの花園駅に到着し、山陰本線の普通電車に乗り、京都駅に戻り、そこから徒歩で十分くらいの予約してあった料亭に赴いた。
皆は五句ずつ無記名で投句し、六人全員の三十句の中から選りすぐった句を各自四句ずつ発表し合うという形式で行なわれた。
近田と吹上は若い世代に特徴的なこととして、観念的な句を作ったし(無記名なので最初は分からなかったものの、後で案の定観念的な句はこの二人のものと判明した)、他の全員の句からもそういう傾向のものを選抜していた。それに対して須賀と島田は古風な自然観察的な句をより選抜していた。桑原と私はそのどちらでもない寧ろ題材も使用語句も素朴なものを選抜する傾向だった。六時半から始まって二時間半後の九時にお開きということとなった。皆は料亭を出てそこで各自勝手に帰宅した。大半はお開きになってからは各自新幹線に乗るなりして帰宅したが、私だけは十一時ちょっと前くらいに京都駅を出発する高速バスに乗るために暫く時間を潰すために大津まで一旦電車で乗って行き、駅近くの24時間のファミレスで時間を潰してから再び京都駅に戻り、バスに乗って東京駅まで行き、そこから朝一で成田エクスプレスに乗り、正午前の飛行機でシンガポールのマンションへと戻り三泊二日の学生的な京都旅行を終えた。
しかしそのように申告し合うという対話状況とは、実際ビジネスでは殆ど見られないことである。尤も翻訳家でいた頃には、プライヴェートな報告をし合うということもないことはなかったが、やはり大半が翻訳する必要に迫られるものとはビジネス上での形式的な遣り取りだった。だから本音のぶつけ合いと言っても、実はビジネス上と、オフの時間とでは同じ集団と言っても、全く性格が異なってくるということは極めてその当時の私にとっての興味深いことだった。しかしもっと重要なこととは、私たちはあくまで他者と接する時には、それがビジネスであれ、オフの時間であれ、完全にプライヴェートになることも出来なければ、自己本位を百パーセント曝け出すということもあり得ないということである。
いやそれどころか私にとってであるが、一人でいる時でさえ私は常に私の中の他者の存在に「私自身」が晒されていることに自覚的ではない時間など生まれてから一度もなかったと言ってよい。それは私に固有の感じ方なのか、それとも誰しもそう思うものなのかということは、たとえ報告し合っても本当には確認し合うことが出来ない。
ホテルそのものはバスで京都駅まで行ってそこから徒歩で到着してチェックインしたのだが、かなり立派でそう安価ではない宿泊費から言っても充分宿泊客の要望に答えるものだった。一緒にホテル内にある温泉に入ったが、その時一緒にいた桑原と須賀と近田と吹上という島田を除く野郎の宿泊客同士の会話は他愛無いものだった。しかしそんな会話をする心の余裕も実際スカイスレッダーCEО替え玉時代には全く持つことが出来なかった。しかしこの心の緩みは気をつけねばならないとも思ったが、私は既にサハシー本人になりすますこと自体の方に慣れ、却って素の自分でいるということの方にどこか心の落ち着かなさを感じ取っていたのだ。だから逆に俳句を作る者同士という関係が意外といい息抜きになったことも確かだ。つまり五七五という句形式を通して虚構的世界を構築すること自体が、素でいる自分があるかも知れないという恐怖に対する予防線となっていることが俳句仲間同士の会話自体から理解することが出来たからである。
しかし私の隣の椅子に座り、頭にシャンプーをつけて掻き回してからお湯をかぶって話しかけてきたのが桑原だった。
「河野散見さんは外国生活経験が結構豊富なんですか?」
そう桑原は言った。桑原は自身著名な写真家で、世界中を飛び回っている。その男が私にそう言ったのだ。私はそれまで須賀以外には会話をあまりしていなかったが、その一言は一気に私に構える態度を作らせた。そういう風に申告したこと以外の会話をするということはある程度一日行動を共にした者同士の必然であったが、いざそう切り出されると私は内心たじろがざるを得なかった。
「どうしてそう思われるんですか?」
そう私が白を切ると
「だって、河野さんは、いや郷田さんでしたか、翻訳家に仕事を依頼する仕事なさってらっしゃるんでしょう?」
そう桑原は切り込んできたので私は
「まあ、そうですが、日本での仕事が殆どなので。」
と誤魔化した。それは二年前までは本当のことだった。確かに私はサハシーの替え玉になって以来各国を飛び回り、リタイア後もタヒチ、フランス、シンガポールと飛び回った。しかし翻訳家業務時代にはただ一度オーストラリアを業界の親しいクライアントと観光旅行をしたことがあるだけだった。私は必死にその頃の自分に気持ちから戻ろうと試みた。しかし桑原は世界中を飛び回る仕事人としての嗅覚から私のここ二年くらいの間に生活を直観的に嗅ぎ取ったようなのだ。しかし幸いそれ以上桑原は私のことを追及してくることはなくただ
「そうですか。」
とだけ言った。
後ろでは句会のお開き前に質問したことがきっかけで一番若い近田が少し年長の吹上に取り入るように色々質問していた。
「新入社員なんかの選別基準はどうなさっておられるんですか?」
すると吹上は
「まあ、化粧品のメーカーですから、ケミカル関係の技術者を大卒、院卒とか色々推薦も含めて採用致しますね、それに選別に気を遣うのは開発部だけでなく営業部や販売促進部なんかでは経済学、経営学だけでなく心理学の修士とかも採用していますね。販売戦略的に女性相手の場合には独身女性の心理とか既婚者の心理とかを予めリサーチした上で色々デザイナーやコピーライターたちと協同で作業しなくてはならないですからね。大学の四年だけの奴は一流大卒の連中でも使い物にならないですからね。」
私たちはその日は私と須賀が二人部屋に、近田と吹上、桑原が三人部屋にそれぞれ宿泊した。
翌日、私たちは正門が開く時間八時半に東寺正門で待ち合わせ、ホテルのチェックアウトを各自勝手に済ませ、一人で行くも、誰かと一緒に行くも自由とした。前日のお開きの際にそういうことにしていたのだ。島田のように自宅に一旦戻った者もいたからである。
私は誰とも一緒にはチェックアウトせずに一人京都駅から近鉄電車で一駅目の東寺迄乗り、後は徒歩で東寺正門へと向かった。
須賀はホテルのロビー脇に設えられていたラウンジで桑原と何やら話し込んでいたので、私は一切両人との挨拶せずにホテルを出たが、先にホテルを出たので私の方が先に東寺に到着するかと思っていたら、私が正門に到着した時桑原と須賀は既に先に到着していた。きっと二人でタクシーに乗ってそこまで来たのだろうと私は思った。
私は電車に乗っている時も、徒歩の時も妙に昨日の温泉での桑原からかけられた一言のことが気にかかって、何故彼はあんな質問を私に突然投げかけたのだとうとそればかりずっと考えていた。
桑原が披露した句は流石プロ写真家なだけあって、一瞬のシャッターチャンスを狙ったかのような歯切れのよい、切れ字を巧みに利用した句だったと私は彼のこと共に思い出していた。
私が到着してから三四分くらいしてからほどなく近田と吹上が共に到着した。島田だけ七分くらい他の皆から遅れて到着した。
「申し訳ありません、ちょっと遅れてしまって。」
と頭を下げて彼は走って正門の方へやって来た。
皆が揃ったので拝観料を支払い、内部の庭園が見える敷地に入った。そして五重塔、金堂、講堂、大師堂などを順次観て回り、最後に敷地から出て直のところにある観智院を拝観した。中には五大の庭と呼ばれる石庭が敷き詰めてあり、唐から恵運が請来した五大虚空菩薩像や江戸期の愛染明王像などが壮麗な雰囲気を醸していたが、それ以上に皆の眼を釘付けにしたのは宮本武蔵が逗留して描いたと言われる襖絵、「竹林の図」、そして床の間にある「鷲の図」であった。大分掠れてしまっていて元通りの図のイメージはある程度想像するしかなかったものの、一乗寺下がり松の決闘で敵方の子どもの大将を殺して、追手を逃れて過ごしていたそこで、一体武蔵はどういうことを考えてその図を描いたのかと私は思った。武蔵の気持ちが少し理解出来る気がしたのだ。勿論ただの錯覚かも知れない。しかし追手は今のところないがと私は思ったが、武蔵の孤独の意味は理解出来る気がしたのだ。武蔵は五大の庭の亀や龍を象った石の配列を眺めながら、図を描いていただろうか?そう思って武蔵の絵から石庭へと視線を移動していた時隣で武蔵の絵を見入っていた島田が私に話しかけてきた。
「河野さんはプロの翻訳家の斡旋をされているのでしたら、ご自分でも翻訳をなさるんでしょう?」
突然のプライヴェートな質問にいささか面食らいながらも私は真摯に返答した。
「ええ、以前は一人で翻訳業務をこなしていましたから。」
するとそれに応じるように島田は
「実は私同業者の古物商の知人から長文の英文を翻訳してくれる人を探していると言われて、実は私その人には昔仕事関係で世話になったこともあって、もしよかったらその人から誰かいい翻訳家いないかという件をお引き受け下さらないでしょうか?」
と私に問いかけてきた。私はシンガポールでの何も特に仕事をしない日々に少し飽きてきていたので、その質問に対して
「別に構わないですが、どれくらいの量の仕事なんでしょうか?」
と島田に聞き返すと島田は
「ええ、何でもそれほど厚くない単行本一冊文くらいだそうです。よろしかったら、その本をスキャンでコピーして河野散見さんへメールで添付送信して貰うように言っておきますが。」
と返答した。それに対して私は久しぶりに纏まった翻訳を出来るのはそれなりにわくわくしもしたので、一も二もなく即座に
「ええ、是非そうして下されば、後はいつまでに仕上げて提出すればよいかだけですが。」
と返すと島田は
「そうですね、ではその旨も先方に伝えておきましょう。」
と私の要望に応えるようにそう言った。
私はそろそろ半年くらい替え玉CEОから降りてたつ当時仕事を何もせずに過ごす日々にシンガポールのマンションで過ごしながらも固有の退屈さを持ち始めていたのだ。私がアメリカで過ごした期間に稼いだ報酬は全てスイスやケーマンに預金していた(沢柳には一銭も支払われていなかったし、それは私との間での彼との約束だった。彼は既にその当時以上の報酬を要求していなかったのだ。そして彼自身の口座以外に私のための口座を私が着任した時に拵えたのだ)し、そのことを敢えて日本の税務署は問い質すことはないだろう。そもそも私はその当時もずっと金城悟として申告していたのだから。
しかし殆ど以前住んでいたマンションには戻っていなかったし、そのことを不振に思う者もいただろうが、年に一回だけ確定申告で税務署を訪れればそれでよい。アメリカ時代にもそういう風にして年に何回か纏まった大きな翻訳の仕事をサンタフェの豪邸の書斎でこなしてメールで完成する都度クライアントに送っていたのだ。例の部屋で一日何もせずに過ごす一年が過ぎた頃私は一度確定申告をし、その後、日本にCEОとして日本に滞在時に確定申告のため一日だけオフにして貰いこっそりかつてのマンションにも行き、そこで書類を作成して税務署にも行った。そして再び日本滞在時に過ごすマンションに戻っていたのだ。
そして金城悟として久し振りにする仕事を得たというわけだ。シンガポール在住のビジネスマンという郷田守として頼まれた仕事をしてそれを金城悟として申告すればよいのだ。一々そんな細かいことまで気にする奴などいるものか。第一翻訳家は結構偽名で行なっている作家とかもいるし、またペンネームを使用する者も多いのだ。
しかし私はその日はそれ以上先にこなすことになる仕事に対してあれこれ想像することはよした。折角京都までやってきて、吟行をしているのだ。手元に持ったメモ帳に今日の午後する句会で発表する句を捻り出さなくてはならない。今日は既に須賀が予約している料亭で食事しながら、句会である。
その日は小春日和だったので、皆の同意で西本願寺まで徒歩で行くことにしたのだった。そして西本願寺では皆で記念写真を撮り、次は東本願寺に向かった。到着した東本願寺では護影堂が大規模な改修工事中であり、全容を見ることが出来なかった。それは銀閣寺でも同じだった。観音殿が修復工事中だったからだ。それはこのような国宝の保存という意味では致し方ない現実ではあったが、ホンモノの文化の構造を将来に渡って維持していくということ自体が、どこかニセモノを作り替えていくことでしか維持され得ないということに存するある種の人間社会の欺瞞性を私はしみじみと感じざるを得なかった。
そこから更にバスで当初行く予定であった三十三間堂へと皆の合意で徒歩で行くことになった。天候次第で幾らでも当初の予定を変えられるというところが観光旅行のいいところである。
東寺からスタートして三十三間堂へと至る徒歩の旅は吟行をするには天候的にも恵まれたせいか、持って来いのものであった。三十三間堂の入り口が遠くから見えてきた時には既に十一時半になっていたが、その日のそれまでのルートは大体京都市街地を縦に貫く感じのものだった。
前日は島田と吹上、桑原と近田という組み合わせで隣り合って歩いていたが、その日は近田がいやに吹上を年齢の近い先輩として持ち上げ、関心を持ったようだったし、島田も島田で桑原をほぼ同世代として相互に古物商とプロカメラマンという全く異なった職業であるが故の好奇心を持ち合って、話が弾んでいるように思えた。
近田が
「吹上さんは経営者でいらっしゃるのにどうしてそんなに俳句とか文藝的なことにも造詣が深くていらっしゃるんですか?」
吹上は前日の俳句との出会いを相互に告白し合ったとき、ただこの会合の下となっている俳人の句を俳句雑誌で見かけていいなと思ったとだけ述べていたので、もっと詳しく近田にしてみれば知りたかったのだろう。しかし吹上は厭な顔も見せず
「元々私の父は昔大手出版社に勤めていたんですよ。その出版社が倒産して、別の出版社の一部になったんですが、その方針が少し父が編集補佐をしていた頃のものと食い違っていたし、そうなっていくことを予想出来たので、併合する社からは居残っていいと言われていたのだけれど、当時父は、父と共にその後の身の処し方に困窮していた一番親しかった同僚と共に自費出版を中心にする小さな出版社を経営しだしたんですよ。結局父はその自分たちで立ち上げた社も経営が巧いようには運ばなくなって、駄目になる寸前に会社毎知人の結構儲かっていたデザイン会社に売ったんですよ。そしてその時は僕ももう大人になっていて、後は余生を俳句でも作ろうということになって、ずっと句作三昧な生活だったんですよ、父は宿毛の生まれで少年時代に松山に祖父の事業のために松山に引っ越してきて松山高校時代に入学し、その高校で英語を教えていた先生が俳句を作っていた人で、その人に人格と才能に惹かれて、俳句作りを指南して貰っていたところ父が勤めることになって結局倒産して別の社に買い取られた出版社で編集長をしていたある句界では知られた俳人を兄弟子として知遇を得たんですよ、それが父の俳句作りをより情熱的なものにしていったんですね。つまり父の俳句の情熱は将来私にもそういう素養を持たせたいということで、私を幼少の頃から句会とかに連れて行ってくれたんですよ、それこそ小学生の頃からね。」
吹上は前日句会になるまでは控えめだったが、近田が質問してそれに返答してから、一気に饒舌に語りだし、近田が兄貴分的に彼に慕う態度を見せていたので、そのことにも気をよくしていたようだった。
「それにしても経営者というお立場と、俳句ってどこか全く違うようにも思いますけれど、そういう立場の人って結構趣味で俳句を作っている人は大勢いらっしゃるんですか?」
と近田が質問すると吹上は
「私も先行きどうなっていくか分からないんですけれど、俳人っていうのはある意味では世間を隠遁して生きていく覚悟の人の方が多いですよね、その生き方が逆に経営者とか責任ある立場の人にとってある種の理想のように映ったり、自分がリタイアした後の人生をどう過ごすかという指針になったりするんですよ。勿論私は経営者としてはまだまだリタイア後を考えてはいけない立場の人間ですが、いつかはそういう時も来るでしょう?ほら政治家とかが文学者や書家や茶人の生き方とか、その詩や書や作法に惹かれることがあるじゃないですか。それと同じじゃないかな。」
と返した。それに対して近田は妙に納得したような表情で
「それはいざという時の一大決心とか責任の取り方とか引き際とかにおいて政治家たちが古代の武将や文学者の生き方を参考にするような意味でですね。」
と賛同の意を示しながらそう言った。すると吹上は
「まあ、そう格好よいものでもないですけれどね、私たちは。」
と謙遜してそう言った。
その時須賀がもう目の前まで三十三間堂が近づいていたのに急に
「もう後十数分で正午です。どうです。まず昼食を取ってからゆっくり見学するというのは?」
と提案した。すると桑原が
「そうですね。僕も久し振りに大分歩いたので腹が減ったな。」
と言った。桑原は島田なんかよりはずっと世界中歩き回っているので、一番疲れないだろうに、皆を休憩させたいという須賀の申し出を無碍にしないためにそう言ったのだろうと私は思った。
しかし吹上に熱心に話しかけていた近田も
「いいですね、どこで食べますか?」
とさも待ってましたとばかりに嬉そうに言ったので、皆頷いて同意を示し
「そこの店にしましょう。私も以前そこで食べて結構おいしかったんですよ。」
と言ったので、皆逆らう者も出ず、その蕎麦屋で食事することになった。皆が店に入って二つのテーブルが一緒に合わせられた格好のところに陣取っていると女将さんがやってきてメニューをテーブルの上に差し出した。それを見てめいめい注文する品を決めて、口々に少し奥の食べ物を差し出す口の傍に待機している女将に告げた。女将はそれを更に奥にいる料理人(多分夫だろう)に口早に告げた。
十分もしない内に皆の前に注文した品が運ばれた。私は鰊蕎麦を注文した。皆が注文の品が来た順に食べだしたので、私もニ三人未だ来ていない者もいたが、構わず食べ始めた。麺が延びてしまうから早く食った方がいいというわけだ。食べると京都の出汁の取り方は薄味でコクがあった。シンガポールにもアメリカにも蕎麦を出す店はあったが、大して美味くなかった。中華料理店の方が気が利いている気がしたが、京都で食べた蕎麦は東京の蕎麦より柔らかい気が私にはした。
店を出てすぐ眼と鼻の先である三十三間堂の構内に拝観料を払って入った時十二時半まで十二三分あった。私はこの細長い建物を見た時私が通っていた小学校の校舎を思い出した。
この寺院は1165年に後白河上皇によって建立され、脇に聳える南大門は豊臣秀頼によって加設された。
皆細長い廊下を歩き、一体一体見ていったが、片手に持っている俳句をメモする手帳に時々書き込んでいたのは須賀と島田と桑原の三人であり、その日はあまり若手は書き込むことに精を出していないようだったが、昨日もバスの中とかでしきりに書いていたから、その日もそうなのだろうと私は思った。時々近田が吹上にあの像が誰それに顔が似ているとか何とか囁いて二人であまり声を立てないようにこっそり笑っているところを見ると、大方私か島田か桑原か須賀に似た顔を発見していたのだろう。
歴史趣味的な俳句を作ることなど私はなかったが、そのような趣旨に関心がありそうなのは前日の句会の時での皆の会話から古物商の島田と須賀であることだけは皆認めていたが、桑原はどうか定かではなかったものの、それほど好きではないのではないかとは彼の取った写真を見れば理解出来る気もしたが、彼はしきりと句を十一面千手千眼観世音を見ながら捻り出しているように見えた。一人言のように何かぼそぼそ呟いていたが、所々に示された解説の札の字を読んでいたのだ。
「運慶の長男、湛慶による82歳の時の作か。」
と感慨深げに呟いていたが、八十二歳とは彼らすら未だ一回り以上生きねばその年齢にはならないのだ。
しかし秀頼が南大門を作ったということは秀頼の時代には既にこの寺院は名所旧跡だったわけだし、東寺にしても、宮本武蔵の時代ですら古代のものだったわけだ。尤も空海が造営した後から盛んになっていったわけだが、その空海から武蔵まででもかなりの時間が経っている。五重塔も金堂も大師堂も壬生地区が湿地であるために追手を逃れて潜むのに都合がよかった武蔵にとってその地区に潜んで生活するにしても、毎日それらの建立物を眺めて生活したということにある感慨を私は抱いていた。しかし何故そんな気持ちになったかということが私にはよく自分でも分からなかった。ただ武蔵の孤独がどこか理解出来たような気があの鷲の図と竹林の図の筆跡を見た時そう思ったのだ。今の私の気持ちに似た気分で武蔵は今朝訪れた観智院を過ごしたのだ。観智とは心でものを見るという心得のことである。昼食で食べた蕎麦が大分こなれて来た時そう想起した時、私は前日の桑原の隣で髪の毛を洗いながら私に尋ねた質問、私の海外生活は他意のないものだったかも知れないと思い直したのだ。自分に疚しいところがあるとどうしても他人の一言が皮肉とか揶揄とか懐疑のように思えてくるものであると私は反省した。
皆は南大門を前にして再び須賀の手配で記念写真を須賀と桑原のデジカメで撮って、そこから京都駅までバスで一旦戻り、そこから地下鉄と市電を乗り継いで広隆寺へと向かった。京福嵐山線の太秦広隆寺で下車すると狭い街道を横断すると眼の前は広隆寺正門である。そこを潜るとそこは鮮やかな紅葉の木々が眼に入ってきた。皆三十三間堂の時もそうだったが、しきりとデジカメで紅葉を撮影した。
桑原はカメラマンらしくいかにも迅速でシャープな視線を被写体に走らせ、周囲を畏敬の念に包み込んだ物腰でシャッターを切っていた。彼はいかにもハイブローな趣味が似合うという感じの育ちのよい不良壮年っぽい雰囲気を湛えていた。それに対し、何をしても愚鈍な感じを醸し出す島田は同業者たちとカラオケで演歌を大声張り上げて歌い出すことがいかにも似つかわしい感じの壮年だった。
私がロメオスと提携に踏み切ったのは彼が幼少の頃ニューメキシコ州へとメキシコからリオ・グランデ川を渡って密入国を果たしたウェットバックである固有の悲愁故に私自身の世界への懐疑の目から見ても共感出来るという私の感情からだったと思う。その意味では桑原も明らかに直観的にロメオス・タイプであることが私には察知させられた。要するにどこか教養ある家庭に育った感じがするのである。こればかりは経済的に豊かな家庭というのとは違う雰囲気を人に与える。いくら経済的に恵まれた家庭に育ってもどこか下品さを漂わす雰囲気こそ島田に似つかわしい形容だった。島田によく似たタイプというのはアメリカCEO時代には一人もいなかった。ジム・クラークもマイク・ストーンランドも皆教養ある家庭に育ち、両方ともワスプだったが、大学時代にはロックや現代アートに親しんだそういうタイプの人たちだったが、強いて島田と同類を挙げろと言われれば、それは伊豆倉の下で会い、替え玉時代にフリスコで私に声をかけてきた飯島くらいのものである。
確かに人を類型で見てはいけない。しかし生き馬の目を抜く判断に次ぐ判断の日々において、私には一瞬で出会う人の本質を見抜く術を身に着けてきていた。しかしそれは別の角度から見れば本当に相手を見抜けずに大した者でもないのに、買被ったり、逆に本当は信頼出来る好漢であるのに訝しい思いで敬遠させてしまったりするような出会いのニアミスをしてしまうこともあるということである。
しかし私にとって近田ややや年長の吹上は私よりは若いので、見抜く、見抜けないというレヴェルではなかった。しかしそれはあくまでも半分正しく半分そうではなかったと思う。だが広隆寺境内でのその時の二人の会話はそういうレヴェルのものではなかった。
二人ともデジカメでしきりに周囲を撮影していたが、一旦撮影を中断し、また近田が吹上に声をかけた。
「紅葉っていいですね。日本人の心に響くっていうか。」
すると吹上が近田に
「近田さんはご出身はどちらですか?」
と尋ねた。すると近田は
「成田です、千葉県の。」
と返答した。そして続けて
「吹上さんはお父さんと同じで松山ですか?それにしては訛りがないようですね。」
と尋ねると彼は
「私は父が上京してから生まれたので、東京の近郊出身です。仮に松山で生まれたとしても、恐らく父自身が宿毛生まれで、思春期になって松山に引越してきたので、それほど訛りはなかったでしょうね。松山弁の方が遥かに愛媛県の他の場所、例えば宇和島とかよりも関西弁に近いですね。」
と返答した。それに対して近田は
「僕や僕の両親の田舎は私の人生と共に激変しましたからね。昔は結構訛りがあったみたいだけれど、今の若者はさほどではないですよね、東京からも大勢人がやってきますからね。勿論田舎の人同士ではそっちの言葉も使えるだろうけれどね。」
と言ってから更に
「でも吹上さん、化粧品って男性と女性とでは戦略が違うんでしょう?」
と言った。すると吹上は
「そうですね。基本的にデザインも変えなくてはならないですね。僕は元々心理学専攻でその知識を買われて入社したんで、そこら辺は神経使って今でも作らせています。」
と応えた。すると近田は更に興味を掻き立てられるように
「女性と男性とではどのように化粧する心理が違うんでしょうね?」
と追求していくと、吹上は
「要するに女性の場合自分の好きな男性にどう見られるかといことと、同性からどう評価されるかということが男性の比ではなく大きいですからね。」
と言った。それに対して近田は
「何か雑誌で読んだことがあるんですけど、女性化粧品の容器のデザインって、女性が無意識に男性器を連想するようにしてあるって本当ですか?」
と聞いた。それに対して吹上は
「ええ、それもありますね。要するに女性は男性よりも触れられ、触り返すということで愛情を確認していますからね。それは男性よりも大きいことです。だから女性は男性の手をまず見て自分がどう触れられるかということを一眼で見抜くんです。それと男性に囁きかけられるために男性の声質に拘るんですね。」
特に島田のようなタイプの人間にとって、およそ俳句を作る従来のイメージとこの二人の会話は次元を異にするものであったろうが、若い世代にとって季語とかも俳題にしてもどんどん変化してきているので、この二人の会話はそれなりに彼らの世代の俳句を作るモティベーションを象徴してもいた。
本堂に設えられた弥勒菩薩半跏思惟像は表面の木目が艶っぽい表情を際立たせていた。本堂に入る前に更に別の拝観料を支払い皆で見てきた国宝桂宮院本堂の後で拝観したこの像は、桂宮院本堂に到着する道すがら交わした若い世代の二人の会話内容を重ね合わせて眺めると男性と女性の触覚的邂逅を超越したエロティシズムを私に感じさせた。それは世界が虚構めいて見えるのに、世界そのものに白けた印象を私に抱かせるのではなく、その虚構めいたこと自体が生々しいリアリティーを現出させるような感じだったのだ。つまりそれは女性が愛しいものを愛撫した後で示す愉悦の表情のようにも見えたが、愛しい女性に愛撫された美少年が示す愉悦の表情のようにも見えたからである。しかしそれは仕掛け的な美でもなかった。
その虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺に次いで訪れた最も他の名所旧跡以上に外国人観光客が多く訪れていた名寺龍安寺で確固としたものとなった。虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーは広隆寺正門で掴まえたタクシー二台に先に発車した方に近田と吹上と桑田が、そして後続に私と須賀と島田が乗って太秦撮影所を通り過ぎ、仁和寺をも通り過ぎて到着した臨済宗妙心寺派の名寺龍安寺の石庭に池沿いに歩いて到着した時により説明しやすい形で私に迫ってきた。
龍安寺の石庭が見られる縁側より手前に視覚障害者のために触ることが出来る石庭のミニアチュールが置かれていて、そのミニアチュールの配置と現実の石庭の配置が相似配置であることが、私に虚構めいたこと自体の生々しいリアリティーが理窟っぽくはないものの説明しやすい感じの美として私に迫ってきたのだ。私にとって世界そのものが虚構めいて見えることに神経質であった二十代にはそれらはそう感じさせなかったかも知れない。率直にそれが仕掛けられてはいるものの自然的美と映ったことだろう。しかしその時の私にはそれは説明しやすい構成美と映ったのだ。勿論それは否定的な意味でではない。しかし自然に感動するというよりは自然に理解出来るという感じだったのだ。まさにその私の気持ちを代弁してくれるように石庭を目にした瞬間島田が
「巧い配置だな。」
と誰にも悟られないような小声で呟いたのを、しかし私だけは聞き逃さなかった。
二十分くらい石庭を縁側から眺め、ぼんやりと深呼吸をしてから石庭に配置された石を交互に凝視しながら過去を追想していた時私以外の五人がどんなことを考えていたか、それは彼らが私を含めた五人がどんなことを考えていたかを想像するのとそんなに変わりないだろうが、そのほぼ同じだろうという考えが六人皆に思い巡らされていたかも知れないという終ぞ確認し得ないにもかかわらずそうに違いないという思い込みが私の中で飽和状態に達してきた頃私以外の五人もまるで私と同じように考えていたかのように私たちは示し合うかのように最終訪問地である妙心寺派の本山である妙心寺に向けて竜安寺の入り口脇に待機していたタクシーに乗って向かった。
二台のタクシーの先発に私と吹上と近田が、後発に須賀、島田、桑原が乗った。近田が吹上の会社に興味を持ち、色々な質問をしていた。
「今経営なさっている吹上さんの会社の創業者はどなたなんですか?」
すると吹上は
「私が二代目で、先代は今別の香水のメーカーを経営なさっているんですが、その人が一代で作り上げた会社を私が引き継いだ形ですね。」
と言った。
タクシーは円町駅の前を通り過ぎ、右折してさっきまでよりは少し細い路地に入り込み、暫く直進すると妙心寺が見えてきた。妙心寺のような中道の集合寺は林下と呼ばれる。その他にも京都では大徳寺などがそうである。広隆寺よりは新しいが、龍安寺よりは古く、花園天皇が建立し、関山慧玄が初代住職である。竜安寺もこの本山に属する寺である。妙心寺は権力者の側にも大衆の側にも阿ることのない中道を貫いてきた宗派として知られている。
そういう意味では私は翻訳業を通して、経営者の考えというものを多く伝えてきたし、翻訳されたものを読む側は大衆であることが多かった。しかしある日突然私は経営者に成りすますことを強いられた。希望すれば断ることも出来た筈だ。しかし報酬の高さに私は惹かれたのだ。そして経営権という権力の旨みに酔いしれたかったのだ。そう思っていると吹上に対して先ほどからの会話の続きで近田が
「私もいつか吹上さんのように自分の手で会社とかを動かしてみたいですよ。」
と言うとすかさず吹上が
「私も前の社長が私に新しい事業をするために今までの自分の社を引き継いでくれないかと頼まれた時、経営が楽しいものだとかなり期待していたんですけれど、今はちっとも自由なんてないということを充分理解出来ますね。社会の中でのわが社の一定のヴァリューとか要望とかによって自分たちの社の存在理由が生じているわけだから、自由気侭というのとは本質的に最もかけ離れているんですよ。寧ろあまりしたくはないようなビジネス上の雑事に追われているそんな感じなんです。それはそれまで期待していたようなほんわかとした期待を打ち砕くに充分なものだったですね。楽しいというのとは程遠く、辞めたくなることも多いのにもかかわらず、自分個人の主観的意見なんて一切言えない。それどころか自信がなくなっても簡単に辞めたくても辞められないという雁字搦めの状況に常に身を置いているって感じなんですよ。憧れるようなタイプの立場じゃ全くないですね。」
とほとほと経営者の辛さを痛感したような心持の謂いを近田に返した。それに対して近田は
「そんなものなんですかね、まあそれは言えるかも知れないですね。私くらいの生活が一番気楽かも知れないですね。」
と言ったが、それに対して吹上は格別の反応を示さなかった。
その時の二人の意見を私は理解出来る気もしたが、現在している生活の経済的基盤とは偽者としての活動によって得たものであり、実際は島田が前日に私に依頼してきて承諾したものの、それまでは皆に今していると公言した仕事というのは全部偽りである。確かに再び纏まった翻訳業務を勤しむことが出来ること自体にはある期待感があったが、吹上の気持ちを理解出来る風を誰に対しても示してはいけないと思った。それに自分は山田に全てを委任して降りてきたことなのだ。
アメリカではまだ成功していない人たちがバーなどで自由に自分の夢を語ることがそれほど不自然ではない国民性である。しかし日本人は最近では大分そういうこともなくなってきたとも言えるが、依然夢を語るにしても大それたことを語ることを憚るということが美徳である。あるいはあまり大それた欲望を持たないということがそもそも慎みと受け取られることを知っている。そこがアメリカ人と違う。しかし権力を真に持っている人たちはノブレス・オブリッジがあり、奇想天外なことを語ることが憚られている。だからそういう人たちが真に心の奥底の欲求を語り合えるのは趣味の集いとか、地域社会での社会人同士のコミュニティーであろう。日本人も大多数の人々は趣味の集いでは真意を告白し合えるだろう。尤もそういう場合でも夢を大胆に語るよりは諦め的気分を告白するということの方が庶民は多いかも知れない。そしてその時私は趣味の集いにいる自分を振り返りながら、しかし少なくともこういう場所での人間の会話というものは、アメリカ人と日本人の間でも然程の違いはないだろうとそうも思った。
妙心寺も東寺や広隆寺と同じで、各棟に入る度に拝観料を別料金として取られた。その拝観料を皆と一緒に払いながら、私は沢柳と共犯関係にあるということをつくづく思った。そうなのである。私はある程度大それた犯罪をしてきたのだが、それは沢柳がかなりの悪党であり、自分の策謀を知って断る私に対する報復に対する私の側の恐怖が彼に協力させたと弁解する私にとっての余地をあまり説得力のないものにするくらい私の側にも好奇心があることを何よりも私自身が知っていた。私は一回くらいはそういう立場に身を置いてみたいと思っていたからこそ、あんな大それた摩り替わるということを承諾したのだ。それは山田にしても同じだろう。そう考えながら、吹上が自分の替え玉を心の中では探しているかも知れないと思ったり、もっとそれが発展して、いやそこにいた吹上自身が既に本当は誰か違う人物であり、吹上の替え玉かも知れないではないかとさえ考えたりした。しかしそれは次の瞬間自分たちほど大それたことをした者の行動を基準に全てを判断してはいけないという反省になり変わった。
私たちは本堂で雲龍図(狩野探幽作の天井画)と妙心寺鐘を寺の女性の解説つきで鑑賞したが、鐘の方が国宝で、その後鑑賞した浴室(明智風呂)と探幽の画は重要文化財であるが、鐘はただ床の奥に置かれてあって、鐘の音を録音したテープを聴くことが出来るだけであり、どちらかと言えば重要文化財の方に感動した。とりわけ雲龍図は見る角度によって表情を一変させる龍に込められた探幽の絵師としての執念を感じた。同じ敷地内にある退蔵院で如拙の画となる瓢鮎図と元信の庭を鑑賞してから、大心院で阿吽庭を鑑賞すると、日がとっぷりと暮れかけてきた。大心院では大柄な虎の猫がいたが、人に対する警戒心を捨て切っていなかった。大心院周辺の白壁で隔てられた歩道の赴きはまるで忍者映画のロケに相応しいという感じだった。
しかし私の心はこういう日本最大の禅寺でさえ自分が禅を組むことなど一生ないだろうということだった。
私たち皆は正門(南総門)を潜ると、ややあってJRの花園駅に到着し、山陰本線の普通電車に乗り、京都駅に戻り、そこから徒歩で十分くらいの予約してあった料亭に赴いた。
皆は五句ずつ無記名で投句し、六人全員の三十句の中から選りすぐった句を各自四句ずつ発表し合うという形式で行なわれた。
近田と吹上は若い世代に特徴的なこととして、観念的な句を作ったし(無記名なので最初は分からなかったものの、後で案の定観念的な句はこの二人のものと判明した)、他の全員の句からもそういう傾向のものを選抜していた。それに対して須賀と島田は古風な自然観察的な句をより選抜していた。桑原と私はそのどちらでもない寧ろ題材も使用語句も素朴なものを選抜する傾向だった。六時半から始まって二時間半後の九時にお開きということとなった。皆は料亭を出てそこで各自勝手に帰宅した。大半はお開きになってからは各自新幹線に乗るなりして帰宅したが、私だけは十一時ちょっと前くらいに京都駅を出発する高速バスに乗るために暫く時間を潰すために大津まで一旦電車で乗って行き、駅近くの24時間のファミレスで時間を潰してから再び京都駅に戻り、バスに乗って東京駅まで行き、そこから朝一で成田エクスプレスに乗り、正午前の飛行機でシンガポールのマンションへと戻り三泊二日の学生的な京都旅行を終えた。
Friday, October 30, 2009
<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑬
私はシンガポールでの生活に慣れてきた私がダミーから退いてそれなりに悠々自適な生活をし始めてから半年くらいたった秋のある日、日本からメールが届いた。私は私の居所を誰にも告げていなかったが、私が持ち歩くパソコン上でのメールには何人かのメル友たちと繋がりがあったのだ。一つは私が俳句を作るのが昔から趣味で、その俳句を投稿する会の仲間と俳句を通してメールの遣り取りをするというのがアメリカCEО時代から日課になっていたのだ。不思議とそういう遣り取りは、現役中は頭休めという意味合いしかなかったものの、辞めた後にはどこか生き甲斐のようになっていたのだ。それ以外に私自身が私のアイデンティティー(そんなものはとっくに失っていたにもかかわらず)を示し得る部分は皆無であったために、俳句仲間との繋がりがその唯一の接点だったのだ。
そのメールはこんな文面だった。
俳句の広場でいつもお世話になっている元会社員の須賀です。あなたの俳句にはいつも驚かされます。俳句が巧妙な五七五の言葉のトリックであるということのいい意味での素晴らしさに覚醒させられました。私が勤めていた会社も大勢の従業員をリストラすることを決行したようです。これから先一体世界はどうなっていくのでしょうか?
ところで今度一度京都で吟行を致しませんか?
私が組んだスケジュールを申し上げます。
集合場所以下徒歩 集合場所・南禅寺→永観堂→(哲学の道)法然院→銀閣寺
そこからバスに乗り、御苑内レストランで食事、食後数箇所の美術ギャラリーを巡り、こちらで手配した会館で句会。
夕食は各自自由、宿泊先は京都国際ホテル、
翌日は徒歩で東寺→西本願寺→東本願寺→三十三間堂付近のうどん屋で昼食後、バスで京都駅に戻り、地下鉄と市電で広隆寺、そこから今度はタクシーで龍安寺、そして再びタクシーで妙心寺、そこからは山陰本線で京都駅へ戻り、京都内の料亭で句会、閉会後各自解散。
とあった。その男は人生の遍路において妙味のある句を捻り出し味わい深い雰囲気を句からは漂わすガイだった。しかしその俳句の広場というブログは既に出版界、句界では著名な五十代の中堅の俳人が主催していたのだが、その中でも特に才能をその俳人に認められていた数人だけがSNSの句会に主催者の俳人から個人的に誘われ参加していたのだ。そして私もその男も主催者に誘われてそのSNSにも参加していたのである。だから句会では投稿しかそれまでしていなかったものの、始めて直に会うということはそれなりに興味が惹かれることである。それまで句作しか知らないその男、須賀紫卿と一度会うという試み自体はそう悪いことではないと私は思ったのだ。またそれだけの句をその男は快適ではあるシンガポールのマンション暮らしもそろそろ日本の風土に対する懐かしさに侵食され始めてもいたこともあった。
私にとってシンガポールがどのような歴史で、どういう精神風土であるかということは殆ど関心さえなかった。要するにマンションの高層階で他人から干渉されることなく快適に暮らすのに、英語が通じるのと経済的な意味でも最も相応しいという以外の一切の理由など私にはなかった。私にとってどこへ行くのにも便利で安定した経済状態と治安であるということ以外の思い入れはなかった。
麻薬関係の犯罪で刑罰が重く死刑も多いと聞いたが、私はスカイスレッダー時代から犯罪に巻き込まれることだけは殆どなかった(誰にとっても自分がしていることは犯罪ではないのだ)し、第一それほどたやすく他人を信用するタイプでもなかったために、変なかかわりに巻き込まれずに済んできたのだ。
しかしその句会の話をメールで読んで知った時、私は自分が日本人であるということを再び強烈に思い出した。しかも京都で吟行ということが、極めてここ二年くらいの精神的には頽落した生活から好奇心を取り戻すに絶好の機会であると私は直観し、メールに返信し、参加する旨を伝えた。
一ヶ月後私は世界的規模の金融危機であると世界中のマスコミが騒ぐ中、一旦成田に行き、そこから京成ライナーで東京に出て、午後すぐくらいの時間帯だったので、一度金城悟として生活していたマンションへと赴き、埃だらけの部屋を夕方まで掃除して、再び東京へ電車で戻り、駅に近いところにある大型書店で京都のガイドブックを買った。そして敢えて新幹線で京都へ赴くことをやめて、学生時代の安い旅行のイメージを懐かしく思い、夜行の高速バスに乗って早朝京都駅に到着するというプランを実行した。シンガポールの高層マンションで57階の自室に戻るのには急行エレベーターに乗るが、その乗り心地に私はアメリカ時代から自分の中に身につけた便利さを享受するという感覚を自覚していたが、それを敢えて久しぶりに祖国帰還において全て捨て去るという気持ちになっていたのだ。
バス内は一人だけ年配の男性がいた他は殆どが学生くらいの年齢の若者たちが乗客だった。大阪へ直接飛行機で飛ぶことをよしたのは、一重に学生気分で旅行をしたいということだったのだ。夜行バスは五千円だった。
十一月下旬は最も京都で紅葉が綺麗な時期である。
私は東京駅から京都駅まで直通のバスに揺られながら、予め持参していた毛布を椅子の背を倒し、自分の身体にかけた。バスの揺れはしかし時折強烈に身体にまで響き、学生時代に戻ったような旅に、ある瞬間老いということを感じた。周囲で寝息を立てる学生たちの若さを私は今更ながらに羨ましく感じた。
京都駅には早朝に到着し、バスから降りると、京都駅の駅員に聞いてその通りに降りた地下鉄の最寄り駅の蹴上から少し歩いた先にある明治時代風のトンネルを右折して歩いていくと、次第に東山の風景一色になっていった。私は腕時計にちらりと目をやり南禅寺に急いだ。定刻通りに南禅寺正門前の駐車場の入り口辺りに着くと、そこには数人の中高年の男性たちがいたので、声をかけたら、その中の一人が句投稿をアメリカで始めた頃より使っていた俳号である「散見さんですか?」と私に今回の吟行のメールを送ってきてくれた須賀という男が名刺を私に渡しながら、「須賀です。今日これからよろしくお願い致します。」と私に挨拶した。須加は句のイメージからするともっと若い人かと思ったが、実際は私より更に二十歳くらいは年配者だった。
南禅寺はかつてフランシス・コッポラの娘である映画監督ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」でも撮影された。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンセンが放浪するシーンに使われている。映画ではビル・マーレーが渋い中年米国俳優を演じ、日本国内でCM撮影が行なわれるシーンではCFディレクターをダイヤモンド・ユカイが演じ、マシュー南という名でヴァラエティー番組に出演していたそのままの出で立ちで藤井隆も出演していたのが印象的だった。
しかしその日は幾分霧雨が降り、淡い霧も発生しているそんな天候だったために、南禅寺境内にある水道橋も荘厳な雰囲気に包まれ、歩く足取りも湿った匂いを煽り立てるような空気を醸し出していた。
須加が私の横に歩き話しかけてきた。
「私も句作をはじめてから既に三十年くらい経つんですが、散見さんは未だお若い方の俳人さんでいらっしゃいますね。」
と親しげにそう語る口調に嘘はないようだった。
私は本名は今は郷田守にしているが、社長時代にも、スカイスレッダーのCEОという風には勿論名乗っていなかった。適当に翻訳業務紹介業者だと名乗り、本名を尋ねてくる句作仲間なんて殆どいなかったものの、時折あまり趣味のいいことではないが人のプライヴァシーに興味を持つ奴には適当に「意外と平凡な名前なので」と適当にごまかしてきたのだ。また句作にしてもそう多く作ることも出来なかったし、ゆっくりと他人の句を鑑賞するには忙し過ぎた。だから寧ろこうして偽のリタイアをした後に退屈しないで済む方法の模索の一環として趣味に俳句作りがもってこいのことだったに過ぎない。しかしそほんの思いつきが私の人生を更に別な方向へと差し向けていっていたのである。
私は樹木医をしているという須加の温厚な眼差しに対してそれなりの礼儀を尽くそうという気持ちから
「そうですね、意外と翻訳業って年をとっても大変さがなかなかなくならない、つまり慣れで適当に出来ない勉強の連続なんですけれど、いつも頭を使っているということは、それだけで僕くらいの中年でも年をとっている暇がないことだけれど、須加さんのような方からご覧になれば私なども若輩者ですからね。」
その時しかしこのような会話内容をすることなどここ二年は一切なかったことを今更ながらにと思っていた。
「いやいや俳句に年は関係ありませんよ。」
と言って須加は快活に笑った。こういう会話をここ二年くらい一切してこなかったということは、私はそれだけ精神的余裕がなかったということである。しかし須加に咄嗟についた嘘も百パーセント嘘とも言えないことだったのだ。というのもCEО職とは言ってみれば、業務と業務の間の連関に対する対外的には投資家や株主たちに対する説明であり、対内的には従業員たちに対する説明である。それは要するに替え玉であっても、翻訳業務をプロに委託すること、つまりそのプロの力量を見抜き、クライアントの要望を満たすという意味では、従業員たちがプロの翻訳家、クライアントたちは投資家や株主と言ってもよかったからだ。しかしそれにしてもこの須加という男はまんざら信用出来ないでもないとその時私は直観した。そしてそれは決して間違いではなかった。
須加という男はよく快活に笑い、積極的に私に色々話しかけてきた。その時に私と須加以外にも四人の男性がいた。南禅寺の正門前の駐車場で皆は一応自己紹介し合っていたのだ。たまたまその日は女性の参加者がいなかったが、年齢的には古物商を京都で営んでいる島田という六十代の男性と、サラリーマンをしている東京から来た青森出身の近田という三十代の男性、そして桑原という写真家(女性のヌードを得意とするらしい六十代)、そして吹上という名の化粧品会社の社長である私より七八歳若い四十代前半といった面子だった。近田は桑原と妙に気が合いそうで、島田と吹上は商売のことについてしきりと話題にしていたようだった。私の横には主催者の須賀が、そしてその後ろに桑原と近田が、その後ろに島田と吹上が歩いていた。
私が京都駅に到着したのは七時前だった。そして乗り継いで降りた蹴上駅から南禅寺に到着したのは須賀のメールによる提案で八時だったので永観堂を拝観するのには未だ少し時間があったので、そこは諦め哲学の道を通って禅林寺へ立ち寄り法然院で少し長めに見学した。(安楽寺に立ち寄り銀閣寺に着いた時には十時過ぎになっていた。)
しかし私にとって不思議だったのは、かなり日本人にとっての自然とか、日本人の心といった生活から遠ざかっていたのに、京都の道を歩いていた時には、何故かサンタフェや、モンサンミシェルやシンガポールを歩いた時にはなかった大地との密着間が感じられたのだ。そうだ、私もまた日本人なのだとその時思った。それは私がずっと長いこと感じ続けてきた世界が虚構めいて見えるということに久しぶりにあのサンタフェから見た夕焼けの色が鮮明に生命的躍動を私の肉体に呼びさましてくれたように感じさせた。しかしただサンタフェで生活する日常ではずっと歩いている時もレッドカーペットの上を歩いている感じは拭えなかったのだが、それに引き換えずっと自分との間に密着感があったその時感じた哲学の道の傍らにある小川のせせらぎを眺めいりながら歩く京都の地面での感触がカーペットではなく大地であるということそのものもまた一つの私の脳が勝手に描く幻想かも知れないと思うことも私は忘れなかった。
しかしすぐ後ろに歩く不良壮年といった感じの桑原に対して青年的雰囲気をまだ多分に残す近田が共感を示し友好的に語りかける内容は自然と耳に入る範囲内でもさほど違和感はなかったものの、その後ろに続く島田と吹上の会話内容を聞き取る私の耳は、伊豆倉の持つあの独特の商売人特有の慇懃無礼さと、俳句に関心があるのだぞと無趣味のビジネスマンたちを蔑む態度が見え見えで嫌な過去の出来事の想起を一瞬で招いてくれるのではないかという懸念を私の心に生じさせた。
近田は結婚を意識した女性との付き合いがあることを桑原に告白し、時々彼女の自分に対する態度から女性というものがよくわからなくなるというようなことを告白すると桑原は
「女という生き物は僕たちとはまるで違うからね。これは運命的な役割かも知れないね。人類のね。だから僕は女性を相手に撮る時には、向こうをよく知っているという態度を一切示さずに、僕は何にもあなた方のことを知りません、だからどうかそっちのことを教えて下さいという態度と表情でシャッターを切るんだけれどね。つまりそういう風に彼女に接すれば向こうは君を信用してくれると思うよ。」
しかし島田は吹上に対して
「化粧品というのは女性に対しては女性が使い勝手のいい雰囲気を持っている商品を自分のペットみたいに思えることが商品戦略としては最も有効なんですかね?」
と聞くと、島田に対して吹上は
「いやあ、それは島田さんに寧ろ私がお伺いしたいことですよ。」
と返す要するにそんな遣り取りに終始していたのである。
私はこの種の社交辞令に対して翻訳家としての生活においても、その後急転した沢柳=佐橋のダミーとしての生活上でも一切なかった。アメリカ人は本質的に全く異なった社交辞令の仕方をしていたからだ。だからと言ってちっとも私はこの二人の遣り取りを懐かしいなんて思いもしなかった。それどころか二度と聞きたくはないタイプの会話内容だったのだ。
その点桑原の謂いというのは年配者から青年層へ向けた回答としてはよく理解出来る、そうその時私は思った。ある意味では桑原と沢柳=佐橋=サハシーは似たタイプだった。そんなに年老いてはいないのに、私と年恰好が似ているというだけで自分の職務を放り出し死んだことにして、ひょっこり私の前に現れ、再び去って行った。
近田は銀閣寺に到着して庭園を散策していた時、私の後ろで桑原に再びこんなことを聞いたのが私の耳にみ入ってきた。
「桑原さんは世界中の女性のヌードをお撮りになっていらっしゃるけれど、どこの国の女性が一番情感的ですかね?」
すると桑原は
「君はどこの国の女性が一番そうだとお思いですか?」
近田は自己紹介の時に南禅寺の正門前で自分は大手家電メーカーの社員であると言っていたが、更に自己紹介をも兼ねて
「私は商品開発部に属していて、一年間ロス支店にもいたことがあって、まあそこでマーケットリサーチもしていたんですね。週末には滞在先の地域コミュニティーの色々なパーティーに誘われて大勢アメリカ人女性も見てきたけれど、確かにextrovert(社交的)な女性が多いけれど、では彼女らが本当に自分の本音を曝け出しているかと言えば、決してそうではなかったというのが僕の印象です。」
と言った。すると桑原が
「僕も米国人女性は大勢フィルムに収めてきたんだけれど、君の持つ感想と共通しているとも言えますね。だけど日本人の女性も少しずつ変わってきたからね。」
と呟くようにそう言った。そして続けて
「でもね、僕の撮るヌード写真のモデルになるような女性はアメリカ人でもフランス人でもフィンランド人でも日本人でも要するに何かある程度共通性があって限定されてくるんですよ。だから逆に僕はあなたが付き合っていたり、ビジネスで知り合う女性の方がずと僕が見てきた女性よりもワイドなヴューで見ている気もするけれどね。」
と付け加えた。それを聞いて
「そういうもんなんですかね。」
と半分怪訝そうにしかし半分感心した表情で半納得の意志を近田は桑原に示した。
吟行をしているので、皆小さなメモ帳にボールペンや鉛筆を片手に気がついたら俳句を書き留めていたが、そうしながらも和やかな会話も挟んで移動していたのだ。
私は近田のアメリカ滞在の話を聞いた時心の底ではいつ頃アメリカにいたのか聞きたいと思ったが、勿論聞いたりなんかしなかった。そして一瞬ヴェロニカのことを追想した。今頃山田が巧く彼女をリードしているのだろうか?彼がヴェロニカも引き継いだのだ。そして彼は私のことを沢柳であると信じている(筈だ)。
私が予め旅行の前に着替えその他を放り込んでいたショルダーバッグの中から取り出したデジカメで法然院にある砂のような小石で作られた山型のある庭をそこへ降りるようになっている上から俯瞰で写真に撮るために須賀より少し早く前方へと歩いていって須賀がカメラの視界に入らないようにして構えていると、後ろから須賀が
「散見さんの今回の句を楽しみにしておりますよ。」
と言った。私は
「そう仰る紫卿さんこそいつものような歯切れのいい爽快な句をこちらこそ楽しみにしておりますよ。」
と言うと、須賀は打ち解けた雰囲気で更に話しかけてきた。
「幼い頃というのは人間って奴は何を見ても新鮮な感じを受けて吸収しようとしますわね、しかし大人になっちまうと、いつの間にやらこう何ていうか、何を見ても感動しないように、前に見た何かに必ず新しいものさえ結び付けて見てしまう癖がついてきますわね。」
そこで私が
「ええ、そういうものですね、よく分かります。何でもかんでも感動していたら身が持たなくなりますからね、社会生活って奴は。」
と賛同の意を示すと、須賀は更ににこやかに
「ええ、ですからこういう吟行って奴は気が利いた計画ですよ。」
と快活にそう言った。
私はもし以前の、つまり私が郷田守として生活し始めてから知り合った他人と共にいる時に、日本で金城悟時代の知人と鉢合わせしたら、その時はその者にだけ「金城の本名は仕事では使っていないんだよ」と説明する積もりだった。私が過ごしてきた翻訳家の業界ではそういうタイプの人間も大勢いたから、そこら辺は一向に不自然ではない。私はもうかなり資産があったので、細々と金城悟として生活している辻褄合わせとして以前の住所を引き払ってもシンガポールに滞在している時にも一応確定申告の際にはきちんとした書類を作成していた。事実私は郷田守になってからも院生に金城悟としての翻訳業務の代行をさせていたのだ。だから郷田守としてのアイデンティティーとは要するに佐橋=沢柳として生活していた頃の知人と鉢合わせした時に取り繕うための新たなアイデンティティーだったのだ。しかし不思議とこういう二重性に私は既にすっかり慣れきってしまっていたのだ。
銀閣寺の庭で須賀の発案で最初は個々に次に皆で須賀の提案で記念写真を撮って、昼食をとるために京都御苑内のレストランに行くために乗るバス停まで出たらバスは出たてで、次のバスが到着するまでに二十五分くらいあったので、皆でバス停からほど近い茶屋に入って時間を潰すことにした。その時店内で三味線と琴によるまるでとってつけたような邦楽が流れていたので、咄嗟に黙っていれば
「いかにもさもありなんっていう感じのBGMですね。」
と私や桑原の顔を見て苦笑した。
その時島田が近田に
「ところで近田君は音楽も好きそうだけれど、どんな音楽を聴いているんですか?」
と質問した。すると近田は
「ええ、好きですよ。桑原さんのお撮りになっていらっしゃる写真とか見ながらロックとか聴くのも好きですね。」
と言った。するとロックと言えばエルヴィスという世代らしい島田が更に
「どんなロックですか?」
と聞いたので、近田は
「ニルヴァーナですかね。」
と言った。すると島田は
「僕はその名前知らないですね。」
と言った。近田は
「僕たち三十台中盤の世代にとっては多感な青年期に結構エキスを貰った人は多いですよ。だからヴォーカルのカート・コバーンが自殺した時はショックだったですね。」
と言った。するとその時吹上だけが頷いていた。ニルヴァーナはロメオスも好きで彼の邸宅に招待されて映画を見た時も、映画が終了した後互いにワインを飲んだ時にBGMに彼が選んでいたのがその時懐かしく思い出された。
私たちの世代にとってジョン・レノンが殺された出来事は極めて印象的であった。しかし私たちとて現役時代のビートルズをリアルタイムで聴いていたわけではない。島田と桑原と須賀はそれよりももっと上の世代だし、吹上も少しだけ近田よりは長く生きているものの大体似た音楽を聴いていたようなのだ。近田は同世代の吹上に
「吹上さんはどんなタイプの音楽をお聴きになられますか?」
と聞いたので、吹上は
「私は趣味ではあまり音楽を聴かないんですけれど、ビジネスタイムでは私の社ではアンビエント・ミュージックを聴いて皆仕事をしているんです。」
と言った。
注文して出されたコーヒーをそそくさと飲み干すと周囲の皆は殆ど温くなってしまうまで口さえつけていなかった。私は何故か喉が渇いていたのだ。
バスが到着する五分くらい前になって皆目配せして示し合わせたように会計を済ますと、歩いて三十秒くらいのところにあるバス停に並んで待っているとバスがやってきた。
その後私たちはバスを乗り継いで京都御苑内にある予約していたレストランの奥の和室で食事をして、ビールで取り敢えずの乾杯をしながら、各自既にしたためていたメモからある程度自信のある句だけ一句言い合うことにした。本格的に今回の吟行で作った句を発表し合うのは明日である。
その時には既に近田と桑原、島田と吹上、私と須賀がペアを組んでいたようなことと関係なく全員が懇意な雰囲気で句を巡る様々な意見や感想が飛び交った。その時私たちは通常のレストランのテーブル席が、和室の上がり間から充分見渡せる間合いになっていたので、テーブル席の客たちが寛ぐために少し高く全体からも見られるようにして置いてあったテレビのニュースの内容が、私たちにも聞き取れたのだ。ニュースは20世紀から今日までの一世紀の間でも類例を見ない大不況の嵐がアメリカ証券業界から世界へと飛び火しているということを伝えた後、よりにもよってスカイスレッダーとミューゾソケット社との提携が暗礁に乗り上げているということが報じられたのだ。私が替え玉CEО時代にはズームアップ社とシューズデザイナー社との提携に漕ぎ着けたが、山田はどうも敵対していたミューズソケット社との提携を勘案していたようだったが、それが暗礁に乗り上げたというのである。私は当時既にスカイスレッダー社の行く末にあまり関心を示さなくなっていたのだ。だからそのニュースも私にとっては突拍子もないものだった。
私が替え玉CEO時代以前に一度は懇意だったミューズソケット社は何度か独占禁止法違反ではないかと囁かれたり、槍玉に挙げられたりしていたこともあったが、その都度巧妙に新奇のアイデアによって乗り切ってきていた。しかしアメリカの実業界でよく見られるパターンとしてエディー・レンディーは既に経営の第一線からは退き、しかし通常の年齢からすればまだ一花咲かせることが可能だったので、慈善事業をすることに精魂を傾けていたものの、いざ提携という話になると彼だって山田=現在の沢柳との話には現在のCEОからも打診されていたに違いない。スカイスレッダーからしてみれば私の時代でのミューズソケット社に対する仕打ちは裏切り以外のものではないのだ。ロメオスがそれだけ私にとって魅力的な男だったということも実は手伝っている。
しかし私はあの山梨の山荘で沢柳本人から
「マイケル・ストーンランドとジム・クラークは二人とも信頼出来る男であり、いざ決裁を仰ぐことを下の者から迫られたら、この二人に相談し、両方が同一意見ならそれを採用し、そうでなければいずれかあなたが自分で正しいと直観し得ることだけで流れを決定していけばよいんですよ。」
と言われたし、事実私はCEОになってからも、何度かサハシーが私にだけ密かに教えてくれていた携帯番号へかけて彼からアドヴァイスを聞きだしていたのだが、シンガポール在住になってから一度私は実は私をサハシー本人であると信じて疑わない(そうだろうと思う)山田から電話してこられたことがある。私がいざ困ったことでもあったら、自分に電話をよこすように私がサハシーから教授された山荘で、同じように彼にそう告げて、携帯番号を知らせていたからである。
その時彼は私にこう言ったのをその時私は思い出した。
「サリーが運んでくれる私の日程表に従って私は行動すればよいのですが、では日程があまり過密ではない時はどうしたらよいのでしょうか?」
その時私は確か次のように返答したと思う。
「CEОは意外と過密スケジュールではない時は暇なんですよ。普段は会計士も弁護士も色々スタッフが勘案してくれたことをこなせばよいから、それは丁度何かの流れに身を委ねてればよいけれど、いざ空白の時間が与えられると逆にぎょっとしてしまうものなのですが、そういう時に閃くアイデアが実はビジネスには重大な岐路の際に手助けになってくれることが多いんですよ。だからそういう時は好きな小説を読んだり、映画を見に行ったり、コンサートに行ったりして、気分転換することが意外と後でいい案が浮かんだり、困窮した時に打開してくれる道を指し示してくれるものなんですよ。」
山田はその時以外は一回も携帯では連絡してはこなかった。そんな時間的、精神的余裕がなかったということもあるが、殆どの情報は私がその都度彼へメールで送信していたのである。
しかし気分転換をせよとそう山田に告げた私であったが、私自身は細々したこと、例えば豪邸の庭師ロジャースらについての知識とか、豪邸の地元の人間関係についてなどは逐一メールで教えて貰ったりしたものの、精神的レスキューを私はサハシーに求めることは殆どなかった。当然ズームアップ社らとの提携の時も完全に私の一存で決めたことだったのだ。
しかし俳句の話に花が咲いている時に、そのニュースを注目したのは私だけだと思ったら、流石化粧品会社の社長なことはある、一瞬そのニュースが流れた時そのアナウンサーの言う一言に注目した表情を私だけが恐らく見抜いていた。その鋭い視線と深く思念したような一瞬の冷徹な表情が、私自身のビル・サーストンやサリーやトムとの仄かなたった一年ちょっとではあったが、虚としての私の内心では実のある思い出に耽ろうとしていた気持ちに水を差した。たった一瞬ではあったが、俳句の季語と切字の話をしていた最中に見せた彼の経営者としての表情が一気に私の気持ちを元CEОへと立ち戻らせた。しかしそれを一切他者たちには悟られまいとして、今度は私の方から敢えて吹上に対して俳句に関しての質問をしたのだった。
「では吹上さんは一体用言止めと体言止めに関してはどのような見解をお持ちになられるんでしょうか?」
と私が言うと吹上は
「私は須賀さんや散見さんほど長く俳句作りに携わっているわけではありませんけれども、体言止めというのは何か固定させてしまうように思える一方、本家取り的な妙味にある時には活きることもありますが、一般に何と申しますかね、イメージを、つまり俳句を詠む者の表象的心理をですね、限定してしまう、つまり通り一遍の名辞というか、通念に縛り付けてしまう気さえするんですね、ですから、私は映像的に表象が明確化される用言止めの方に痛烈に惹かれるんです。それはフッサールとかサルトルといった哲学者の思念を彷彿されるんですね。」
吹上は確か文学部出身であったが、まさか俳句の席でフッサールやサルトルの名が出てくるとは思いも拠らなかった。私自身哲学書を貪り読んだ記憶もあるが、大分昔の話である。一気に私は世界が虚構めいて見える私のヒューム的懐疑主義的青春にその一言が立ち戻らせた。私はその一言を聞いた後で、この吹上とは私を色々な時期に立ち戻らせてくれる若いがあまり軽く扱っては後で痛烈な竹箆返しを食らうことになるかも知れない、まさに見過ごせない奴だとその時確信した。それはニュースの内容に一瞬凍てついた表情を見せた男に相応しい私の下した結論だった。
私は吹上の意見に対して
「それは私も吹上さんに完全に賛成ですね、余り巧くない詠み手が下手糞な本家取りにもならない名辞で締めくくると、句が死んでしまいますからね。」
と述べると桑原も近田も島田も須賀も納得した表情を示した。しかし暫く皆この遣り取りに納得したような表情をしていたが、思い立ったように近田が疑問を吹上にぶつけた。
「では自由律俳句の名作と言われる尾崎放哉の∧咳をしても一人∨は形式的には体言止めですが、どう考えたらよいのでしょうか?」
それに対して吹上はすかさず
「それはこう解釈すればよいでしょうね。つまり∧咳をしても一人でいる∨ということですね。これは∧一人で咳をする∨ということを言いたいのですが、そうただ言ってしまえば、面白くも何もないですね、しかし咳をしても周りには誰もいず、その咳をしたことを心配してくれる人も誰もいないということですからね。だから体言止めと言ってもね、これは限りなく用言止めに近い感覚の、つまり用言が省略された体言ですから、要するに知識とか解釈的な常套性に依拠したような体言止めのような本家取り的趣味性はないと見ていいですね。」
吹上は吟行している時にはあまり同伴していた島田とも積極的に会話を弾ませることなく、一人メモを取っていたから、当然社交家ではないらしいということは逆に創作家としては優れていると私は思っていたが、事実彼は後で皆で一句ずつ披露した句そのものも優れていたし、解釈家としても、批評家としても優れていたことは確かだった。そしてこういう出会いとはどんなに生き馬の目を抜くようなビジネスワールドにいても、味わえない妙味であることを私はつくづく感じたが、それは世界そのものが私を存在させる前に既にかなり虚構めいて見えることそのものを、句と作る、それを集団で篩にかけるという行為によって虚構を虚構(句)によって表現することで自然に世界を非虚構にすることが出来るということを私は替え玉としての生活から足を洗った後の人生で初めて知った気がした。
しかしやはりそれにもかかわらず、あの時のニュースでのスカイスレッダーでの苦難とか、山田は巧くやっているのだろうかと、一度だけ私にアドヴァイスを求めてきたあの時以来一度も私の携帯にはかけてこないままでいる彼の現在の行状に関していささか憂慮めいた気持ちになっていたということ自体が、私は未だ完全には気分的にリタイアしているのではないということに気づき、私はこの句会において、誰にも気づかれないように一人で苦笑をしていたのだ。
「いやあ、今日は先生抜きで素晴らしい会合となりました。また私のところに連絡して下されば、私が句会をする場所を確保致しますので、いつでも何なりとお申し付け下さい。」
と閉めの言葉を須賀が句の批評が終ってから言った。それに対して島田が
「私たち一般庶民にとって社会で生活していくということは、個人的な創作への思いとか沈思黙考すること自体を諦めて、要するに自分というものや自分を見つめるということ自体を捨てて社会に奉仕するということです。ですから先生のような天才の方以外の私たち、と申しましても、私以外にここにいらっしゃる方は含まれませんけれども、要するにこういういい機会でもない限り、一切自分を創作を通して見つめる機会などなくただ死んでいくだけです。」
と言って、須賀に感謝の視線を注いだ。すると桑原が
「私は写真家ですから、よくあなたは自分の表現をなさる機会に恵まれていらっしゃるでしょうとか言われるんですが、写真家というのは、確かに通常の会社員の業務よりは、自分を見つめる機会に恵まれていますけれども、どうなんでしょうかね、却って近田さんのような若い会社員の方にとっての余暇の過ごし方の方が有効に自分を見つめる余裕が持てるんじゃないですかね。つまり私たちは半分は自分の写真家としてのテーマとか考えることが出来るけれど、それはあくまで社会全体が私に求めるものに対する受け答えとして設定された「私の世界」なのであって、私が社会に対して求めたり、私が社会から認定したりして貰いたいものとも微妙にずれ込んでいるのですね。」
すると、もうお開きかと思われた場が再び話に盛り上がって、それに対して近田が
「桑原先生のような方でもそうお思いになれるんだったら、要するにプロの世界ではあまり自由はないということになりますね。」
と述べた。すると桑原は
「そういうことですよ、世の中に一切認められないようなしかし本当の天才がいたとしたら、そういう人間はどこかで社会通念と対立して生きていかざるを得ないけれども、いざ自分にとっての安全地帯を見出したのなら、却って売れっ子よりももっと自由かもしれませんよ。」
と言った。するとその意見に吹上も島田も賛同するように大きく首を縦に振った。その場で全部お開きになり後はホテルで過ごすなり、土産物屋に行くなり自由時間という予定だったが、いきなりお開き前に話しが盛り上がったので須賀の咄嗟の発案で有志者のみで二次会を設け、酒を飲みながら俳句や俳句を取り巻く状況とか、それぞれにとっての俳句の出会いを語り合うということをすることになり、結局一人も参加しない者は出ず皆で祇園の居酒屋(須賀が一見ではない店があったので)に繰り出した。会費は若い近田だけ桑原の奢りということになって皆が出席した。既に御苑を出た時には夕方近くになっていたので、二次会がお開きということになり三々五々後は完全な自由時間ということで、土産物屋に寄ろうとする者もいれば、そのまま宿泊先の京都国際ホテルに向かう者もいて、ホテルのチェックインへと向かった時にはすっかり夜もふけていた。腕時計を見るとちょうど八時になっていた。近く(大津)に住む島田だけが明日また東寺で落ち合う約束を皆として、一旦自宅に戻って行った。
御苑から祇園に行く途中でバスの中で幾つかのギャラリーを車窓から目撃したのだが、その時私は伊豆倉のことを一瞬思い出した。思えば彼によって自分の人生がある部分では急転したのだ。しかし彼のよく言っていたこと
「金城さん、画商って奴はとてもじゃないが、まともではない悪どい奴っているんですよ。贋作と知っていて平気で高額で売りつけてどろんするような奴とかね。」
を思い出したが、自分もそれと似たようなものかも知れないと思ったのだ。しかし極めて紳士的でこの替え玉詐欺が知られさえしなければ誰も傷つかないのではないかと大胆にもその時私はそう思ったのだ。
そのメールはこんな文面だった。
俳句の広場でいつもお世話になっている元会社員の須賀です。あなたの俳句にはいつも驚かされます。俳句が巧妙な五七五の言葉のトリックであるということのいい意味での素晴らしさに覚醒させられました。私が勤めていた会社も大勢の従業員をリストラすることを決行したようです。これから先一体世界はどうなっていくのでしょうか?
ところで今度一度京都で吟行を致しませんか?
私が組んだスケジュールを申し上げます。
集合場所以下徒歩 集合場所・南禅寺→永観堂→(哲学の道)法然院→銀閣寺
そこからバスに乗り、御苑内レストランで食事、食後数箇所の美術ギャラリーを巡り、こちらで手配した会館で句会。
夕食は各自自由、宿泊先は京都国際ホテル、
翌日は徒歩で東寺→西本願寺→東本願寺→三十三間堂付近のうどん屋で昼食後、バスで京都駅に戻り、地下鉄と市電で広隆寺、そこから今度はタクシーで龍安寺、そして再びタクシーで妙心寺、そこからは山陰本線で京都駅へ戻り、京都内の料亭で句会、閉会後各自解散。
とあった。その男は人生の遍路において妙味のある句を捻り出し味わい深い雰囲気を句からは漂わすガイだった。しかしその俳句の広場というブログは既に出版界、句界では著名な五十代の中堅の俳人が主催していたのだが、その中でも特に才能をその俳人に認められていた数人だけがSNSの句会に主催者の俳人から個人的に誘われ参加していたのだ。そして私もその男も主催者に誘われてそのSNSにも参加していたのである。だから句会では投稿しかそれまでしていなかったものの、始めて直に会うということはそれなりに興味が惹かれることである。それまで句作しか知らないその男、須賀紫卿と一度会うという試み自体はそう悪いことではないと私は思ったのだ。またそれだけの句をその男は快適ではあるシンガポールのマンション暮らしもそろそろ日本の風土に対する懐かしさに侵食され始めてもいたこともあった。
私にとってシンガポールがどのような歴史で、どういう精神風土であるかということは殆ど関心さえなかった。要するにマンションの高層階で他人から干渉されることなく快適に暮らすのに、英語が通じるのと経済的な意味でも最も相応しいという以外の一切の理由など私にはなかった。私にとってどこへ行くのにも便利で安定した経済状態と治安であるということ以外の思い入れはなかった。
麻薬関係の犯罪で刑罰が重く死刑も多いと聞いたが、私はスカイスレッダー時代から犯罪に巻き込まれることだけは殆どなかった(誰にとっても自分がしていることは犯罪ではないのだ)し、第一それほどたやすく他人を信用するタイプでもなかったために、変なかかわりに巻き込まれずに済んできたのだ。
しかしその句会の話をメールで読んで知った時、私は自分が日本人であるということを再び強烈に思い出した。しかも京都で吟行ということが、極めてここ二年くらいの精神的には頽落した生活から好奇心を取り戻すに絶好の機会であると私は直観し、メールに返信し、参加する旨を伝えた。
一ヶ月後私は世界的規模の金融危機であると世界中のマスコミが騒ぐ中、一旦成田に行き、そこから京成ライナーで東京に出て、午後すぐくらいの時間帯だったので、一度金城悟として生活していたマンションへと赴き、埃だらけの部屋を夕方まで掃除して、再び東京へ電車で戻り、駅に近いところにある大型書店で京都のガイドブックを買った。そして敢えて新幹線で京都へ赴くことをやめて、学生時代の安い旅行のイメージを懐かしく思い、夜行の高速バスに乗って早朝京都駅に到着するというプランを実行した。シンガポールの高層マンションで57階の自室に戻るのには急行エレベーターに乗るが、その乗り心地に私はアメリカ時代から自分の中に身につけた便利さを享受するという感覚を自覚していたが、それを敢えて久しぶりに祖国帰還において全て捨て去るという気持ちになっていたのだ。
バス内は一人だけ年配の男性がいた他は殆どが学生くらいの年齢の若者たちが乗客だった。大阪へ直接飛行機で飛ぶことをよしたのは、一重に学生気分で旅行をしたいということだったのだ。夜行バスは五千円だった。
十一月下旬は最も京都で紅葉が綺麗な時期である。
私は東京駅から京都駅まで直通のバスに揺られながら、予め持参していた毛布を椅子の背を倒し、自分の身体にかけた。バスの揺れはしかし時折強烈に身体にまで響き、学生時代に戻ったような旅に、ある瞬間老いということを感じた。周囲で寝息を立てる学生たちの若さを私は今更ながらに羨ましく感じた。
京都駅には早朝に到着し、バスから降りると、京都駅の駅員に聞いてその通りに降りた地下鉄の最寄り駅の蹴上から少し歩いた先にある明治時代風のトンネルを右折して歩いていくと、次第に東山の風景一色になっていった。私は腕時計にちらりと目をやり南禅寺に急いだ。定刻通りに南禅寺正門前の駐車場の入り口辺りに着くと、そこには数人の中高年の男性たちがいたので、声をかけたら、その中の一人が句投稿をアメリカで始めた頃より使っていた俳号である「散見さんですか?」と私に今回の吟行のメールを送ってきてくれた須賀という男が名刺を私に渡しながら、「須賀です。今日これからよろしくお願い致します。」と私に挨拶した。須加は句のイメージからするともっと若い人かと思ったが、実際は私より更に二十歳くらいは年配者だった。
南禅寺はかつてフランシス・コッポラの娘である映画監督ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」でも撮影された。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンセンが放浪するシーンに使われている。映画ではビル・マーレーが渋い中年米国俳優を演じ、日本国内でCM撮影が行なわれるシーンではCFディレクターをダイヤモンド・ユカイが演じ、マシュー南という名でヴァラエティー番組に出演していたそのままの出で立ちで藤井隆も出演していたのが印象的だった。
しかしその日は幾分霧雨が降り、淡い霧も発生しているそんな天候だったために、南禅寺境内にある水道橋も荘厳な雰囲気に包まれ、歩く足取りも湿った匂いを煽り立てるような空気を醸し出していた。
須加が私の横に歩き話しかけてきた。
「私も句作をはじめてから既に三十年くらい経つんですが、散見さんは未だお若い方の俳人さんでいらっしゃいますね。」
と親しげにそう語る口調に嘘はないようだった。
私は本名は今は郷田守にしているが、社長時代にも、スカイスレッダーのCEОという風には勿論名乗っていなかった。適当に翻訳業務紹介業者だと名乗り、本名を尋ねてくる句作仲間なんて殆どいなかったものの、時折あまり趣味のいいことではないが人のプライヴァシーに興味を持つ奴には適当に「意外と平凡な名前なので」と適当にごまかしてきたのだ。また句作にしてもそう多く作ることも出来なかったし、ゆっくりと他人の句を鑑賞するには忙し過ぎた。だから寧ろこうして偽のリタイアをした後に退屈しないで済む方法の模索の一環として趣味に俳句作りがもってこいのことだったに過ぎない。しかしそほんの思いつきが私の人生を更に別な方向へと差し向けていっていたのである。
私は樹木医をしているという須加の温厚な眼差しに対してそれなりの礼儀を尽くそうという気持ちから
「そうですね、意外と翻訳業って年をとっても大変さがなかなかなくならない、つまり慣れで適当に出来ない勉強の連続なんですけれど、いつも頭を使っているということは、それだけで僕くらいの中年でも年をとっている暇がないことだけれど、須加さんのような方からご覧になれば私なども若輩者ですからね。」
その時しかしこのような会話内容をすることなどここ二年は一切なかったことを今更ながらにと思っていた。
「いやいや俳句に年は関係ありませんよ。」
と言って須加は快活に笑った。こういう会話をここ二年くらい一切してこなかったということは、私はそれだけ精神的余裕がなかったということである。しかし須加に咄嗟についた嘘も百パーセント嘘とも言えないことだったのだ。というのもCEО職とは言ってみれば、業務と業務の間の連関に対する対外的には投資家や株主たちに対する説明であり、対内的には従業員たちに対する説明である。それは要するに替え玉であっても、翻訳業務をプロに委託すること、つまりそのプロの力量を見抜き、クライアントの要望を満たすという意味では、従業員たちがプロの翻訳家、クライアントたちは投資家や株主と言ってもよかったからだ。しかしそれにしてもこの須加という男はまんざら信用出来ないでもないとその時私は直観した。そしてそれは決して間違いではなかった。
須加という男はよく快活に笑い、積極的に私に色々話しかけてきた。その時に私と須加以外にも四人の男性がいた。南禅寺の正門前の駐車場で皆は一応自己紹介し合っていたのだ。たまたまその日は女性の参加者がいなかったが、年齢的には古物商を京都で営んでいる島田という六十代の男性と、サラリーマンをしている東京から来た青森出身の近田という三十代の男性、そして桑原という写真家(女性のヌードを得意とするらしい六十代)、そして吹上という名の化粧品会社の社長である私より七八歳若い四十代前半といった面子だった。近田は桑原と妙に気が合いそうで、島田と吹上は商売のことについてしきりと話題にしていたようだった。私の横には主催者の須賀が、そしてその後ろに桑原と近田が、その後ろに島田と吹上が歩いていた。
私が京都駅に到着したのは七時前だった。そして乗り継いで降りた蹴上駅から南禅寺に到着したのは須賀のメールによる提案で八時だったので永観堂を拝観するのには未だ少し時間があったので、そこは諦め哲学の道を通って禅林寺へ立ち寄り法然院で少し長めに見学した。(安楽寺に立ち寄り銀閣寺に着いた時には十時過ぎになっていた。)
しかし私にとって不思議だったのは、かなり日本人にとっての自然とか、日本人の心といった生活から遠ざかっていたのに、京都の道を歩いていた時には、何故かサンタフェや、モンサンミシェルやシンガポールを歩いた時にはなかった大地との密着間が感じられたのだ。そうだ、私もまた日本人なのだとその時思った。それは私がずっと長いこと感じ続けてきた世界が虚構めいて見えるということに久しぶりにあのサンタフェから見た夕焼けの色が鮮明に生命的躍動を私の肉体に呼びさましてくれたように感じさせた。しかしただサンタフェで生活する日常ではずっと歩いている時もレッドカーペットの上を歩いている感じは拭えなかったのだが、それに引き換えずっと自分との間に密着感があったその時感じた哲学の道の傍らにある小川のせせらぎを眺めいりながら歩く京都の地面での感触がカーペットではなく大地であるということそのものもまた一つの私の脳が勝手に描く幻想かも知れないと思うことも私は忘れなかった。
しかしすぐ後ろに歩く不良壮年といった感じの桑原に対して青年的雰囲気をまだ多分に残す近田が共感を示し友好的に語りかける内容は自然と耳に入る範囲内でもさほど違和感はなかったものの、その後ろに続く島田と吹上の会話内容を聞き取る私の耳は、伊豆倉の持つあの独特の商売人特有の慇懃無礼さと、俳句に関心があるのだぞと無趣味のビジネスマンたちを蔑む態度が見え見えで嫌な過去の出来事の想起を一瞬で招いてくれるのではないかという懸念を私の心に生じさせた。
近田は結婚を意識した女性との付き合いがあることを桑原に告白し、時々彼女の自分に対する態度から女性というものがよくわからなくなるというようなことを告白すると桑原は
「女という生き物は僕たちとはまるで違うからね。これは運命的な役割かも知れないね。人類のね。だから僕は女性を相手に撮る時には、向こうをよく知っているという態度を一切示さずに、僕は何にもあなた方のことを知りません、だからどうかそっちのことを教えて下さいという態度と表情でシャッターを切るんだけれどね。つまりそういう風に彼女に接すれば向こうは君を信用してくれると思うよ。」
しかし島田は吹上に対して
「化粧品というのは女性に対しては女性が使い勝手のいい雰囲気を持っている商品を自分のペットみたいに思えることが商品戦略としては最も有効なんですかね?」
と聞くと、島田に対して吹上は
「いやあ、それは島田さんに寧ろ私がお伺いしたいことですよ。」
と返す要するにそんな遣り取りに終始していたのである。
私はこの種の社交辞令に対して翻訳家としての生活においても、その後急転した沢柳=佐橋のダミーとしての生活上でも一切なかった。アメリカ人は本質的に全く異なった社交辞令の仕方をしていたからだ。だからと言ってちっとも私はこの二人の遣り取りを懐かしいなんて思いもしなかった。それどころか二度と聞きたくはないタイプの会話内容だったのだ。
その点桑原の謂いというのは年配者から青年層へ向けた回答としてはよく理解出来る、そうその時私は思った。ある意味では桑原と沢柳=佐橋=サハシーは似たタイプだった。そんなに年老いてはいないのに、私と年恰好が似ているというだけで自分の職務を放り出し死んだことにして、ひょっこり私の前に現れ、再び去って行った。
近田は銀閣寺に到着して庭園を散策していた時、私の後ろで桑原に再びこんなことを聞いたのが私の耳にみ入ってきた。
「桑原さんは世界中の女性のヌードをお撮りになっていらっしゃるけれど、どこの国の女性が一番情感的ですかね?」
すると桑原は
「君はどこの国の女性が一番そうだとお思いですか?」
近田は自己紹介の時に南禅寺の正門前で自分は大手家電メーカーの社員であると言っていたが、更に自己紹介をも兼ねて
「私は商品開発部に属していて、一年間ロス支店にもいたことがあって、まあそこでマーケットリサーチもしていたんですね。週末には滞在先の地域コミュニティーの色々なパーティーに誘われて大勢アメリカ人女性も見てきたけれど、確かにextrovert(社交的)な女性が多いけれど、では彼女らが本当に自分の本音を曝け出しているかと言えば、決してそうではなかったというのが僕の印象です。」
と言った。すると桑原が
「僕も米国人女性は大勢フィルムに収めてきたんだけれど、君の持つ感想と共通しているとも言えますね。だけど日本人の女性も少しずつ変わってきたからね。」
と呟くようにそう言った。そして続けて
「でもね、僕の撮るヌード写真のモデルになるような女性はアメリカ人でもフランス人でもフィンランド人でも日本人でも要するに何かある程度共通性があって限定されてくるんですよ。だから逆に僕はあなたが付き合っていたり、ビジネスで知り合う女性の方がずと僕が見てきた女性よりもワイドなヴューで見ている気もするけれどね。」
と付け加えた。それを聞いて
「そういうもんなんですかね。」
と半分怪訝そうにしかし半分感心した表情で半納得の意志を近田は桑原に示した。
吟行をしているので、皆小さなメモ帳にボールペンや鉛筆を片手に気がついたら俳句を書き留めていたが、そうしながらも和やかな会話も挟んで移動していたのだ。
私は近田のアメリカ滞在の話を聞いた時心の底ではいつ頃アメリカにいたのか聞きたいと思ったが、勿論聞いたりなんかしなかった。そして一瞬ヴェロニカのことを追想した。今頃山田が巧く彼女をリードしているのだろうか?彼がヴェロニカも引き継いだのだ。そして彼は私のことを沢柳であると信じている(筈だ)。
私が予め旅行の前に着替えその他を放り込んでいたショルダーバッグの中から取り出したデジカメで法然院にある砂のような小石で作られた山型のある庭をそこへ降りるようになっている上から俯瞰で写真に撮るために須賀より少し早く前方へと歩いていって須賀がカメラの視界に入らないようにして構えていると、後ろから須賀が
「散見さんの今回の句を楽しみにしておりますよ。」
と言った。私は
「そう仰る紫卿さんこそいつものような歯切れのいい爽快な句をこちらこそ楽しみにしておりますよ。」
と言うと、須賀は打ち解けた雰囲気で更に話しかけてきた。
「幼い頃というのは人間って奴は何を見ても新鮮な感じを受けて吸収しようとしますわね、しかし大人になっちまうと、いつの間にやらこう何ていうか、何を見ても感動しないように、前に見た何かに必ず新しいものさえ結び付けて見てしまう癖がついてきますわね。」
そこで私が
「ええ、そういうものですね、よく分かります。何でもかんでも感動していたら身が持たなくなりますからね、社会生活って奴は。」
と賛同の意を示すと、須賀は更ににこやかに
「ええ、ですからこういう吟行って奴は気が利いた計画ですよ。」
と快活にそう言った。
私はもし以前の、つまり私が郷田守として生活し始めてから知り合った他人と共にいる時に、日本で金城悟時代の知人と鉢合わせしたら、その時はその者にだけ「金城の本名は仕事では使っていないんだよ」と説明する積もりだった。私が過ごしてきた翻訳家の業界ではそういうタイプの人間も大勢いたから、そこら辺は一向に不自然ではない。私はもうかなり資産があったので、細々と金城悟として生活している辻褄合わせとして以前の住所を引き払ってもシンガポールに滞在している時にも一応確定申告の際にはきちんとした書類を作成していた。事実私は郷田守になってからも院生に金城悟としての翻訳業務の代行をさせていたのだ。だから郷田守としてのアイデンティティーとは要するに佐橋=沢柳として生活していた頃の知人と鉢合わせした時に取り繕うための新たなアイデンティティーだったのだ。しかし不思議とこういう二重性に私は既にすっかり慣れきってしまっていたのだ。
銀閣寺の庭で須賀の発案で最初は個々に次に皆で須賀の提案で記念写真を撮って、昼食をとるために京都御苑内のレストランに行くために乗るバス停まで出たらバスは出たてで、次のバスが到着するまでに二十五分くらいあったので、皆でバス停からほど近い茶屋に入って時間を潰すことにした。その時店内で三味線と琴によるまるでとってつけたような邦楽が流れていたので、咄嗟に黙っていれば
「いかにもさもありなんっていう感じのBGMですね。」
と私や桑原の顔を見て苦笑した。
その時島田が近田に
「ところで近田君は音楽も好きそうだけれど、どんな音楽を聴いているんですか?」
と質問した。すると近田は
「ええ、好きですよ。桑原さんのお撮りになっていらっしゃる写真とか見ながらロックとか聴くのも好きですね。」
と言った。するとロックと言えばエルヴィスという世代らしい島田が更に
「どんなロックですか?」
と聞いたので、近田は
「ニルヴァーナですかね。」
と言った。すると島田は
「僕はその名前知らないですね。」
と言った。近田は
「僕たち三十台中盤の世代にとっては多感な青年期に結構エキスを貰った人は多いですよ。だからヴォーカルのカート・コバーンが自殺した時はショックだったですね。」
と言った。するとその時吹上だけが頷いていた。ニルヴァーナはロメオスも好きで彼の邸宅に招待されて映画を見た時も、映画が終了した後互いにワインを飲んだ時にBGMに彼が選んでいたのがその時懐かしく思い出された。
私たちの世代にとってジョン・レノンが殺された出来事は極めて印象的であった。しかし私たちとて現役時代のビートルズをリアルタイムで聴いていたわけではない。島田と桑原と須賀はそれよりももっと上の世代だし、吹上も少しだけ近田よりは長く生きているものの大体似た音楽を聴いていたようなのだ。近田は同世代の吹上に
「吹上さんはどんなタイプの音楽をお聴きになられますか?」
と聞いたので、吹上は
「私は趣味ではあまり音楽を聴かないんですけれど、ビジネスタイムでは私の社ではアンビエント・ミュージックを聴いて皆仕事をしているんです。」
と言った。
注文して出されたコーヒーをそそくさと飲み干すと周囲の皆は殆ど温くなってしまうまで口さえつけていなかった。私は何故か喉が渇いていたのだ。
バスが到着する五分くらい前になって皆目配せして示し合わせたように会計を済ますと、歩いて三十秒くらいのところにあるバス停に並んで待っているとバスがやってきた。
その後私たちはバスを乗り継いで京都御苑内にある予約していたレストランの奥の和室で食事をして、ビールで取り敢えずの乾杯をしながら、各自既にしたためていたメモからある程度自信のある句だけ一句言い合うことにした。本格的に今回の吟行で作った句を発表し合うのは明日である。
その時には既に近田と桑原、島田と吹上、私と須賀がペアを組んでいたようなことと関係なく全員が懇意な雰囲気で句を巡る様々な意見や感想が飛び交った。その時私たちは通常のレストランのテーブル席が、和室の上がり間から充分見渡せる間合いになっていたので、テーブル席の客たちが寛ぐために少し高く全体からも見られるようにして置いてあったテレビのニュースの内容が、私たちにも聞き取れたのだ。ニュースは20世紀から今日までの一世紀の間でも類例を見ない大不況の嵐がアメリカ証券業界から世界へと飛び火しているということを伝えた後、よりにもよってスカイスレッダーとミューゾソケット社との提携が暗礁に乗り上げているということが報じられたのだ。私が替え玉CEО時代にはズームアップ社とシューズデザイナー社との提携に漕ぎ着けたが、山田はどうも敵対していたミューズソケット社との提携を勘案していたようだったが、それが暗礁に乗り上げたというのである。私は当時既にスカイスレッダー社の行く末にあまり関心を示さなくなっていたのだ。だからそのニュースも私にとっては突拍子もないものだった。
私が替え玉CEO時代以前に一度は懇意だったミューズソケット社は何度か独占禁止法違反ではないかと囁かれたり、槍玉に挙げられたりしていたこともあったが、その都度巧妙に新奇のアイデアによって乗り切ってきていた。しかしアメリカの実業界でよく見られるパターンとしてエディー・レンディーは既に経営の第一線からは退き、しかし通常の年齢からすればまだ一花咲かせることが可能だったので、慈善事業をすることに精魂を傾けていたものの、いざ提携という話になると彼だって山田=現在の沢柳との話には現在のCEОからも打診されていたに違いない。スカイスレッダーからしてみれば私の時代でのミューズソケット社に対する仕打ちは裏切り以外のものではないのだ。ロメオスがそれだけ私にとって魅力的な男だったということも実は手伝っている。
しかし私はあの山梨の山荘で沢柳本人から
「マイケル・ストーンランドとジム・クラークは二人とも信頼出来る男であり、いざ決裁を仰ぐことを下の者から迫られたら、この二人に相談し、両方が同一意見ならそれを採用し、そうでなければいずれかあなたが自分で正しいと直観し得ることだけで流れを決定していけばよいんですよ。」
と言われたし、事実私はCEОになってからも、何度かサハシーが私にだけ密かに教えてくれていた携帯番号へかけて彼からアドヴァイスを聞きだしていたのだが、シンガポール在住になってから一度私は実は私をサハシー本人であると信じて疑わない(そうだろうと思う)山田から電話してこられたことがある。私がいざ困ったことでもあったら、自分に電話をよこすように私がサハシーから教授された山荘で、同じように彼にそう告げて、携帯番号を知らせていたからである。
その時彼は私にこう言ったのをその時私は思い出した。
「サリーが運んでくれる私の日程表に従って私は行動すればよいのですが、では日程があまり過密ではない時はどうしたらよいのでしょうか?」
その時私は確か次のように返答したと思う。
「CEОは意外と過密スケジュールではない時は暇なんですよ。普段は会計士も弁護士も色々スタッフが勘案してくれたことをこなせばよいから、それは丁度何かの流れに身を委ねてればよいけれど、いざ空白の時間が与えられると逆にぎょっとしてしまうものなのですが、そういう時に閃くアイデアが実はビジネスには重大な岐路の際に手助けになってくれることが多いんですよ。だからそういう時は好きな小説を読んだり、映画を見に行ったり、コンサートに行ったりして、気分転換することが意外と後でいい案が浮かんだり、困窮した時に打開してくれる道を指し示してくれるものなんですよ。」
山田はその時以外は一回も携帯では連絡してはこなかった。そんな時間的、精神的余裕がなかったということもあるが、殆どの情報は私がその都度彼へメールで送信していたのである。
しかし気分転換をせよとそう山田に告げた私であったが、私自身は細々したこと、例えば豪邸の庭師ロジャースらについての知識とか、豪邸の地元の人間関係についてなどは逐一メールで教えて貰ったりしたものの、精神的レスキューを私はサハシーに求めることは殆どなかった。当然ズームアップ社らとの提携の時も完全に私の一存で決めたことだったのだ。
しかし俳句の話に花が咲いている時に、そのニュースを注目したのは私だけだと思ったら、流石化粧品会社の社長なことはある、一瞬そのニュースが流れた時そのアナウンサーの言う一言に注目した表情を私だけが恐らく見抜いていた。その鋭い視線と深く思念したような一瞬の冷徹な表情が、私自身のビル・サーストンやサリーやトムとの仄かなたった一年ちょっとではあったが、虚としての私の内心では実のある思い出に耽ろうとしていた気持ちに水を差した。たった一瞬ではあったが、俳句の季語と切字の話をしていた最中に見せた彼の経営者としての表情が一気に私の気持ちを元CEОへと立ち戻らせた。しかしそれを一切他者たちには悟られまいとして、今度は私の方から敢えて吹上に対して俳句に関しての質問をしたのだった。
「では吹上さんは一体用言止めと体言止めに関してはどのような見解をお持ちになられるんでしょうか?」
と私が言うと吹上は
「私は須賀さんや散見さんほど長く俳句作りに携わっているわけではありませんけれども、体言止めというのは何か固定させてしまうように思える一方、本家取り的な妙味にある時には活きることもありますが、一般に何と申しますかね、イメージを、つまり俳句を詠む者の表象的心理をですね、限定してしまう、つまり通り一遍の名辞というか、通念に縛り付けてしまう気さえするんですね、ですから、私は映像的に表象が明確化される用言止めの方に痛烈に惹かれるんです。それはフッサールとかサルトルといった哲学者の思念を彷彿されるんですね。」
吹上は確か文学部出身であったが、まさか俳句の席でフッサールやサルトルの名が出てくるとは思いも拠らなかった。私自身哲学書を貪り読んだ記憶もあるが、大分昔の話である。一気に私は世界が虚構めいて見える私のヒューム的懐疑主義的青春にその一言が立ち戻らせた。私はその一言を聞いた後で、この吹上とは私を色々な時期に立ち戻らせてくれる若いがあまり軽く扱っては後で痛烈な竹箆返しを食らうことになるかも知れない、まさに見過ごせない奴だとその時確信した。それはニュースの内容に一瞬凍てついた表情を見せた男に相応しい私の下した結論だった。
私は吹上の意見に対して
「それは私も吹上さんに完全に賛成ですね、余り巧くない詠み手が下手糞な本家取りにもならない名辞で締めくくると、句が死んでしまいますからね。」
と述べると桑原も近田も島田も須賀も納得した表情を示した。しかし暫く皆この遣り取りに納得したような表情をしていたが、思い立ったように近田が疑問を吹上にぶつけた。
「では自由律俳句の名作と言われる尾崎放哉の∧咳をしても一人∨は形式的には体言止めですが、どう考えたらよいのでしょうか?」
それに対して吹上はすかさず
「それはこう解釈すればよいでしょうね。つまり∧咳をしても一人でいる∨ということですね。これは∧一人で咳をする∨ということを言いたいのですが、そうただ言ってしまえば、面白くも何もないですね、しかし咳をしても周りには誰もいず、その咳をしたことを心配してくれる人も誰もいないということですからね。だから体言止めと言ってもね、これは限りなく用言止めに近い感覚の、つまり用言が省略された体言ですから、要するに知識とか解釈的な常套性に依拠したような体言止めのような本家取り的趣味性はないと見ていいですね。」
吹上は吟行している時にはあまり同伴していた島田とも積極的に会話を弾ませることなく、一人メモを取っていたから、当然社交家ではないらしいということは逆に創作家としては優れていると私は思っていたが、事実彼は後で皆で一句ずつ披露した句そのものも優れていたし、解釈家としても、批評家としても優れていたことは確かだった。そしてこういう出会いとはどんなに生き馬の目を抜くようなビジネスワールドにいても、味わえない妙味であることを私はつくづく感じたが、それは世界そのものが私を存在させる前に既にかなり虚構めいて見えることそのものを、句と作る、それを集団で篩にかけるという行為によって虚構を虚構(句)によって表現することで自然に世界を非虚構にすることが出来るということを私は替え玉としての生活から足を洗った後の人生で初めて知った気がした。
しかしやはりそれにもかかわらず、あの時のニュースでのスカイスレッダーでの苦難とか、山田は巧くやっているのだろうかと、一度だけ私にアドヴァイスを求めてきたあの時以来一度も私の携帯にはかけてこないままでいる彼の現在の行状に関していささか憂慮めいた気持ちになっていたということ自体が、私は未だ完全には気分的にリタイアしているのではないということに気づき、私はこの句会において、誰にも気づかれないように一人で苦笑をしていたのだ。
「いやあ、今日は先生抜きで素晴らしい会合となりました。また私のところに連絡して下されば、私が句会をする場所を確保致しますので、いつでも何なりとお申し付け下さい。」
と閉めの言葉を須賀が句の批評が終ってから言った。それに対して島田が
「私たち一般庶民にとって社会で生活していくということは、個人的な創作への思いとか沈思黙考すること自体を諦めて、要するに自分というものや自分を見つめるということ自体を捨てて社会に奉仕するということです。ですから先生のような天才の方以外の私たち、と申しましても、私以外にここにいらっしゃる方は含まれませんけれども、要するにこういういい機会でもない限り、一切自分を創作を通して見つめる機会などなくただ死んでいくだけです。」
と言って、須賀に感謝の視線を注いだ。すると桑原が
「私は写真家ですから、よくあなたは自分の表現をなさる機会に恵まれていらっしゃるでしょうとか言われるんですが、写真家というのは、確かに通常の会社員の業務よりは、自分を見つめる機会に恵まれていますけれども、どうなんでしょうかね、却って近田さんのような若い会社員の方にとっての余暇の過ごし方の方が有効に自分を見つめる余裕が持てるんじゃないですかね。つまり私たちは半分は自分の写真家としてのテーマとか考えることが出来るけれど、それはあくまで社会全体が私に求めるものに対する受け答えとして設定された「私の世界」なのであって、私が社会に対して求めたり、私が社会から認定したりして貰いたいものとも微妙にずれ込んでいるのですね。」
すると、もうお開きかと思われた場が再び話に盛り上がって、それに対して近田が
「桑原先生のような方でもそうお思いになれるんだったら、要するにプロの世界ではあまり自由はないということになりますね。」
と述べた。すると桑原は
「そういうことですよ、世の中に一切認められないようなしかし本当の天才がいたとしたら、そういう人間はどこかで社会通念と対立して生きていかざるを得ないけれども、いざ自分にとっての安全地帯を見出したのなら、却って売れっ子よりももっと自由かもしれませんよ。」
と言った。するとその意見に吹上も島田も賛同するように大きく首を縦に振った。その場で全部お開きになり後はホテルで過ごすなり、土産物屋に行くなり自由時間という予定だったが、いきなりお開き前に話しが盛り上がったので須賀の咄嗟の発案で有志者のみで二次会を設け、酒を飲みながら俳句や俳句を取り巻く状況とか、それぞれにとっての俳句の出会いを語り合うということをすることになり、結局一人も参加しない者は出ず皆で祇園の居酒屋(須賀が一見ではない店があったので)に繰り出した。会費は若い近田だけ桑原の奢りということになって皆が出席した。既に御苑を出た時には夕方近くになっていたので、二次会がお開きということになり三々五々後は完全な自由時間ということで、土産物屋に寄ろうとする者もいれば、そのまま宿泊先の京都国際ホテルに向かう者もいて、ホテルのチェックインへと向かった時にはすっかり夜もふけていた。腕時計を見るとちょうど八時になっていた。近く(大津)に住む島田だけが明日また東寺で落ち合う約束を皆として、一旦自宅に戻って行った。
御苑から祇園に行く途中でバスの中で幾つかのギャラリーを車窓から目撃したのだが、その時私は伊豆倉のことを一瞬思い出した。思えば彼によって自分の人生がある部分では急転したのだ。しかし彼のよく言っていたこと
「金城さん、画商って奴はとてもじゃないが、まともではない悪どい奴っているんですよ。贋作と知っていて平気で高額で売りつけてどろんするような奴とかね。」
を思い出したが、自分もそれと似たようなものかも知れないと思ったのだ。しかし極めて紳士的でこの替え玉詐欺が知られさえしなければ誰も傷つかないのではないかと大胆にもその時私はそう思ったのだ。
Tuesday, October 27, 2009
<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑫
私は山田のことをすっかり沢柳に後釜のことを聞かれるまで忘れていた。しかし山田に全てを託し、もうあの翻訳業務をしていた頃のように二度と今度はどんな仕事が来るのかと半分不安、半分期待が入り混じった感情でその都度迎えるというようなことなどないだろう。何故なら私は既にもう一生働かなくてもいいくらいの財産があった。しかしそれは決して真っ当な仕事によって得たものではないし、また世間に公表し得るものでもない。つまり私は生涯、楽な生活をすることが出来るが、同時に生涯、翻訳をしていた頃のようには、世間に胸を張って生きていくことは出来ない。勿論私は翻訳をしていた頃からとりたてて、人生の充実感とか、生き甲斐といったものを信じる方ではなかった。しかしあの得体の知れない沢柳による試用期間において、不安を入り混じらせながらも、必死で採用されることを考えていた頃には、それなりに精神的な充実感はあった。つまり何らかの生き甲斐とはこんなものではなかろうかというような感じは確かにあったのだ。つまりそういうことというのは後になってから、そうだ、あれが幸福という感情だったに違いないと分かるものなのかも知れない。
しかし実際にCEОとしての仕事をこなし、それを替え玉としてではなく本当に自分の意志でし始めた頃まではある意味では最初の緊張感からの延長だった。しかしある時点から、つまり自分自身で替え玉としてではなく、いつしか最初から自分がCEОだったのではないかと錯覚するくらいに慣れていった頃から私は確かに完全に後戻りすることすら出来ず、またそれを一方では確かに決して望んではいなかったものの、未だ試用期間中なら、全く異なった場所で仮に誰かと居酒屋辺りで会話するにしても、どこか胸を張って会話することが出来たろう。しかし私自身が最初からCEОだったのではないかと錯覚するくらいに沢柳が死んだという事実自体に慣れていった頃、私は既に引き返すことの不能な地点に来ていたのだ。そしてその時点から私は居酒屋などで見知らぬ人たちと会話することなど最早する余地さえない地点に来ていたのだ。またそういう気持ちにすらならないようになっていた。そのことはその日、生きていた沢柳の笑顔を見てそう思った。つまりサハシーも今の私同様の気持ちを、私に全ての業務を明け渡した時点で味わっていたのに違いないのである。
だから私は本来だったならもっと沢柳の生存に対して驚くべきところが、意外にも、私に任せて辞めていったサハシーの気持ちがよく理解出来るという感じだったことの方に私は驚いていた。それは私もまた今のサハシーと同じ身分になっているということからくる感じだったのだろう。
私はモンサンミッシェルの風情もそこそこに、脳裏には殆ど沢柳が私に明け渡し、私が山田に明け渡した業務と、その業務に向かう人々といった関係についてどこか哲学的に思惟を働かせていた。社会そのものの運営ということが、自分の思惑とは全く違う部分で展開しているという感じは誰でも抱く感慨だろうが、それがこういう世界遺産のような観光地に訪れている時にも、いやそういう場所だからこそ脳裏を掠めるということは、私たちがいかに人間関係の渦に常に飲み込まれているかということを表している。が、私はそういうことを思い巡らしながらも、この先どのように生活していくべきか、おぼろげながら辞める前に考えていたが、既に私が抜ける前に購入していたシンガポールの高層マンションに移り住むことを実行に移そうと考えていた。既にフランスからシンガポールにまで行く飛行機の手筈は整えていた。そして再びパリへ列車で戻り、夕方には到着するから、それから予約しておいたホテルにチェックインし、翌日オルセー、オランジェリー、ルーブルといった美術館を見てから、夕方発の飛行機に乗る予定だった。ピカソ美術館も時間があれば見ようと思っていたが、翌日最初の二つの美術館をざっと見て回っただけで殆ど時間的にも体力的にもそれ以上一日で見て回ることが出来ないということを察知し、ルーブルとピカソは諦めて、私は空港へ搭乗時刻からすれば少し早いが、出向き、そこで新聞を買って椅子に腰掛けリタイア後に時々吸うようになっていた煙草を取り出し吸い出した。サンジェルマンをタクシーで通りかかった時、タクシーを停めて最寄りの店で購入したル・ジタンだった。
その時フランス国営テレビのニュースが世界的規模での株の大暴落について告げた。私が職に就いている間はこんなことは一度もなかった。アメリカ国内でのサブプライムローンが契機となった今回の世界的金融危機は百年に一度であると報じられた。その時久しぶりに私は咄嗟に日本のことを考えた。日本での生活はどうなっていくのかということを、最早日本に戻り生活することを断念していたのにもかかわらず考えたのだ。そしてその時山田はこれからどう采配を振るっていくのだろうとも考えたが、それ以上に彼の心配をすることはなかった。
しかし実際にCEОとしての仕事をこなし、それを替え玉としてではなく本当に自分の意志でし始めた頃まではある意味では最初の緊張感からの延長だった。しかしある時点から、つまり自分自身で替え玉としてではなく、いつしか最初から自分がCEОだったのではないかと錯覚するくらいに慣れていった頃から私は確かに完全に後戻りすることすら出来ず、またそれを一方では確かに決して望んではいなかったものの、未だ試用期間中なら、全く異なった場所で仮に誰かと居酒屋辺りで会話するにしても、どこか胸を張って会話することが出来たろう。しかし私自身が最初からCEОだったのではないかと錯覚するくらいに沢柳が死んだという事実自体に慣れていった頃、私は既に引き返すことの不能な地点に来ていたのだ。そしてその時点から私は居酒屋などで見知らぬ人たちと会話することなど最早する余地さえない地点に来ていたのだ。またそういう気持ちにすらならないようになっていた。そのことはその日、生きていた沢柳の笑顔を見てそう思った。つまりサハシーも今の私同様の気持ちを、私に全ての業務を明け渡した時点で味わっていたのに違いないのである。
だから私は本来だったならもっと沢柳の生存に対して驚くべきところが、意外にも、私に任せて辞めていったサハシーの気持ちがよく理解出来るという感じだったことの方に私は驚いていた。それは私もまた今のサハシーと同じ身分になっているということからくる感じだったのだろう。
私はモンサンミッシェルの風情もそこそこに、脳裏には殆ど沢柳が私に明け渡し、私が山田に明け渡した業務と、その業務に向かう人々といった関係についてどこか哲学的に思惟を働かせていた。社会そのものの運営ということが、自分の思惑とは全く違う部分で展開しているという感じは誰でも抱く感慨だろうが、それがこういう世界遺産のような観光地に訪れている時にも、いやそういう場所だからこそ脳裏を掠めるということは、私たちがいかに人間関係の渦に常に飲み込まれているかということを表している。が、私はそういうことを思い巡らしながらも、この先どのように生活していくべきか、おぼろげながら辞める前に考えていたが、既に私が抜ける前に購入していたシンガポールの高層マンションに移り住むことを実行に移そうと考えていた。既にフランスからシンガポールにまで行く飛行機の手筈は整えていた。そして再びパリへ列車で戻り、夕方には到着するから、それから予約しておいたホテルにチェックインし、翌日オルセー、オランジェリー、ルーブルといった美術館を見てから、夕方発の飛行機に乗る予定だった。ピカソ美術館も時間があれば見ようと思っていたが、翌日最初の二つの美術館をざっと見て回っただけで殆ど時間的にも体力的にもそれ以上一日で見て回ることが出来ないということを察知し、ルーブルとピカソは諦めて、私は空港へ搭乗時刻からすれば少し早いが、出向き、そこで新聞を買って椅子に腰掛けリタイア後に時々吸うようになっていた煙草を取り出し吸い出した。サンジェルマンをタクシーで通りかかった時、タクシーを停めて最寄りの店で購入したル・ジタンだった。
その時フランス国営テレビのニュースが世界的規模での株の大暴落について告げた。私が職に就いている間はこんなことは一度もなかった。アメリカ国内でのサブプライムローンが契機となった今回の世界的金融危機は百年に一度であると報じられた。その時久しぶりに私は咄嗟に日本のことを考えた。日本での生活はどうなっていくのかということを、最早日本に戻り生活することを断念していたのにもかかわらず考えたのだ。そしてその時山田はこれからどう采配を振るっていくのだろうとも考えたが、それ以上に彼の心配をすることはなかった。
Saturday, October 24, 2009
<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑪
しかし私はタヒチでも長居はしなかった。即座にフランスのモンサンミッシェルに飛ぶことにしたのだ。と言うより予めそう決めていた。タヒチの海岸で飲んだトロピカル・ジュースの味が未だ舌に残っている間に既に飛行機は韓国ソウル、そして中国北京へと着陸していた。更にそこからロシア上空を飛び、モスクワで一度着陸し、再び今度はパリに向かって一路飛行機は飛び立った。
結局私が替え玉としての生活に区切りをつけたものの元通りの自分には終ぞ戻ることの出来ない地点に来てしまったということをまざまざと見せつけられたのは、実はハイウエーを建設してからというもの、前のような細い海岸だけが引き潮の際だけ残されているからこそ「あそこに行く前に遺書を書け」とまで言われた両際から打ち寄せる波によって辛うじて残っている風情がすっかりぶち壊しになり、ハイウエー沿いに泥土が打ち寄せられてすっかり様変わりしてしまい、元の風情を人工的に取り戻そうとハイウエーを撤去した後、橋を代わりにかけるために工事がしきりに行われている最中のモンサンミッシェルに到着した後に起きた出来事によってであった。
内部にある礼拝堂の椅子に腰掛けていた時、私は最初ずっと天井の方ばかり気を取られていた。しかし内部に差し込む光の具合が、次第に外部の天候が曇っていくことを示すに従って光の差し込み具合による堂内の陰影が微妙に変化することに対して様々な国籍の観光客の静かなざわめきの方へと注意を以降させていった時、私は一人の男の後姿に目が釘付けになったのだ。それはまさに自分自身見紛うくらいの瓜二つであるあの沢柳にとてもよく似ていた。しかしその男はざわざわ数十人くらいいる白人や黒人やアラブ系の観光客が多かったその時の人垣の前を椅子から立ち上がって、ゆっくり歩き始めた。そこで私は人垣を潜って、その男の後をつけて行った。
男は中庭の見える回廊に向かった。上部にあるその庭が見える回廊に到着すると、少し前に階段を昇って行ったその男の後姿が再び確認出来た。
その時曇った空がごろごろと音を立て、一気に土砂降りになった。中庭に叩きつける雨の音と、そのシャワーの縦に叩きつける様を見とれていたその男は、その雨の雫が自分の方にかかってしまったらしく、それまでは中庭の遠方を見ていたが、ふと回廊の内部の方へと視線を移した。その時だった。私はその男がまさにあの死んだ筈のサハシーであることを悟ったのだ。
私はそそくさと彼の方へと近づいて行くと、彼はこちらを振り返った。そして私の顔を認めると
「やあ、金城さんですね。」
と一言そう私に告げた。私はあまりの展開に自分でも即座の対応としてどのような言葉をかけたらいいか判断つきかねていながらも、口からは意外なほどすらすら言葉がついて出てきた。
「あなた、お亡くなりになった筈じゃなかったんですか?」
すると沢柳は
「いやあ、あなたがどれくらい私なしで仕事をこなしていけるか試したくってね、まあ人が悪いかも知れないけれど、私は死んだことにさせて頂きましたよ。尤も私は二度とあのCEОの職には復帰致しませんから、結局それは死んだということと同じことなんですけれどね。」
私は抜け抜けとそう語るサハシーの態度に一気に怒りが込み上げ
「それにしても、一体なんでそんな手を込んだことをなさったんですか?」
すると悪びれもせず沢柳は
「だって、その方があなただってやりやすかったでしょう?」
と私に告げたので、私は対応に困って
「そう言われたって。」
とだけ言ってそれ以上は口を噤んでしまった。すると静かにサハシーは
「こんなところにいらっしゃるということは、あなたも既に自分の身代わりを立てて、自分が退かれたということですな?」
と私に問い質した。
「そうですよ、当然ですよ。あんな立場にいつまでも平気でいられるほど私はあなたほど図太くないですからね。」
と私が返すと、沢柳は続けた私に問いかけた。
「別に私はもう死んだことになっていたのだから、あなたさえよければずっとあのポストにあなたが居座り続けてもよかったんですけれどね。でも何で私があなたを私の身代わりに決めたからお分かりになられますか?」
私は即座に返答出来なかったが
「そりゃ、風貌が私とあなたはそっくりではないですか?それが理由でしょう?」
するとサハシーこと沢柳は
「そりゃ、似ているという意味ではあなたと私は勿論瓜二つです。しかしそれだけではないですね、そんなにそっくりというだけでは世界にはあなた以外にも三人くらいはいます。どこの国の首脳もそういう影武者を用意しているものですよ。ただ囮という意味だけでならね。でもあなたをただの囮ではなく、本当の私ということで代行どころか、私になって貰ったのはわけがあるんです。」
と私に真摯な態度でそう告げたので、私は
「一体それは何故ですか?」
と聞き返した。するとサハシーは
「それは、あなたが一番重要なことで窮したり、二進も三進も行かなくなった時に、誰かに相談したりするようなタイプではないと私が踏んだからですよ。」
と述べた。私が
「それはどういうことですか?」
と尋ねると、沢柳は
「つまり、ああいう重要なポジションにいる人間というのは、ある面では凄く弱気になっていくようなこともしばしばあるんです。でもあなたは少なくとも、些細なことでは周囲の人間によく相談するタイプだけれど、いざとなったなら、一切誰にも相談しないようなタイプだと私は見抜いたのです。違いますか?」
と私の目を凝視してそう言った。
「まあ、当たっていないということではないですね。」
と私は沢柳の凝視する目にそう返答した。
私たちが話している間に一時叩きつけていた土砂降りは嘘のように引いて、再び昼時の太陽の光が差し戻っていた。暫く私たち二人は押し黙ったまま、中庭に目をやっていたが、我に返るように、私は沢柳に尋ねていた。
「今は結局どちらに落ち着かれているんですか?」
するとサハシーは
「まあ世界中今のあなたのように暫くは旅行していましんですけれどね、今はフランスの片田舎に引っ込んで、毎日釣りをしているところです。」
と言った。私は再びサハシーに聞いた。
「それでこれからもその生活をお続けになられるんですか?」
すると沢柳は
「そう仰るあなたこそこれからどうされるお積もりですか?それにあなたの代わりになった人は放っておいても大丈夫な人なんですか?」
と逆に私に問い質してきた。私はそれに対して
「さあ、それも少し時間を置いてみないと、分かりませんが。でも何とかやってくれるんじゃないかと思うんですけれどね。」
と私は沢柳に頼りなげにそう答えた。
沢柳は
「あなたも私の代わりを勤めて、世の中の仕組みというものを大分ご理解なされたでしょう?」
と私に聞いた。私は即座には返答せず、暫く間を置いてから
「いや、これから少しずつ理解していくことでしょうね。寧ろ辞めた後になったばかりだからこれからね。」
するとサハシーは
「なるほどね、実感が篭ってらっしゃいますね。」
と言って微笑んだ。そして私にパリに行った時に購入したという高級チョコレートを私に差し出してから
「まあ、これでも私の思い出に食べて下さいよ。まあ、もう私たちは再びお会いすることもないでしょうけれどね。」
と言って、沢柳は私に手を振って、先に階段をそそくさと下りて行った。私はどうしても聞いておきたいことがあって、沢柳を呼び止めた。
「ところでどうしてまたもう一度自分で仕事をなさるように私の代わりにポジションにお就きになられるお気持ちがないのですか?」
すると沢柳はくるりと振り返って
「それはあの時最後にあなたが返信してきたあなたの回答を見て、なるほどなって思ったからですよ。」
と言った。私はあのクイズ形式の最後の質問も、それに対してどんなことを返答して返信したかも忘れていた。そこで
「私どんなことを書き込みましたっけ?」
と沢柳に尋ねた。すると彼は
「あなたはあの時こんなことをお書きになられたんですよ。孤独を感じることは孤独という言葉を我々が知っているからだと言うことを書いた後で言葉がないのにその孤独という言葉を作ることをあなたは突拍子もない偶然と表現なさったんですよ。そして∧その突拍子もない偶然に対して私はそれが偶然であると思わないで私の気持ちであると感じるだろう。もしそうであるなら私は言語の創造者であるということになるが、それが偉大であるとも感じないままでいることだろう∨ってね。その突拍子もない偶然っていう奴で人間は言葉を持ったんですよ。それが∧アダムが蛇から貰った林檎∨だったのかも知れませんね。でも孤独という言葉を知っている私はその孤独を打ち勝つことが出来ます。ならばその打ち勝つことをあなたにもして頂きたかったんですよ。一人くらい私の孤独を理解してくれる人がいれば私はこれから先もそれほど寂しくはない。それが唯一私が私の孤独を打ち勝つ方法だったからあなたに依頼したのです。あなたのお辞めになられた後あなたの後釜に納まるくらいなら私は辞めたままでいたいですよ。何故って態々あなたを選んだ私の決断が正しくなかったことになるからです。」
それだけ言うと彼はまたくるりと踵を返すようにしてそのまま私の方を二度と振り返らずに立ち去った。
結局私が替え玉としての生活に区切りをつけたものの元通りの自分には終ぞ戻ることの出来ない地点に来てしまったということをまざまざと見せつけられたのは、実はハイウエーを建設してからというもの、前のような細い海岸だけが引き潮の際だけ残されているからこそ「あそこに行く前に遺書を書け」とまで言われた両際から打ち寄せる波によって辛うじて残っている風情がすっかりぶち壊しになり、ハイウエー沿いに泥土が打ち寄せられてすっかり様変わりしてしまい、元の風情を人工的に取り戻そうとハイウエーを撤去した後、橋を代わりにかけるために工事がしきりに行われている最中のモンサンミッシェルに到着した後に起きた出来事によってであった。
内部にある礼拝堂の椅子に腰掛けていた時、私は最初ずっと天井の方ばかり気を取られていた。しかし内部に差し込む光の具合が、次第に外部の天候が曇っていくことを示すに従って光の差し込み具合による堂内の陰影が微妙に変化することに対して様々な国籍の観光客の静かなざわめきの方へと注意を以降させていった時、私は一人の男の後姿に目が釘付けになったのだ。それはまさに自分自身見紛うくらいの瓜二つであるあの沢柳にとてもよく似ていた。しかしその男はざわざわ数十人くらいいる白人や黒人やアラブ系の観光客が多かったその時の人垣の前を椅子から立ち上がって、ゆっくり歩き始めた。そこで私は人垣を潜って、その男の後をつけて行った。
男は中庭の見える回廊に向かった。上部にあるその庭が見える回廊に到着すると、少し前に階段を昇って行ったその男の後姿が再び確認出来た。
その時曇った空がごろごろと音を立て、一気に土砂降りになった。中庭に叩きつける雨の音と、そのシャワーの縦に叩きつける様を見とれていたその男は、その雨の雫が自分の方にかかってしまったらしく、それまでは中庭の遠方を見ていたが、ふと回廊の内部の方へと視線を移した。その時だった。私はその男がまさにあの死んだ筈のサハシーであることを悟ったのだ。
私はそそくさと彼の方へと近づいて行くと、彼はこちらを振り返った。そして私の顔を認めると
「やあ、金城さんですね。」
と一言そう私に告げた。私はあまりの展開に自分でも即座の対応としてどのような言葉をかけたらいいか判断つきかねていながらも、口からは意外なほどすらすら言葉がついて出てきた。
「あなた、お亡くなりになった筈じゃなかったんですか?」
すると沢柳は
「いやあ、あなたがどれくらい私なしで仕事をこなしていけるか試したくってね、まあ人が悪いかも知れないけれど、私は死んだことにさせて頂きましたよ。尤も私は二度とあのCEОの職には復帰致しませんから、結局それは死んだということと同じことなんですけれどね。」
私は抜け抜けとそう語るサハシーの態度に一気に怒りが込み上げ
「それにしても、一体なんでそんな手を込んだことをなさったんですか?」
すると悪びれもせず沢柳は
「だって、その方があなただってやりやすかったでしょう?」
と私に告げたので、私は対応に困って
「そう言われたって。」
とだけ言ってそれ以上は口を噤んでしまった。すると静かにサハシーは
「こんなところにいらっしゃるということは、あなたも既に自分の身代わりを立てて、自分が退かれたということですな?」
と私に問い質した。
「そうですよ、当然ですよ。あんな立場にいつまでも平気でいられるほど私はあなたほど図太くないですからね。」
と私が返すと、沢柳は続けた私に問いかけた。
「別に私はもう死んだことになっていたのだから、あなたさえよければずっとあのポストにあなたが居座り続けてもよかったんですけれどね。でも何で私があなたを私の身代わりに決めたからお分かりになられますか?」
私は即座に返答出来なかったが
「そりゃ、風貌が私とあなたはそっくりではないですか?それが理由でしょう?」
するとサハシーこと沢柳は
「そりゃ、似ているという意味ではあなたと私は勿論瓜二つです。しかしそれだけではないですね、そんなにそっくりというだけでは世界にはあなた以外にも三人くらいはいます。どこの国の首脳もそういう影武者を用意しているものですよ。ただ囮という意味だけでならね。でもあなたをただの囮ではなく、本当の私ということで代行どころか、私になって貰ったのはわけがあるんです。」
と私に真摯な態度でそう告げたので、私は
「一体それは何故ですか?」
と聞き返した。するとサハシーは
「それは、あなたが一番重要なことで窮したり、二進も三進も行かなくなった時に、誰かに相談したりするようなタイプではないと私が踏んだからですよ。」
と述べた。私が
「それはどういうことですか?」
と尋ねると、沢柳は
「つまり、ああいう重要なポジションにいる人間というのは、ある面では凄く弱気になっていくようなこともしばしばあるんです。でもあなたは少なくとも、些細なことでは周囲の人間によく相談するタイプだけれど、いざとなったなら、一切誰にも相談しないようなタイプだと私は見抜いたのです。違いますか?」
と私の目を凝視してそう言った。
「まあ、当たっていないということではないですね。」
と私は沢柳の凝視する目にそう返答した。
私たちが話している間に一時叩きつけていた土砂降りは嘘のように引いて、再び昼時の太陽の光が差し戻っていた。暫く私たち二人は押し黙ったまま、中庭に目をやっていたが、我に返るように、私は沢柳に尋ねていた。
「今は結局どちらに落ち着かれているんですか?」
するとサハシーは
「まあ世界中今のあなたのように暫くは旅行していましんですけれどね、今はフランスの片田舎に引っ込んで、毎日釣りをしているところです。」
と言った。私は再びサハシーに聞いた。
「それでこれからもその生活をお続けになられるんですか?」
すると沢柳は
「そう仰るあなたこそこれからどうされるお積もりですか?それにあなたの代わりになった人は放っておいても大丈夫な人なんですか?」
と逆に私に問い質してきた。私はそれに対して
「さあ、それも少し時間を置いてみないと、分かりませんが。でも何とかやってくれるんじゃないかと思うんですけれどね。」
と私は沢柳に頼りなげにそう答えた。
沢柳は
「あなたも私の代わりを勤めて、世の中の仕組みというものを大分ご理解なされたでしょう?」
と私に聞いた。私は即座には返答せず、暫く間を置いてから
「いや、これから少しずつ理解していくことでしょうね。寧ろ辞めた後になったばかりだからこれからね。」
するとサハシーは
「なるほどね、実感が篭ってらっしゃいますね。」
と言って微笑んだ。そして私にパリに行った時に購入したという高級チョコレートを私に差し出してから
「まあ、これでも私の思い出に食べて下さいよ。まあ、もう私たちは再びお会いすることもないでしょうけれどね。」
と言って、沢柳は私に手を振って、先に階段をそそくさと下りて行った。私はどうしても聞いておきたいことがあって、沢柳を呼び止めた。
「ところでどうしてまたもう一度自分で仕事をなさるように私の代わりにポジションにお就きになられるお気持ちがないのですか?」
すると沢柳はくるりと振り返って
「それはあの時最後にあなたが返信してきたあなたの回答を見て、なるほどなって思ったからですよ。」
と言った。私はあのクイズ形式の最後の質問も、それに対してどんなことを返答して返信したかも忘れていた。そこで
「私どんなことを書き込みましたっけ?」
と沢柳に尋ねた。すると彼は
「あなたはあの時こんなことをお書きになられたんですよ。孤独を感じることは孤独という言葉を我々が知っているからだと言うことを書いた後で言葉がないのにその孤独という言葉を作ることをあなたは突拍子もない偶然と表現なさったんですよ。そして∧その突拍子もない偶然に対して私はそれが偶然であると思わないで私の気持ちであると感じるだろう。もしそうであるなら私は言語の創造者であるということになるが、それが偉大であるとも感じないままでいることだろう∨ってね。その突拍子もない偶然っていう奴で人間は言葉を持ったんですよ。それが∧アダムが蛇から貰った林檎∨だったのかも知れませんね。でも孤独という言葉を知っている私はその孤独を打ち勝つことが出来ます。ならばその打ち勝つことをあなたにもして頂きたかったんですよ。一人くらい私の孤独を理解してくれる人がいれば私はこれから先もそれほど寂しくはない。それが唯一私が私の孤独を打ち勝つ方法だったからあなたに依頼したのです。あなたのお辞めになられた後あなたの後釜に納まるくらいなら私は辞めたままでいたいですよ。何故って態々あなたを選んだ私の決断が正しくなかったことになるからです。」
それだけ言うと彼はまたくるりと踵を返すようにしてそのまま私の方を二度と振り返らずに立ち去った。
Thursday, October 22, 2009
<共犯者たちのクロスロード‐偶然の虚構性>⑩
私が山田と入れ替わるように手筈していた日がやってきて、私は予め山田と申し合わせの通りに、明け方に予め借りていたレンタカー(車は社長専用米国内vIP用豪邸の十数台もの車が駐車出来るガレージに密かに数日前の深夜に停めて置いた)で密かにフリスコまで運転して行ってそこで乗り捨てた。そして空港からそのままバリ島に向けて飛び立った。バリ島で数日過ごした後、次はタヒチに、そして続いてモンサンミッシェルに飛ぶ予定を立てていた。私はその際に勿論金城悟でも沢柳でもなく別名、郷田守を使用した。山田は私が明け方に出てから、一時間後にやはり彼の運転する私がフリスコの空港付近で乗れるように用意していたレンタカーで豪邸に到着することになっている。あの山荘で予め詳しく豪邸の地図は彼に手渡し、カーナビも装備しているレンタカーを用意していたので、万事巧くいくことになっている。
私は沢柳という存在から解放されたのだから、金城に戻ることも出来た。しかし私の意図とは裏腹に私の稼いだ収入は、金城のままでは到底不可能なレヴェルへと一挙に到達していたのだ。つまり私は今後沢柳になりすました後で行ったあらゆる場所にも二度と訪れることは出来ない(それは既に山田の行く先になっているのだから)のに加えて、金城に戻ることすら不自然で出来ないのである。つまり金城のあれからの生活全般ではどう転んでも今の経済的能力を捻出することなど不可能なのだから、私は金城のままではいつまでたっても、今まで一年以上沢柳になりすまして得た収入を糧に派手な生活をすることなど出来ない。と言って同時に沢柳のままでもいられないのだから、私はある意味では不自由なことにも私本来の金城でも、なりすましてきた沢柳でもない全く架空の人間の生を生き続けなくてはならない。しかもひっそりと。そして同時に私は金城として知り合った飯島のような人間との偶然の出会いを恐れ、それに加えて沢柳時代に知り合った大勢の人間との出会いも避けて暮らさなくてはならない。最も恐れるべき事態とは、金城としての私の知り合いと出会った時そこに同時に沢柳として私が出会った知り合いとも出会うというある意味ではかなり蓋然性としては小さいにも関わらず、全く可能性ゼロではないそういう偶然に遭遇することである。勿論山田と出会うということも最も避けねばならない。また極めてリッチな生活をしていると、いつ何時山田と私が邂逅する機会が訪れないでもないのである。そういう意味では沢柳があの世に行ってくれたのは彼にはすまないが、天の恵みであるとも言える。三人が一同に会することだけは避けられるのだから。
私はバリ島へ向かう飛行機の中でこれから第三の人生に突入していくことの実感を噛み締めた。これからは郷田守としてのんびりと老後に向けて人生そのものを味わい尽くすのだ。もうあまり金銭的なことは勿論、何か業績を上げたいというような野心さえ抱く気持ちにもなれなかった。だからと言って放心状態であるわけでもなく、ただほっとしたという気分だった。しかしそのほっとしたという感じは晴れ晴れとしたものではなかったものの、と言っていつまでも緊張が解けないというのでもなかった。と言うのも私はいつからか緊張と、そこからの解放という程よい起伏そのものから遠ざかり、何らかの感情が別の感情によってコントロールされること自体に驚くこともなく、内的に動揺したりするような内的な葛藤さえもが、他人事のように思えるそんな風だったのだから。そもそも私は嘘と本当のことの違いという奴さえ然程切実なものとして私の中では存在していなかった。だから沢柳になりすました瞬間から寧ろ本来の自分に向いた生活を手中に収めたとも言えた。
私がここ二年くらいの間特殊な経験をしたからでもあるが、それ以前から抱いていた現実が虚構めいて見えるということの延長としてもそういう感覚が最早決して特殊なものではなくなっていたという意味では本来の私になれたということなのかも知れない。しかし不思議なことにも、ではだからと言ってそういう感覚にすっかり慣れきっていたという風かと言えば、それもまた違うというのが本当のところだった。しかし私はいつもそう感じる度に、「いや、人生などと言うものは所詮こういうものなのだ。」とただ勝手にそう納得しているその繰り返しだった。
それは人生に理想とか大いなる願望を持つことを諦めた方がそれに向かって努力してそれが報われない時に味わう失望感を予め招聘せずに済むという意味で気が楽だということだけである。だから思い出してみてもサハシーになっていた時期も私は水を得た魚という心境でもなかったのだ。空虚だけれど、その空虚をとりたてて払拭しようという意気込みを一切感じないまま過ごすという心の奇妙な平安がバリ島へと向かう飛行機上で私を支配していた。ファーストクラスに乗って隣に座るご婦人は私と恐らくこのフライトの間だけ私とかかわり、今後彼女と私が死ぬまで一度も再会することなく過ごすだろう。つまり人との出会いもそういうタイプの出会いの方がずっと都会を中心とする生活では多く、だからと言ってその事実に真剣に悩む人はいない。だから私が何とか一年以上やりおおせた沢柳=佐橋の役を終えて、今ほっと一息ついているということの内には、二度と会うことなく終わる隣のご婦人との出会い(勿論出会いと言っても語り合うわけではなく、ただそこに座っているということを知っているということだけのことなのだが)と似たような出会いをここ一年ちょっとの間してきて、マイク・ストーンランド、ジム・クラーク、サリー、ビル、トム、スコット・ヒーリー、エディー・レンディー、ロメオスといった人たちが、公私に渡って私の生活を支配していたが、もう二度と彼らと会うことなどないわけだから、それこそ彼らの中の只の一人として隣のご婦人以上の存在理由を持つ他者は私にとっては存在しなかったし、恐らくこれからも存在しないだろう。
私が一切の成り済ましビジネスから手を引いたことによって、本質的にスカイスレッダーのCEОとしてではなく、私人である郷田守、しかも謎の資産家としてバリ島への赴くジェットの中であれこれ思い浮かんだことと言えば、何か役職を辞めた時に感じる固有の心境だった。それはこういうことである。他の人がどんどん去っていくことを目撃するということは、例えばオリンピックで競技を決勝戦にまで進めることの出来る選手たちに共通する体験である。しかし会社ではそのようなことを目撃しても、オリンピックと違って、世界のトップというお墨付きを我が社で貰えるとは限らないので、必然的にただ我が社で脱落して辞めて行く成員に対して、負け犬というレッテルを必ずしも貼れるものでもない。つまり辞めた奴の方が正解である場合も往々にしてあるわけだから、いつまでも自分のように一箇所に留まっているという決意と、行為の持続は、そのようにしながらもどこかで「あの時辞めて行った奴の決断の方が正解だったのかも知れない」という思念との葛藤が絶えず付き纏う。そして辞めた直後に回想することと言えば、自分が辞める直前まで行動を共にしたメンバーよりも、自分がその職に就いてからほどなく辞めていったメンバーたちの笑顔とか、話し振りの方なのだ。結局自分もこうしてあの場を去ることとなってしまったのだから、自分よりも早くその場を去った者の決断がより今辞めたばかりの自分にとっては正しい判断のように思えるからである。「俺もすっかりあそこに長くいたが、俺よりももっと早くあの場を立ち去った者たちの選択の方が正しかったかも知れない」という思いは必ず湧き上がる。
しかしそれと特筆すべきことは、同時に新たな人生の幕開けを飾る旅行の最中で特に空港での待ち時間などに読む売店で買う新聞を開いてつい目が行ってしまうことというのは、それまで自分が属していた社の株の状況とか、社自体の業界における価値評定とか時価相場とかそんなことばかりだということである。もうそんなこと一切気にしなくてもいいのに、身体が自然にそういうことに対する注目をするように慣れてしまっているということに我ながら苦笑してしまう。「そうだ。俺はもう沢柳=佐橋社長ではないんだ。郷田守としてひっそりとしかしそんなに苦労することなく世界中のホテルとかに泊まり歩いて生活するくらいのことなら出来るんだ。」とそう言い聞かせた。
私はそれから一年くらいそういう生活をしてどこかスペインかカナダかそれは未だ決めていなかったが、田舎の奥まったいい景色で、あまり人の多く住まない邸宅を購入して生活したいと考えていた。そして今更ながらにかつてサンタフェの豪邸に最初に着いた時、居間のラウンジから書斎へと赴く時、あまりにも複雑で迷路のような行き順だった(佐橋が誰かに狙われることを未然に防止した措置だったのだろう)私は特注して購入し送って貰っていた一キロ近い長さのストランド・ロープを、一切邸宅に勤務する者が引き払った休日に密かに私が山荘で佐橋から貰った邸宅内の地図を頼りに書斎へと行き順を探り探りして辿り着こうとしていた時、足元に置いて、再びラウンジに戻る時にはそのロープを頼りに歩いて行ったことを思い出していた。しかしこれからはそんな複雑でただ広い豪邸に住むことなどないだろうと私は思った。すると急に肩の荷を降ろした気持ちにもなっていた。確かに完全に清清しい気持ちというのにはほど遠かったが、それでも一年以上も替え玉をやり終えたという達成感だけはあったのだ。
私はハワイ経由でバリ島へ向かい、現地に着いてからは、一度泊まるホテルへと向かい、そこで簡単な荷物(あまり多くの荷物はなかった。と言うのも山田に後は全て任せていたので、佐橋としての所有物の殆どをサンタフェに残してきたのだ。そうしなければ怪しまれる。だから後は預金だけを頼りに生活していく積もりだった)だけだったので、その荷物を置くとすぐ帰ろうとしていたホテルで荷物を運んでくれた現地人のポーターにチップを払う時、彼は未だ二十代の青年だったので、久し振りに若者と話すいい機会だと思って話してみると、そのホテルは日本人が経営するホテルだったのだが、彼は現地では豪邸に住まうアメリカ人、中国人、日本人のどの人たちの下で働くのがいいかと言うと、大抵の現地人は人使いの丁重な日本人が最も人気があるということだった。そのホテルと懇意のやはり現地人ガイドと共に民族音楽のケチャを聴きに行き、そこで暫くワインを飲んでから、海岸に行き、予めガイドに運ばせていた折り畳み式のビーチチェアに寝そべり暫く転寝した。
再びホテルに戻ると、そこでテレビをつけ、株式市況に関するニュースを見て、スカイスレッダーの行く末を見守った。しかし考えてみれば一年以上前にはそんなことどうでもいいことだったのに、その時にはすっかり「私のいなくなった後の社」という発想で全てを見ている自分に我ながらかつての地味な翻訳家としての人生から百八十度転換してしまったことに対して不思議な気持ちになっていた。
しかしバリ島にはあまり長く滞在せず、翌日にはすぐにタヒチに飛んだ。タヒチではゴーギャンの記念館で彼の絵を見ることだけを予定に組んでいた。しかしゴーギャンはその時の私がなっていた年齢までは生きておらず既に死んでいたのだ。そう長くはない人生を華々しく絵画制作に明け暮れて過ごした人生は長さではなく濃密な生の苦悩によってその命脈を保っている。そういう息遣いだけを絵画から感じることが出来ればそれでいいと思った。私は絵を見るのが昔から好きで、だからこそ伊豆倉のギャラリーによく訪ねたのだ。しかしギャラリーというところはある意味では定評のアーティストの安価な作品だけを置き、作品を物として捌くことが目的の場所であり、純粋に絵画を鑑賞する目的の場所ではない。要するにそれは鑑賞目的であれ、投機的目的であれその時に必要とされる絵画作品という商品を陳列する場所なのである。商品を陳列するということは、多分にそういう信頼出来る偽者ではない本当の作品を陳列することが可能であるというディーラーの手腕に対する誇示という側面もあるから、その信頼ある市場価値ある商品を購入することの出来る購入者の経済力の誇示との鬩ぎ合いの場所でもある。しかし美術館は違う。そこでは商品としての絵画を購入する目的で鑑賞者たちは訪れているのではない。だから逆に翻訳家としてつましい生活に甘んじていた頃の私は自らの経済力の誇示をどこかで充足するためによく訪れた伊豆倉のギャラリーのような空間よりは、かなり経済力を身につけた後のその時には寧ろ鑑賞することだけが目的の美術館に憩いを見出していたのである。
意外とその美術館は内部が暗かった。そもそもアートの作品は強烈な灯りに弱いので、室内は暗く作品保存のために設定されている。しかし恐らく私が感じ取っていたゴーギャンの作品の数々に描かれた内容が私にある種の内的な暗さを私の心に呼び覚ましていたのだろう。そして外部に展開する海岸沿いの自然の底抜けに明るい空気感が、逆にゴーギャンの絵の内的な荘厳さとか精神的深度のある暗さを彷彿させたのだ。外気の肯定性が内的世界の否定性を際立たすということがあるのかも知れない。私はいつの間には彼の絵画の前で私自身の人生をゴーギャンのそれと重ね合わせていた。
私は沢柳という存在から解放されたのだから、金城に戻ることも出来た。しかし私の意図とは裏腹に私の稼いだ収入は、金城のままでは到底不可能なレヴェルへと一挙に到達していたのだ。つまり私は今後沢柳になりすました後で行ったあらゆる場所にも二度と訪れることは出来ない(それは既に山田の行く先になっているのだから)のに加えて、金城に戻ることすら不自然で出来ないのである。つまり金城のあれからの生活全般ではどう転んでも今の経済的能力を捻出することなど不可能なのだから、私は金城のままではいつまでたっても、今まで一年以上沢柳になりすまして得た収入を糧に派手な生活をすることなど出来ない。と言って同時に沢柳のままでもいられないのだから、私はある意味では不自由なことにも私本来の金城でも、なりすましてきた沢柳でもない全く架空の人間の生を生き続けなくてはならない。しかもひっそりと。そして同時に私は金城として知り合った飯島のような人間との偶然の出会いを恐れ、それに加えて沢柳時代に知り合った大勢の人間との出会いも避けて暮らさなくてはならない。最も恐れるべき事態とは、金城としての私の知り合いと出会った時そこに同時に沢柳として私が出会った知り合いとも出会うというある意味ではかなり蓋然性としては小さいにも関わらず、全く可能性ゼロではないそういう偶然に遭遇することである。勿論山田と出会うということも最も避けねばならない。また極めてリッチな生活をしていると、いつ何時山田と私が邂逅する機会が訪れないでもないのである。そういう意味では沢柳があの世に行ってくれたのは彼にはすまないが、天の恵みであるとも言える。三人が一同に会することだけは避けられるのだから。
私はバリ島へ向かう飛行機の中でこれから第三の人生に突入していくことの実感を噛み締めた。これからは郷田守としてのんびりと老後に向けて人生そのものを味わい尽くすのだ。もうあまり金銭的なことは勿論、何か業績を上げたいというような野心さえ抱く気持ちにもなれなかった。だからと言って放心状態であるわけでもなく、ただほっとしたという気分だった。しかしそのほっとしたという感じは晴れ晴れとしたものではなかったものの、と言っていつまでも緊張が解けないというのでもなかった。と言うのも私はいつからか緊張と、そこからの解放という程よい起伏そのものから遠ざかり、何らかの感情が別の感情によってコントロールされること自体に驚くこともなく、内的に動揺したりするような内的な葛藤さえもが、他人事のように思えるそんな風だったのだから。そもそも私は嘘と本当のことの違いという奴さえ然程切実なものとして私の中では存在していなかった。だから沢柳になりすました瞬間から寧ろ本来の自分に向いた生活を手中に収めたとも言えた。
私がここ二年くらいの間特殊な経験をしたからでもあるが、それ以前から抱いていた現実が虚構めいて見えるということの延長としてもそういう感覚が最早決して特殊なものではなくなっていたという意味では本来の私になれたということなのかも知れない。しかし不思議なことにも、ではだからと言ってそういう感覚にすっかり慣れきっていたという風かと言えば、それもまた違うというのが本当のところだった。しかし私はいつもそう感じる度に、「いや、人生などと言うものは所詮こういうものなのだ。」とただ勝手にそう納得しているその繰り返しだった。
それは人生に理想とか大いなる願望を持つことを諦めた方がそれに向かって努力してそれが報われない時に味わう失望感を予め招聘せずに済むという意味で気が楽だということだけである。だから思い出してみてもサハシーになっていた時期も私は水を得た魚という心境でもなかったのだ。空虚だけれど、その空虚をとりたてて払拭しようという意気込みを一切感じないまま過ごすという心の奇妙な平安がバリ島へと向かう飛行機上で私を支配していた。ファーストクラスに乗って隣に座るご婦人は私と恐らくこのフライトの間だけ私とかかわり、今後彼女と私が死ぬまで一度も再会することなく過ごすだろう。つまり人との出会いもそういうタイプの出会いの方がずっと都会を中心とする生活では多く、だからと言ってその事実に真剣に悩む人はいない。だから私が何とか一年以上やりおおせた沢柳=佐橋の役を終えて、今ほっと一息ついているということの内には、二度と会うことなく終わる隣のご婦人との出会い(勿論出会いと言っても語り合うわけではなく、ただそこに座っているということを知っているということだけのことなのだが)と似たような出会いをここ一年ちょっとの間してきて、マイク・ストーンランド、ジム・クラーク、サリー、ビル、トム、スコット・ヒーリー、エディー・レンディー、ロメオスといった人たちが、公私に渡って私の生活を支配していたが、もう二度と彼らと会うことなどないわけだから、それこそ彼らの中の只の一人として隣のご婦人以上の存在理由を持つ他者は私にとっては存在しなかったし、恐らくこれからも存在しないだろう。
私が一切の成り済ましビジネスから手を引いたことによって、本質的にスカイスレッダーのCEОとしてではなく、私人である郷田守、しかも謎の資産家としてバリ島への赴くジェットの中であれこれ思い浮かんだことと言えば、何か役職を辞めた時に感じる固有の心境だった。それはこういうことである。他の人がどんどん去っていくことを目撃するということは、例えばオリンピックで競技を決勝戦にまで進めることの出来る選手たちに共通する体験である。しかし会社ではそのようなことを目撃しても、オリンピックと違って、世界のトップというお墨付きを我が社で貰えるとは限らないので、必然的にただ我が社で脱落して辞めて行く成員に対して、負け犬というレッテルを必ずしも貼れるものでもない。つまり辞めた奴の方が正解である場合も往々にしてあるわけだから、いつまでも自分のように一箇所に留まっているという決意と、行為の持続は、そのようにしながらもどこかで「あの時辞めて行った奴の決断の方が正解だったのかも知れない」という思念との葛藤が絶えず付き纏う。そして辞めた直後に回想することと言えば、自分が辞める直前まで行動を共にしたメンバーよりも、自分がその職に就いてからほどなく辞めていったメンバーたちの笑顔とか、話し振りの方なのだ。結局自分もこうしてあの場を去ることとなってしまったのだから、自分よりも早くその場を去った者の決断がより今辞めたばかりの自分にとっては正しい判断のように思えるからである。「俺もすっかりあそこに長くいたが、俺よりももっと早くあの場を立ち去った者たちの選択の方が正しかったかも知れない」という思いは必ず湧き上がる。
しかしそれと特筆すべきことは、同時に新たな人生の幕開けを飾る旅行の最中で特に空港での待ち時間などに読む売店で買う新聞を開いてつい目が行ってしまうことというのは、それまで自分が属していた社の株の状況とか、社自体の業界における価値評定とか時価相場とかそんなことばかりだということである。もうそんなこと一切気にしなくてもいいのに、身体が自然にそういうことに対する注目をするように慣れてしまっているということに我ながら苦笑してしまう。「そうだ。俺はもう沢柳=佐橋社長ではないんだ。郷田守としてひっそりとしかしそんなに苦労することなく世界中のホテルとかに泊まり歩いて生活するくらいのことなら出来るんだ。」とそう言い聞かせた。
私はそれから一年くらいそういう生活をしてどこかスペインかカナダかそれは未だ決めていなかったが、田舎の奥まったいい景色で、あまり人の多く住まない邸宅を購入して生活したいと考えていた。そして今更ながらにかつてサンタフェの豪邸に最初に着いた時、居間のラウンジから書斎へと赴く時、あまりにも複雑で迷路のような行き順だった(佐橋が誰かに狙われることを未然に防止した措置だったのだろう)私は特注して購入し送って貰っていた一キロ近い長さのストランド・ロープを、一切邸宅に勤務する者が引き払った休日に密かに私が山荘で佐橋から貰った邸宅内の地図を頼りに書斎へと行き順を探り探りして辿り着こうとしていた時、足元に置いて、再びラウンジに戻る時にはそのロープを頼りに歩いて行ったことを思い出していた。しかしこれからはそんな複雑でただ広い豪邸に住むことなどないだろうと私は思った。すると急に肩の荷を降ろした気持ちにもなっていた。確かに完全に清清しい気持ちというのにはほど遠かったが、それでも一年以上も替え玉をやり終えたという達成感だけはあったのだ。
私はハワイ経由でバリ島へ向かい、現地に着いてからは、一度泊まるホテルへと向かい、そこで簡単な荷物(あまり多くの荷物はなかった。と言うのも山田に後は全て任せていたので、佐橋としての所有物の殆どをサンタフェに残してきたのだ。そうしなければ怪しまれる。だから後は預金だけを頼りに生活していく積もりだった)だけだったので、その荷物を置くとすぐ帰ろうとしていたホテルで荷物を運んでくれた現地人のポーターにチップを払う時、彼は未だ二十代の青年だったので、久し振りに若者と話すいい機会だと思って話してみると、そのホテルは日本人が経営するホテルだったのだが、彼は現地では豪邸に住まうアメリカ人、中国人、日本人のどの人たちの下で働くのがいいかと言うと、大抵の現地人は人使いの丁重な日本人が最も人気があるということだった。そのホテルと懇意のやはり現地人ガイドと共に民族音楽のケチャを聴きに行き、そこで暫くワインを飲んでから、海岸に行き、予めガイドに運ばせていた折り畳み式のビーチチェアに寝そべり暫く転寝した。
再びホテルに戻ると、そこでテレビをつけ、株式市況に関するニュースを見て、スカイスレッダーの行く末を見守った。しかし考えてみれば一年以上前にはそんなことどうでもいいことだったのに、その時にはすっかり「私のいなくなった後の社」という発想で全てを見ている自分に我ながらかつての地味な翻訳家としての人生から百八十度転換してしまったことに対して不思議な気持ちになっていた。
しかしバリ島にはあまり長く滞在せず、翌日にはすぐにタヒチに飛んだ。タヒチではゴーギャンの記念館で彼の絵を見ることだけを予定に組んでいた。しかしゴーギャンはその時の私がなっていた年齢までは生きておらず既に死んでいたのだ。そう長くはない人生を華々しく絵画制作に明け暮れて過ごした人生は長さではなく濃密な生の苦悩によってその命脈を保っている。そういう息遣いだけを絵画から感じることが出来ればそれでいいと思った。私は絵を見るのが昔から好きで、だからこそ伊豆倉のギャラリーによく訪ねたのだ。しかしギャラリーというところはある意味では定評のアーティストの安価な作品だけを置き、作品を物として捌くことが目的の場所であり、純粋に絵画を鑑賞する目的の場所ではない。要するにそれは鑑賞目的であれ、投機的目的であれその時に必要とされる絵画作品という商品を陳列する場所なのである。商品を陳列するということは、多分にそういう信頼出来る偽者ではない本当の作品を陳列することが可能であるというディーラーの手腕に対する誇示という側面もあるから、その信頼ある市場価値ある商品を購入することの出来る購入者の経済力の誇示との鬩ぎ合いの場所でもある。しかし美術館は違う。そこでは商品としての絵画を購入する目的で鑑賞者たちは訪れているのではない。だから逆に翻訳家としてつましい生活に甘んじていた頃の私は自らの経済力の誇示をどこかで充足するためによく訪れた伊豆倉のギャラリーのような空間よりは、かなり経済力を身につけた後のその時には寧ろ鑑賞することだけが目的の美術館に憩いを見出していたのである。
意外とその美術館は内部が暗かった。そもそもアートの作品は強烈な灯りに弱いので、室内は暗く作品保存のために設定されている。しかし恐らく私が感じ取っていたゴーギャンの作品の数々に描かれた内容が私にある種の内的な暗さを私の心に呼び覚ましていたのだろう。そして外部に展開する海岸沿いの自然の底抜けに明るい空気感が、逆にゴーギャンの絵の内的な荘厳さとか精神的深度のある暗さを彷彿させたのだ。外気の肯定性が内的世界の否定性を際立たすということがあるのかも知れない。私はいつの間には彼の絵画の前で私自身の人生をゴーギャンのそれと重ね合わせていた。
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